イーヨーの心の世界へ

死の克服と大人への歩みの物語を手がかりに

 

柴田保之

 大江健三郎の短編連作集『新しい人よ眼ざめよ』は、「障害を持つ長男との共生と、ブレイクの詩を読むことで喚起される思いをないあわせて」書いてきた「一連の短編」を編んだものである。そして、その動機は、「妻と弟妹とを加えてわれわれの、これまでの日々と明日への、総体を展望すること」であり、また、「この世界、社会、人間についての、自分の生とかさねての定義集」(注1)を作ることであったとされる。だが、私にとってこの作品は、何よりもまず、イーヨーと呼ばれる障害を持つ青年とその家族の共生の物語として、強い感銘をもたらすものであった。
 今、私は、その作品について何がしかを語る立場に立とうとしているわけだが、さしあたってのよりどころとなるものは、障害を持つ人々との関わり合いの体験のみである。したがって、私は、この作品を障害を持った子供とその家族の共生についての一つの記録としてとらえることとし、特に、イーヨーにとっての「死の意識」と「大人への歩み」に焦点を定めながら、イーヨーの心の世界について論じてみたいと思う。
 ところで、イーヨーの心の世界はある独自性を持った世界である。それは、私たちの世界の尺度を基準にして測れば、欠如や偏移、遅滞などを伴った不完全な世界に見えてくるかもしれない。しかし、一般に、障害というものにつきまとうこうした欠如、偏俺、遅滞などというものは、厳密に言えば、障害を持つ人自体に属するものではなく、社会との接点において、ある標準的なものとの比較の中で、初めて生ずるものにすぎない。障害を持つ人自らの基準に則ってその世界を見ていけば、そこに一つの完結した世界が姿を現してくる。そして、その独自の世界は、私たちの世界への問いを秘めたものだ。したがって、イーヨーの世界を明らかにしていくことは、そのまま私たち自身を問うことにつながることになるだろう。

    (一)

 死に対するイーヨーの理解のしかたは、彼の思考方法の独自性を示すものとして特にわれわれの注意を引く。いったいイーヨーの心に死とはどのように映り、どのような意味をもっているのか。そしてそのようなとらえ方はいかにしてもたらされたのか。イーヨーの心の世界を探る試みを、この問いから始めてみたい。
 イーヨーが、ある強い情動を伴って死を意識するようになったと思われるのは、彼に癲癇の発作が起こり始めてからであるという(注2)。そして、そのことが明らかになった契機は、二つある。
 一つは、ああー音楽界の老大家の死の報道に対して、「あーっ死んでしまいました、あの人は死んでしまった!」と重く深い詠嘆の言葉をあげたということである。
 そして、今一つは、イーヨーが弟妹を脅かすような行為を犯した時に両親が口癖のように、自分たちの死後、弟妹の世話にならねばならぬと言い続けてきた言葉に対して、ある日突然、
「大丈夫ですよ! 僕は死ぬから! 僕はすぐに死にますから、大丈夫ですよ!」と答えたということである。
 このことからまず推察されることは、後者の言葉に見られるように、イーヨーは、癲癇の発作の出現をきっかけに、自らの死というものについて負の感情を伴いつつ認識し始めたということである。そして、そのことと相関的に、実際に起こった他者の死というものに対しても負の感情を伴いながら認識し始めたということが、前者の言葉から読み取れる。
 ところでイーヨーにとって死とは何なのか。死につきまとう様々な感情的含意を取り払ったところでその意味を問えば、イーヨーにとって死とは「不在」ということだと思われる。長期のヨーロッパ旅行に行って不在の父のことをイーヨーは次のように表現した(注3)。
「いいえ、パパは死んでしまいました!死んでしまいましたよ!」
「そうですか、来週の白曜日には帰ってきますか?そのときは帰ってきても、いまパパは死んでしまいましたよ!」この言葉は母親の叱責に対する答えという文脈の印で、父の存在を忌避するという気分に彩られているために、いささか歪められているかもしれないが、現在の日常生活の空間における父の不在がそのまま死を意味することになっているのだ。
 私たちは、永遠に不在であるということでなければ、死とは言わない。したがって、イーヨーの死の理解は、奇異に見える。私たちにとって、感情的な含意の衣を取り去った死とは、例えば、紙の上に引かれた一本の線分によって表現される人生という時の流れの一方の端と、その後にひろがる空白を意味する。これは、私たちが幼いある時期に、時間というものを空間上に置き換えるような「時間の空間化」という認知的な操作を獲得し、その後、その操作がしだいに数十年にわたる長いスパンの時間の認知的な操作へと十分に拡張された結果として、もたらされた認識である。それは、どこからも反論の余地のないきわめて論理的な真実であるように思われる。そして、イーヨーには、このように死を時間軸の上でとらえることが十分にはできていないというふうに言えば、一応の説明にはなるのかもしれない。
 だが、このように空間化して時間をとらえるということは、虚偽ではないけれども、一種の仮構の上に成り立ったものである。なぜなら、時間は、あくまで時間であって空間ではないからだ。私たちは、時間というものを、空間化するという仮構を経ることによって、認知的な操作の対象として理解できるようになった。しかし、それはあくまで仮構の上に成り立っている以上、死そのものを理解しているというわけではない。
 一方、イーヨーにおいても、日常生活の空間というものは、表象の働きを媒介にしながら、現実の「今そしてここ」という限定を持つ直接的な知覚空間を越えたものとして構成されたもので、一種の仮構の上に成立しているものである。日常生活の中に存在する様々の事物が、たとえ目の前に現前せずとも存在しているということが、表象の働きを通して知られるようになるということを通して、そこに、それらが存在する場が構成されることになる。そして、その場は、言わば、紙の上に描かれた円のように、ある境界によって囲まれた内部の世界である。ただし、イーヨー自身が必ずしもこの紙の上の円のイメージに置き換えていると言うわけではない。だが、いずれにせよイーヨーにとって死とは、この日常生活の空間の境界の外にあるということだと言えるだろう。
 確かに、常識的には、私たちの死の理解の方がイーヨーの理解よりも優れているかのように見える。しかし、両者ともに仮構に基づいているという意味で、差異はあくまで相対的なものである。私たちの仮構に一貫性があるように、イーヨーの仮構にも一貫性がある。上に引用したイーヨーの言葉に添えて、「息子の言葉は、奇態なものにちがいはないが、それなりの脈絡をそなえていた。」と作者自らも記していた。(注4)私たちの理解が正しく、イーヨーの理解が誤りだとする通念は、仮構を共有する人間の数の多さの問題にすぎないのではないだろうか。
 イーヨーの弟は別の箇所で、イーヨーが涙をふく仕草に触れて次のような言葉を述べる。(注5)「イーヨーは、人指しゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。……イーヨーの涙のふき方は、正しい。誰もあのようにはしないけど……」と。このことは、ここにも全くあてはまるのではないだろうか。そして、これはまさに至言だと思う。

  (二)
 それでは、こうした死の理解に、どのような感情的な含意が存在しているのだろうか。
 感情的な理解というのは、実際の体験に伴って生じた感情がその内容になるとともに、類似した体験に伴う感情が類推的に付加されてくるものでもある。
 死については、私たちは決して自らの死を体験することはできない。したがって、自らの死の体験に伴う感情によって死をとらえるということはない。体験を通した死の理解ということで可能なものは、他者の死の体験に伴う様々な感情をもって、その意味とすることである。そして、あとは、死に類似した体験に伴う感情によって、死の意味をふくらませることになる。
 ここで、やや脇道にそれることになるが、一つのことを指摘しておきたい。それは、われわれが、死を空間化することによって理解するという仮構そのものについて回るある感情のことである。紙の上の一本の線分の終端としての死という仮構は、もちろんそれ自体はきわめて無機的な認識でありうる。しかし、線分の持つ隠喩は、ある虚無の感情をはらむ可能性を不気味に秘めたものである。線分の終端の後に広がる真っ白な無のイメージは、あるべきはずの物が消えたという無数の体験に伴う様々な喪失感によってその意味を補強される。
 少年期の終わりに、そして青年期に、しばしば人は、この虚無に襲われる。無数の豊かさを秘めた人生を一本の線分に置き換えてしまうことの無謀さは気づかれず、虚無にまつわる感情のみが増殖することも少なくはない。それは、ある時は、本当に人を圧し潰してしまうこともあるし、また、空白に色形を施すべく死後の物語にすがろうとすることもある。しかし、この虚無は感情であって論理ではないのだ。(もちろんこうした空間への置き換えによって若者たちの死の認識がすべて説明されるわけではない。だが、このことの意味はさほど小さくはないのではなかろうか。)
 それでは、イーヨーにとって、死はどのような感情的含意を持ったのか。イーヨーにとって死という言葉が、特別な意味を持ち始めたのは、すでに述べたように、癒癩の発作に見舞われるということがあってからだ。発作の体験について繰り返し訊ねる父親に対して、イーヨーはまったく答えない。だが、イーヨーは、発作のあと、「沈みこみ、もの憂げで、じっと黙り込んでいた」とあり、この体験に伴う感情が、これまでイーヨーなりに理解してきたが、特別な意味は持たなかった死というものに対して、強い負の感情の意味をつけ加えることになったのであろう。そして、このようにして死に重い含意がもたらされると、それまで気にもとめてこなかった他者の死が、イーヨーに強く迫ってくることになった。それが、先に述べた音楽界の老大家の死に際しての詠嘆に始まり、「ただ物故者の欄のみを見るために」、毎朝朝刊を開き、次のように「感情をこめて朗唱する」にいたる。
「ああ! 今朝もまた、こんなに死んでしまいました! 急性肺炎、八十九歳、心臓発作、六十九歳、気管支肺炎、八十三歳、ああ!この方はフグ中毒研究の元祖でございました! 動脈血栓、七十四歳、肺癌、八十六歳、ああ! またこんなに死んでしまいました!」
 このイーヨーの嘆きに対して、どうしても私たちはある種の違和感を覚えてしまう。私たちにとって、通常、毎朝の新聞の物故者欄が、このような嘆きになるようなことはないからだ。では、なぜ、イーヨーは、このように嘆くのだろうか。あるいは嘆くことができるのだろうか。
 その問いについて考えていく前に、この「朗唱」の独自性について触れておきたい。この朗唱の特徴の一つは、病名と年齢が正確に把握されていることである。それは、イーヨーの中に、病名と年齢を書き込む空欄を持った表があらかじめできていて、新聞を見ながら、その空欄の中に、いちいち忠実に書さ込みを行っているかのようである。とりあえずこうしたとらえ方を、目録的思考と名づけておこう。
 実は、こうした目録的思考は(イーヨーの思考の代表的な特徴の一つでもある。そして、それは、作曲家と死亡時の年齢を目録的に述べたり(注7)、モーツァルトのケッヘル番号で曲名と調をあてるという遊びを好んでする(注8)というようなことに典型的に表れる。
 だが、世界を認識するということは、混沌として多義的な世界を一定の秩序のもとに分節化していくことだと考えれば、こうした思考が私たちにも広く存在していることは明らかだ。そうすると、こうしたイーヨーの目録的思考は、実に理にかなったやり方なのであって、そのこと自体は全くおかしなことではないということになる。
 おそらく、私たちが奇異な思いにとらわれるのは、こうした思考の存在に対してではなく、それだけが忠実に繰り返されるということであり、問うべきなのは、なぜ、私たちがイーヨーのようにはしないかということなのではないだろうか。
 ところで、ここで問題なのは、イーヨーが新聞の朝刊の物故者欄になぜそのように嘆くのかということである。癲癇の発作によって新しい意味を帯びるようになった自らの死に伴う負の感情が、こうした物故者の死に投影され、深い嘆きがイーヨーを襲っていることはわかるのだが、再び弟の言葉を借りれば、「誰もあのようにはしない」のである。
 ここでいささかしたり顔をして次のようなことを言うことが可能であろう。私たちは、経験の内容の現実性の度合いについて、身近な現実から、遠い現実を経て、フィクションに至るまで、様々な段階を設定することができる。しかるにイーヨーには、その能力が欠けているのだと。
 しかも、それを裏づける一つの事例を持ち出すこともできる。それは、父の不在の際のエピソードで、公園で学校の仲間や親たちと鬼ごっこ遊びをした時のことだ。子供らが鬼になって各自の母親を追いかけるやり方で行われたその遊びで、イーヨーは逆上し、母親に足払いをかけて脳震盪までおこさせてしまったというのである。(注9)これには、作者自身、次のように解釈を加えている。すなわち、ゲームとはいえ、子供にとってはゲームは現実のモデルなのだから、父親の不在という状況の中で、さらに母親までが自分を残して逃げだそうとすれば、イーヨーとしても逆上するのは当然であろうというのである。これは、すなわち、イーヨーがゲームという虚構と現実とを明瞭に区別しえていないということを示していることになるだろう。
 私たちは、新聞の物故者欄のできごとは、フィクションとまでは言わないにしても、遠い現実として処理し、その中に見知った名前を見つけた時だけ、その関係の親密さに応じて、身近な現実として引き寄せているというわけだ。
 しかし、他者の痛みを引き受けられるというイーヨーの感性は、たとえその他者の具体的な現実に対する理解がいささか不足しているとしても、讃えられこそすれ、決して貶められるべきものではない。とすれば問われるべきは、そこまでしない、あるいはできない私たちの方だろう。確かに、そうした現実に一定の距離を置かなくては、私たちは生活をしていくことができない。しかし、自らが設定した距離の妥当性については常に自覚的であらねばならないだろう。
 ところで、こうして距離を置くということは、必ずしも現実に目をつぶってすませることではない。現実は、切迫したものであればあるほど、多義的な解釈を許さない唯一絶対の意味をもって宿命的に襲いかかってくるように思える。しかしもし、そこに別の解釈の道筋をつけることができれば、その現実と一定の距離を置くことができ、現実を克服可能なものとして見つめ直すことができるかもしれない。
 そして、イーヨーの母親も、彼に別の解釈の可能性を指し示そうと試みる。「イーヨー、沢山の人が死んでいって、それよりもっと沢山の、新しい人が生まれてくるのよ。さあ心配しないで、学校に行きなさい」(注11)と。年齢を重ねる中で沢山の死と出会い、沢山の誕生を見てきたものには、こうした物語は、ある感慨とともに納得されるだろう。しかし、そうした言葉はなかなかイーヨーには届かない。彼がとらわれている死の物語が、強い感情の裏づけを持つだけに、同じように強い感情の裏づけを持った新たな物語が対置されなくてはならないからである。
 そしてその物語は、突然不意な形で訪れた。(注12)それは、出生時から通院している病院で主治医が代わり、その新しい主治医が改めて出生時の病状を説明することとなった際のことだ。イーヨーの病名は脳分離症と言うのだが、この新しい主治医は、イーヨーには、誕生時、頭蓋の欠損をはさんで二つの脳があったのだが、活動していない外側の脳を切除したという説明を行った。それを耳にしたイーヨーは、
「ホーッ、ふたつも僕の脳が!」
と驚き、帰りのタクシーの中で次のように言う。
「僕には脳がふたつもありました! しかし、いまはひとつです。ママ、僕のもうひとつの脳、どこへ行ったんでしょうね?」
 この言葉を父親は、新しい認知によってイーヨーが励まされていると推測し、「もうひとつの脳が死んでくれたから、イーヨー、きみはいま生きているんだよ。きみはいまの脳を大切にしてがんばって、長生きしなければならないね。」と語りかけた。すると、それに対するイーヨーの答えは次のようなものだったのである。
「そうです! がんばって長生きいたしましょう! シベリウスは九十二歳、スカルラッティは九十九歳、エドゥアルド・ディ・カプアは、百十二歳まで生きたのでしたよ! ああ!すごいものだなあ!」
 この二つの脳をめぐる物語が、イーヨーにとっては迫ってくる死の物語に対して、長生きの後の死という新しい物語を対置することになったのである。朝刊を前にして死と病名と年齢を正確に読み取っていく目録的思考は、ひたすら負の感情を喚起するものだったが、新しい物語が生み出されることによって、作曲家と寿命という同様の目録的思考を、今度は、正の感情とともに働かせることができた。そして、イーヨーは、この時、自分自身にきわめて納得のいくかたちで、死の意識を克服することができたのである。
 ここで、イーヨーの死の意識の中に、時間的な理解が前面に押し出されてきたことにも注意すべきであろう(ただし、これは、われわれの理解と類似した空間的な表象を媒介にした時間的な理解である)。朝刊を前にした場合でも、物故者の年齢に着目してはいたのだが、その時の数字は、量としてとらえられる数であるよりも番号により近いもののようであったように思われる。しかし、ここでは、その年齢がある寿命として長さをもったものととらえられているのである。そして、この長さの意識に、正の感情が伴うことになったと言うこともできよう。
 私たちは、このイーヨーの考えを幼稚なものとして一笑に付すことができるだろうか。私たちも、実はこのような日常の中のささいな事柄に、励まされて生きているのではないだろうか。そして、父親自身もまた、このイーヨーの新しい認知によって、励まされているのだ。必要なのは、深遠な論理であるよりも、豊かな肯定的感情に裏づけられた体験なのではないだろうか。

    (三)
 イーヨーの死の感情の克服のドラマは、また彼が子どもから大人へと変化していく再生のドラマの一環でもある。すでに触れたヨーロッパ旅行による父の不在は、イーヨーに父親の死としてとらえられたが、そのことは、イーヨーに新たなる自覚をもたらし、最初は家族にとって了解不能な行為につながった。すなわち、包丁を両手で握りしめ、胸の前にささげるようにして、暗い夜の裏庭を見つめて考えていたというのである。(注13)これは後になって家族を守ろうと外敵を見張っていたのだと解釈されることになった。(注14)イーヨーにとっては、不在として父の死が、大人への旅立ちを促す一つの要因となったのであろう。
 また、家族全員で行くはずだった伊豆の別荘への旅行を、台風の接近のため、あきらめることになった時のこと、一人断固として伊豆の別荘に向かおうとして、イーヨーが発した言葉も、実に象徴的である。イーヨーが玄関で
「さあ、まいりましょう、僕は伊豆の家へまいろうと思います!」
と言いゆずらないので、母親が、イーヨーを威嚇するために父のことを持ち出すと、「いいえ、パパは死んでしまいました! 死んでしまいましたよ! 僕はひとりで伊豆へまいろうと思います! パパは死んだのですから! みなさん、ご機嫌よう、さようなら!」と言ったというのである。(注15)
 ここで父の死=不在は、認識ではなく願望であると解されるわけだが、これは、心理的な親殺しとも言えよう。少年がその成長の過程で通過すると言われるものを、イーヨーもまた、独特のかたちで通り過ぎようとしているということなのだろう。先にあげた庭を見つめる事件では、父の死の認識が自立への旅立ちを促したのに対し、この事件では、自立への意志が父の死を願うということになっていて、両者はちょうど裏腹の関係になっていると言えよう。
 しかし、大人になるということは、必ずしも父から一定の距離をとるということだけを意味しているわけではない。全編にわたって、イーヨーは、父の心の危機を救うという役割を何度も果たしているわけだが、これは、保護者─被保護者の関係の逆転を意味していると考えれば、これもまた、大人への階梯を昇りつつあるイーヨーの姿を表していると言えるだろう。
 沈欝な状態に陥っている父親を励ますイーヨーの様々宣言動は、あるものは無意織のうちに行われているものだが、はっきりと意図的な励ましとしてなされたものがある。ここでは、特に、後者に注目してみよう。
 例えば、先の、台風の中、結局イーヨーと二人で伊豆の別荘に出かけた夜のことだが、父親は嵐の夜、死をめぐる悪夢にうなされていた。すると、イーヨーが、穏やかで優しげな手つきで父親を揺り起こそうとして、
「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ! 夢だから、夢を見ているんですから! なにも、ぜんぜん、恐くありません! 夢ですから!」(注16)
と声をかけたのである。
 また、寄宿舎に入る日が近づいて、イーヨーは、自分と離れる父親の方に気遣いをするという場面もある。イーヨーはある日、母親にこう告げた。
「寄宿舎に入る順番になりました! 準備はできておりますか? 来週の水曜日に入ることになっております! (……)しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをまたよく切りぬけるでしょうか?」(注17)
 そして、寄宿舎に入る二日前の夜、自分の寝顔を感慨をこめて覗きこんでいる父親に対して、かけた言葉は次のようなものだった。
「パパ、よく眠れませんか? 僕がいなくなっても、眠れるかな? 元気を出して眠っていただきます!」(注18)
 もはや、ただ保護されるだけの存在としてのイーヨーはここにはいない。確かに、障害を持つイーヨーは、世俗的な意味では、保護を受けていかなければならない存在とされる。両親の死後は弟妹の世話にならなければならないのだからと、叱責の折りに繰り返し両親がイーヨーに言い続けたのもそういう現実を反映してのことだ。実際に、この問題は、しばしば障害児を持つ親の共通の悩みとして語られてきたものだ。しかし、障害を持った人は一方的に保護される存在ではないのであり、そうした、保護─被保護の関係を越えた新たな関係を創造することもできれば、また、イーヨーのように、その関係を逆転することもできる存在なのである。
 確かに、こうしたイーヨーの逆転した関係は、ある種の現実的有効性という点から言えば、実体のないもののように思われるかもしれない。しかし、純粋に精神的な意味での関係の逆転だからこそ、より本質的なものであるとも言えるのではないだろうか。
 さて、こうして、父親を拒否したつ庇護したりしながら、イーヨーがとげていく大人への歩みは、再生のドラマを象徴する一つのできごとにたどりつく。(注19)初めての寄宿舎生活から一週間ぶりに帰宅したイーヨーは、ごちそうが並べられた食卓に呼ばれても、
「イーヨーは、そちらへまいりません! イーヨーは、もう居ないのですから、ぜんぜん、イーヨーはみんなの所へ行くことはできません!」
といって動こうとしなかった。ところが、「今年の六月で二十歳になるから、もうイーヨーとは呼ばれたくないのじゃないか? 自分の本当の名前で呼ばれたいのだと思うよ。寄宿舎では、みんなそうしているのでしょう?」というふうに推理した弟が、
「光さん、夕御飯を食べよう。」と話しかけたところ、
「はい、そういたしましょう!ありがとうございました!」
と答えて、弟と肩をくんで食卓へやってきたというのである。
 両親から離れた新しい生活は、わずか一週間で、イーヨーの自意識に大きな変化をもたらした。そこへ、「イーヨー」という呼び名ではなく、「光さん」という呼び名が寄宿舎の先生によって使われた。人をどう呼ぶかということは、単なる約束事の問題ではなく、そこにどのような関係が存在しているかということを端的に示すものである。イーヨーにとって、「光さん」と呼ばれたことによってその場に生まれた新しい関係は、今まさに大きな変化をとげつつある自己と、非常に折り合いのよいものとして、感じられたにちがいない。そして、そのことが、もはや自分には「イーヨー」という呼び名ではなく、「光」こそがふさわしいという実感につながったのだ。
 成人の障害者とのかかわりの中で、どのように相手を呼ぶかということが問題になることがある。すなわち、「〜ちゃん」というような言い方や、名前を呼び捨てにしたりすることが、成人の障害者に対してふさわしいのかという問題である。もちろん、真に問われるべきは、関係の内実なのだから、呼び方など関係ないという考えは、必ずしもまちがいではない。しかし、呼び方が、知らず知らずのうちに関係を規定するということもまた事実だ。イーヨーの場合も、内なる変化を前提にしてのことではあるが、寄宿舎の先生の、おそらくは意図的な呼び方の変化が、彼の自覚をより強いものにしたということは言えるだろう。
 なお、この後、「光さん」という呼び方は、再び「イーヨー」へと戻る。(注20)そしてイーヨーの母は、それを知的退行なのではないかといぶかる。しかし次のような解釈も成り立つのではないだろうか。すなわち、「イーヨー」から「光さん」という呼び方の変化は、彼白身にとっても周囲にとっても、彼の成長を象徴し、自覚させるものだった。だが、こうした成長は、劇的な変化の部分を含みつつも、その底流ではむしろ静かに連続的に進行していくものだろう。そして、「イーヨー」から「光さん」へと言い換えてもらわなければ、まだ始まったばかりのその内的な変化や周囲との関係の組み換えは、脅かされそうなものだったのかもしれない。だから、「光さん」と呼ばれなくてはならなかった。しかし、こうした成長はこうした劇的な飛躍を見せつつも、その底流では寄せたり返したりしながら静かに連続して進行していくものだろう。そうして静かに進行した変化がある安定した実質を備えた時、もはや呼び名自体がイーヨーの内的な成長や周囲との関係の発展を脅かすことはなくなったということだろう。
 このような後日譚は、この呼び方の変化にまつわる事件の劇的性格をいく分かは弱めることになるかもしれない。しかし、それは、現実生活の持つ日常性という意味でのリアリティーを、逆に高めるもののように私には思われる。
 作者大江健三郎と息子大江光は、今や著名な親子となった。しかし、私にとって、この物語りは、どこにでもありそうな、障害者の心とその家庭生活を描いたものであり続けている。私が試みたイーヨーの心の世界の解釈が、何か特別な印象を与えたとしても、それは、私が決してよく言われるような障害の美化をしようとしているからではない。障害者とのそのような出会い方があるということを、つたない経験の中からではあるが、確信しているからにほかならない。また、誤解を恐れるためにあえて強調しなかったが、イーヨーの心の世界は、「自閉症」ないし「自閉的」と呼ばれている人たちの心の世界に通ずるものをもっている。しかし、それは「自閉」という言葉がひとりでに持ってしまう含意とは無関係な、独自の世界のとらえ方においてである。「自閉」という言葉は、イーヨーにも、そういう障害として語られている人たちにもあてはまらない。そして、イーヨーの世界を明らかにしていくことは、「自閉的」と呼ばれる人たちの、本当の心の世界を知る上でも、貴重な示唆を与えてくれているように私には思われるのである。

 注
(1)大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』 講談社 一九八三年 二四一頁。
(2)同、六一〜六四頁。
(3)同、一八頁。
(4)同、一八頁。
(5)同、六五頁。
(6)同、六五頁。
(7)同、七三頁。
(8)同、二二頁。
(9)同、二一頁。
10)同、二三頁。
11)同、六六頁。
12)同、六八〜七三頁。
13)同、一三頁。
14)同、二三頁。
15)同、一二七〜一二八頁。
16)同、一四一頁。
17)同、二五一頁。
18)同、二七〇頁。
19)同、二九〇〜二九二頁。
20)同『静かな生活』講談社 一九九〇年 七二頁。


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