体を起こした世界その1・姿勢の諸相

柴田保之

はじめに

障害が重く重複しているために、人間行動の成り立ちの初期の段階にとどまっており、ほとんど寝たきりの状態のまま日常を過ごしているような子どもたちが、その仰向けの姿勢の中で、様々な世界を築き上げているということについて、われわれはその子どもたちとの教育的な関わり合いの中から明らかにしてきた。常識的な通念では、仰向けで寝たきりというと、目立った反応もなく植物的な状態で、人間としての主体的な営みを認めることもできず、ただ、生命のみが維持されているように考えられがちである。しかし、それに反して、その子どもたちは、その子自身のやり方で外界を受容し外界に働きかけているのであり、しかも、それがわれわれのやり方に比して、どんなに劣ったもののように見えようとも、実は、きわめて豊かな意味を内包したものであり、むしろ、われわれの世界よりも豊かである場合もあるかもしれないのである。

ところで、われわれは、そうした仰向けの姿勢で寝たきりの状態にある子どもたちとの関わり合いの中で、体を起こしていく働きかけというものを重視し(中島、1982)、そうした働きかけを通して子どもの中に新しい世界が開かれていくことを、実践的に確かめてきた。だが、一口に体を起こすといっても、決して自ら体を起こすことのないそうした子どもたちの多くは、そのような働きかけを受けることはほとんどないといってよい。もちろん、彼らは、まだ首もすわっていないといわれることも多く、体を起こすような働きかけをいきなり行っても、それは、いたずらに子どもに苦痛を与えるだけで終わってしまう。われわれは、あくまで、そのことが子ども自らに納得されるものであり、そのことを通して子どもの世界が広がっていくようなものとして、われわれの働きかけを考えていかなければならないのである。

そこで、本稿では、そうした仰向けの姿勢で寝たきりの状態にある子どもたちの体を起こしていくことをめぐる様々な問題と、体を起こすことによって開かれていく世界がどのようなものであるかということについて、障害の重い子どもたちとの教育的な関わり合いの事実に基づきながら、考察を加えて行きたい。

1.姿勢について

姿勢について、例えば生理学の知見を翻けば、その外的な形態から精緻に分類されたものや、様々な姿勢に関する反射の姿を見ることができる。また、発達心理学においては、乳児の姿勢が確立していく姿を月齢に沿って正確に知ることができる。それらは、その学の採る視角からは、意味のあるものであると思われるが、障害の重い子どもと教育的な関わり合いを持とうという立場に立つ時、また、それに応じた独自な視角からの把握が必要となってくる。そこで、さしあたって、次のような前提のもとに、われわれ独自の姿勢に関する理解を作って行くための試みを行っていきたい。

まず第一に、姿勢を作り保持する過程は、単なる反射や成熟によるものではなく、意図的な活動であるということである。すでに姿勢のできあがった成人の研究や動物の研究などから、姿勢を形成し保持する活動は、意図的な過程の介在しない反射的なプロセスであると考えられている。確かに、われわれは、いちいち自分の体を起こしていることに意図的になっているわけではないし、動物に見られるようなきわめて精巧な姿勢の反射の姿を見れば、生得的に組み込まれた機械的なメカニズムの存在を予想せずにはいられない。また、多くの乳幼児が、ほぼ似たような過程を経て姿勢を変化させていく事実に向かい合えば、それが意図的な活動とは関係のない成熟の結果であると考えても無理のないところがある。しかし、障害の重い寝たきりと呼ばれるような子どもが、関わり合いの中で、体を起こしていく姿に接するならば、そこには、様々な意図的過程の存在がつぶさに見てとれる。例えば、音に対して耳をすませるために、机についた両肘にぐっと力を入れ、少しずつ背すじを伸ばしながらうなだれた頭をゆっくりと持ち上げる子どもがいる。そうしたなめらかな一連の経過は、もはや、反射ととうてい呼べるようなものではないだろう。そして、こうした意図的な活動が、たとえ、後に、反射的な過程で営まれるようになるとしても、われわれが、教育的に関わり合う際に向かい合うのは、まさに、この子ども自身の意図に基づいて行われている活動の場面である。そして、いわゆる生得的な反射とされるいくつかの反射も、意図的な活動との関係において語られるべきであると考えられるのである。

第二に、姿勢は、地の身体部位の働きの単なる静的基盤ではなく、それらと動的な深い結びつきを持ち、一つのまとまりを作っていると考えられ、人間行動の成り立ちの初期においては、新たな姿勢の形成が新たな活動を可能にするとともに、一つの活動の確立が新たな姿勢の形成につながるということである。例えば、机上の対象に対してまっすぐに手を伸ばすという運動を考えた時、もし、上体が不安定な場合、手は、上体の前後の揺れと一体化したかたちで、おおいかぶさるような、あるいは抱きつくような円弧を描く運動が起こることが多い。そうした円弧運動が、まっすぐ手を伸ばすという運動へと変化するのを可能にするのは、上体が安定し、手が伸びていく時に刻々変わっていく上体のバランスを持続的に調整することができるような姿勢が作られることによるのである。そして、また、背すじを伸ばした姿勢というのは、背すじを伸ばすこと自体を目的とする中で作られるというよりも、瞬発的でなく持続的な調整の伴った手の運動を起こす中で、しだいに確立されていくものであると考えられるのである。

第三に、一つの姿勢の確立の過程は、外界の構成の一環として見ることができ、姿勢の確立によって外界を構成していくとともに、この構成した外界をもとに姿勢を確立していくといえる。例えば、三次元空間における垂直という規定は、われわれが、横たえた体を何らかのかたちで起こすことによって初めて作られるものであり、そしてまた、この自ら作り上げた垂直に基づいて、われわれは、自らの体を起こし保持するのである。こうした外界の構成を空間の構成に関して整理するならば、この姿勢に関して構成される空間は、姿勢空間としてとらえていくことができる。この姿勢空間とは、われわれが姿勢を作る時に前提としている基底面とそれに直交する垂直軸のあり方によって規定されると考えられる。そして、この姿勢空問は、われわれが運動を起こす際に前提とし、方向や位置、順序などによって規定される操作空間というものと深い関係を持っており、この両者によって空間の構成は整理することができると考えられる。

2.坐位における外界との関係の諸相

子どもが坐位を取ったとき、一見同一の姿勢を保持しているように見えて、その意識は時間の経過とともに刻々と変化していくものであると考えられる。そして、そうした意識の多様な姿は、その外界との関係のあり方によって次の3つの様相に大きく分けることができる。

すなわち、@上体を起こした姿勢を作ること自体が目的となる状態、A上体を起こした姿勢で、外界の刺激を静的に受容する状態、B上体を起こした姿勢で外界を受容しながら外界に働きかけていく状態である。そして、それぞれは、感覚と運動のあり方から、次のように規定することができる。すなわち、@は自己受容感覚による受容と姿勢形成・保持のための運動という二者の働きからなっており、Aは、@の様相に外受容感覚の働きを加えることからなり、Bは、Aの様相に、外界への対象に対する運動の働きを加えることによってなっているといえるのである(図l)。

(1)上体を起こした姿勢を作る

姿勢を整えるということは、われわれにあっては何かの行動を起こすための手段であって、それ自体が目的になるということは少ない。しかし、障害の重い子どもにとっては、上体を起こすということは、それ自体が十分目的となりうるものである。

いわゆる寝たきりという状態の中では、全身の体重をそのまま床の面にあずけたり、体を面からもたげるにしても、頭や手足を持ち上げたり体をねじったりするだけで、上体は床面と水平にあって倒れるということがない。ところが、上体を起こすということは、いったん体の各部分の重力にさからって持ち上げ、バランスをとり、面からの抵抗や重力をうまく利用して無駄な力を抜いて上体を倒れないように保持するということである。これは、寝たきりという状態における面や重力との関係の取り方とは大きく異なる新たなものであり、障害の重い子どもたちにとっては、そうした面や重力との新たな関係の取り方を行うことが自発的に上体を起こすということの根拠となっていると考えられるのである。

「支えをとってもある時間どちらの方向へもくずれず、−定の姿勢を保持することができたとしたら、これこそまさに人間行動成り立ちの原点としての運動の自発であり、それはどちらの方向にも傾かずに、ある一定の姿勢を自分でバランスをとりながら保持することによって始まった初めての人間行動の自発といえる」(中島、1982)のである。

ところで、上述のようにして上体を起こしバランスを取ることによって得られた姿勢は、静的な安定の状態である。しかし、いったんこうした安定した姿勢が成立すると、上体を揺らしたり反らせたりして安定した姿勢をわざとくずすというようなことが見られるようになる。これは、上述の静的なバランスの取れた状態を求めるという目的とは異なり、上体を動きの中で保持して楽しむというような動的なバランスの取れた状態を求めるという新たな目的であるということができる。

ところで、こうした状態を図1に示したような感覚と運動のあり方から見てみることにしたい。まず、姿勢形成・保持の運動というのは、肘をつく、足を踏みしめるなど、机や床などの面に対して力を加え、その反作用を利用するという活動と、背筋などに見られるような筋肉それ自体に力を入れるという活動とからなっている。こうした活動は普通の運動とは違って目に見える動きではなく、目立った動きを伴わない静的な緊張活動である。(註1)そして、こうした活動の結果生ずる抵抗や重力刺激の変化などが、運動感覚や平衡感覚といった自己受容感覚によって受容され、今度は、その受容によって姿勢形成・保持の活動が調節されるという一つの円環を構成している。

ここで、強調しておきたいことは、通常、こうした姿勢の形成・保持について語られる時、姿勢反射で説明されることが多いわけだが、反射という時、まず先に外因性の刺激があってそれが反射を引き起こすという図式で考えられる。しかし、むしろ上で見たように受容に先立って運動が起こると考えることができ、しかも両者の関係は単なる−方向の流れではなく、絶えざる相互作用の中にある一つの円環と考えられるということである。そして、既に述べたようにこれも意図的な過程と考えられるのである。(註2)

また、ここで自己受容感覚は、次に述べる外受容感覚と対になるものであるが、普通は自己受容感覚が自分の身体の位置や運動を受容することから「自己」という語が冠せられ、外受容感覚が身体の外部の刺激によって生ずることから「外」の語が冠せられているとされるわけだが、自己受容感覚においてもそれを生じさせる重力や抵抗などは、外部の刺激ということもできるのであって、われわれが自己受容感覚を通して自己の身体の位置や運動を知るという時、実は重力や抵抗などを通して外界を受容しているということができるのである。

したがって、あくまでこの区別は便宜的なものである。そして、この姿勢形成・保持の活動と自己受容感覚の円環は決して自己内で閉じているものではなく、すでに外界に開かれているのである。

(2)外界の静的な受容

外界の受容というのは、人間行動の成り立ちの初期の段階においては、受容が起こっても受け身で積極的な注意を引くことのない無反応に見える受容(註3)と、積極的な受容とに大別することができる。(註4)本稿では、上体を起こすことによって何らかの積極的な構えが作られた状態について議論しているので、問題となるのは後者の積極的な受容である。

積極的な受容は、さらに触る、たどるといった運動を伴った受容や、運動の予測、調節、確認をしたりする受容、さらに運動を伴わず外界への働きかけを前提としない受容などに分けることができるが、第一と第二の受容は次の外界への働きかけの項で問題となるので、ここで議論となるのは第三の運動を伴わず外界への働きかけを前提としない受容である。すなわち、目立った身体の動きは起こらないが外界の刺激に注意を一心に注いで受容しているように見える状態である。そして、子どもがこのような注意の集中した状態にあることをわれわれに感じさせる手がかりは、表情と姿勢にある。

表情における手がかりは、具体的にはまばたきと眼球の運動、唇の開き具合などにある。

注意を注いでいる刺激が何であるかによっても変わるし、一人一人の子どもによって個性的でもあるが、共通して見られるように思うことがある。まずまばたきで言えば時折パチッパチッ、バチッパチッとしばたくような動きが起こる。そして眼球は時折キョロキョロと動くがあとは右上あるいは左上の方で止まっている。もちろん集中しているのが視覚刺激ならば目はその刺激に注がれたままだ。−方、唇は、むだな力がぬけわずかに開いたような状態にあることが多い。首の角度によっては、そこから唾液がスーッと静かに流れ落ちることもある。

一方姿勢における手がかりは、全身の運動の停止にある。運動をほとんど止め、姿勢が不安定に揺れることもない状態で、うまく体を止めた状態である。この状態で安定すると呼吸がしだいに整ってきて深くなる。この時の姿勢は、その子どもの姿勢の作り方の程度によって様々であるが、次節で述べるような前や後ろによりかかった姿勢や首を後ろにやや傾けて関節の動く範囲の端で止める姿勢などがその典型的なものとして見られたりする。

こうした状況を図1に示したような感覚と運動の関係から整理してみたい。ここで外界の受容の中心となる外受容感覚には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などをあげることができる。こうした感覚の世界についての整理はまた別の機会に譲ることにするが、次のようなことに注意しておく必要がある。すなわち、人間行動の成り立ちの初期においてはわれわれが通常行っている視聴覚に重きを置く感覚の序列化は意味をなさず、聴覚は早くから多くの刺激を受容するが視覚はまだ十分に活用されていなかったり、また、触覚などは、手や指先の触覚よりもむしろ背中や口など全身の様々な触覚が大きな位置をしめていたりするのである。また、嗅覚や味覚などの果たしている役割も見過ごすことはできないだろう。

ところで、こうした外界の受容は、先に運動を伴ったり運動の予測や調節、確認などをする受容と異なることを述べたが、これはどういうことを意味するのだろうか。われわれの通念からすれば、外界の刺激がそのまま受容器によって受け入れられて外界の理解が生まれると考えられている。しかし、次項で述べるように通常の外界の理解とは運動との関係の中で生まれるものであり、ここで行われている受容は質の異なるものである。いわゆる外界の理解とは空間関係に代表されるような外界の諸関係の理解が中心となるものであるが、ここでは、そうした関係の理解につながる受容よりも、感覚の質的側面が際立った実感の受容が中心となっており、関係の理解につながる受容は副次的なものになっているのである。

こうした外受容感覚を通して行われる外界の静的な受容は、姿勢と深い関係を持っている。すでに述べたようにこうした外界の静的な受容が起こる時、全身の運動は停止し姿勢も安定した状態にある。すなわち(1)で述べたような自己受容感覚によって調整された姿勢形成・保持の活動の結果作られた姿勢と外受容感覚とが一つのまとまりを作っているのである。そして、受容に集中すればするほど姿勢はより安定したものとなり、反対に姿勢が安定すればするほどより深い受容が可能となるという相互関係を持っているのである。

また、その子どもによって、外界を静的に受容するある決まった姿勢というのが作られており、こうした姿勢ぬきにはこうした外界の静的な受容は起こらないといってよいだろう。すなわち、<見る姿勢>、<聞く姿勢>、<かぐ姿勢>、<味わう姿勢>、<背中の触覚で感じる姿勢>、〈口の触覚で感じる姿勢〉、〈足の触覚で感じる姿勢>など、様々なものをあげることができると考えられる。例えば、特定の<聞く姿勢>として、少し首を後ろに傾けて止めるというようなものがあったりするのである。

(3)外界への働きかけ

ここで述べるのは、子どもが外界と相互交渉を行っている状況であり、子どもの自発的な運動を重視するわれわれの教育的な働きかけにおいて、もっとも重要な場面であるといえる。本稿で述べるような人間行動の成り立ちのきわめて初期にあっては、われわれが外界に働きかけていく上で重要な手の運動はまだ大きな位置をしめるにいたっていないが、口や首を中心とした運動などが活発に起こっており、外界との相互交渉において大きな役割を果たしている。詳細は別稿に譲ることにするが、口の前にある対象を、首を左右に振りながら唇や舌で触ったりなめたりし、また、首を左右に振ったり上下に動かしたりして頬やあごで教材を操作したりするなど、口と首を中心とした様々な活動を見ることができる。

また、手は、仰向けの姿勢ではいろいろな使い方をしている子どもでも、上体を起こした姿勢では、上体を支えるために使われていることが多く、なかなか机上で手を操作することは難しいが、子どもによっては少しづつ机や机の上の物を触ってみたり、手を口に持っていってなめたり物をつかんで口に持っていくなどの使い方が始まってくる。

こうした状況を感覚と運動という観点から整理すると、上のような対象への働きかけは、なめるなどのように全体として運動を伴う感覚として見られるものと、教材を操作するというような、感覚が予測や調節、確認などに参加するが全体として運動と見られるものとからなっている。感覚と運動というのは、一般には、感覚を受容器に、運動を効果器に結びつけるため、相反するものであると考えられているが、ともに、外界の何らかの刺激を受容することによってもたらされた予測によって運動が起こり、起こった運動は刺激の受容によって調節を受け、その運動の結果の確認の受容が起こるという−連の「時問的調整機構」(中島、1979)に基づく過程を経るのである。

まず、全体として感覚と見られる対象への働きかけについて考えてみたい。この場合、予測、調節、確認の受容を遂行している器官と運動している器官とが同一である。例えば、なめるという一種の能動的触覚についていえば、最初になめる対象の存在を予測させるのは視覚であっても聴覚であってもよいが、いったん口が対象に接触してからは、なめる運動を起こしていくべき方向等を予測するのは口の触覚自体であるし、その運動を調節するのも口の触覚やその運動感覚であり、その運動の結果は、持続的に触覚や運動感覚を通して与えられ続けるのである。これらの過程はほとんど一体化しているため明確に区別するのは難しいが、論理的にはそうした過程を区別することができる。

同様のことは視覚にもあてはめることができる。眼球運動を伴った探す、追視するなども、予測、調節、確認といった過程を含んでいると考えられるのである。

また、単に首を振るというような運動の場合もそれ自体が目的であるような場合、体に加わる重力の変化を味わっているのであり、ここでいう感覚と同じものであるということができる。ただし、この場合、結果として生じている感覚が通常の五感に含まれない運動感覚や平衡感覚であるため、通常は感覚として見なされることはない。

これに対して運動として見られる外界への働きかけはどのように説明されるのだろうか。

この場合、感覚の場合に持続的に得られる結果とは質的に異なる結果が存在しているところが重要な点である。その結果は、同−の器官によって受容されても構わないが、別の器官による受容の場合事態ははっきりする。例えばなめると音がするような教材を操作する場合など、なめることは、音という結果を得るという目的のための手段となり、全体としては感覚としての性格を失い、運動としての性格が強く前面に出てくるのである。目の場合でも、仮に視線によって操作できるような機器があったとすれば、ここで述べてきたことと同様で、運動とみなす方が自然であろう。

通常のわれわれの行動の場合、いくつかの器官が協応することによって遂行されるため、実際の運動の遂行と、その予測、調節、確認等の機能がはっきりとした役割分担を持ち、感覚と運動の区別は明確になる。例えば目と手の協応した行動であれば、目が感覚として予測、調節、確認の機能を主として分担し、手が実際の運動の遂行を分担しているのである。しかし、ここで問題としているような状況では、感覚と運動は、密接な関係を持ち合い、その境界が定めにくいほど一体化したものなのである。

こうしたことから次のようなことを言うことができる。すなわち、往々にして感覚は外界の刺激が−方的に受容器に入ってくるという図式によって捕らえられることが多いが、外界の理解というのはそうした受身的な状況で成立するものではなく、予測−開始−調節−終了−確認という能動的な過程の中で運動と感覚が絡み合いながら働くことによって成立するということである。すなわち、感覚は、運動の遂行に先立って運動を予測し、遂行中の運動を調節し、さらにその結果を確認するというように、運動と深く関わりながら働くのであり、外界の理解とはこうした過程の中で得られるものなのである。(註5)

外界の対象に対する運動とその運動を予測し、調節し、確認する外受容感覚との協調による外界への働きかけは、自己受容感覚による調節を受けた姿勢形成・保持の活動とも、深い関係を持っている。まず外界への働きかけが起こるためには、その運動を支える姿勢が形成され保持されていなければならない。運動を起こしたとたんに姿勢がバランスを失ってくずれてしまうのでは、運動を遂行することそのものが困難になってしまう。

だが姿勢は単に運動に対して安定した静的な基盤を提供しているのではなく、運動と動的な関係を持っており、積極的に運動の調節に関与しているのである。

初期の状態であればあるほど、運動は姿勢と一体化している。したがって、ある運動が起こるということは、ある姿勢がとられるということと同じことになったりする。例えば、後述するように、前に体を倒すようにして机によりかかりながら頬で教材を操作するというような状況では、前傾した上体を起こすという姿勢形成の活動と一体化して運動が起こっているのである。

こうした一体化した状態から、外界への働きかけと姿勢形成・保持の活動とが分化した状態でも、例えば、上体を起こして右手を右の方に伸ばすというような場合、上体は、右手の運動によって刻々変化するバランスを、その逆の方向である左へ小さな運動を起こすことによって、右手の運動を持続的に調節するというようなことが起こってくる。

このようなことから、外界への働きかけには、自己受容感覚による調節を受けた姿勢形成・保持の活動が背後に存在していることがわかるし、また、外界への働きかけのために姿勢が形成され保持されることがわかるのである。

また、外受容感覚である触覚や視覚、聴覚などが姿勢形成保持に関係しているということも付け加えておかなければならない。感覚がもっとも初期の状況で受容するのは、実感的なものであり、実感自体の中には姿勢形成や保持に直接有効な情報はほとんど含まれていない。しかし、外界への働きかけの高次化に伴って外受容感覚がより関係的な受容に高まり、三次元空問が構成されるようになると、外受容感覚による受容が姿勢を形成し保持する活動を調節するようになっていくのである。

3.上体を起こした姿勢の諸相

椅子に腰をかけ机に肘をついて上体を起こすという状況における座位は次の3つに大別できる。すなわち、第一に、前方あるいは後方によりかかった姿勢、第二に、肘をつくことによって上体を起こした姿勢、第三に、肘をつかずに上体を起こした姿勢である。

こうした姿勢のかたちを決定する上で重要なのは、躯幹のあり方である。躯幹のかたちは、脊柱によって決まるわけだが、脊柱は手や足の生理学的構造が棒状の骨格の関節による結合という基本的構造を持っているのに比して、短い環状の脊椎骨が30余り連結した構造になっているため、その状態は多様である。しかし、機能的には、腰のすぐ上のいわゆる腰椎部分と胸の後ろ側の胸椎部分、及び首に連なる頸椎部分という3つの部分に分けて考えられる。(6)そして、一本の軸に見える背すじが、実は3本の軸を下から積み上げるように組合せることによって作られていることがわかるのである。

以下、それぞれの姿勢について考察していきたい。

(1)前方あるいは後方によりかかる

まず、よりかかることによって安定した状態であるが、これには、前にうつぶせになることによる安定と後ろによりかかることによる安定とがある。そして、このよりかかりにも脊柱の3つの部分をすべてよりかからせたものと、首の部分を持ち上げているものとを区別することができる(図2)。

同じよりかかりでも、前方と後方では大きな違いがある。後方へのよりかかりは、仰向けで寝たきりの状態に類似しており、そのまま受け身の状態にとどまろうとする傾向が強い。よりかかるものが人の場合それはもっと顕著で、どんどんよりかかっていき、前に向かって体を起こさせようとして後ろから背中を押しても、それは、かえってよりかかりを強めることになることの方が多い。これは、初期にあっては、仰向けで寝ている時の背中の触覚刺激の受容がきわめて大きな位置を占めており、そのことによって大きな安定を得ることができるからである。

このようなことから、後方によりかかった姿勢からの首の持ち上げは、後方によりかかっていこうとする方向性とまったく逆の前への方向性を持つものであり、全面的な後方へのよりかかりが受け身的な性格を持つのに比して、能動的な性格を持つものである。その目的は、背後の面から離脱し体を起こそうとするものであったり、見回すなどの外界の刺激を探すものであったり、なめるなどの対象への働きかけであったりするのである。

一方、前方へのよりかかりは、後方へのよりかかりと同様、安定をもたらすものであるが、仰向けの状態で後方に存在していた全面的な触覚刺激が失われており、顔と腕、腰、足が面に接するだけで、後方へのよりかかりが寝たきりの姿勢に類似しているのとは大きく異なっている。そして、後方のよりかかりが寝たきりの状態に近づこうとするのとは違って、前方のよりかかりは、肘をつっぱることなどによって、そこから体を起こしていく出発点となる可能性をもっており、積極的な構えにつながる姿勢であるといえる。なお、前方へのよりかかりは、目や鼻などを直接よりかからせるわけにはいかないので、左右のいずれかの頬でよりかかることが多いことをつけくわえておく。

この姿勢は、仰向けの姿勢が長く続いたり、後方へののけぞりが多い子どもの場合、最初は不快感や不安などが伴って前方へのよりかかりによる安定が起こりにくいこともある。そういう子どもの場合、上体を起こしても前方の空間が意味ある場として開けず、上体を起こすためのきっかけがつかみにくいことがあるが、その場合こうした前方へのよりかかりができることがそのきっかけを生むことも多い。

ところでこうした仰向けで体を後方にのけぞらせて体を床の面に押しつけようとして様々な部分に力を入れてしまっている子どもの中には、こうした前方へのよりかかりの中でとても穏やかな表情をしたり、そのまま寝入ってしまったりすることがある。力を入れるということは、必ず何かに力を加えてその反作用を利用することによって初めて意味をなすものであるが、こうした子どもの場合、仰向けの姿勢で力を入れても床の面はその力をうまくはね返すことのできる面ではなく、とめどなく力は入っていき、関節の動きうる限界(これを関節の端と呼ぶことにする)まで力を入れてそこで止め、力を抜くのも容易ではないような状況になっていることがある。このような場合、その力を適切にはね返らせて子ども自身がその反作用を使うことのできる面を用意してあげることが必要であるが、椅子に座った姿勢では、机や椅子、床がその役割をうまく果たすことができ、むだな力を抜いてよりかかることへとつながっているのである。

この前方へのよりかかりから、首を少し上げた姿勢は、後方へのよりかかりから首を持ち上げた姿勢の場合とは異なり、前方へのよりかかりの中から比較的スム−ズに起こりやすい姿勢であり、首を前方につけたり起こしたりする反復運動も起こったりする。これは、その姿勢の変化自体が目的となる場合も多いが、後述するような、頬や唇の触覚刺激の変化を受容したり、頬でスイッチを押すなどの外界への働きかけを行ったりする姿勢になったりもする。こうした姿勢の変換は、上体の安定が保証されているため、子どもにとっても比較的自発しやすいものといえる。

また、この首を持ち上げるという姿勢の変換は、首自体の運動だけではなく、前方についた肘に力を加えることにも依存していることに注目する必要がある。これは、次項で述べるものと同じように、一つの運動が反対の方向性を持った別の運動によって支えられるということを示している。また、肘だけではなく、足の踏みしめも参加するようになってくる。

(2)肘をついて上体を起こす

次に、肘を机について上体を起こした状態である。起こした上体を安定させて静止させる方法には、「@第三者によって物理的に止める、A自分の体を使って運動を止める、Bバランスを使って真ん中に止める」(中島、1984a)がある。上述した前や後ろへのよりかかりはこの@にあたる.また、ここでいう肘を机について上体を起こすのは、肘から上腕部のつっぱりがちょうどつっかえ棒のようになって体を止めているもので、Aにあたる。また、それによる上体の安定の上でどのようにして首を安定させるかについて見ると、首を前後の関節の端で止めるというものがAの止め方にあたり、(7)−方、首をその前後の関節の端の中間で止めるというのがBによる止め方になる.

このことから、ここでは、首の関節の前後の関節の端で止めておくという状態と、その間の中間部分で止めておくという状態とに区別できることになる(図3)。それぞれの状態で、腰椎部分や胸椎部分の安定の仕方が様々で、それに応じて細かく見ていく必要がある。例えば、いわゆる側湾といわれるような状況にある子どもの場合、曲がっているように見えるのは、胸椎部分であるように見えて実は腰椎部分の力を抜いた状態でバランスを取ったものであったりするのである。また、背中を触って上体を起こすためのきっかけを与えてあげる場合、そうした細かな区別に基づいて触ることが必要であったりするのである。ただし、以下の論述では煩雑になるので特にその問題には言及しないことにする。

まず、首を関節の端で止めている状態について見ていくことにしたい。これは、肘をついて体を支え、首の力を抜いて前にうなだれた状態と、首の力を抜いて後ろにのけぞるようにした状態である。これらは、一見すると苦しそうな様子に見えるが、無駄な力が抜け、上体のバランスのとれた安定した姿勢である。そして、この安定に基づいて口の触覚や聴覚、嗅覚などを通した運動を伴わない静的な受容が起こる可能性をはらんだ姿勢であるといえる。

また、口の前に風船などを提示すると、首を左右に振ったりしてなめる、頬で教材を操作するなどの外界への働きかけが起こる可能性もある。ただし、後ろの端で止めている場合は、前の端で止める場合に比べて運動によるバランスの崩れが起こりやすい。

次に、両端の中間部分で止まった状態について見ていきたい。首を自由度の大きい両端の中問でとめるというのはいわゆる首がすわるという状態であるが、これは、単に首を起こす筋肉の力がついたというようなことではない。首を前後に動かす中で、まず、その運動を折り返す地点(これをバランスの仮の端と呼ぶ)を発見し、その前後のバランスの端を往復する運動の中からちょうど首のバランスのとりやすいところを発見してそこで止めるのである。まず両端を定めてから真ん中が定まるのである。(註8)

ところで、ここでいうバランスの端とは、上で述べた力を抜いて止めた関節の端とは、若干異なり、両端に二つある関節の端のやや内側にあって、力を抜ききる前に折り返す地点である。つまり同じ端でも、意図的に設定した自発的なその人自身の端である。

こうした首の位置が定まっていく過程には、様々な運動や感覚が関与してくる。まず、首の運動も前後だけでなく回転による左右の運動も盛んに起こる。また、肘を机につきながら、手掌と前腕部で対象を触ったり操作したりし、また手を口に入れたりつかんだ物を口に持っていったりする。こうした手の運動は、上体の揺れを引き起こすことになり、首も不安定になるが、逆に、こうした手の運動によって不安定になったバランスを回復することの中からより柔軟な上体の安定やそれに基づく首の安定が作り出されることになる。また、手を口に入れることが、首の位置の決定や安定に非常に役立ったりする。

さらに、また一見首の安定とは無関係に見えるが足の働きも重要な役割を果たすようになる。足は、始め、床につけられてもほとんど力をこめられることもなく、脚部を外側に開き足の外側面が床に軽く乗せられているという状態にある。だが、肘をつっぱり首を起こすことの中で、しだいに下肢全体に力が加えられ、外側に開いていた脚部もしまり、足の裏でしっかりと床を踏みしめるようになり、そのことが首の安定につながるようになるのである。

ところで、肘のつっぱりや足の踏みしめというのは、首を持ち上げていって安定させる運動とは反対の方向の運動であるわけだが、肘のつっぱりのように直接的に首を支える運動を「逆の運動」(中島1984b)と呼び、足の踏みしめのように間接的に首を支える運動を「裏の運動」(中島1984b)と呼ぶことができる。また、物理的な存在ではないバランスの仮の端を「影」(中島1984b)と呼ぶことができる。

こうした首の位置が定まっていく途上では、上体が静止しにくいため、静的な外界の受容は起こりにくくなり、運動を伴った受容が中心となる。また、このことから、子どもによっては、音の受容が静的な姿勢との結びつきが強いために、音をならす教材などを手で操作しても、手の運動と音との因果関係の理解が成立しにくいという場合なども出てくる。

(3)肘をつかずに上体を起こす

さらに、肘を机などにつかずに上体を起こすという場合について考えたい。ただし、肘をつかないという意味は、肘をつかなくても上体を起こすことができるということで、ある運動を起こすために肘をつくということは、頻繁に起こる。しかし、(2)で述べたように持続的に体重をかけ続けるのと異なり、運動の変化にともなって肘は机から離れたりするのである。この状況でいかに上体を止めるかについて考えてみると、前節のBの「バランスを使って真ん中に止める」という方法によることとなる。すなわち、上述した自発的なその人自身の仮の端によるバランスを前後左右に作り、その間のバランスのちょうどよい真ん中で上体を止めるわけである。

首については、厳密には(2)で述べたような関節の端で止める場合も考えられるが、首だけうなだれたり首だけのけぞらせるというのは起こりにくいのでここでは触れず、首を含めた上体を、バランスを使って真ん中で止める場合について考察する。なお、この真ん中での静止には以下に述べるように背中の丸まったものと伸びたものとがある(図4)。

            

肘をついて上体を起こした姿勢から肘を机面から離すということが起こるのは、手の運動と深い関係があると考えられる。既述したように肘を机面についたままの姿勢でもすでに前腕と手掌を使って様々な運動が起こっているが、上腕も参加した大きな運動が起こるために肘を机から離すことが必要となってくるのである。ただし、肘が机から離れていくプロセスは、片手から両手へ、瞬問的な離脱から持続的な離脱へと漸次変化していくと考えられるが、その様相は手の運動の起こし方やバランスの取り方に応じて多様である。

手の運動の起こし方について見てみると、机上の物を触る、操作するといった運動、持ったものを口に持っていく、手で自分の口や顔、手といった体を触るなどがある。そして、これらの手の運動は、始めは瞬発的であり、上体と一体化しているため、手の運動が大きければ上体はそれに伴って大きく揺れることになる。

この時の上体のかたちは、胸椎部分がやや前傾した状態、いわゆる背中が丸まった姿勢であることが多い。この姿勢から背すじを伸ばして胸を張った姿勢へと変化させていくためには、その背すじを伸ばした姿勢を必要とする運動が起こらなければならない。だが、手の運動が瞬発的な場合、その必要性はなかなか生まれにくいといってよい。

しかし、こうした瞬発的な運動がしだいに持続的な調節を伴った方向性のある直線的な運動に高次化していくようになると、様々に変化する手の運動に対して背すじを安定させてそうした運動を調節するようになってくる。この時、背すじの安定は、背すじを硬直させることによって作られるものではなく、手の運動の方向と反対の方向に背すじを反らせてバランスをとり、手の運動の進行に伴ってバランスを調節していくといったしなやかな背すじによって作られる安定となる。そして、こうした運動が片手で起こる場合、もう−方の手は、背すじの調節を助けるために、机につけられたり口にくわえられたりするなどの運動を起こすようになっていく。

こうした中で上体は、腰椎部分、胸椎部分、頸椎部分がはっきりと分節化されるようになり、運動に応じた様々な姿勢をとるようになってくる。そして、瞬発的な運動ではとられにくかった背すじを伸ばした姿勢も、上方向に抜き取るというような持続的な運動とともに生まれるようになってくる。また、左右の斜め前方へ向かう持続的な運動などを通して分節化した3つの脊柱の部分をうまく組み合わせてねじることによる上体の回転も起こるようになってくるのである。

こうした様々な運動に伴いながら変化する上体のバランスを保とうとする中で、その前後左右の限界のところにバランスの仮の端を作ることによって、しだいに上体のバランスを安定させ、真ん中で静止させることができるようになっていく。そして、こうした上体の安定は、その時々の外界の受容や外界への働きかけの仕方に応じてばらばらであった姿勢がまとまりを持つことにつながり、相互に関係づけられるようになってくる。そしてある場合には、運動を起こす姿勢と静的な受容の姿勢とが近似してくるにつれて、手の運動とその結果生まれる音との間に因果関係が成立するような場合も起こってくる(柴田、1989)のである。

ここで、特に自分の体を触るという運動について付け加えておきたいことがある。自分の体を触る運動は、手が上体に引き付けられるため、上体のバランスは非常によくなる。上に述べた口にくわえてバランスをとるというのは、このために起こるのであるが、子どもによっては、こうした自分の体を触るという運動をうまく使って上体を安定させ、その姿勢にとどまり続けるというようなことが起こってくる。バランスのとりかたがうまくなって、両肘を机から離すことができるようになると、もっともバランスの安定するのは両手を触れ合わすことなので、両手を組んだまま外界への働きかけを止めてしまうのである。そして腰から足や手に分散していた体重も再び腰の一点に集約されてしまうのである。

ところで、肘をつかずに上体を起こすという姿勢には、こうした手の運動との関係によるものとは別に、姿勢形成・保持の活動の一つとして、上体をのけぞらせるというものがある。

上体ののけぞりは、最初はそのまま後方に倒れてしまうが、しだいにバランス保持の限界のところから前に戻ってきたり、そこで止めることができるようになったりする。子どもによっては、それが面白い遊びになったりすることもある。この時、両手は、机を離れて前に伸び、上体のバランスを保持するために使われたりする。こうしたのけぞりは、バランス上の後ろの端の形成にとって大きな意味を持つことになる(図5)。

4.姿勢空問の構成

以上述べてきた上体を起こすことをめぐる様々な様相を、外界の構成の一環としての空間の構成について整理したい。ただし、本稿では、外界への働きかけに関しては、姿勢との関連で論じているにすぎないので、そうした働きかけと深い関係にある操作空間については別の機会に譲り、姿勢空間について整理することにする。

(1)姿勢空問を規定するもの

姿勢空間とは、自己受容感覚によって調節される姿勢を形成し保持する活動の中で構成されていくものである。われわれが直立する場合を考えるならば、踏みしめる大地に象徴される面と身体を貫く垂直軸が姿勢空間の基本的な要素ということができるが、この面と垂直軸は、われわれを離れて客観的に存在する物理的存在ではなく、仰向けで寝たきりの姿勢になることから始まって、体を起こして立ち上がっていくという長い過程を経る中で、その姿勢のあり方に応じて構成されてきたものであるといえる。なお、われわれの直立姿勢においては、面や垂直軸は、外界への働きかけの中で視覚や聴覚などによって構成された空間と重なりあっており、ここでいう姿勢空問とは性格が異なることもつけくわえておかなければならない。

姿勢空間の基本的な要素として面と垂直軸とを上げたが、それぞれの性格を規定するものとして次のようなものを考えることができる。

まず、面については、第一に、どの身体部位に関して構成されているものかということである。仰向けでは、もっぱら背中に関する面となるが、上体を起こすことによって、腰の面や手の面、足の面などが区別されるようになってくるのである。第二に、その面に体重がどのようにかかっているかということである。体重は、仰向けのように全面に分散的にかかる場合から、しだいに腰や肘の荷重点に集約されてくることになっていく。そして、その荷重点も、姿勢のかたちによって数が異なり、また、持続的な分散から瞬時の分散まで性格にも違いがあるのである。

垂直軸に関しては、第一に、バランスの仮の端がどのように作られているかということである。すなわち、ある方向に上体を傾けた時にバランスを崩すことなく戻ってくることのできる領域がどのように作られているかということである。第二に、垂直軸がどのような方向を潜在的に有しているかということである。運動を起こした時、ある場合にはその運動と一体化しているが、その運動によるバランスの崩れをその運動が持っている方向と逆の方向性を潜在的に持たせることによって調節するということが起こるのである。

(2)面の成立

寝たきりの姿勢において構成されている面は、もっとも原初的な基底面であり、この面は密着する面という性格とそこから離脱する面という二つの性格を持っていた。

上体を起こした姿勢では、まずよりかかることによって、密着する面としての手の面と背面、腰の面が構成される。そして、寝たきりの状態では、原初的基底面全体にかかっていた体重は、腰の面と手の面及び背面に分散して荷重されることになる。このとき背面は、仰向けにおいて構成されていた密着する場としての原初的基底面と類似したもので、腰の面と強く一体化しており、また、離脱する面にもなりにくい。一方、手の面の方は、腰の面とはっきり分化しており、また、離脱する面となる可能性を秘めているといえる。

よりかからせた上体を起こすことによって、手の面と背面は、離脱する面としての性格を持つ面として構成されることとなる。このとき、上述したように背面よりも手の面の方が離脱する場になりやすい。

手の面が離脱する場となると、手の面には通常両肘による2つの荷重点が構成されることになる。これは、よりかかるときに面全体にかかっていた体重を集約することによって得られるものである。また、手の面が離脱する場となる時、足を踏みしめることによって、足の面が荷重点を持った面として腰の面とはっきり区別されるかたちで成立する。

肘をしだいに浮かすことができるようになって片方の手が姿勢の保持から解放されるようになると、手の面の荷重点は、2つから1つになり、体重もその荷重点と腰の面にいっそう集約されることになる。

そして、さらに、肘がいつも机につけられている状態から運動の必要に応じてつけられるようになると、それまでの荷重点が持続的に作られるものであったのから断続的に作られるように変化してくる。そして、体重は、腰の面に集約され、運動に応じて手の面や足の面に分散されるようになる。

(2)垂直軸の成立

垂直軸のもっとも未分化なものは、肘をついて上体を起こすことによって構成される。しかし、垂直軸とはいえないが、先行するものとしていくつかのものを上げることができる。

まず、仰向けや坐位で後方あるいは前方よりかかった姿勢で、その面から離脱する時の実感の中に与えられるものである。この実感とは、自分の体の重さに対抗して体を持ち上げることの中にある抵抗感であり、この中で、将来垂直軸につながる空中性とでもいえるようなものが構成されるのである。

次に、抱きかかえられたり椅子の背に全面的にもたれたりするといった受動的な状況の中で与えられる垂直性である。これは、子どもの主体的な姿勢の形成活動を伴っていないので、垂直軸の構成ということはできないが、微妙な体位の変化に伴う重力の方向の変化の静的な受容の中に、垂直性が与えられると考えられるのである。

こうした先行するものから、肘をついて上体を起こすという活動を通して垂直軸が構成されるようになる。首の関節の端で止めるというような状況で作られる垂直軸は、前後にまだバランスの仮の端が作られておらず、バランス保持の可能性の範囲はきわめて狭く、安定はしているが柔軟性が乏しい。そして、この垂直軸は、まだ、顕在的にも潜在的にも方向性は不明確である。

最初にバランスの仮の端が作られるのは、肘をついて上体を静止させ、首を前後の関節の端で止めずに中間部で保持する状況においてである。首を前後に動かしていく中で、バランスの保持が可能な領域の境界を見いだし、そこを前後のバランスの仮の端として、その両端から規制を受けた垂直軸が首に関して構成されるのである。この垂直軸は、首の運動と一体化しているため、運動とともにその顕在的な方向性は明確化してきたということができる。

さらに、肘を机上の面から離すことができるようになると、上体の前後左右の動きの中からバランスの仮の端が前後と左右に構成されるようになる。そして、その前後と左右の2組のバランスの仮の端から規制された垂直軸が上体に関して構成されるようになるのである。

垂直軸が持つ方向性については、始めは手の運動と一体化しているため運動とともに顕在化している。しかし、手の運動が持続的な調節を受けた直線運動となっていくにつれ、垂直軸は運動と分化して安定するようになり、さらに、その運動と逆の方向性を内在させるようになる。そして、運動の方向性がより多様になっていくのに伴って、垂直軸は様々な潜在的な方向性の交錯する場となり、柔軟性を高めていくのである。

 

おわりに

本稿は、障害の重い子どもたちとの教育的な関わり合いの中から見えてきたものを東京水産大学教授中島昭美先生の人間行動の成り立ちをめぐる諸洞察を下敷きにまとめていく作業の一つである。体を起こした世界について、主として姿勢の諸相に焦点を絞ってまとめたが、体の様々な部分の役割や、それをめぐる感覚と運動の様相については、十分にまとめることができなかった。これは、他日を期したい。

本稿をまとめるにあたっては、常に筆者の意識の中に思い描かれていたたくさんの障害の重い子どもたちの輝かしい姿を紹介することができなかったが、ここで述べた事は、何よりもまずそうした障害の重い子どもたちが教えてくれたことにほかならない。

そして、いうまでもなく、中島昭美先生には、本稿の発想のすべてを負っているといってもよいくらい深くお世話になった。

また、財団法人重複障害教育研究所でともに学ぶ仲間たちからも様々な貴重な示唆を得たこともここに記しておきたい。

 

(1)筋収縮は、筋の短縮や伸長を伴う等張性の収縮と筋の長さの変わらない等尺性の収縮に分けられており、ここでの筋収縮は、等尺性のものであるといえる。また、ワロン(1965、1983)は、これを相運動性(間代性)機能と緊張性機能という用語で区別しているが、彼の理論構成の上でこの緊張性機能は大きな位置をしめているものである。

(2)ワロン(1983)は、運動の形態を、1「受け身的で外因的な運動」と、2「外の世界のなかで自分自身の身体や対象を移動させる能動的で自己因的な運動」、3「身体部分相互の関係、あるいはさらにこの身体部分内の細部相互の関係の移動」の3つに分け、それぞれが「相互に多少とも絡みあっている」としたが、いわゆる姿勢反射は第一のものであり、第三の形態はそれに比べると「より微細であり、より分化しており、またより心理的性格をもっている」としている。その含意は、ワロン独自のものであるが、少なくとも反射だけで到底説明しえない姿勢機能の独自性を指摘したものであることはまちがいない。

(3)かつて拙稿(1987)で「無反応の状態」として記述した。

(4)受容の分類には次のようなものがある(中島1984b)。1.無受容、2.静受容、3.受容の拒否、4.積極的受容、5.意図的選択的受容、6.操作的空間的受容である。

ここで、筆者が無反応に見える受容としたのは1、2、3の受容にあたり、外界の静的な受容とは4にあたり、運動を伴った受容や運動の予測、調節、確認をしたりする受容は5にあたる。

(5)廣松渉(1982)は、このことを認識の視覚モデルと触知モデルといい、視覚モデルの不備を指摘し、触知モデルの重要性を述べた。また、竹田青嗣(1989)は、触知モデルを越えたリトマス試験紙モデルを提案している。

(6)ここでもちいた腰椎、胸椎、頚椎といった用語は生理学的構造を示すものだが、ここで行う考察はそうした生理学的構造から帰結するものではなく、あくまで現実の子どもとの関わりの中で見いだされたものである。用語はあくまで便宜的に借用したものにすぎず、生理学的構造と必ずしも正確に対応するものではない。

(7)つっぱる、ねじるなどの運動もこれにあたり、そのことにより関節の端で止めているのである。

(8)この両端と真ん中の発想は、様々な水準で人間の行動を規定する大きな要因である。

例えば、位置が生まれるプロセスを見てみると次のようなことが言える。すなわち、「直線運動の起点と終点としての両端の位置がまず理解されなければならない。……〔だが〕直線の両端としての二つの位置が出ただけではまだ本当の位置とはいえない。左右両端と真ん中があって初めて運動の方向分化が起こり、位置が確定する」(中島1977)のである。

 

 

引用文献

柴田保之 1987「障害の重い子どもの身体と世界」國學院大學教育学研究室紀要第22号柴田保之 1989「座位の確立と手の運動の始まl)重度・重複障害児の教育実践から−」日本教育心理学会第31会総会論文集

竹田青嗣 1989『現象学入門』日本放送出版協会

中島昭美 1977『人間の行動の成りたち─重複障害教育の基本的立場から─』財団法人重複障害教育研究所研究紀要第一巻第二号

中島昭美 1979「行動の時間的調整機構−ヒトの初期学習の立場から─」日本心理学会第43回大会発表論文集

中島昭美 1982「人間行動の成り立ちとしての感覚と運動─重度・重複障害児の教育実践から一」精神薄弱児研究第288号日本文化科学社

中島昭美 1984a「久里浜特殊教育総合研究所における講義」

中島昭美 1984b「うめだあけぼの治療教育養成所における講義」

廣松 渉 1982『存在と意味─事的世界観の定礎─』岩波書店

ワロン、H 1965『児童における性格の起源』(久保田正人訳)明治図書

ワロン、H 1983『身体・自我・杜会』(浜田寿美男編訳)ミネルヴァ書房

 


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