「知的障害」という言葉の成立のかげに
─ある知的障害者のリーダーの死─
柴田保之
はじめに
一九九八年九月、一つの法案が国会で採択された。「精神薄弱」という言葉に替わって「知的障害」という呼称を国内法のすべての条文に採用するという法律(注1)である、「精神薄弱」という言葉は、その言葉に対する当事者の不満が表明される中で、七〇年代には使用をためらう者も増え始め、九〇年代には、ほぼ死語同然となっていたが、法律上は延々と使用され続けてきたものである。こうした用語の言い換えは、「差別語狩り」の一種として見られたり、言葉の言い換えだけで実質的には何の変化もないととらえられることがある。しかし、この言い換えの背後には、.用語を選択した主体が誰であるかということに関わって、重要な変化があった。それは、この呼称で示される当事者が、名付けられる客体から、名付ける主体へと変わったという事実である。(注2)しかし、残念ながらこのことはあまり知られていない。
そして、このできごとに深く関わった一人の当事者は、私が援助者として関わっている町田市障害者青年学級(注3)という場で十数年にわたって親交を深めてきた高坂茂さんであった。この法案が通過した直後の活動日、私たちは、生活コースでこのことをともに喜び合った。「自分たちが変えたんだ」と誇りに満ちて語った高坂さんの表情は、今でも忘れることができない。日本の知的障害者の歴史に大きな一歩が記されたといっても過言ではなかろう。そして新しい知的障害者の歴史が刻まれるであろう二一世紀はもうすぐそこに迫っていた。
ところが、こともあろうに、その高坂さんが二〇〇〇年三月二八日職場の事故で亡くなるという信じられないような出来事が起こってしまったのである。事故は、悪い偶然が重なって起きたものともいえるが、また、防ごうと思えば防ぐことのできるものであり、会社の安全管理のあり方への疑問を拭い去ることはできない。貸しおむつのクリーニングという社会を土台から支える仕事に従事していた高坂さんの労働条件は、そのまま知的障害者のおかれた労働条件の苛酷さを物語るものである。総勢百六十名を数える私たちの仲間の中に、仕事中に手の指を機械で切断してしまった仲間が二名もいるということも忘れることはできない。
いちはやく新しい時代の理念を先取りして、障害者青年学級峠知的障害者の本人活動の中で目覚ましい活躍をしていた高坂茂さんの日常は、古い時代のままの苛酷なものだったといえよう。高坂さんの死という重い取り返しのつかない事実を前にして、私たちは何もなす術を知らないが、彼が胸の中で思い描きつつ、着実に一歩ずつ実現に向けて歩み出していた夢を、私たちが何らかのかたちで引き継いで行くことが、彼の死に報いる一つの道ではないだろうか。そして、何よりも、高い志しと厳しい現実に引き裂かれるようになりながら、たくましく生き抜いた高塚茂という人間が生きていたというかけがえのない事実を、同時代を生きる一人でも多くの人に知ってもらいたいと切に願う。
一 青年学級に出会うまで
高坂さんは、昭和三二年五月、東京に生まれた。世田谷区の小学校に入学し、四年生になる時、調布市に転居、籍を障害児学級に移した。この国学院大学の講義のゲストとして彼を招いた際、彼は、この頃の思い出として、刺のある草の実をぶつけられていじめられたという思い出とともに、障害児学級には気がついたら移っていたというような感じであったということを語っていた。そして、この時以降、彼は障害者としての道を歩むこととなったのである。
そして、調布市の中学校を卒業すると同時に世田谷区内の鉄工所に勤務、数年後に、家が町田市に引っ越したのを機に、彼が事故にあった貸しおむつの工場に勤務することになった。こうした就や転職に関しては中学校の担任の先生の手厚い援助があったとのことで、意識不明のままICUで懸命の治療を受けていた彼のもとに、この担任の先生もかけつけておられた。そして、「書くことはあまり得意ではなかったけれど、討論となるととてもおもしろいことを言っていた」と先生は病院の廊下で私に語ってくださった。退職後もこの世界で活動を続けておられ、著名な先生だけに、高坂さんは中学時代にそして卒業後もこの先生から多くのことを学んだにちがいない。
新しい職場で高坂さんは、青年学級に通う同世代のKさんに出会う。そして、Kさんは、この新しい仲間をさっそく青年学級に誘うことになった。一九七八年のことである。
二 青年学級のリーダーとして
青年学級の一員となった寓坂さんは、しだいにその力を発揮し始め、リーダーの一人として活躍するようになっていく。私が初めて青年学級を訪れた一九八一年春の開級式の日、司会を務めていたのは、高坂さんと職場の同僚Kさんだった。できるだけ当事者の自主性を重んずるというねらいのもとに活動が繰り広げられていた時期の、一つの成果とも言える姿だった。知的障害のある方々に対して私がいだいていたイメージは、偏見に染め上げられたものだりたが、こうした彼らの姿によってそれは一気に崩れ去ったことを今でもよく覚えている。
この当事者の自主性を重んじるという姿勢は、この青年学級を開設当初からひっぱってきた公民館の職員大石洋子さんの力によるところが大きい。大石さんは障害者青年学級か開設するにあたって、当時一般の勤労青年に対して開催されていた青年学級の経験と高まりつつあった発達保障の思想とを土台にすえた。そこでは、学ぶものこそが主体者であるということは自明のことで、この土台の上に後の青年学級の活動は花開いていったと言えるだろう。
また、この頃、青年学級は集団活動の班活動と、それぞれの個別的な課題に答える「各自の課題」と呼ばれる活動とを行っていたが、後者の活動では彼は学習班に属して文字や数の勉強を始めた。目標は、ボイラー技師の資格をとることだった。残念ながら、その目標が現実のものとなることはなかったが、こうした学習を進める中で、自主的な学習サークルを作って勉強を始め、みずから学習の援助をしてくれる人を求めるために、公民館にポスターを掲示したこともある。文字や数を苦手とするということを堂々と表明した上で、主体的に援助を求めたというこのできごとは、障害という事実を受けとめた上で、健常者に対して自己主張を行うという後の当事者活動の姿を先取りしていたものでもあったと言えよう。
彼自身は仕事が忙しくてこの活動を長く続けることはできなかったのだが、現在でもこのさなえサークルは存続しており、この活動の中で着実に文字や数の力を身につけていった仲間たちがいる。
その一方で、彼は、仕事をめぐる状況には常にしっくりいかないものを持ち続けていたようだった。青年学級の運営のことなどについては積極的に語る彼だったが、生活を見つめ直す活動として、みんなが仕事のことを語り合う時、自分の仕事のこととなるとそのきつさは語るけれども、仕事の内容については積極的に語ろうとはしなかったのが印象的だった。
一九八五年にコース活動が始まった時、彼は生活コースを選んだ。それまでの「班活動」と「各自の課題」の二本立てから目的別のコース活動に午前午後を通じて取り組むという変更であったが、一つのテーマにより深く取り組むということを目指したものだった。生活コースでは、結婚や性の問題、仕事や自立の問題など、参加者の生活の問題をじっくりと語り合いながらそれぞれの生活を作っていくことが目的とされた。一九八六年度の活動では、当時、スウェーデンで当事者のために作られたテキストで、性の問題を中心にすえながら自立生活のことを扱った『わたしとあなた』(注4)というテキストを用いた話し合いにもとりくみ、性の問題にも非常に立ち入った議論がなされた。これは、大石さんの手によって外部にも紹介され、一部で高い評価も受けた。その頃二〇代であった高坂さんもみずからの恋愛体験などもふまえ、積極的に発言をしている。
「全日本精神薄弱者育成会」(現在の「全国手をつなぐ育成会」)から機関紙「手をつなぐ親たち」の「私の言い分」という特集で座談会の依頼がまいこんだのもこの頃のことである。(注5)公民館の和室にリーダー格の青年たち一〇名ほどが集まって、自分たちの生活のことや青年学級のことなどを話し合った。この時の青年たちの発言は、社会に向かって自己主張できる主体者として成長をとげた青年たちの存在を、関係者の間に強く印象づけることにもなった。
三 パリの世界会議への参加
こうした中で、一九九〇年の第一〇回ILSMH(国際知的障害者育成会連盟)パリ世界会議への当事者の参加という話が持ち上がった。この会議は四年に一回開催されているもので、もともとは親の会の世界会議だったものが、一九八二年の第八回大会以降、当事者の参加が始まったものである。(注6)そして、この会議への参加にふさわしい人を紹介してほしいと町田市の青年学級に声がかかり、高坂さんに話が持ちかけられることになったのである。自分の給料で家計を支えている彼にとって、海外旅行の費用を出せる余裕はたかったが、この話に非常に意欲を見せていたので、この資金をカンパで集めようということになった。
そして、スタッフと対話を重ねながらメモをとり、それを次のようなカンパの要請文として仕上げた。
全国のみなさまへ、カンパのお願い
高坂茂
みなさまにおねがいします。私を第一〇回ILSMHパリ大会に参加させてください。
わたしの名前は高塚茂といいます。年は三三才です。アベサプライという貸しおむつ会社につとめて一三年になります。しごとのないようは、ろうじんの病院からつかったおむつをひきとって、トラックにのっけてこうじょうへもってきて、こうじょうで洗ってせいひんにしてだすことです。 しごとでつらいことは人間関係がむずかしいことと、ろうどう時間がながいことです。よるの七時か八時まではたらいています。しゅにんのしごとをしているので上司からも下の人からもいろいろいわれてたいへんです。
きゅうりょうは一八○、○○○円もらっていますが、家にせいかつひとしていれているので、じぶんにじゆうにつかえるお金は、一〇、OOO円から一五、OOO円ぐらいです。
わたしは町田市のしょうがい者青年学級にさんかしています。青年学級はともだちがいないとか、しごとにふまんがあるとか、いった人が月二回、町田の公民館にあつ−まって六つのコースにわかれて、かっどうしています。
わたしはせいかつコースで、しょうらいについてや、けっこんについて、きゅうりょうをどれだけもらえば、せいかつできるかについて勉強しています。コースのかつどうのほかに、班長会にでたり、「とびたとう」(引用者註・・みんなで作っている文集のこと)のへんしゅういいんかいにでたり、学級ぜんたいのやくわりも、になっています。
わたしは、青年学級は、たんとうしゃにおんぶにだっこではなく、すこしずつでも青年のちからでうごかしていきたいとかんがえています。
しょうがいのおもいかるいはちがっても、話しあっているうちに、わかりあえると思います。わたしがこんどのパリ大会にさんかしたいりゆうは、日本だけじゃなくて、世界のしょうがい者と、きょうつうてんをさがして、いろいろ話しあっていきたいということです。がいこくにいったことはなく、ことばのふあんはありますが、ことばはちがっていても、からだのひょうげんや、つうやくの人をつうじて、時間がたつにつれてわかりあえるとおもいます。大会でまなんできたことを、町田の青年学級のなかで、みんなにつたえていかしていきたいし、ぶんしゅうにしたり、およびがあれば、どこにでもでかけていって、おはなししたいとおもいます。
大会にさんかすることで、じぷんのちからをたしかめ、かわっていきたいとおもいます。世界各国のしょうがい者とふれあって、はなしてわかちあいたいとおもいます。
みなさまのごきょうりょくをよろしくおねがいします。
一九九〇年七月一日
この文章は、後に、さくら会の『元気の出る本─創刊号』の巻頭を飾ることになったが、この文章では、彼があまり触れたがらなかった「貸しおむつ」という仕事の内容にも堂々と言及しつつ、パリから帰ってからどうしたいかということまで記している。「お呼びがあればどこにでも出かけていくという彼の決意は、帰国後言葉通りに果たされたものである。カンパのために残された時間は.一ヶ月あまりしか青かったが、渡航に十分な費用を集めることができ、彼は全国から集まった四人の仲間とパリヘと向かった。その時の様子は新聞でも報道され、同行した健常者以上にパリの中に溶け込んでいる姿が、パリの街中のコインランドリーのエピソードとともに紹介されていた。(注7)
この会議で高坂さんたちは、多くのことを学んだ。すなわち、スウェーデンにおけ本人活動のめざましい進展、各国から参加した本人たちの発言力、性の話題がオープンに語られることなどであり、それと対照的な日本の本人活動の立ち遅れであった。
そして、高坂さんたちは、この旅行中にきわめて重要なことについて議論を交わす。「精神薄弱」や「知恵遅れ」という言い方は、心がズキンとする、自分たちを呼ぶのだから、自分たちで決めたいと。そして、「知的障害」というのならよいと。そして、これこそが、用語の言い換えの原点となったものだったのである。
四 パリ以後の高坂さん
このパリの大会が彼にもたらしたものがいかに大きかったかということは、どうして改めて彼の人生を振り返るとき、ひしひしと実感される。彼は、パリで知的障害者がみずから胸をはって語る姿をまのあたりにし、日本でもそういう姿を実現したいということを強く思ったようで、一九九二年に、門元気のでる本』の編集長として活動を進める中で、「さくら会」という本人活動の設立に中心的に関わることになったのである。そして、一九九四年には、NHK厚生文化事業団の主催したスウェーデンへの研修旅行に、もう一人の青年学級の仲間と共に参加した。カンパに頼るしかなかった四年前と比べて、やはり少しずつでも世の中は変わっていたのだろう。また、彼ら以外にも、こうした海外研修の機会を得た仲間が町田の青年学級から何人も出たのはこの頃のことだ。
スウェーデンの旅行は、彼にとって、知的障害者の社会参加を支える社会のあり方というものを考える機会になったようで、彼の発言はいっそう具体的なものとなっていった。大まかに列挙するだけでも次のような主張を彼は行うようになった。「軽度の人にも年金がほしい」「最低賃金法をはるかに下回る作業所の工賃の問題」「ガイドヘルパー制度の実現」「グループホームのこと」等々がそれである。
また、スウェーデンにおける本人活動の実際の姿にじかにふれたことも、その後のさくら会のあり方を探るうえで大きな意味をもったようである。気に入らなければアシスタントをクビにできるというところまで進んだスウェーデンの援助者との関係のありかた、本人が読みやすい新聞の存在などにふれた一文が、スウエーデンの研修旅行の報告書に掲載されている。(注8)
なお、日本でも当事者のための新聞「ステージ」が一九九六年に発行されるようになるが、その創刊号に高坂さんを紹介した記事が載った。それには、次のような談話が掲載されている。「(……)会で活動する中で、自分なりの意見がはっきりしてきて、自己主張できるようになった。会のみんなと関わってゆくなかで、目ざめたという感じかな。でも、養護学校の先生たちは、こうした本人たちの会や活動を知らなさすぎる。施設の職員や親もそうですが、すぐに手を貸したり、本人たちがしようとすることに反対する人が多いでしょ。そうではなくて、本人たちの意見を中心にしてほしいです。(……)ちいさいことからどんどん自分でやってみること、自分のことは自分できめていくことが必要だと思います。全国に本人たちの会がたくさんできてほしい。全国同じような会をつくって、ネットワークで結びたいんです。」(注9)
さくら会を通した彼のその後の活動は、今、残された資料を見るだけでもめざましいものがある。あの忙しい仕事の合間をぬって、文字どおり彼は東奔西走を続けていたのである。その中には、大学の授業で話す機会も含まれており、国学院大学の私の授業で話をしてもらうようになった。一〇〇名を超える学生の前で、全くたじろぐことなく堂々と話す彼の姿は、多くの学生たちに感銘を与え、知的障害者の概念を根底からくっがえすものとなった。(注10)
五 青年学級での最後の日々
こうしためざましい活動を通して、様々な成果があがっている一方で、彼の仕事の状況は相変わらず厳しいものだった。そのような中で、以前から痛めていた腰の具合が悪化し、ついに入院するにいたったが、根本的な治療のできないま退院せざるをえず、腰痛をかかえながら仕事を続けるという状況になってしまった。だが、このことは、四〇代を迎えた自分白身の生活のことを改めて見つめ直すきっかけとなったようだった。
その彼が、青年学級に弁護士を呼ぶ計画を立てたのは一九九八年度の活動である。そもそもはさくら会の勝で弁護士を呼んで一「障害者雇用促進法」の改正について学集会を開いたことがきっかけだったが、交渉まですべて自分でなしとげ、一二月には障喜の労働問題等に詳しい清水建夫弁護士を囲んで非常に有意義な学習をすることができた。そして自立生活をめざす中で不動産屋に部屋を探しにいって断られた今田さんの話、免許を取りにいって断られたOさんの話など、現実の中で起こる様々な差別のことが直接訴えかけられた。そして、清水弁護士は、「当事者が声をあげないかぎり変わらない。もっともっと声をあげてほしい。」としめくくった。この活動の後、一人暮らしを始めることができた今田さんは、高坂さんの追悼集会で読み上げた追悼の辞の中で、この時の活動でふつきれたものがあって自分はアパート暮らしに踏み出すことができたというように語っており、この活動の意味の大きさを改めて痛感させられることとなった。
腰の痛みに耐えながら、三月の成果発表会の劇の台本作りを高坂さんはやりぬいた。内容は、今田さんがアパートを借りに行って不動産屋に断られ、弁護士を伴って抗議にいくというもの。弁護士役を演じたのは高坂さんだった。しかし、休まないともう体がもたないということで日曜日一九九九年の活動は休むと言ってきた。しかし、それでも、夕方には、みんなの行きつけの喫茶店チャオに来て、青年学級の語や自分の仕事の話を私たちと共に語り合った。
そんなある日、彼の首にコルセットが巻かれていたのである。その年の秋のことだが、仕事場でムチウチ症になったということで、本当に痛々しい様子であった。私には、こうした体の不調に対して十分な配慮がなされなかったことも、事故につながったのではないかと思われてならない。文字通り彼の体はボロボロになっていたのである。
転職のことも本気で考え始めており、かつての青年学級のスタッフが中心となっている作業所が配食サービスを始めるということを耳にした彼は、この仕事に意欲を示し、職員として採用してもらえないものかと希望を語ったりもしていた。親しく付き合っていた女性との結婚のことも含めて、大きな一つの節目を迎えつつあるのだということが感じられるまさにその時・今回の事故が起きてしまったのである。
高坂さんが私たちに残したものは数え上げられないくらいたくさんあるが、最後に、三つのエピソードを記しておきたい。
まず、弁護士を呼んだその日、あるラジオ局の取材が入っていた。この取材の許可をめぐって彼は、自分たちの許可をとっていないではないかと私たちに強く抗議した。私たちも、取材を受ける当事者の承諾を朝の集いで得るように、その取材者に伝えたのだが、挨拶をしただけだったのである。弁護士というお客さんのいる場面だったので、その場で直接抗議はしなかったのだが、活動の後、彼は私たちにその抗議の意志をはっきりと伝えてきたのである。.結局、この取材を没にすることで決着をみたのだが、このことは、その半年後の一九九九年の全国障害者問題研究会の雑誌「みんなのねがい」の取材にかかわる議論へとそのままつながっていくことになった。
「みんなのねがい」の取材については、簡単に経過を述べておこう。まず、取材予定の前の活動日、みんなで取材を受けるべきかどうかを話しあった。この時、高坂さんはいなかったのだが、容認する意見と反対の意見とが激しく闘わされた。賛成意見の中心は、全国にこうした活動が広がればいいというもので、反対意見の中心は、自分たちが材料にされるのはいやだというものだった。結局、当日取材に来た人と会って判断しようということになった。実際に取材は受け入れられたのであるが、雑誌ではこの議論から紹介され、当事者の決定の意味というものが、改めて認識されることとなった。
二番目に、公民館移転問題においても、彼の残した興味深い発言のことをあげることができる。現在、公民館は、一般の商業ビルの中への移転計画が進められているのだが、私たちは、車椅子の人たちの利用が不便になること、商業ビルという環境が障害の多様な参加者たちにとってよいものなのかどうか、というような点から、反対の声をあげてきた。ところが、彼は、社会参加という観点からすると、商業ビルの中で青年学級が開かれることは、それだけ様々な人々と接することができるのだから、いいことなのだと集いの場で述べたのである。この議論を十分につめることはできなかったのだが、移転について推進する側も、反対する側も、彼の出したような観点は誰も持ちえていなかったものであった。本当の社会参加ということについての彼の深い思いを見たような気がした。
三番目に、仲間の施設入所をめぐる彼の発言がある。一九九八年度の活動の中で、権利の学習をした時、「住むところは自分で決めることができる」という住む権利の学習もしたが、この時、彼は、遠くの施設に行った仲間のことを、本当に本人自身がのぞんでいたことなのかと威しく問題にした。そして、二〇〇〇年が明けてから、学級発足当初からのメンバーの女性が、他県の施設に入所することになったのだが、彼は、自分で納得してこの施設に行くと述べた仲間の思いを讃えた上で、もう遠い施設に仲間が行くのは、これ、を最後にしたいし、もう最後にしていかなければいけない、そしてもうすぐにそうなるというようなことを語った。そのように力をこめて語る彼は、二一世紀の新しい時代を夢見ているように私には見えた。いや、それは決して単なる夢ではなく、自分の力で作り出していく未来を思い描いていたと.いうことだったのだろう。
そして、彼の事故の報せが飛び込んできたのは、それからわずか二ヶ月後のことだった。
終わりに
二〇〇〇年五月二一日、高坂さんをしのぶ会が開かれた。企画から青年たちの手で行われ、当日はさくら台やその他の関係の方々がたくさんいらっしゃってくださり、改めて彼の残したものの大きさを、私たちは実感した。そして、その遺志を引き継いでいくことへの思いを新たにした。彼は、最後の日々、腰痛と首の痛みに苦しめられながらも、休日には必ずといっていいほど、親しくつきあっている女性と穏やかなひとときを過ごしていた。二人がいつも待ち合わせの場所に使っていたのは、青年学級のみんなの溜まり場、喫茶店チャオだ。私自身、この場所で高坂さんと十数年にわたってお酒のグラスを片手に、語り合ってきた。その喫茶店チャオも、高坂さんの死から四ヶ月ほどして閉店となった。彼との思い出を記すものが消えていくのはとてもさびしかった。
二〇〇一年五月二六日、一九八八年から青年学級を中心にして行われてきた「わかばとそよ風のハーモニー」の第一〇回コンサートで、高坂さんのなしとげてきたことをしのぶ劇を上演した。前出の今田さんは、この劇のクライマックスで読み上げる作文を書いてきて、深い思いのこもった朗読をした。
昨年、かなしいできごとがおこりました。それはぼくたちのなかま高さかしげるがしごとのきかいにまきこまれ、このよをさりました。どれほどこのコンサートにでたかったか、でも今になってはできないげど、きっとこのコンサートがだいせいこうをとげることをいのっているだろう。ここでかんたんだけどこうさかくんのプロヒールをのべさせてください。こうさかくんはさくら会という会にしょぞくしてちてきしょうがいしゃにもさべつをしないでもっと一人の人間であることをつよくうったえてきたひとです。そのかいがあって、やっとほうりつにくみいれられました。ぼくも2年前に一人ぐらしができました。
これもみんなのちからがあったからできたようなものです。このばをかりてみなさまにおれいもうしあげます。ありがとうございます。なきこうさかくんへ。きっといつかきっといつかさべつがなくいろんなけんりができてちてきしょうがいしゃでも同じ人間あつかいされるようがんばっていくのでこうさかくんみまもっていてください。
八○〇名の観客でぎっしりとうまった会場は水をうったような静けさにつつまれた。.私たちは高坂さんとともに二一世紀を迎えることはできなかった。しかし、私たちは、彼の築き上げてきたこと、築き上げようとしてきたことをこの新しい時代に刻むべく、歩みを進めていかなければならない。
註
(1)「精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正すみ法律」(一九九八年九月二十八日成立。一九九九年四月一日施行。)
(2)松友了 「用語の問題と本人活動」 『発達』八○号一九九九年 ミネルヴァ書房
(3)町田市公民館が主催する障害者に対する社会教育の事業で、月に二回、開かれており、現在百数十名の町田市内在住の障害のある方ぐ王として知的障害一が三か所で、活動している。生活、音楽、ものづくり、健康体づくり、自然といったコースに分かれて活動している。
(4)ウッラ.アンデション、ビルギッタ・工ークルンド(直井京子訳)『わたしとあなた変って性ってなんだろう』一九八二社会評論社
(5)「手をつなぐ親たち」M三六一一九八六圭二月号全日本精神薄弱者育成会
(6)「パリ世界会議とは」(『私たちにも言わせてぼくたち私たちのしょうらいについて元気のでる本』 一九九二全国精神薄弱者育成会
(8)一九九〇年八月一八日立朝日新聞
(9)『自立と参加をめざして障害者&ボランティア国際交流報告書』.一九九五NHK厚生文化事業団「ステージ」一九九六年九月七日号全国手をつなぐ育成会
(10)知的障害に関して、確かに認識の側面で何らかのハンディが存在することは事実である。しかし、私たちが知らず知らずのうちに作り上げてきた知的障害者のイメージの大部分は、抑圧的な環境によって作られてきたふるまい方に基づいたものであり、それは本来の知的障害とは直接には関係がない。知的障害をその人格の一部としてもちつつ、しかし、主体的に生きることによって作り出される人間像は、私たちの固定観念とは大きく異なったものなのである。その意味で「知的障害者」は作られると言っても過言ではない。
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