体を起こした世界─その2・感覚と運動の働き─
柴田保之
はじめに
障害が重く重複しているために自らは体を起こすことのない状態にある人との教育的なかかわり合いに際して、われわれは積極的にその体を起こしつつ、様々な働きかけを行ってきた。本稿は、前稿(柴田、1989)に引き続き、そうした働きかけの意味を明らかにするための考察である。前稿では、坐位の姿勢の様々なかたちについて考察を加えたが、本稿では、坐位の姿勢における感覚と運動の働きの具体的な姿について、仰向けの姿勢における場合なども考慮しながら考察を加えていきたい。
ところで、自らは体を起こすことのない障害の重い人に対して、われわれは積極的に体を起こすことができるように働きかけていると述べたが、その働きかけは単に体を起こすことのみを機能訓練的に求めているわけでは決してない。それはあくまでその人の自発的な活動を呼び起こすための働きかけであって、われわれは、そうした姿勢への働きかけとともに、様々な教材を通した働きかけを重視してきた。そこで、まず、教材を通した働きかけの意味についてまとめてみたい。
教育的なかかわり合いの中でわれわれが大切にするものは、その人自身の原則に基づいて意図的に外界を受容し外界に働きかけていくという外界との相互交渉である。だがこれにはいくつかの異論があるかもしれない。外界の認識とは別に運動を機能的に重視する立場、対人関係やそれに伴う情動を重視する立場、あるいは感覚的経験を重視する立場などと教育的な働きかけのあり方が異なってくるのは、このような、かかわり合いの中で大切にするものの違いであるともいえるであろう。だが、上のようなわれわれの観点はそれほど特異なものではない。例えばピアジェの主体と客体との相互作用を重視し主体の認識の構造を問題にする立場と基本的には大きな違いはないと考える。
そこで、問題は、こうした基本的な立場と教材がどのようにして深く関係を持ってくるかということになる。
ところで、外界の受容と外界への働きかけという主体と外界との相互交渉を重視すると述べてきたわけだが、教育的なかかわり合いの場合、外界とはすでにそこにあるものではない。かかわり手が外界の状況を完全に統制することなどは不可能であるが、かかわり手によって積極的に作られるものである。かかわり手の外界の状況の設定のしかたには様々なものが考えられるが、その条件としてまずあげなければならないのは、受容しやすく働きかけやすいものにするということである。どんなに障害の重い人であっても、外界の受け止め方や外界への働きかけ方には、その人独自の原則があり、その原則に適っていれば、表面的には小さなものに見えるかもしれないが、積極的な外界の受容と外界への働きかけが起こっていると考えられるのである。
障害の重い人にとって外界は常にそのようなわかりやすい最適の構造を備えたものであるとは限らない。そのままでは外界は受け止めにくく働きかけにくい場合もある。そして、教育という立場に立てば、障害の重い人の外界の積極的な受容や外界への自発的な働きかけを引き出していくためには、外界をわかりやすい構造を備えたものとして作り変えていく必要があるのである。
実は、このように外界がわかりやすい構造を備えていることが必要であるというのは、われわれにおいても同様である。ところが、われわれの場合、われわれの外界との相互交渉は、多くの過去から継承してきた文化に支えられている。外界はすでに受け止めやすくまた働きかけやすいように作り変えられているし、われわれの感覚や運動の可能性を広げるいくつもの道具が存在しているのである。もし、そうした継承された文化が存在していなければ、われわれにとっても外界は受け止めにくく働きかけにくいものとして現れてくるであろう。
障害の重い人にとってはそうした既成の文化はほとんど存在しておらず、障害の重さという事実のために制約を受けがちな外界との相互交渉の可能性をいっそう狭められているといえるのである。
そこで、障害の重い人にとって受け止めやすく働きかけやすい構造を外界に与える方法として教材の工夫というものが必要となってくる。外界の構造化の方策の一つとしての教材の工夫というのは、寝たきりの障害の重い人たちとのかかわり合い以前に、盲聾児の教育に始まり盲乳幼児、盲重複障害児、さらに様々な障害を持つ子どもたちとのかかわり合いの中で、その意義が確かめられてきたものである(中島、1977他)。既成の物ではなかなか外界をわかりやすいものとして構造化しえないことが多いが、一人一人に合った教材を工夫することによって、その人の受容の仕方や運動の起こし方に少しづつ近づいていくことができると考えられるのである。
こうしたことを踏まえながら、感覚と運動の姿について整理していくことにしたいが、その際に方針を以下のように立てることにする。外界の受容や外界への働きかけという時、考えられやすいものは、視聴覚や手の運動である。しかし、中島(1983)によれば、「人間行動の成り立ちの原点」においては「全身で外界の刺激を受容し、それなりに反応している。(……)したがって、『自発をよぶ』初期の学習をすすめるために、この時期の受容がどこからどんなふうに起こり、段階的に構成されるのかということを考えなければならない」。そして、「背中と耳」、「口と足」、「足から手へ、手から目へ」という順序が提唱されている。そこで、本稿でもその順序にならいながら、それぞれの体の部分における感覚と運動の姿について考察していくことにする。
1.背中
(1)仰向けの姿勢において
仰向けの姿勢の中で背中(ここでは腎部まで含める)は床や敷物などと接触している。これには、運動の有無のよって次の二つの場合が考えられる。
まず第一に、運動をほとんど起こさないで「ベッタリとした触刺激」(中島1984)を受容している場合である。この時は、背中だけでなく、頭や四肢もみな寄りかかった状態である。接触面に生じている背中側の触刺激は、明確な区別を持っていない未分化な一つの全体としてとらえられていると考えられ、その中で深い安定が作り出されていると考えられるのである。
また、目立った運動がほとんど見られなくても、この仰向けの姿勢の中で背すじを伸ばし、「自分自身の体を押しつけるように、体全体をピタリと密着させ、隙間をつくらない」(中島1984)ようにしているのであり、体を丸くして包みこまれるように抱かれている場合などとは意味が異なっているのである。
第二にあげられるのは、運動に伴って、背すじを丸めたりそらしたりねじったりすることによって底面との接触範囲を少しずつ狭くし、触刺激をいくつかに分化させていく場合である。この時、頭や四肢は、運動に応じて床から持ち上げられたり押しつけられたりしている。背中側の触刺激は、丸める、そり返る、ねじるという背すじの動きによって底面に押しつけられる部分と底面から離れる部分との区別が作られる。すなわち、大まかに言えば、ベッタリとした触刺激は、胸部、腰部、腎部の背中側と、それぞれの左右とに分化をしていくと考えることができる。
なお、平沢(1984)によれば、「生後3か月の子供を、月に1回ピドスコープ(1)の上にのせて、接着面の形や重心の位置、それに動揺等について半年追跡を試みた」ところ「生後3か月の子供では、仰臥位のとき、重心位置の周辺に空洞型の接着していない面を発見した」がそれが、1か月の間に第5腰椎を中心に、接着面が分かれ」、「やがて、そののち寝返りをうつ準備がされる」という。背中の触刺激の変化を示す貴重な資料であろう。ここでは、ピドスコープにのせることによって引き起こされた運動が詳述されていないが、運動に応じてもっと多様な接着面のかたちが得られると思われる。
以上、仰向けの姿勢における背中の触刺激について簡単に述べたが、ここで重要なことは、背中は単に物理的に接触しているのではなく、そこで底面を感じとっているということである。底面というものが、よりかかることによって深い安定を作り出す場であり、またそこに力を加えることによって様々な運動を起こしていく場であるということを、背中は感じとっているのである。われわれにとって底面あるいは大地は、ふだんは意識にのぼることのないものだが、われわれのすべての行動を支える基底にある面である。その底面の認識の始まりはまさにこうした仰向けの姿勢における背中の触刺激の受容にあると考えられるのである。
(2)坐位において
このように背中で底面を感じとっているということは、体を起こすということによって背中で感じている世界が大きく変化するということを意味している。したがって、坐位において背中の触刺激のあり方がその人にとってもたらす意味について考える必要がある。
坐位における背中の触刺激を考えるにあたっては、まず、椅子に背もたれがあったり後ろから抱きかかえられていたりしてよりかかることのできる場合と、触刺激がなくなった場合とを分けて考えることができる。
まず、椅子に上体全体で寄りかかられる背もたれがあったり、抱きかかえられたりしているために背中に触刺激が存在している場合、仰向けの状態と非常に似通っているといえる。したがって、運動をまったく起こさずに深い安定の中で外界と一体化したような状態になったり、背すじを丸めたりねじったりそらせるなどの運動を起こして触刺激を分化させたりする。このように触刺激の状態は仰向けの場合と似通ってはいるが、腎部の触刺激については、上体を起こすことによりもっとも体重がかかる場所になったり、また、強くそり返って腰が浮くほどにならない限り背すじの運動が起こっても常に接触する場所になるというようなことから、胸部や腰部の背中側の触刺激とは違った意味を持つようになってくる。
一方、後ろに寄りかかるものがないような場合についてはどうであろうか。仰向けの状態で広く存在していた背中の触刺激は、椅子の座面と接触する腎部の触刺激を残してなくなってしまうことを意味する。したがって、底面の受容は、腎部の触刺激を通してということになる(足の裏の踏みしめが起こるようになれば足の裏も底面を受容する重要な部分となる)。仰向けから上体を起こすということは、安定した状態を崩し外界の受容が著しく変化してしまうことになるので、不安定な状態を生み出してしまうことがあるが、このような背中の触刺激の消失が大きくかかわっていると考えることができるのではないだろうか。
ところで、このように背中の触刺激が消失した状態で、背中を触ったりして触刺激を与えると、そり返る、背すじをまっすぐに伸ばすというような運動が見られることがある。
まず、そり返りについて見てみたい。肘を机につくなどして坐位をとっている人の背中をさわると後ろにそり返る運動が起こされることが多い。このそり返る運動は、泣くあるいは厭がるなどといった激しい情動の表出に伴って起こったりすることがあり、その場合は、背中の触刺激の問題と直接結びついたものではなくなるが、ここで問題としている運動は、背中の触刺激を受容したことによって起こる意図的な運動である。
このそり返りの運動は、後ろから抱きかかえるようにすればもちろんのことであるが、軽く触れるだけでも起こることが多く、触刺激そのものに対してではなく、そこに寄りかかることのできる物あるいは人が存在するという、意味に対する運動であると解釈することができる。したがって、仰向けの姿勢から上体を起こして坐位をとらせてあげる際、後ろから支えながら起こすとかえって寄りかかりを助長することになることが多く、むしろ前からの働きかけによって上体を起こしていくことを考えて行かなければならないことが多いといえる。また、かかわり手の正座した膝の上やあぐらをかいた足の上などにすわらせる場合も、かかわり手の胸部や腹部が相手の背中に触れてしまうとそのまま寄りかかってくることが多く、できるだけ触れないようにした方が、意図的な坐位が生まれることが多いように思われる。なお、中には、こうしたそり返りの運動を情動の表出以外には起こさない人もいるということもことわっておかなければならない。
次に、背すじをまっすぐに伸ばしてくる運動について見ると、これは、前者のそり返りの運動よりも力の抜けたゆっくりとした運動であるが、ここで問題にしているのは、そり返りをほとんど起こさない人に見られた運動である。うなじに軽くなでるように触れる、少し前かがみになった背中のいちばん出っ張ったところを軽くなでるように触れるといった働きかけに対して、それまで前にうなだれていた上体や首をゆっくりと持ち上げてくるという運動である。ただし、繰り返し働きかけると首や上体を持ち上げなくなってしまう。こうしたことから、この運動は、背中の触刺激に対して「おや何だろう」というような興味が引き起こされ、そのことから引き起こされた運動であると解釈できよう。
2.耳
耳については、仰向けの姿勢と上体を起こした姿勢の両者で共通点が多いので、まず両者を合わせて考察したあとに、二つの姿勢の中での違いについて述べていきたい。
(1)耳の様々な受容
きわめて障害が重くほとんど無反応に見えるような状態にあっても受容が起こっているのは、すでに述べた背中とここで述べる耳である。障害の重い人が、理由もないのに笑っているように見えたりする時、往々にして聴覚刺激が原因であることが多く、無意識的に聴覚刺激を取捨選択しているわれわれに比べると、実にたくさんの音を受容しているように見える。
初期の状態で受け止めやすい音としては、「音楽もよいが、紙をこすり合わせる音、畳や床を指先でこする音、お米やあずきをお盆にのせて振る音、ものをたたいたり、ぶつけたりする日常の生活用品のふれ合う音など」(中島1983)があげられる。一見無反応に見えるからといって、あたかも眠っている人を起こすかのように大きな音はいたずらに驚かせるだけで、小さな音の方がむしろ注意を喚起しやすいといえよう。
また、自分自身で作った音を聞くということについて考えてみると、まず、自分の体から発せられる音としては、自分の呼吸の音、自分の発声、歯ぎしりの音などが受容されている。さらに、音の出る教材で用いている音としては、ピピピピと甲高い音のする電子チャイムや、キンコンと音のするチャイム、オルゴール、電子音のメロディー、機器が再生する人の声や鳥の声などがある。
それでは、こうした様々な音はどのような意味をその人にとって持っているのであろうか。ここでは、音の受容が運動とどのように関係しているかということから整理を試みたい。
まず、第一にあげられるのは、その音にじっと聴き入ってあたかもその音と一体化してしまい、全身の運動が静止してしまうような場合である。こうした受容が起こった時は表情に特徴があり、パチッパチッとまばたきが起こったり、眼球運動が上や左上あるいは右上で止まったりし、唇も軽く半開きになったりして、まさに心を奪われているという感じになる。
こうした受容を引き起こすのは音楽やある音のリズムを持った心地よい繰り返しである場合が多い。こうした受容は深い安定をもたらすが、非常に受け身な受容であり、自発的な運動になかなかつながりにくい面を持っている。したがって、音のなる教材において運動の結果として生ずる音がこうした受容を引き起こす場合(例えば、いったんスイッチを入れて鳴り出した音楽にそのまま聴き入ってしまうような場合)には、結果の方だけが浮き出して、原因である運動との関係が理解されにくくなるというようなことも起こる。
次にあげられるのは、音が強い喜びの情動につながって全身を動かす場合である。喜びにつながるのは、第一の場合と同様に音楽やある音のリズムを持った心地よい繰り返しである。また、情動としてはそれほど強くないが、ある特定の音に対して決まったように笑うというのもここに入れておく。第一の場合をいわば静的な一体化とするなら、これは動的な一体化と言えるかもしれない。また、あるとめどない感じがあり、時間的な始まりと終わりが明確ではなく、円環的な時間の流れになっていると言える。また、受容が固定化しているという面もあり、喜びの情動の表出ではあるが、この場面でのみかかわり合いを持とうとするのは、かかわり合い自体を固定化させてしまう可能性がある。
なお、強い情動には、不快な泣きというものもあり、音自体が不快なものだったり、大きすぎたり、また、嫌いな音楽だったりする場合もある。この時は、その人自身が一体化を強く拒否しているのであり、泣くことで受容も拒否されるので、円環的な時間の経過というものもない。
第三にあげられるのは、予測やその確認を通して音を受容する場合である。これは、自らは運動を起こすわけではないが、ある音の繰り返しを聞きながら次の音の出現の予測を立てて期待し、予測の通りであることを確かめて納得したり、あるいは結果がその予測とずれていたことの面白さなどを感じるというものである。これは、音自体の面白さに固定的受け身的に反応しているのではなく、自らの予測に基づいた面白さであり、より能動的な受容といえるだろう。また、時間に関しても予測と確認によって始めと終わりを持った区切りがもたらされ始めているということができる。働きかけとしては、大きい音よりもむしろ小さな音で、予測が立てられやすいような間を置いたリズムで音を出す必要がある。単調な繰り返しでは、予測や確認がしだいに不明確になってしまうだろう。
ところで、ある音から予測する結果は、必ずしも音である必要はない。ある音に続いて音以外の別のできごとが起こったりするのでもかまわない。例えば声をかけてから口を触るなどの働きかけは、これにあたるといえよう。そして、こういう働きかけにおいても、その働きかけの間に留意しなければならない。また、働きかけにおいては、音に続いて別の刺激を出す場合でも音を伴うのが自然であるし、逆に、一般に日常生活全般を含めて何らかの働きかけを行う時にはその働きかけに対する予測が起こるように、あらかじめ声をかけるのが自然であるということも言える。
こうした予測と確認は、同じ関係が繰り返されると固定化しやすいという側面を持っている。そのため、日常生活の中では、そうしたある予測と確認の関係の固定化が特に起こりやすいが、新たな展開の可能性を作り出すことができるように留意しておく必要がある。
第四にあげられるのは、自分自身の運動によって起こした音を受容するという場合である。これには、すでに述べたように自分自身の体から発せられる音と、外界の対象物に働きかけることによって得られる音とに分けられる。
自分自身の運動によって発する音の始まりは、呼吸である。呼吸は普通はかすかな息の音だが、時にはぜいぜいとした音が混じることもある。呼吸は、意図するしないにかかわらず起こっているものではあるが、意図的な調節の及ぶものでもある。自分の呼吸の音を受容しているかどうかについては、判断する手がかりは非常に限られるが、ちょうど、深く落ち着いた呼吸の音に対して第一の場合に見られるような注意を集中した表情に出会うことがある。言わば、意図と無意図の境目にあるといってもよいだろう。
呼吸の音よりももっと意図的な音が声である。呼吸にのせてかすかに喉を震わせて出す声からしっかりと発声されるものまで様々であるが、発せられた声は誰よりもまずその人自身によって受容されているのである。また、声は部屋の大きさなどでその響きが変わったりするが、大きな声をよく出している人(このような人の場合まったく寝たきりの状態というわけではないが)の中にはそうした響きの違いを聞き分けているかのように見える場合もあったりする。
発声ほど音の質を自在に調節することはできないが、舌をならす、歯ぎしりをするなども自分自身の体から作り出した音の受容としてはよく見られるものである。ただし・声に比べると触覚的な実感の意味が大きいといえる。
外界の対象物に対して働きかけることによって得られる音については、音の原因となる運動と結果の関係がより直接的か間接的かという度合いで区別していくことができる。例えばたたいて音を出すというような場合、関係はより直接的であるが、教材を操作して音楽を鳴らすなどにおいては関係が間接的と言える。また、教材の操作については、教材の構造によっても関係の直接性の度合いは左右されるが、音の性質によっても左右される。すなわち、運動のリズムに合うような音(例えばチャイム)は関係がより直接的あるが、オルゴールなどになると関係がより間接的になり、先に述べたように関係が消えてしまうこともある。
第五にあげられるのは、受容された音に合わせて運動を起こす場合である。これは音楽などのようにリズムを持ったものに対して首を振ったり手を動かしたり物をたたいたりするというようなかたちで起こるものである。音楽に合わせるには高度な調節が要求されるが、必ずしもリズムに正確に合っていなくてもその人自身のリズムで合わせようとしている場合も見られる。
(2)耳の受容と姿勢
耳の受容は姿勢の安定ということと関係がある。仰向けの姿勢の場合、姿勢は安定しているため、耳の受容はつねに開かれていると言えるが、坐位においては、その姿勢が安定しているかどうかが大きな意味を持ってくるのである。耳の受容を円滑にする安定には、(1)のところで述べた第一と第二の場合のような静的受容をもたらしうるような安定と、運動を起こしても姿勢が不安定にならず運動を起こしながら耳で受容するという(1)における第三の場合以降の受容を可能にするような安定とがある。多様な坐位のそれぞれの姿勢でこの二つの安定が問題になり、また、口の運動ではくずれないが手の運動ではくずれるというように起こす運動によってもいずれの安定であるかの区別は違ってくるといえる。したがって、どのようなかたちの坐位をとっていて、どのような運動について、いずれの安定があるのかについて見ていくことが、その人の音の受容を理解していく上で重要になってくると考えられるのである。
例えば、机に肘をついて体を起こし、首を後ろの関節の端で止めるという安定した姿勢をとっているとすると、この姿勢でまず前者の安定は得られていると考えられ、ここで静的な受容の起こる可能性が大きいと言える。しかし、手を動かそうとするとこの姿勢を維持できない、つまり後者の安定が得られていないとすれば、運動の中での受容は円滑にはいかないということになる。ところが、この姿勢でも口の運動が可能であって、例えばかんでスイッチを入れて音を鳴らすというようなことができたりするのであれば、この時には後者の安定が成立しているということができるのである。
坐位といっても姿勢のかたちは多様であり、また、一人一人非常に個性的であって、どの身体部位のどんな運動がいずれの姿勢で可能であるかということも一人一人違っているため、細かな類型化はできないが、耳の受容を考えるにあたっては、姿勢との関係について着目しておく必要があるのである。
3.口とその周辺、及び首
口は、摂食の器官として考えられることが多く、感覚としては舌の味覚を、運動としては食べることに関する運動を考えることが多い。しかし、口はまた感覚の器官であり、また、外界に働きかけていく器官である。ことに初期においてはその役割はきわめて大きい。そこで、ここでは、口やその周辺について、触覚器官としての役割や外界へ働きかけていく器官としての役割を中心にしながら、摂食や味覚の問題にも触れながら考察していきたい。また、口やその周辺の運動に密接なかかわりを持つ首の問題も合わせて見ていくことにする。なおその際、耳の場合と同様、まず、仰向けの姿勢と上体を起こした姿勢の両者に共通する問題から考察した後に、姿勢が変わることによって起こる問題について考察していきたい。
(1)口の4層構造
口は、中島(1984)によれば、「@唇、口のまわり、頬を含めた口の外側と、A二つの顎によって支えられている歯ぐき及び歯と、B舌」の3層構造と考えることができ、さらに、これに「口腔全体をもう一つ考えれば4層構造」と見なすことができる。
まず、唇、口のまわり、頬を含めた口の外側について見ることにしたい。こうした口の外側の触覚の運動を伴わない受動的触覚(2)としての側面について見ると、まず顕著なことは非常に敏感であるということである。どのような刺激をどのようなタイミングで提示するかということや一人一人の感じ方の違いでその刺激がどのように意味づけられるかは異なるが、深い注意の集中や喜びなどにつながることもあれば、不快を引き起こすこともある。
唇については、よだれが重要な潤滑油のような役割を果たしていることが重要である。よだれは、消化液の一種と考えられているが、物との接触を滑らかにし、受け止めやすくしているのである。空気が乾燥していたりして唇がかさかさになったりしている場合などは、滑らかな接触が得られず、唇やそのまわりの感じ方に影響を与えたりする。また、食物の摂取を鼻から管を通して行っているような場合、唇が極端に乾いたりしていることもある。
提示するものとしては、風船やゴム手袋、人の指など柔らかいもの、木の棒など硬くて暖かみのあるもの、金属など硬くて冷たいものなど様々なものが考えられる。柔らかいものの方が抵抗は少ないが、かえって硬いものの方が興味を引く場合もあったりする。無反応に見えるような人たちが、このような細かな区別をしているというとことは、区別していることを表現する手段も少ないため、気づかれにくいが、表情の変化や体の他の部分に見られる運動の中に、こうした区別の表現を見ることができる。
深い注意の集中や喜びなどが生まれる場合に大切なことは、それが単に刺激そのものから生まれるのではなく、予測や確認といった主体の意識作用の過程の中で意味づけられるということである。したがって、提示する対象の持つ触覚的実感の内容も問題であるが、あるリズムをもって、しかも単調な反復ではなく、予測や確認を引き起こしうる語りかけのようなタイミングで提示することが大切となる。もちろん実際にその提示の前や提示に合わせて声をかけてそのリズムをよりつかみやすくした方がよいことは言うまでもない。
このような細かな区別が存在することや、注意の集中、喜びなどが生まれるということを見ると、もはや明らかなことであるが、こうした反応が決して反射的なものではないということである。唇には、口唇探索反射や吸畷反射などがあったりするため、ほとんど無反応に見えるような人が唇への刺激で、ある反応を起こしたりすると意図的なプロセスの介在しない反射ととらえられたりすることがあるのである。
次に、口の外側の部分の能動的触覚としての側面について見てみたい。これらの部分自体は運動しないので、これらに能動的触覚としての運動をもたらすのは、首の運動である。首の運動には、左右の回転運動と、前後に傾けたり起こしたりする運動、左右に傾けたり起こしたりする運動があるわけであるが、触覚的な確かめの運動として見られるものは、首の左右の回転運動によって頬や唇で物に触るというものが中心となる。首の前後、あるいは左右に傾けたり起こしたりする運動は、左右の回転運動の背後にあって、安定の基盤を提供しているのである。また、下顎によって唇ではさむようにして触る、あるいは触って吸うというものもあるが、これはそのままくわえこむことにつながるので、口腔全体のところで問題にすることにしたい。
左右の首の回転運動によって頬や唇で触ろうとする確かめには、その物の感触だけでなく形も関係してくる。未分化ながら受動的触覚における点的な触り方から、線的な触り方になってきてその物の形状に合ったような空間的な確かめを伴った触り方というものが少しずつ生まれてくるのである。また、受動的な触覚では、触り方のリズムを自ら調節することはできなかったが、ここでは、触るリズムを自分で作り出すことができるのである。
働きかけとしては、体を起こした姿勢で風船を唇に軽く触れるように前に出すと、首を左右に振りながらよだれをたくさん出して唇で触れ、一心に確かめる姿などによく出会うことができる。
次に、頬や唇などによる外界への働きかけについては、基本的には能動的触覚と同じように、首の左右の回転運動に基づくものが中心となるが、首を前後に傾けたり起こしたりする運動を通した働きかけも見られる。
こうした運動の中でまず最初にあげなければならないのは、体を起こした時に、呼吸に伴って起こる首の前後(あるいは上下と呼んだ方がよいかもしれないが)の動きである。これは、耳のところでも述べたが、呼吸に伴って半ば偶然起こった運動で、そのままでは意図的な外界への働きかけとは言いにくいのであるが、例えば、顎の先に図1のような音のなる教材を軽くあて、首の前後の運動に合わせてスイッチが押されるようにすると、息がより深くなって運動が大きくはっきりとしたものになり、そこに自発の芽生えのようなものを見てとることができることがあるのである。
次に、首の左右の回転運動による外界への働きかけを見てみると、これは、能動的触覚として見たものとほとんど同一の運動によるものであるが、上に述べたような教材を頬で押して音を鳴らすということを意図的に行うもので、能動的触覚では関係が直接的だった首の運動(原因)と唇の触刺激(結果)という因果関係が、ここでは、より間接化されて強い予測と確認に支えられた首の運動と聴覚刺激の間の因果関係になっている。また、左右のいずれに首を動かすか、どのくらいの力で動かすかといった選択や調節が、その過程の中に存在していることも重要である。
さらに、首の前後に傾けたり起こしたりする運動によって、図2のような教材の操作が可能となる。これは、左右いずれかの頬で押すことが多いが、顎の先で押すこともある。(なお、これは、姿勢の諸相においても述べたものである)ここにも強い予測と確認や調節が見られることは言うまでもない。
食事の時にも食べ物をいきなり口の中に入れてしまうのではなく、口の周りに触れてあげることで、食べ物についての予測が生まれ、さらに上述したような首の前後や左右の運動によって口の位置を調節し、口を開くというようなことが起こり、より自発的な食べ方となると言える。
次に、口の4層構造の第2番目である歯と歯ぐきについて見ることにする。
まず、歯と歯ぐきを受動的な触覚としての側面から見てみると、歯は、微妙な感触を区別するものではなく、受動的な触覚としての性格は小さいといえるが、振動刺激を受け止めることができるため、歯を固い物でトントンとリズムをもってたたいてあげる、あるいは歯をやはり固い物でこするような働きかけをすると、じっとその刺激に注意を集中させるというようなことが起こるということをあげることができる。
また、歯ぐきは、感触を受け止めることのできる部分であるが、普通は外部から触ることが少ないので、触るような働きかけをこちらからすることは少ないが、自ら手に持った適当な物を歯ぐきにこすりつけるというようなことが見られることから、触覚として意味があることがわかるといえる。
歯と歯ぐきの起こす運動は、顎の運動による噛むというものがまずあげられる。噛むという運動は、食べ物を噛みくだいてのみこむ時のような口の使い方が起こっていない場合でも見られるものであり、上下の歯の間に我々の指やビニールのホース、木の棒などを置くと、ぐっと強い力で噛み続けることや、噛んでは離すということを繰り返すということが起こったりする。提示する物は食べ物以外は安全への配慮から噛み切ることのできないものが多いわけであるが、噛み切る場面としては自分で口に運んだあずきなど噛んで粉々にするというようなものが見られる。
こうした噛む運動に対して図3のような教材を提示すると、噛むことによって音を鳴らすという新しい行動を引き出すことができる場合がある。上述したような噛むという運動にも多かれ少なかれ音が伴っているので、噛むことと音の関係の理解はすでにあると考えられるが、直接対象を噛む音に比べるとその関係はより間接的になっていると言えるだろう。
また、噛む運動とは別に、板のふちや風船など様々な物に、首の左右の回転運動によって歯をこすりつけるという運動も起こることがある。これにも、素材によって様々な音を伴うことが多い。
こうした運動は、噛むことによって様々な素材の硬さを確かめるという外界を受容する感覚としての側面(これも能動的触覚の一種と考えてよいだろう)と、対象に力を加え、変形させるという外界への働きかけの側面を持っている。
こうした歯の運動の外界の受容としての側面について見てみると、まず、噛むという運動については、固さの受容の一つの原点と考えることができる。固さの受容は、一つは体の一部を対象に押しつけた時の抵抗感から得られるもので、背中や唇など全身の触覚でも区別されているものであるが、歯の場合は、体の部分と部分で二つの拮抗する力によって、はさみこみ、さらに砕くことの中で得られる抵抗感であり、対象物の実体性の理解の基礎になると考えられる。
また、歯をこすりつける運動は、唇とその周辺の能動的な受容と類似したものであり、歯そのものは対象の表面の感触を受容することはできないのだが、歯ぐきに伝達される抵抗や振動を通して対象の表面の状態が受容される。また、皮膚における接触に比べると、その固さのために接触の衝撃が強くなっており、生じる実感にも違いが生まれているといえよう。
外界への働きかけとしての側面について見てみると、噛んだり噛み切ったりするという運動は、固い物や噛み切れない物の場合、強い力を必要とするため、その運動には強い運動感覚を通した実感が伴うことや、対象をしっかりと捕捉しているので運動を起こしやすいこと、噛み切れる場合には対象に明確な変形を与えるという意味で結果がはっきりしていることなど、予測と確認に支えられた意図性の高い運動となる条件が備わっているということが言える。噛んで教材を操作して音を出す場合の因果関係の理解もこうした噛むという運動の強い意図性によってより成立しやすくなっているということができよう。
歯をこすりつける運動については、噛む運動のように強い力は必要ではなく、それに伴う強い力の実感は伴わず、唇を左右に動かす運動に似通っているわけだが、こすりつけた音を立てることが確実にでき、唇などの場合以上に働きかけの結果の確かめが聴覚でも行われていると考えられる。
なお、こうした歯の働きは、食事の場面で言う咀嚼とは違っている。咀噛と言う場合は、単に噛んだりつぶしたりするだけでなく、前歯でかみ切った後で奥に運び少しずつ奥歯にのせてつぶして行くという舌の運動や顎の運動を複雑に組み合わせて起こっているもので、歯だけで営まれているのではない。むしろ、歯は、まず、食物であるかどうかにはかかわらず、外界の対象物へ働きかけていく役割を持っていると言えるのである。言わば、対象を受け止め働きかけていく、という働きが、食べるという行為に後で組み込まれていくと考えることができるのである。
次に第3の層として舌について見てみたい。
舌は、通常は口の中にあるため、自ら運動を起こさずに受動的に触られるということは、まずないといってよい。したがって受動的感覚として外界を受容することは少ないといえるが、働きかけとしては、口が開いていたり唇の間から舌の先がのぞいているような時に舌を指や柔らかい物などで触ってあげることが、外界への注意の集中を呼び起こしたりすることがある。
能動的な触覚としての舌の役割は、口腔内に入った物をなめる、舌を突き出してなめる、舌を突き出して首の運動によってなめるなどがあげられる。感じとっているものは、まず、物の感触であるが、首の運動によってなめるような場合、唇のところでも述べたように物の形も関係していると考えられる。
舌による外界への働きかけについては、通常では、食事の際に見られる運動が主であり、外界への働きかけの器官と見ることはほとんどないが、タッチセンサーを用いた図4のような教材において、舌を突き出すという運動が外界への働きかけの役割を担うようになることがある。
ところで、舌の運動として、外界の働きかけではないが、自己刺激的な運動をあげることができる。口の中に唾液をためてグチュグチュと音を立てるのである。触覚的な受容が中心になっていると考えられるが、聴覚的な受容も起こっていると考えられる。
味覚と食べる行為の側面から舌の問題を次に見ることにする。
味覚については、受動的に受容することも可能であるが、実際には味覚は味わうという動きを伴った感覚として働いている。また、味覚は、味の四面体と言われるようにしおからい、あまい、すっぱい、にがいの4つの基本的な質から構成されているとされるが、非常に細かな区別が可能な感覚で、それぞれの質の程度だけでなくそれぞれの総合された多様な味についての区別がされていると考えられる。障害がきわめて重い人の場合、その区別が表現されにくいためその事実に気づかれにくいことがあるが、食べ物の拒否が上手になるにつれ、同じような食べ物であっても微妙な味の変化が区別されていることがはっきりしてくる。
また、味覚は、臭覚と密接に関係していることが言われており(テレンバッハ、1980)、味の区別は、匂いも合わせてきわめて多様な物について細かな区別がなされていることが明らかになる。
食べることの中での舌の役割については、歯のところで述べたように、咀嚼というものが起こっていない段階では、顎の運動によって口蓋との間で柔らかい食べ物を押しつぶしたり、前後運動によって食べ物を奥の方に移動させたり口から押し出すなどの役割が見られる。また、咀嚼は、こうした舌の運動が前後左右に起こって可能になるものであるが、ある食べ物の固い部分がしだいに少なくなっていくことを確かめながら行う息の長い運動であって、単に舌の運動だけの問題ではなく、口腔内における対象の部分─全体の関係や空間的関係が何らかのかたちで意図的に構成されていることが前提となっていることに留意しなければならない。
最後に、第4の層として口腔全体について見ていきたい。
口腔全体というのは、ここでは、歯と歯ぐき、舌、口蓋によって囲まれた部分から喉にかけての空洞の部分を指しているものとする。働きとしては、個々の部位の運動や感覚ではなく、口腔全体で、対象物を包み込んで保持したり、噛むような顎の運動を起こしながら喉の方へ送って飲み込むというような活動が見られる。なお、飲み込む場合には、対象物は食物や飲み物になるが、包み込む場合でも安全の配慮から食物や飲み物以外は難しい。ただし、食物以外でも口の中に頬ばるということは少ないながらもありうる。
包み込んで保持するという働きについて見てみると、これは、外界への働きかけの一種であるが、次のような受容にもつながっている。すなわち、まず、漠然とした印象のようなものであるがその対象物の全体的な量、あるいは大きさを受容しているということである。口の他の3つの層では対象の部分について捕らえられているだけであるが、ここでは、対象の全体を包み込むことによって受容していると考えられるのである。
また、包み込んでから喉の方へと送り飲み込むということについて見てみると、受容について次のようなことが言える。まず、唇や歯、舌などで起こっている受容には、唾液が伴うことがほとんどで、そのまま外に流れ出してしまう場合もあるが、対象に触れた後、その唾液を飲み込むということがよく見られる。これは、外界を確かめる働きに一区切りをつけ、納得するという意味を持っていると見なすことができる。受容とは単にある局所的な感覚によって刺激が受容されるということではなく、こうしたある一連の経過の中で最終的に納得されるものであり、まさに外界を取り込むことであると考えられるのである。
食べ物を飲み込むということもこうした外界の受容との関係で考えていくことが必要であろう。食べ物は、外界の受容が意味を取り込むのにたいして実際に物質を取り込むということにおいては区別されるものであるが、味わうということを考える時、それが単に味覚の問題ではなく、こうした一連の経過の中で初めて意味を持っていることがわかる。すなわち、味わうという行為は、単に舌の味覚受容器に感覚が生じているということではなく、その感覚を受容しながらその食物を通過させ、最終的に飲み込むということで初めて完結するものであるからである。
このように考えるとこうした飲み込むという運動は反射的なものではなく非常に意図的な運動であることが、明らかである。そして、一見飲み込みが下手に見える障害のきわめて重い人にとって、確かに、舌や喉の使い方によって巧みになっていくものであると言うことはできるが、一見下手に見えるその飲み込み方の中に、その人自身の味わい方というものがあると考えるべきであろう。例えば、自然と喉に流れ込んでいくような飲み込み方をしたり、口にためたりする人の場合、われわれなどの場合に見られる素速い飲み込みよりも少しずつ味わいながら流れ込むように飲み込むことを好んでいるというふうに考えることもできるのである。
(2)口と姿勢
以上述べてきたような口の様々な働きと姿勢とはどのような関係があるのだろうか。仰向けの姿勢においては、その姿勢の安定が口やその周辺による外界への働きかけや外界の受容の基盤を与えているという関係が際立っており、口の働きと姿勢との複雑な相互関係は見えにくいが、坐位においては口の働きは姿勢と複雑な関係を形成していることが見えてくる。そこで、ここでは、坐位における口と姿勢の相互関係をまとめることにしたい。
まず第一にあげられるのは、次のようなものである。すなわち、口における外界の受容や外界への働きかけは、ある安定した姿勢のもとに起こる。したがって、後ろや前に寄りかかることも含めて、上体を起こした状態である安定した姿勢が作られていることが、そうした受容や働きかけの起こる条件となる。一方、こうした外界の受容や働きかけは、ある安定した姿勢を作ることに目的を与えるもので、作られた姿勢をより一層安定させたり、保持させたりすることになるのである。
受動的な触覚においては、例えば、まだ、首をまっすぐに起こすことがむずかしい人の場合に、安定した姿勢として後ろに傾けて止める(首の後ろの関節の端で止める)という姿勢をとることがあるが、この姿勢がとられている時の口への働きかけが受け止められやすく、また、こうした口への働きかけがこの姿勢をとることに意味を与えるのである。
また、能動的な触覚や外界への働きかけにおいては、例えば、首を前傾して首の左右の回転運動によって風船をなめるというような場合、あらかじめ、その運動を起こすことができるように肘で上体を支えて安定した姿勢を作っていることが条件となるが、反対に、こうした運動を通して肘で上体を支えることの意味が生まれ、さらに、その支えも首の運動に応じた調節を行うようになってその姿勢はいっそう安定し柔軟性を増すのである。
また、同じく風船をなめる場合でも、最初は机によりかかる姿勢をしていて、風船が頬に触るなどしてその存在に気づくと、その風船をなめるために肘に力を入れながらその風船に沿って上体を起こしてきて新しい姿勢を作るというものがある。これは、上の例に比べるとよりいっそう口の活動が姿勢を作っているといえよう。
なお、同じような例として進(1989)による報告がある。そこでは、垂直に立った角柱をなめることによって体を起こす事例が紹介されている。
さらに、口と姿勢の関係として第二に上げられるものとして、口が受容することによって得られた外界の認知を基にして姿勢を作っていくという関係がある。すなわち、進(1989)によれば、「机上をなめまわし両手を支点として自力で体を起こし姿勢が保てるようになった」子どもについて、「底面に対して体を垂直に立てるためには、」「底面そのものについての認知が必要である」ということが考察されている。また、上に述べた角柱をなめる例についても、なめることによって体が起きただけではなく、そのことを通して「体を垂直に立てるために」必要な「垂直軸、垂直面の認知」が行われていると述べられている。
口と姿勢の関係として今一つつけくわえておきたい。それは、上体のバランスを取るために舌に力を入れるというものである。これは、背すじをぐっと後ろにそらす時に、その後ろに向かう運動と反対に舌を前に突き出すというものである。実際には舌だけに力を入れるのではなく、手や足などもバランスを取るための運動を起こすわけで、舌を突き出すことだけで背すじを後ろにそらすことのバランスがとれるわけではないが、口と姿勢の見逃すことのできない関係である。
4.足
足と手は、すでに立ち上がって歩いている人間にとってははっきりと機能が分化され、足は歩くための器官であって、対象の操作や触覚の器官としての手よりも低い位置を与えられている。しかし、人間行動の成り立ちの初期にあっては、足は触覚の器官であり外界の対象を操作する器官である。しかも、仰向けの状態にあっては、胸の前あたりに引き込まれている手に比べると、むしろ足の方が早くから外界を受け止め外界に働きかけていきやすいということができる。
足については、仰向けと体を起こした姿勢とでその働きに違いが見られるのでそれぞれの姿勢との関連で見ていくことにする。
(1)仰向けの姿勢と足
仰向けの姿勢での足の状態は、足だけでなく全身の動きが少ないような状態、足を積極的に動かす状態、さらに、仰向けの姿勢のまま足を使って移動していく状態などがあげられる。そこでここではその3つの状態に分けてそれぞれ考察していくことにする。
最初に、全身の動きが少ないような状態について述べたい。足の受動的な触覚の側面から見ていくと、受け止めやすい部分としてあげられるのは、膝の裏側と足の裏側である。あまり運動を起こすことなく仰向けの姿勢が長い間続いているような場合、これらの部分は物に触れることが少なく、そのために敏感になっており、ある場合には過敏になっていることもあるが、適切な物とタイミングで触れることによってその刺激が予測や確認を呼び、わかりやすいものとして受け止められた時、全身の運動の停止やまばたきなどを伴った深い注意の集中がもたらされたり、反対にそのことによって、足だけでなく、体をねじるなどの体の他の部分の自発的な運動が起こったりする。
そのような足の裏への働きかけとしては、膝を立てさせ足首をつかんで畳やじゅうたんなどに軽くこすりつけてあげる、あるいは、膝の下に座布団や図5のような膝立て台を入れて足の裏が床面に触れるようにするなどがある。これは、単に触刺激を与えるだけでなく、自ら能動的に足の裏で触るためのきっかけを作り出すための働きかけでもある。また、足の小さな運動で操作できるような教材を足の裏のところに提示することで、ふだんは起こりにくい足による外界への働きかけを引き出すこともできる。
次に足の運動が起こっている状態について見てみると、足の運動は、足全体の屈伸運動によって蹴るような運動が中心となる。この運動では、足の裏を床につけるということはなく、床や畳、布団などでかかとや足の外側面などが擦れる感触を楽しむというようなことが起こっている。これは、外界への働きかけであるとともに一種の能動的な触覚とも言えるものである。働きかけとしては、足の運動に合わせて足の裏で蹴ると音のなるような教材を様々に工夫することができる。また、足の裏の触刺激の受容を高めるために、前と同様に足の裏を触るなどすることも大切である。
足を使って仰向けのままずって移動したりするようなことができるようになっている場合について見てみると、中には、まったく対象を操作する手の動きのままのように物を両足ではさんだり移動する方向を足でさぐったりするなどの使い方をする人に出会ったりする場合があり、そこには、多くの経過が存在していたことをうかがわせるが、ここでは、簡単に、基本的なことについて述べたい。
まず、あげられることは、足の裏を積極的に床の面につけることができるようになっているということである。これは、膝関節を曲げ股関節を適度にしめて膝を床からほぼ垂直になるように立て、さらに足関節を調節することによって可能になるものでそれぞれの関節の動きの協応が必要とされる。
感覚の面から言えば、足の裏がなでる、たどるといったような微妙な感覚の働きを示すようになってきて、外界への働きかけと一体化した感触を確かめるというようなことだけでなく、あらかじめ運動の先取りするような空間的な関係を確かめる感覚の使い方を行うようになってくる。
また、運動の面から言えば、外界の状況に対応した方向づけが可能な直線的な運動が見られるようになってくる。
働きかけとしては、様々な空間関係を処理する教材を提示することが可能となるが、本稿の考察の範囲を越えるので別の機会に譲ることとする。
(2)坐位の姿勢と足
体を起こすことによって足は、体を支える役割を新たに担うこととなる。この時、床の上で足を投げ出すようにあるいはあぐらで坐位をとるか、椅子などに腰をかけるかで足の役割は異なってくる。床の上の坐位の場合、椅子による坐位に比べると床に接する面積は広いので安定しやすいということがあげられるが、足の裏が床につかないこと、股関節や膝関節、足関節(足首の関節)が動きにくい状態に置かれることなどから、足の裏における受容や足全体の運動は制約を受けることにもなる。一方、椅子による坐位の場合、接触する面は狭くなるが、足の裏が床につきやすくなり足の裏での受容が起こること、上記の足の関節の動きに自然であることの他に、体を支えるために足の裏で踏みしめるということが起こりやすくなる。このためわれわれは、椅子による坐位を重視してきた。したがって、ここでは、椅子による坐位における足の問題について述べていくことにする。
椅子による坐位を取り始めの頃は、足の裏をしっかりと踏みしめてつくということは起こらず、股関節をゆるめ足の外側の側面やつま先の方だけを床に軽くのせるなどして、足の裏全体やかかとの下の方などかがつかないようにしている場合が多い。また人によっては、足全体に力を入れて曲げ、椅子の下に引き込むようにする場合もある。それが、しだいに足の裏全体を床につけ足全体に力を入れて踏みしめるというようなことが起こって、足が体を積極的に支えるようになってくる。そして、さらに上体の安定がよくなってくるにつれ、足を浮かせて床を蹴ったり、床の上を滑らせるような動きができるようになってくるのである・こうした足のつき方の変化に沿いながら、足の問題について見ていきたい。
まず、足を踏みしめる以前の足の状態について見てみると、足の裏の触覚について言えば、仰向けの状態であまり物に触れることなく敏感になっている場合、できるだけ足の裏はつかないでおきたいと考えられるし、また、単に触れるだけでなく、体の重さが加わってくるだけ足の裏をつくことの抵抗は強くなり、痛みのような感じさえ生ずる場合があると考えられるのである。したがって、働きかけとしては、足の裏によく触ったり、床に軽くこすりつけたり、軽くトントンと踏みならすようにして、床との接触に慣れるようにしてあげることが大切である。
能動的な触覚や外界への働きかけを可能にする足の動きについて見てみると、仰向けの状態では姿勢が足の動きに制約を加えることはなかったが、坐位をとることによって足の動きは制約を受け、自発的に運動を起こすことは難しくなっているため、そうした能動的な受容や働きかけは起こりにくくなっている。したがって働きかけとしては、小さな動きで受容や働きかけが起こるようなものを足の下に置くなどが考えられる。例えば、あずきなどを足の下に置くことで能動的な受容が起こりやすくなったり、図6のような教材を足の下に入れることにより小さな動きで音をならしたりするというような外界への働きかけが起こりやすくなったりするのである。
次に、しだいに足の裏をつくようになっていくことの問題について考えてみたい。足の裏をつかない状況からしだいに足の裏をつけて踏みしめるようになるための働きかけとしては、今述べたようなことによって足の受容や運動を高めていくことに加えて、開いた脚をしめて脚の裏を床につけて体重が足にかかるようにしてあげることなどが大切となるが、足の裏の踏みしめには、足自体の問題だけでなく、体全体のバランスの作り方について考えていく必要がある。足の裏の踏みしめにつながる上体の姿勢は、前傾した上体を肘をつっぱることによって起こしていく、あるいはその延長線上で肘をつかなくても背すじを伸ばして上体を起こすという姿勢である。こうした姿勢がとられる時、足の裏は単に前傾しているために体重がかかるというのではなく、積極的に足全体に力を入れて上体を起こす運動を支えるのである。つまり、足の踏みしめは上体を起こそうとする活動の中から生まれてくるといえるのである。
また、足の踏みしめは、上半身の活動が活発になってくるにつれ、単に上体が起きることだけでなく、運動に応じて柔軟に変化する上体のバランスに対応するようになる。例えば、右足と左足との踏みしめ方が違ってきたり、さらに足の裏も、足の指の付け根の部分の親指よりの部分と小指よりの部分、かかとの下の部分などの踏みしめ方が分化してきたりするのである。
こうした姿勢の保持という役割を持った足の踏みしめが起こっている時、足の裏はそこに生じている触刺激だけに基づいて床を単なる物として受容しているのではなく、ぐっと踏み込んだことから得られる抵抗感から床を揺るがない基底面として受容するようになる。これは、目に見える運動を伴っていないため受動的な受容に見えるかもしれないが、力を入れるという自発的な過程に基づいた能動的な受容であるということができる。そして、また、こうした足の踏みしめは、外界への働きかけにほかならないと言えよう。
しだいに、上体の姿勢の保持が巧みになってくるにつれ足が姿勢の保持の役割から解放されるようになると、足の能動的な触刺激の受容や外界への働きかけが目立ってくるようになる。外界への働きかけとしては、蹴る、床の上を滑らせる、物を引き寄せるあるいは押しやるなど、働きかけ方に応じて多様な姿を引き出すことができる。そして能動的な触覚もそうした外界への働きかけとともにその探索する範囲が広くなっていく。
ただし、こうした多様な足の動きが起こるためには、上半身のバランスの取り方が非常に柔軟になっている必要があり、また、それに応じた手の運動も高められていることが前提となる。したがって、こうした足の問題は、本稿が対象とする範囲を越えることとなるので、詳述は別の機会に譲ることにする。
5.手
手については、仰向け、横向き、坐位の3つの姿勢における手の問題について考えたい。
なお、手による対象の操作に関する詳細な議論は別の機会に譲ることにする。
(1)仰向けの姿勢と手
仰向けで寝たきりの状態における手の状態は、ほとんど動きのない状態、自分の顔などを触る状態、物に働きかける状態をあげることができる。
ほとんど手の働きのない状態では、手は、脇をしめ肘をくの字に曲げた状態で胸の横あたりの床の上に置いていたり、あるいは、肘を伸ばして体の横に置いていたりする。
手の動きがほとんど見られないような状況では、手は軽く握られていることが多く・受容を自ら閉ざしているといえる。働きかけとしては、触りやすいものによって手の平あるいは手の甲に対して働きかけることが考えられる。なお、手の平と手の甲とを比べると、手の甲の方が先に外界を受け止めるということが言える。
一方、外界への働きかけはほとんど起こっていないのであるが、次のようなことがみられる。すなわち、まず、手の動きが見られない場合でも手に力を少しずつ入れていることがあり、その結果手首などをねじってその限界のところで止めているようなことがある。また、背すじをわずかに伸ばしたりねじったりするような運動といっしょに、指に力を入れて握ったり、伸ばした腕を曲げたりすることもある。こうした場合にはその起こった運動によって結果が起こるような教材を提示することによって外界への働きかけを引き出すことが可能となる。
次に自分の顔などを触る状態について見てみたい。これには、手と手を組む、手の甲で顔をこするようにして触る、手を口に入れる、髪に触る、などが上げられる。これは、自分の体を触覚的に確かめるという意味と、自分の体を一種の外界として対象化し、働きかけるという二つの性格が重なりあったものと言ってよいだろう。
手の動きとしては、脇がしまっていた状態からしだいに脇を開いていく過程の中で、胸から始まって頭の方まで届くようになっていくと考えられる。
こうした自分の体の確かめは、自発性の高いものとして始まり、多様な触り方を試行錯誤的に試みるような動きが見られるが、しだいにパターン化して手の動きが固定化するような場合も起こる。
こうした自分の体の確かめの運動の調節は、どのように行われるのだろうか。まず、触られる側の触覚というのが上げられる。口の周りを触っている自分の手をなめようと待ち受けている口がその手の動きを方向づけているというようにである。だが、しだいに的確に手が伸びるようになっていくのは、自己受容感覚によって感じられる手の運動の実感を通して非常に正確に運動を再現することができるようになるのである。
次に、物への働きかけについて見てみると、握った物を振る、一方の手で握った物をもう一方の手でたたく、握った物を口に持っていく、両手で抱え込んで口に持っていくなどが上げられる。こうした手の運動は、空中で行われるものであるため肩や肘の関節を中心とした円運動になりやすく、そのままでは直線的な運動が生まれる契機がほとんどないと言える。
したがって働きかけとしては、横向きや坐位によって手の動きを面の上での持続的な直線運動につないでいくことのできるようなきっかけを作る必要があると言える。ただし、坐位においては、手の運動は後で見るように上体の保持の役割を担うため、運動の範囲が制限されてしまうことがある。その意味ではこうした仰向けの姿勢での自由な手の運動は一定の意味を持っていると言える。
(2)横向きの姿勢と手
横向きの姿勢と手の運動については、進(1990)によれば、仰向けや坐位に比べて操作活動の可能性が高く、仰向けの姿勢で見られる緊張が取れ、手が伸ばしやすくなるとされている。
実際の運動としては、床の上に置かれた様々な教材や対象物に対して、たたく、つかんで床にぶつけるといった瞬発的な運動から、さらにはもっと持続的な滑らせる、引き寄せるなどの運動も起こってくる。こうした運動は、仰向けの場合には起こりにくかった面の上での運動になっており、何の抵抗もない空中での運動と違い、面にぶつかったつ面に沿ったりするようなかたちで面に規制を受けた運動となっているが、そのことが、運動の背景としての面というものを生み出し、それによって運動に直線性がもたらされるきっかけが与えられたりするのである。
(3)坐位の姿勢と手
坐位を取ることによって、手は、物に働きかけるという働きの他に、上体を保持する、上体のバランスを取るというような働きを合わせもつようになる。
体を保持する働きについて見てみると、机などにつく肘の役割が重要である。前に机などがなくて椅子だけでは一人で座ることができず、仰向けの上体でも手の動きがほとんど見られないような人の場合でも、肘を机などにつけてつっぱることによって自分の体を支えることができる。
働きかけとしては、脇を締めて肘が肩幅かそれより少し広いくらいにつくようにし、あまり開き過ぎてどちらかの肩がねじれて前に突き出してこないようにする必要がある。また、うまく顔を上げることのできないような場合には、肘の高さを変えることでちょうど頭をあげやすい位置を探してあげたりすることも大切である。中には、指を口にくわえることがその肘の安定につながる場合もある。
この肘は、外見上は上体の物理的な支えと見えるかもしれないが、上体を保持したり起こしたりする際には、下向きに机に押しつけるような力を入れており、実際の運動としての体を起こすということに対して「逆」の運動になっており、足などの体の他の部分とともに、バランスを取りながら上体を支えているのである。
仰向けの姿勢で手が比較的活発に動いているような人の場合でも、この肘の支えがないと自ら体を起こしていられない人の場合は、こうした上体を支える役割を手が担うため、手の運動は減少したり、肘を机についたまま肘から先を主として動かすというような制約を受けたりするようになる。
だが、そうした中で少しずつ肘が机から離れても上体を支えることができるようになってくると、手を空中で曲げるあるいは伸ばす、自分の体のある場所につけるなどの新しいバランスの取り方が見られるようになってくる。例えば、後ろに倒れそうになる体を前に戻すために、肘を引きつけたり指を口にくわえたりすることを上げることができる。このような場合も、実際の運動と「逆」の運動という関係が成り立ってバランスがとれているのである。
また、バランスを取る手の働きは、手の運動が活発になってくるのにつれもっと柔軟なバランスの調節が必要になってくる。そしてここでも実際の一方の手の運動に対してもう一方のバランスを調節する手の動きは「逆」の運動になっているということができる。
次に手の運動について見てみると、手の運動が瞬発的なものからしだいに持続的な調節を伴った直線的な運動へと高次化していく詳細については、稿を改めて整理することにするが、仰向けや横向きの姿勢と比べて坐位での手の運動のもっとも重要な点は、体の前の水平面の上で運動が展開されることである。この水平面がなければ手の運動によって処理される様々な諸関係を基礎づける空間が構成されないし、また、こうした水平面の上で手の運動を通して空間を構成することが、柔軟1生のある安定した坐位を成立させるとも言えるのである。
5.目
ここでは、姿勢とは別に目の問題について整理した後に姿勢との関係について述べることにする。
(1)初期の視覚
中島(1977)によれば、見るについては次のような三つの段階に分けることができる。
まず、「極めて初期の段階では、明暗、光沢、輝きなどものの表面や炎のような刺激が見えやすい」(中島1977)。また、これに湯気のようなものを加えることができる(中島、1990)。
同じ事物でも、静止しているものは見つけにくく、見つめにくい・従って、同じ人や事物でも、それに動きや見え隠れの様相を与えることによって一段と見えやすくなる」(中島1977)。なお、ここで言う動きとは、素早くしかも長い追視を必要とするような移動のことではなく、そのものが浮き出してくるような振動のような動きのことであると考えられる。また、最近の新生児の研究に見られるように、人の顔がある見やすさを持っていることを示すような事例にも実践的に出会ったこともあるが、その理由については明らかではない。
次に、第2の段階として、「探し、見つけ、見比べる目の使い方と、それに基づいた確かめるための手の動かし方が成立するまでの過程であり、色や形の弁別はもとより、事物の輪郭線が浮き出し、外界をかたちとしてとらえることが可能となり、刺激の大きさや自分からの距離が確定し、各刺激間の位置関係が明らかとなって、一つのまとまりをもった視覚的世界が構成され、事物を道具として使用することが可能となるまでの段階」があげられる。
さらに第3の段階として、形の分解−組み立て及び構成を通して、視覚的世界に基準が確立し、方向づけ、位置づけ、順序づけられた刺激を操作的に取り扱うことによって、記号操作を可能にするまでの段階」(中島1977)である。
本稿では、まだ手に代表される操作的な運動については問題としていないので、ここで考察の対象になるのは、この第1の段階と第2の段階の始めである。
こうした視覚の3つの段階は、単に視覚の問題をのみ取り上げたものではなく、他の部位の運動との関係の中で高次化していく過程を述べたものである。そのことから、第1段階は、視覚による受容が他の部位の運動にはつながらず、純粋に視覚的な実感といえるものを受容しているものととらえることができる。
障害のきわめて重い人の場合、目は見えていることはわかるのだが、はっきり見ているのかいないのかわからないということがよく言われる。このような場合、対象があるわかりやすい視覚的実感を持っていなければ、たとえ目に映っていてもそれを注視するということは起こらないのである。上の第1段階で示された対象の特徴はこうしたわかりやすい視覚的実感を備えたものと言うことができる。
なお段階が進んでもこうした純粋な視覚的実感の受容は見られ、例えば、縞模様や網目などの連続した模様などから、カレンダーや時計の数字の配列などまで、様々なものがその対象となることがある。
こうした視覚的実感は、少なくとも他の身体部位による物理的な接触を経ない限り、ある実体性を持った対象の属性としてはとらえられないと考えられるのだが、そうした実体性が構成される以前から、あるいはそれと平行して、視覚的実感は、他の感覚的実感と結びついたり、情動と結びついたりすると考えられる。すなわち、音を立てて対象が近づいてくるような時、その音の聴覚的実感と視覚的実感とが関係づけられたり、母親の顔の視覚的実感が喜びと関係づけられたりするのである。
このことから、働きかけとしては、視覚的実感を他の感覚的実感や情動と関係づけやすいように配慮していく必要がある。
次にこうした視覚による受容が運動と関係づけられていくところについて見てみたい。これは、上述した第2の段階の始まるところにあたる。なお、ここでは運動は手の運動として話を進めることとする。したがっていわゆる目と手の協応と言われる事態にあたっている。
意図的な運動は、予測開始─調節─終了─確認という過程を経ると考えられ、予測と調節と確認にそれぞれ感覚が何らかのかたちで関与しているわけだが、視覚的受容が最初に関与するのは予測と確認においてであり、それは、対象の有無や対象の大まかな方向を受容し、予測をもたらして運動のきっかけとなり、その運動の結果を確かめるのである。
視覚は始めから調節には参加するわけではないので、いったん視覚によって対象の存在について予測をすると後は目がそれてしまうというようなことが起こる。このように視覚が運動の調節に参加しにくい理由には、対象の有無や大まかな方向の受容は運動の調節には有効でないことの他に、そのような状況で運動を視覚が受容するのはかえって運動の妨げになったり、また、バランスの調整からいって時にはその手の運動にたいして首は横を向いていた方がよかったりするのである。
このような状況から視覚がしだいに調節に参加するようになるためには、運動の力が抜ける必要がある。瞬発的な運動を息の長い持続的な運動に変えていく必要があるのである。このことによってしだいに視覚は手の運動に「追いつき、同調する」(中島1983)ようになる。
さらに、そのような同調の中から手と目的と間の見比べが起こるようになって視覚が運動の調節に参加するようになるのである。こうした運動は外界を関係づけていくものであるわけであるが、こうした運動の中からしだいに位置関係などが生まれ、予測の内容もそうした外界の諸関係となっていき、運動の「視覚的先取り」(中島1983)をするようになっていくのである。
こうした視覚と手の運動との関係はもっと細かな考察を要するが、すでに本稿の範囲を越えているので別の機会に譲ることにする。
(2)視覚と姿勢
まず、仰向けと横向き、坐位における視覚を比べると、仰向けにおいては、視覚的に受容される外界は、天井とその問のいくつかの対象で、そのままでは非常に限定されるということがある。また、奥行きの知覚の一つの条件としての、対象を遠近に位置づけるための面が存在していないということも上げられる。また、手の運動は胸の前で起こる場合には視覚とは関係づけられにくい。このようなことから、仰向けの姿勢は、視覚にとっては上体を起こした姿勢と比べて様々な不利な条件を持っているといえるだろう。
横向きにおいては、目の前に床面が広がっているところに特徴がある。面を斜め上の位置から見下ろすことに慣れているわれわれにとっては、まったく違った面の容貌が広がっている。また、対象の遠近の位置づけについても、この姿勢の独自の見えがあると思われる。こうした意味はまだ明らかではないが、わざわざ横向きになって物を見るという事例などにこの姿勢の見えの独自の意味があると思われる。
また、手のところで述べたように、横向きにおいては、手の操作が起こりやすくなり、しかも、視覚との関係が生まれやすいということも指摘できる。ただし、手の操作の場が胸の前あたりの場合には見下ろす関係になり、頭のあたりでの場合には見上げる関係になるわけであるが、坐位における手と目の関係につながりやすいのは見下ろす関係になる場合であることも注意しておく必要がある。働きかけとしては、できるだけ下の方から対象物を提示した方がよいと思われる。
坐位をとることによって、視覚が受容する外界は様々な対象が底面の上に奥行きを持って存在する場となる。そうした空間関係をもとに外界が受容されるようになるには、様々な運動の高次化に待たなければならないが、その高次化の条件の一つとして視覚が重要であることは言うまでもない。
また、坐位においては、どのような坐位を作っているかということと視覚が関係する。視覚による受容も他の感覚において見たように、ある安定した姿勢が必要とされるが、視覚の場合、姿勢の不安定は直接視野の動揺につながるので、よりいっそう安定した姿勢が必要となる。したがって口による積極的な運動が起こっている場合などは、視覚による受容はあまり起こっていないと言える。また、対象を追視したり見回したりする場合には、眼球運動だけでなく首の運動にも多くを負うということからも、姿勢の安定が必要となるのである。これは、また、逆に、視覚的受容を行うことが、ある姿勢を作ったり保持したりすることに意味を与え、よりいっそう安定を作り出したりするのである。首を真ん中で止めることの意味は、こうした視覚による受容によっても与えられているということができるだろう。
さらに、(1)で述べたような手の運動と視覚との関係を展開させていくためには、坐位が必要であり、しかも、その手の操作と視覚を協応させていく場としての手もとの空問として、机のような水平面が必要であると考えられる。
おわりに
障害の重い人たちとのかかわり合いの中から学んできた様々なできごとについて、今回は、前回の姿勢に引き続いて様々な体の部分の感覚と運動の働きについて整理した。まだ十分に解明されえていない事柄を、何度も立ち止まりながら書き綴ったため、個々の考察が断片的になってしまい、全体の統一を図ることができなかった。自らの考えを整理するのに精一杯で、いかにも荒削りの論稿とならざるをえなかったことは残念でならないが、他日を期したい。また、感覚と運動の問題と不可分である空間の問題についてまとめることができなかった。これもまた今後の課題である。
註(1)平沢(1984)によれば、ピドスコープ(pedoscope)とは「接地足底投映器」のことで、透明なガラスの板の上に人間を立たせてその足底の接地の状態を下から観察する装置である。ここでは、それを新生児の仰臥位や腹臥位に応用したもので、「大型重心計付ピドスコープ(ANIMA1820)」を使用したとされている。
註(2)ここで受動的触覚という用語を用いたのは、一般的に触覚を区別する際に用いる用語に従ったもので、その触覚器官が運動しているかどうかのみを問題にしたに過ぎない。受動的触覚であってもそこには主体の積極的な構えが存在していることが多く、その意味では決して「受動的」とは言えない。これは以下の記述でも同様である。
引用文献
柴田保之 1989 「体を起こした世界─その1・姿勢の諸相─」
國學院大學教育学研究室紀要第24号
進 一鷹 1989 「人間行動の成り立ちからみた認知過程における触覚の役割」
熊本大学教育実践研究第6号
進 一鷹 1990 「横向きの姿勢と操作活動」
重複障害教育研究会第18回全国大会発表論集
テレンバッハ、H 1980 『味と雰囲気』(宮本忠雄・上田宣子訳) みすず書房
中島昭美 1977 『人間行動の成りたち─重複障害教育の基本的立場から─』
財団法人重複障害教育研究所研究紀要第一巻第二号
中島昭美 1983 「足から手へ、手から目へ─重複障害教育からみた認知の本質」
サイコロジー 1983.3 サイエンス社
中島昭美 1984 「精神についての学び方」
財団法人重複障害教育研究所研究報告書第6号
中島昭美 1990 『昭和59年度うめだあけぼの学園集中講義より・中島昭美講義集』
山口重複障害教育研究会
平沢彌一郎1984 『新しい人体論』 日本放送出版協会