マザーテレサ
―死と永遠―
 
 一昨年の夏、マザーテレサは、早朝のミサで静かに祈りを捧げていた。昨年の夏、マザーテレサ入院のニュースがインドをかけめぐり、ミサにその姿はなかった。そして、今年の夏、私たちが南インドの村からカルカッタに戻った日の夜、マザーテレサは亡くなり、その亡骸に群衆の一人として頭(こうべ)を垂れることとなった。
 私たちがその計報に接したのは死の翌日の早朝のことだった。パタパトナムに戻るラマさんが、私たちの部屋にやってきて、そのことを伝えてくれた。まだベッドの中にいた私の耳には、ただ"dead"という言葉だけが聞こえてきて、その不気味な言葉の響きに身を堅くこわばらせた。
 私は、ちょうどその日から、ボランティアに出かけようと考えていた。ハウラー駅に向かうタクシーに乗り込むラマさんを見送った後、まだそのニュースの実感がわかない私はしばらく呆然としていたが、ともかくマザーハウスに向かうことにした。朝
7時頃のことだ。途中で出会ったリクシャ引きの男性が、マザーテレサのところへ行くのなら乗って行かないかと声をかけてくる。カルカッタの街が、まさにマザーテレサの死一色に染まっていく始まりだった。
 マザーハウスの前には、もうだいぶ人が集まっていた。マザーテレサに最後の別れを告げようとする人たちだ。花を手にしている人もいる。しかし、入り口に向かう路地は、警察によって封鎖されていた。すぐにマザーテレサに会えると信じている人たちは、整然と列を作っていた。彼らの直接的な悲しみにはとうてい及ぶべくもない行きずりの私は、その列に加わることもできず、ただ、うろうろとするしかなかった。
 パタパトナムに向かう前に立ち寄ったカルカッタで、半日のボランティアをした時(その時マザーテレサは存命だったわけだが)に出会った年配のボランティアの白人男性が、戸惑うボランティアたちに、10時半にもう一度来るようにと声をかけて回っていた。それから1時間あまりその場に留まっていたが、いったん宿舎に戻ることにした。
 そして改めて今度は楠原さんと、マザーハウスに向かった。群衆は大きくふくれあがり、封鎖も解かれる気配はないどころか交通規制は、さらに広がっていた。そして、約束の10時半が来ても、情報は得ることはできなかった。
 しかし、その瞬間にもマザーテレサの施設は仕事を続けているということだけは確かなことだった。ともかく「死を待つ人の家」に行ってみよう、そう思った私は降り出した豪雨の中、一人歩きだすことにした。
 マザーハウスを取り巻く喧噪に比して、「死を待つ人の家=ニルマルヒルダイ」は、平静さを保っていた。マザーテレサの死がまるで嘘のようなその気配の中に、その死を告げるささやかなメッセージが、粗末な小さい黒板に、チョークで書かれていた。短く、簡潔に 
 
  Our dearest Mother 
  went
  Home to Jesus
  Sep.5th 9:30PM
 
とだけ。
 そして、いつものように仕事が待っていた。洗い物、着替え、食事や排泄の世話……。シスターたちも、職員たちも、そのことに淡々と向かいあっている。どこか落ちつかないのは、ボランティアの方だったかもしれない。
 体を動かさなければならないそんな日常の仕事に集中しているうちに、マザーテレサの死という事実は意識から消えていく。そして、ふと我に返る時、自分に言い聞かせるようにまたそのことを意識の表層に呼び起こす。そういうことを繰り返しているうちに、一つのことに気づいた。こうして日常の営みを繰り返すことは、マザーテレサの精神が永遠であることを確認することになるのだと。日々、生活をともにしてきたシスターたちにとって、マザーテレサの死がもたらした喪失の思いは測り知れないものがあろう。だが、同時に彼女たちは、マザーテレサの帰天を信じているのであり、これからは、別の形でマザーテレサの存在を感じることになるのだ。そして、その実感は、悲嘆の中よりも、日常の営みに身を投ずることの中でこそ、より強いものとなるのではないだろうか。偉大な存在が逝ってなお、安泰である日々の営み。それは、まさしく永遠なるマザーテレサの精神そのもののようだった。

 そして、そういうけなげとも言えるシスターたちのふるまい方は、改めてマザーテレサの死の悲しみを私に痛感させるものでもあった。死が永遠の不在の実感であるとすると、遠い異国の私たちが、具体的にそれを感じさせられることは少ない。しかし、シスターたちにとって、それは生々しい事実なのだ。それは、聖堂の一角にぽっかりとできた空席のように、彼女たちの生活の隅々に大きな穴をぽっかりとあけた。その空洞にひたひたと満ちてくる悲痛に耐えてなお、彼女たちは、前を向き続けていた。
 特別な日のボランティアを、いつものように終え、YWCAに戻ると、辺りの様子が慌ただしい。何と、マザーテレサの遺体がすぐ側のセントトーマス教会に運ばれるというのだ。夕食の後、その教会に足を運んで見る。厳かに、準備が進められていた。翌日には、その映像が世界中をかけめぐることになるその教会の聖堂に無断で足を踏み入れた私たちに気を止めるものもなく、みな忙しく準備を進めていた。時といい場所といい、大変な巡り合わせだった。
 翌朝は、8時頃からセントトーマス教会への列に加わった。ストリートチルドレンの数人がやってきて、私たちの間にもぐりこんだ。ぱっくりとあいた足の傷を話の種にしてしまうたくましい少年たち。楠原さんがばんそうこうを貼ってあげると、また別の生傷を見せてきた。しかし、彼らこそこの列にふさわしい者たちだった。(彼らは翌日には、もう、したたかにも、献花用の花を行列の人々に売って日銭を稼いでいた。)
 情報もないまま、遺体を乗せた車が目の前を通り過ぎたことも後になってわかったような具合だったが、2時間ほど待った後、教会の門が開かれた。少年たちは、警官たちが怖いのかしっかりと私たちの手を握りしめている。そして私もまた、少年の手を握り返す。私もまた心細かったから。
 聖堂の正面には、2年前、静かに祈りを捧げていたマザーテレサが、ガラスの被いの中に静かに横たわっていた。本当に大きな星が落ちたという事実が、伝わってきた。まちがって映画の中に入り込んでしまったような、不思議な気もちにとらわれた。マザーテレサの遺体という紛れもない死の事実と向かい合うセントトーマス教会と、永遠の精神を感じさせた施設と、不思議な対比だった。
 翌日から早朝のミサにも参加した。「マザーの遺体はセントトーマス教会にあるけれども、魂は天に帰りました。そして私たちと共にあります」というような言葉や、「今日も、いつもと同じように、努めましょう」というような言葉を司祭が語ったように聞き取った。カルカッタが日に日に騒然となっていく中で、シスターたちは、新しい始まりを静かに感じとろうとしていたように思われた。
 この期間、プレムダンにも通った。そこでもシスターたちは、日常の仕事に打ち込んでいた。しかも、いつものようにユーモアすら漂わせていた。マザーテレサは自分の死後のふるまい方の細かなマニュアルでも残していたのだろうかと思わせるばかりに、戸惑いを見せないシスターたち。しかし、おそらく、それこそが祈りの力だったのだろう。
 マザーテレサの死と葬儀との間にはさまれた、不思議な1週間を、ボランティアをして過ごした。早朝のミサに出かけ、午前中は、プレムダンに行く。そして、午後は死を待つ人の家へ出かけた。たくさんの忘れられない人々に出会った。施設に入っているインドの貧しい人たち(名前を覚えてくれた人もいた。そして「サビタ、サビタ」と呼んでくれた)、世界各地のボランティアの人たち(インド人の学生の優しいまなざし、ベルギー人の医学生の美しい笑顔、オーストラリア人の男性の包み込むような人柄…)
 厳しい状況もまのあたりにした。食事をほとんど受けつけられないほどに、弱ってしまった人、私の前で血を吐いていた結核の患者さん、私に軽々と抱えられたお年寄り、それでも、みんな生きていた。
 やる仕事はたくさんあった。体がくたくたになればなるほど、心から爽雑物が削ぎ落とされていく。「死を待つ人の家」のあるカーリー寺院の門前の商店街の雑踏を、夕暮れの中、群衆の一人となって地下鉄の駅に向かいながら、妙に心が安らかだった。ふと、こんな生活もあるんだと、思った。その時、私は旅行者であることを忘れていた。