重度・重複障害児における空間の構成について
国学院大学 柴田保之
コミュニケーション障害児と言う時、コミュニケーション能力の障害という子供の側に帰着する条件のことを暗黙の内に意味するように考えられるが、コミュニケーション障害という言葉の意味にそのまま従えば、相互的な関係の障害であり、どちらか一方にその障害を生む条件を帰することはできない。教育的なかかわり合いという立場に立てば、最初になすべきことは、教育的な働きかけを行う側が、子供の外界の受容や外界への働きかけの原則を理解し、それに基づく適切な働きかけを工夫することによってより円滑なコミュニケーションを図っていくことである。そのことによって、働きかける側と子供との間のコミュニケーション障害は消失する。コミュニケーション障害はただ子供のコミュニケーション能力の障害によってのみ引き起こされているのではないのである。
もちろん普通にコミュニケーション障害の改善という場合、子供の側の条件の変化、すなわちコミュニケーション能力の広がりということを意味しており、教育的なかかわり合いの一つの目標でもある。しかし、そうしたかかわり合いは、まず働きかける側と子供との間のコミュニケーションの成立を前提としているのである。その意味で、われわれは、まず、目の前の子供との間に存在するコミュニケーション障害をわれわれ自身の工夫によって克服しなければならないのである。
ところで、コミュニケーションという時、非言語的なコミュニケーションにおいても通常は言語のモデルに基づいて、情報の伝達とその意味の共有が考えられているわけだが、人と人との相互交渉はそれだけには限定されない。情報の伝達や共有を前提とせずに、行為のやり取りが展開していくことも人の相互交渉においては重要であり、コミュニケーションの意味ももっと広げる必要があると考えられるのである。例えば、一つの教材を介してやり取りが展開していく時、両者がその教材に対して同じ意味を付与しているわけではない。ここでは、互いに異なった意味を感じながらもそこで一つの活動が円滑に展開していっているということが重要なのである。
これは、決して障害の重い子供の場合に限られるものではなく、人と人との通じ合いを伴う活動一般に広く見られることではないだろうか。
そこで、子供の原則をどのようにして把握するかということが問題となる。その際、運動をコントロールするにあたって感覚をどのように使い、姿勢をどのように調節したかというような自己調整の側面と、そうした自己調整の活動を通して子供がどのように外界をとらえているかという外界の構成という側面からとらえていくことが可能であるとわれわれは考えてきた。ここでは、その後者の外界の構成に関して、特に、空間をどのように構成しているかという観点からまとめてみたい。
そして本稿では、子供自身が構成している空間というものを、どのように面を構成しているかということかをもとに、巨視的な見地から整理を試みることにする。
まず、単なる物理的存在としての面ではなく、人間が心理的に構成する面というものの性格を整理してみると以下のようなものが考えられる。
よりかかる場としての面 より実質的な面
離脱する場としての面 ↑
操作の場としての面
受容の背景としての面 ↓
記号的思考の場としての面 より空化した面
面は、始め、より実質的なものとして構成されていくが、しだいに、その実質が失われて、実際にそこには面と呼べるような物理的な存在はないにもかかわらず、そこに想定するものへと変化していくことがわかる(これを空化と呼ぶことにする)。
また、面は、大地などの基底面、机などの手もとの水平面、風景の背景の垂直面など、様々に存在しており、また、そこで繰り広げられる活動の内容に応じてその性質も様々な段階に区別される。どの面がどのような性格を持つものとして構成されているかということから、その子どもの構成している空間を把握することによって、その子どもの行動や考え方、感じ方の原則をとらえる手がかりを得ることができると考えられるのである。
1.よりかかる場としての基底面の構成(図1)
障害が重く反応の乏しいとされる寝たきりと呼ばれる子供たちが、実は、様々な音を聞き分け、その音を楽しんだり状況の予測を行ったりしていることや、触覚器官としての口で、様々な物の触覚的な実感の区別をしたりしていること、あるいは、適切な教材を提示することによって、首や顎、舌などの運動を通して口による外界への働きかけが起こったりすることなどが実践的に確かめられてきた。そうした外界との相互交渉の中で、いったいその子供たちはどのような空間を構成しているのであろうか。われわれは、このような状況の子供たちが背中で感じとっている面というものに着目する。
こうした子供たちが背中で面を感じとっているということは、単に寝たきりの子供を観察しているだけではわかりにくい。だが、こうした子供たちを起こしてみると次のようなことに出会う。
背中を抱いた状態から体を起こしていくと子供は往々にしてできるだけそのままよりかかっていようとする。そこで、むしろ背中の方は支えずに前から大人の手や机などの台で肘を支えてあげると、うまくバランスが取れて自分で首を持ち上げるようなところが見つかることがよく起こる。こうした時に誰かが背中を触ったりすると、背すじをそらしながらそこへもたれかかってくることが非常に多い。
また、ある盲聾児の場合、手足の運動は活発で、特に足で外界の状況をさかんに探索するのだが、姿勢は仰向けであった。この子を起こして座らせようとするとそり返ったり、そのまま椅子からずり落ちるなどして仰向けの姿勢にもどろうとするし、また、うつぶせにしてもすぐに仰向けにもどってしまうのであった。この子の場合など明らかに背中で床によりかかることによって得られる安定をはっきりとした意図のもとに求めていることが明らかだった。
こうしたことから、寝たきりと呼ばれる子供たちが背中で床面によりかかることを通してある安定を得ていると考えることができる。そして、これは、母親の胎内から外の世界に出て、初めて自らの体の重さのままに床面に横たわる新生児においても同様のことが言えると考えられるのではないだろうか。
2.離脱する場としての基底面の構成(図2)
仰向けの姿勢やうつぶせの姿勢から、体をねじったり丸めたりする、肘をつっぱるなどして首や手足など体の一部を面から持ち上げたり寝返りをうったりするようになると、そのことを通して、基底面の性格は、よりかかることによって安定を得る場から、そこへ力を加えることによってその反作用を利用してそこから離脱する場へと、性格が広がる。
このような面の利用は、人間の運動のほとんどすべてに共通のもので、まったくどこにも体をふれずに空中で運動をするということは不可能に近い。人間の運動は、単に筋力の直接的な作用によってのみ起こるではなく、常に、どこかの面に力を加えて得られた反作用をもとに運動を組み立てているのである。そして、その出発点がここにあるといってよいだろう。最終的には地面を蹴って跳び上がるというようなわれわれにおける面から離脱する運動の始まりである。
また、よりかかる場としてだけの基底面の性格は、体重が一様に面に分散していて明確な分節を持っていなかったのだが、こうした離脱を通して面にかかる体重が背中の諸部分に集約していき、接触面が分節化していくことになる。胸部の背面、腹部の背面、啓部の背面、さらにそれらの左右などに接触面が区別されるようになるのである。ここから、しだいに姿勢の変化に伴って接触面がしだいに集約されていき、最終的には、立ち上がってから足に土踏まずが形成され、足の裏が様々な部分に分節化して体の多様な動きを支えるようになり、さらには、つま先立ちに見られるような、つま先の一点に体重をかける部分を集約して支えるに至るまでの過程が、ここから始まると見られるのである。
3.よりかかる場としての手もとの水平面の構成(図3)
体を起こした子供が、机などによりかかって一つの安定を作り出すところに、よりかかる場としての手もとの水平面の構成が始まる。大人の懐に抱かれるなどのようにすっぽりと包み込まれるような状況によってもこうした安定は作られるわけだが、こうした水平面は、肘でつっぱることによって上半身をそこから離脱させる場としての可能性を含んでいるといえゆる。なぜならば、水平面は、肘の突っ張りに対して反作用をもたらすだけの安定した硬さを持ち、また、水平であることからその肘の突っ張りの左右のバランスが取れやすく、まっすぐ上半身を起こしやすくなるからである。
こうした手もとの水平面の構成により、それまで基底面という単一の層であった面が、足によって触れる面と臀部で触れる面と合わせて三層に分化することになる。ただし、基底面の性格を持っているのは足よりもむしろ臀部によって触れる面の方で、立ち上がるまで、この面は体重を預けるもっとも中心的な場となる。
また、このような水平面上での安定は、耳や口などを中心とした受容炉起こる可能性を含んだ場として意味があることを付け加えておく。
4、離脱する場としての手もとの氷平面の構成(図4)
よりかかる場としての手もとの水平面の構成に引き続いて(手もとの水平面へよりかかることを経ない場合もあるが)、肘をつっぱって上半身を起こすという離脱する場としての面の構成が始まる。手もとの水平面から離脱しようとする運動の一つの到達点は、両肘を面から離して上半身をまっすぐに起こすというものである。
上半身をまっすぐに起こすという運動は、それができ上がってしまうと、重力の刺激の受容だけですぐに起こせる運動のように思われるが、首や上半身を前後左右に傾けたり、左右にねじったり回転したりするという運動を起こすことによって自ら重力刺激の変化を作り出し、それを受容することを通して上半身がまっすぐになる位置を見いだしていると考えられる。
また、特に前後左右の首や上半身の運動については、傾けた首や上半身を戻す折り返し点があるわけだが(これをバランス上の仮の端と呼ぶことにする)、首や上半身がまっすぐになる位置というのは、その折り返し点(=バランス上の仮の端)を両端として意識することによって得られた真ん中であるということができる。そのバランス上の仮の端は前後と左右にあるので、ちょうど十文字の交差するところということになる。ところで、このように水平面が離脱する場となることに平行して、上半身のバランスをとるための足の踏み締めが起こる。この、足の踏み締めを通して、それまで臀部の面にかかっていた体重の一部が足にも移って・足の基底面がより明確なものになる。
5.操作の場としての手もとの水平面の構成
よりかかる、あるいは離脱する場としての水平面は、姿勢を作っていくこととの関係の中.で作られる面であったが、その水平面はしだいに操作の場としての水平面となっていく。
人間の運動は、その骨格の構造上、円運動が基本となるため、そのままでは空中での円運動になるのみで、面を構成する運動にはならない。そこに、机などの実際の面を置くことで空中の円運動が、点として面に接するようになる。具体的には、たたく、ひっかくというような瞬発的な運動である。
そうした運動がしだいに面に沿った運動となるわけだが、面に沿った運動にはいくつかの種類がある。すなわち、@お盆の上のあずきを触るに代表されるような運動、A図5に示した教材A、つまり、溝に沿って木片を滑らせてスイッチを押すのだがその木片は溝からは取ることができないというような教材に代表されるような運動、B図5に示した教材B、つまり、溝に沿ってまるの板を滑らせて穴に入れるのだがまるの板は溝から外すことができるというような教材に代表されるような運動、C図5のまるの板を平面上ですべらせて穴に入れるという教材Cに代表されるような運動、D図5のボールを穴に入れるという教材Dに代表されるような運動である。こうした運動を運動の起点と終点の間(あいだ)という観点から整理してみると次のようなことが言える。
@の運動は、その目的があずきなどを触ることそのものであり、ある結果とそれへの過程という区別がなく、あるいは明確な起点と終点及びその間(あいだ)の区別がないと言える。その意味では、点の世界に近く、言わば両端のない線の世界である。それがAの運動になってくると結果と過程の区別が生まれ、起点と終点及びその間(あいだ)の区別が生まれるようになる。そして、この間(あいだ)は、方向づけられた運動によってつながれているわけだが、この方向は抵抗感が抜ける方向として他に選択の余地のないかたちで物理的に与えられているものである。Bの運動では、起点と終点の間(あいだ)をつなぐ運動は、溝から外せるにもかかわらずあえて溝に沿って運動を起こすという意味でより選択性が高まった運動になっている。Cの運動では、起点と終点の間(あいだ)にはA、Bの運動には存在した物理的な抵抗感の抜ける方向という実質的な方向づけの手がかりがなくなっている。Dの運動では、その間(あいだ)にあった面もなくなり空中となっている。ただし、この空中は、手もとの水平面のない状態での空中の運動とは性格が異なる。後者の運動では、運動はほとんど規制を受けていないが、Dの運動では、規制を受けた直線運動になっているのである。言わば、実際の抵抗感として存在していた間(あいだ)の実質性がなくなって、空化されたと言うことができる。
こうした様々な種類の運動を通して手もとの水平面はより構造化され、組織化されていくのであるが、その道筋は、次のように大まかに描くことができる。
i)まず、始まりは点の世界である。上述した瞬発的な運動を通していくつかの拠点が手もとの水平面上に作られるのだが、それぞれの拠点は孤立しており、相互に関係づけられることはない(図6a)。
A)それが、Aのような持続的な調節を伴った運動を通して運動の起点と終点とその間(あいだ)の方向として成立する。この時、起点あるいは終点のどちらかが手もとにあり、その間(あいだ)の方向は、手もとの起点から正面の終点に向かって遠心的な方向であるか正面の起点から手もとの終点に向かって求心的であるかという性質を持っている(図6b)。なお、@のような運動は、このiとAの中間的なものということができる。
B)上述したAの運動が柔軟性を増すと遠心的あるいは求心的な方向は単に正面だけでなく手もとを中心とした180°の放射線で表せるような空間へと広がってくる(図6c)。
C)そうした放射線状の空間から、手もとの中心が外に出ることによって、左右に代表されるような任意の2つの起点と終点と運動によってつながれるその間(あいだ)の方向というものが生まれてくる(図6d)。ただし子供によって利き手やバランスの作り方の問題から例えば左から右だけが優位というような場合もある。こうした空間はAのような運動を通して生まれてくるものであるが、Bのような運動の成立の必要条件となっている。
v)Cにおいては2点間の往復運動ではなかったため、起点と終点の役割が一つの運動の中で入れ代わるということはなかったが、往復運動が可能な空間となり、二つの点の起点や終点としての役割が相対的なものとなる(図6e)。なお、以上のiからvまでの空間では、空間を意味づけているものは運動が主体であって、感覚はまだ必ずしも運動に先立って空間欄係を受容するにはいたっていないことをことわっておかなければならない。
E)こうした空間がC、Dの運動などを通して両端からの方向によって規定される真ん中を持った空間となる(図6f)。両端から規定されるとは、具体的には運動が終点を行きすぎたら戻す、あるいは終点が近づいたら運動を減速するというようなものの中に見られるもののことで、一般に定位と言われる運動にはこうした要素が含まれているのである。そして、この時、その間をつなぐものは、運動の先取りをする感覚となる。
6.水平面の集約した対象物の平面の構成(図7)
上に述べた手もとの水平面の構成は一つの対象に対する働きかけから始まって最終的には複数の対象の相互の位置関係の問題となった。そうした位置関係は、今度は一つの対象物の中に集約されていくことになる。具体的には、例えば棒を穴に入れるというような時、ボールを入れる場合と違い、対象をどのような方向に向けるかが問題となる。これは、言わば、それまで未分化な塊であった対象の中に方向が生まれたことを意味する。そしてこの方向は始めは手もとの水平面に対して垂直である。それが、さらに筒のようなものに棒を入れるというようになると、その方向は筒の角度に応じたものになるわけだが、この時、その棒と筒の接点のところにそれらと鉛直な関係にある水平面が想定されていることとなる。まるや三角、四角の板を入れるというような場合、板をひっくりかえす、板を面に合わせてすべらせる、板を回転させる、角と角や辺と辺を合わせるなど様々な運動を起こす必要が出てくるわけだが、こうした運動を通して、様々な空間関係が一つの対象の中に集約されていくことになる。形と言うのはこうした諸関係のまとまりにほかならないのである。
7 視覚的受容の背景としての水平面の構成(図8)
われわれにとって感覚とは、外界の情報を取り込む窓口のようなもので、例えば目に代表されるようにじっと静観するだけでよいように思える。しかし、感覚は自らの運動をコントールし運動を先取りするという重要な働きがあり、特に初期においてはそれらが重要な役割を持っている。受容された感覚的印象それだけではある実感が生まれるだけである。感覚的印象が複雑な意味を持つのは、その感覚的印象が運動のコントロールにどのように役に立ち、どのような運動の可能性を指し示しているかということである。静観的な受容が持つ豊かな意味というのは、こうした運動のコントロールの手がかりや運動の可能性の凝縮したものであり、こうした過程が先に進行していると考えられるのである。
視覚が運動と関係を持っていく過程は、操作の場としての手もとの水平面の構成の過程として述べた過程の中に含まれている。始めは、存在の有無を予測するに過ぎなかった視覚が、しだいに自分の運動のコントロールに参加するようになり、さらに運動を起こす前に空間的関係を受容し自分の運動を先取りするようになるという過程である。
こうした視覚と運動の関係が組み立てられる前に視覚が捕らえている空間については手もとの水平面の受容が起こりにくいというところに特徴がある(一応体を起こした状態から考えることにする)。具体的には手もとを見るということがほとんど起こらず、見下ろすという視線は少なく、目の高さから水平にあるいは見上げるように見ることの方が起こりやすい。そして、このような視覚的な受容を通して、その人をとりまくかたちでの曲面としての垂直面、言うなればパノラマのように対面するかたちで面が捕らえられていると考えることができる(図8a)。ただし、この垂直面には自分の運動をコントロールする手がかりや自分の運動の可能性としての意味は存在していない。
それが、操作の場としての手もとの水平面の構成を通して、運動のコントロール手がかりや運動の可能性を手もとの水平面上で受容するという見方に変わってくる。視線は見下ろすようなものになり、斜め上から鳥かん図的に見下ろすような見方となってくるのである。運動の可能性を示唆する様々な空間関係の受容の背景としての、手もとの水平面の成立である(図8b)。
この手もとの水平面は、始めは実際に机というかたちで存在しているものであるが、しだいに実際にその面の存在がなくてもそこにあたかも面が存在しているかのようにして外界の対象の関係を把握するようになる。具体的には、先に述べた棒を筒にさすような運動で、その筒の入り口のところに平面を想定したり、空中にある3つの対象をとらえる時に、あたかもその3つが乗った平面がそこにあるかのように三角形の関係として受容することなどを上げることができる。
手もとの水平面の視覚的な構成が進むと、その見方が基底面にも及び、しだいに視覚的な受容の背景として構成されるようになる(図8c)。具体的には、立ち上がって歩くようになった子どもが、奥行きをその基底面上の配置として捕らえるようになってくるということに代表される。多動と言われるような子どもは、このような受容の背景としての基底面の構成がまだ十分ではなく、外界の対象が、ある奥行きの中で隔たった対象として意味づけられるのではなく、隔たりがなく直接かかわるべき対象となるため、見えた物に対して次々と接近していくということになっているのだと考えることができるのである。
8、記号の操作の場としての枠組みの面の構成(図9)
記号の操作にいたるまでの過程は上にまとめたようなことからさらにいくつもの経過を経て操作の場や視覚的受容の背景としての手もとの水平面がもっと複雑なものとなっていく必要があるのだが、ここでは、そうしたところは省略して、こうした面の一つの到達点としての記号の操作の場としての枠組みの面というものについて簡単に述べておきたい。具体的に記号の操作の始まりとして上げられるのは、数量を系列化する、あるいは文字を書くものである(絵もここに入れることができる)。これらは、例えば5つの長さの違う棒を並べるという時、目に見えるのは棒に対する働きかけだけであるが、その子どもにはその並べる操作を可能にする様々な基準や関係の凝縮したものとしての枠組みがその背後に存在している。あたかも、かつて実際にその棒を並べるために、木の枠が必要であったかのように。また、文字を書く場合でも、その文字を構成する線を書くために必要な位置や方向、順序、重なり具合などの様々な基準を凝縮したものとしての枠組みが、背後に存在している。あたかも、かつて実際にその文字を書くためには、手がかりとしての枠が必要であったかのように。
そしてもっと複雑な記号的思考において、面というものも存在を想定することが可能であると考えられるのである。