障害の重い子どもの身体と世界

柴田保之

 

はじめに

障害が重く重複しているために、人間行動の成り立ちのきわめて初期の段階にとどまったままにある、いわゆる重度・重複障害児とよばれる子どもたちと教育的なかかわりあいを持つという課題は、その意義や目的に始まり内容や方法にいたるまで、様々な問題をたくさんかかえており、どのような角度からそれらの問題に接近していけばよいのかという方法論も、いまだ定かではない。

われわれは、盲聾二重障害児の教育の成果に始まり、その後、盲を伴う重複障害児を始めとする様々な障害を持つ子どもたちとの教育的なかかわりあいへと広げられ、深化されてきたきわめて実践的な方法論(中島、1977他)によりながら、いわゆる寝たきりと呼ばれるような障害の重い子どもたちとの教育的なかかわりあいの問題に、接近をしてきた。そして、その過程の中で、そうした障害の重い子どもたちが、常識的な通念に反して、実際は、外界と多様な相互交渉を営み、豊かな世界を築き上げている存在であることが、明らかになってきた。本稿では、そうした教育的なかかわりあいの中から見えてきた障害の重い子どもたちの生の姿を、身体と世界という観点から明らかにしていきたい。

1.接近の方法

(1)関係の中での出会い

多くの人々が、障害の重い子どもたちと真摯なかかわりあいを積み重ねているけれども、そこに一定の共通の認識が生み出すことは、現状では、なかなか容易ではない。それは、そうした取り組みが、特に教育の領域では、まだ始められたばかりであるということも理由としてあげられるが、もっとも本質的な問題として、対象としている現象とそれを意味づける枠組みの問題がある。

障害の重い子どもたちとのかかわりあいを持っている人々が、障害の重い子どもという同一の対象にかかわりあっているということは正しいが、われわれは、本当に同じ現象に向かい合っているといえるのであろうか。われわれが子どもを前にしたとき、もし、われわれの存在がまったく子どもに影響を及ぼさないというのであれば、確かにわれわれは、同一の現象に出会うことができる。そして、障害が重くて、反応がきわめて乏しいとされている子どもであるならば、そういう事態は容易に起きるようにも思われる。しかしながら、少なくとも、教育的なかかわりあいという限り、われわれは、何らかのかたちで子どもに働きかけを行い、できうるならば、その子にとってより望ましい影響が及ぶようにと願う。そして、また、一見無反応に見える子どもであっても、われわれの存在を様々なかたちで受け止めているということは、大いにありうることである。

そのように考えるならば、われわれが出会う子どもというのは、われわれの働きかけの質に応じたかたちでわれわれの前に姿を現す存在なのであり、われわれの出会っている現象というのは、われわれの働きかけの質との関係の中でのみ、生じているというように考えるほうが、自然であるということができるだろう。したがって、われわれの働きかけの質というものが異なっていれば、われわれは、違った現象に出会うという可能性が出てくることになる。

また、仮に、出会っている現象が同一のものであったとしても、その現象にどのような枠組みに基づいて意味づけをしていくのかということが問題となる。同じ場面に立ち会っていても、枠組みが異なっているために、そこに読み取っている意味が全く違うということや、同じような枠組みを共有していても、枠組みの深さが違っているために、読み取る意味の深さが違っているということは、しばしば起こってくることである。

そして、この枠組みの違いは、そのまま上に述べた働きかけの質に深い影響を及ぼさざるえない。われわれがある働きかけを行うとき、われわれは、何らかのかたちであらかじめ対象から意味を読み取っており、その読み取ったものに基づいて働きかけを起こしているからである。したがって、仮に、枠組みを異にする者が同一の現象に立ち会うところから始めたとしても、その解釈の違いから生まれる異なった働きかけが、異なった現象を生み出し、さらに異なった意味が引き出されていくという循環が起こることが考えられるのである。

筆者は、障害の重い子どもを理解するための枠組みとして、中田(1984)や浜田(1984)、村瀬(1981、1983)らが提起してきたものに、深く感銘を受けてきた。そうした地道な考察の積み重ねが、障害の重い子どもとの関わりあいの中で、実は、きわめて重要であることを自らの体験の中で実感してきたからである。拙稿は、そうした水準にはとても及ぶことはできないが・出会っている現象の違いや枠組みの違いの結果、いくつかの相異点も出てこざるをえなかった。

特に、中田の場合、「知覚の遅れている重障児にとって、外界は存在・非存在を問われるべき対象とはなっておらず、それゆえ、彼女らにとっての外界について語ることは無意味であるということ」、多動な重障児にとって、「因果的な関係や知覚対象の時間的な変化が何の意味ももっていないということ」、多動な重障児にとって「他者は、いまだ存在していない」、さらに自閉的傾向の強い重障児に関しては、「常同反復行動や自慰行動などにより享受それ自体において生きられている重障児は、世界内存在として世界と関わりを持つことをしない」など、最終的に否定的な表現によって状態像を表現せざるをえなかったのは、その枠組みの緻密さに対して不用意に思えてならない。それは、働きかけの質が違えば、もっと違った現象に基づいた異なる結論が引き出されたのではないかということと、現象学的な枠組みが、結局、成人の意識現象の分析から始めてそれとの比較に留どまっているため、それとは違う

という否定的な意味づけが下されてしまっているのではないかと考えられる。特に後者の問題については、村瀬(1983)が、現象学に基づくとされる中根晃の自閉症論を批判する中で、自閉症児はかりそめの汝ももっていないとする中根に対して、「ブーバーは、樹々や大地にも汝性が見い出せるとしたのではなかったのか」としているが、中田もこの批判を完全には逃れきれていないのではないかと思う。

(2)われわれの働きかけ

以上のように考えてくるならば、われわれは、いったいどんな働きかけに基づいてどんな現象と出会ってきたのか、そして、いったいどんな枠組みによってその現象を意味づけてきたのかということに自覚的にならなければならないことがわかる。そこで、まず、われわれの働きかけの質に関して、大まかに整理を試みてみたい。

われわれは、どんなに障害の重い子どもであっても、外界を受容し外界に働きかけるという相互交渉の中で、外界や自己についてその子なりのやり方で理解しており、その相互交渉の中でその子自身が工夫していくことによって自らを変えて行くという大前提に立っている。確かに、その相互交渉のあり方や理解の仕方は、われわれのそれとは異なった独自のものであるが、そこには、きわめて緻密な秩序や原則が存在しており、「かえって、我々より外界を深く理解し」(中島、1987)ているとさえ言えるものなのである。

こうした前提に立って、われわれは、そのような子どもと外界との間の相互交渉が生み出されるような場を積極的に設定するというかたちで、子どもに働きかけを行ってきた。そして、われわれは、これまでの実践研究の積み重ねから、積極的に様々な教材を用いることにしてきた。これは、自発的な相互交渉が豊かに営まれ、あらたな発展が生み出されるためには、外界の側に子どもの秩序や原則に適った構造や質が存在していることが不可欠であるという認識のもとに、積極的に外界の質や構造を変えていこうと意図を具体化したものである。もちろん、教材があればそれですべてが事足りるわけではなく、適切な提示のタイミングや仕方があって、初めて、外界は相互交渉を引き起こすにふさわしい場となるのである。

しかしながら、こうした教材を用いる働きかけは、往々にして誤解されやすい側面を持っている。そこで、そうした誤解をさけるために、いくつかの点について説明を加えておきたい。

まず、こうした教材を用いた関わりあいを「課題学習」(中島、1979)という呼び方をすることがあるが、その場合の課題という言葉が意味することについてである。「一般的に、課題学習というと、あらかじめ教師が設定した課題を子どもに押しつけ、いやがる子どもをむりやり机に向かわせて学習を強行するように思われがちだし、現実の実践において、そういう強制が多く見受けられる」(同)というように、課題という言葉には、どうしても、教師の側からの一方的な働きかけというイメ−ジがつきまといやすい。だが、われわれはあくまで、子ども自身が、構造化された外界としての教材に対して、自発的に相互交渉を切り開いて来るための一つの可能性を設定したにすぎないのであり、そこで相互交渉に入って来るかどうかの選択は、子どもに全面的に委ねられでいるのである。その教材の中に一つの関係を予測し、それを確かめるために自ら行動を自発的に起こしてくる子どもの姿を見るならば、むしろ、子どもが自らに対して課題を設定しているという言い方をしてもよいのではないかとさえ思われる。

また、教材を通した関わりあいと子どもの発達的な変化の問題がある。教材を通した関わりあいを、繰り返しによって一つの技能を獲得する訓練のように捕らえる見方が少なからずあり、そのため、教材が、子どもの変化を直接的にもたらすものと考えてしまう場合がある。しかし、子どもが変わるという事態が生まれるのは、外界としての教材との相互交渉の中で、「感覚を使って、新しい行動を組み立てていく」(同)ということが起こるからであり、子ども自身の発見や工夫があるからなのである。したがって、課題ができたかできないかというような結果が問題なのではなく、そうした創造的な過程が存在しているかどうかが問題となる。そういう意味では、教材は、あくまできっかけにしか過ぎないのである。

さらに、教材がこなせるようになることが、いったいその子どもにとってどんな意味があるのかという問題がある。確かに、外界としての教材と相互交渉を持つ中で見られた行動がその場面の特殊性を越えて一挙に広がって行くとは考えにくいが、上のように、教材を媒介にして生まれた相互交渉の中の創造的な過程を考えるならば、そこで獲得されているのは、感覚の使い方や新しい運動の組み立て方などであり、単に教材をこなしているのではなく、広がりの可能性を秘めたものであることがわかる。また、そうした、創造的な過程があるとするならば、そのこと自体が、非常に素晴らしいことなのであり、その有効性を議論する前に、すでに極めて価値のあるものであるといってよいだろう。

また、教材を用いた関わりあいの場合、教師と子どもとの人間関係がないがしろにされているのではないかという見方もある。確かに、ここまでの議論を進めてくる上では、便宜上、相互交渉というときには、子どもと教材の間にのみ焦点をあててきた。しかし、教材を媒介にして「教師と子どもの間に共通理解が生じ」(同)、「大切な触れ合い」(同)が生み出されることぬきには教育的な関わりあいは一歩も進んで行かないという意味において、われわれと子どもとの関係はきわめて重要なものであるし、そうした触れ合いが生まれること自体に非常に大きな価値があると考えられるのである。

(3)解釈の枠組み

以上のような働きかけに基づいた教育的な関わりあいの中で起こって来る現象にわれわれは出会っているわけであるが、そんな現象の背後にある子どもの持つ秩序や原則を明らかにするために、われわれの依拠する枠組みについて、整理していくことにしたい。

外界と相互交渉のさなかにある子どもという主体は、まず、主体の自己調整のあり方と、主体が構成している外界のあり方という二つの側面に分けてとらえることができる。この二つは、自己調整を通して外界が構成されるとともに、構成された外界をもとに自己を調整していくというような不可分の関係にあるもので、あくまで相互交渉の場で起こっている一つの事態の二つの側面である。

そして、この自己調整は、予測−開始−調節─終了−確認という過程からなっていると考えられ、この調節をさらに姿勢のバランスを介した運動のコントロ−ルと、感覚を介した運動のコントロ−ルとの二つに分けることができる。すなわち、一つの運動を起こす際に、いったいどんな感覚を使ってその運動を方向づけているのか、その運動はいったいどんな姿勢のバランスを作ることと関係し合っているかということである。

さらに、こうした活動の中で、外界は空間としての分節化を遂げてくる。われわれは、この空間としての分節化に特に重点を置いているわけであるが、それは、われわれの教材の工夫が、多く外界をどのようなかたちで空間的に構造化していくかということに深く関わっているからである。そして、この空間的な分節化は、感覚による運動のコントロ−ルに関しては、方向や位置や順序のあり方としての「操作空間」(柴田、1986)、姿勢のバランスによるコントロールに関しては、面や垂直軸、重心などのあり方としての「姿勢空間」(同)を考えることができる。

ところで、本稿では、こういう枠組みに基づきつつ、身体と世界というかたちで障害の重い子どもの状態を整理したいと考えている。世界は、そのまま外界ということで記述して行くことができると考えられるが、身体というのは、上の枠組みでは、その位置づけは単純ではない。それは、身体が、自己調整の主体として、世界を構成するものであるとともに、一方で、そうした自己調整の過程を通して構成されるものでもあるという複雑な性格によっている。そうした身体の特殊なあり方は、多方面で議論されているが、今回、本稿の文脈に沿うかたちで十分に規定することができなかった。

こうしたあいまいさを残しながらもあえて身体にこだわるのは、障害児教育の中で、−方では身体が、訓練などとの関連で物理学的生理学的にとらえられることが多く、また、身体意識あるいはボディーイメージというようなことが、単なる感覚的像としてのみ語られたりすることがあり、非常に、あいまいなままになっているという事態に対して、少しでもわれわれのとらえ方を自覚化しておきたいからである。

いささか煩雑ではあるが、われわれは、以上のような枠組みのもとに教育的なかかわりあいを実践し、そのかかわりの質に応じた様々な現象に出会ってきた。そして、こうした営みの中で、われわれは、子どもが実に「輝かしい生き生きとしたすばらしい存在」(中島、1987)であることをまのあたりにしてきたし、また、自らの持つ秩序や原則を高次化させ、行動を組み立てていく姿にも出会い続けてきているのである。

2.障害の重い子どもの身体と世界

《1》寝たきりの状態の諸相

仰向けで寝たきりと呼ばれる状態をもう少し細かく見ていくと、そこにはいくつかの区別ができる。ここでは、さしあたって6つの状態に区別をして、それぞれの状態における身体と世界のありかたについて記述して行きたい。便宜的に、自己調整のありかたが、低次のものから、しだいに高次なものへという順序で述べていくことにするが、これは、決して発達段階を示したものではなく、また、子ども自身にとって、それぞれの状態がそれぞれ大切な意味を持っているのであって、以下の順に単純に価値づけられるわけではない。

また、それぞれの状態は、ひとりひとりの子どもの中で循環的に存在しているもので、ある子どもにはこの6つの状態がすべて存在するが、子どもによっては必ずしも6つの状態がすべて存在するわけではないことも断っておかねばならない。

ところで、われわれは、こうした寝たきりの状態にある子どもに対して、椅子と机を使うなどして積極的に体を起こすように働きかけてきた。そこで、それぞれの状態を記述するに際して、その状態が、体を起こして座位をとることとどのような関係にあるのかということにも触れて行くことにする。

《2》障害の重い子どもの身体と世界

(1)無反応に見える状態

寝たきりの仰向けの姿勢の中でもっとも基本的なものは、ほとんど運動を起こさず、外界の刺激にも目立った反応が見られない状況である。この姿勢は、常識的な通念からすれば、外界の受容も外界への働きかけも起こっていないかのように見え、ともすると植物的な意味以上の生命活動を認めることができないかのような印象を持ってしまいかねないことさえある。しかし、実は、主として背中や耳を通して外界の刺激は受容されている(中島、1983)のであり、そこには、外界との相互交渉の原初的なかたちがあるのである。

また、仰向けの姿勢の状態にあるということは、いかにも外界に対してまったくなすすべを持たないという状況を示しているかのように見えるが、その子にとっては、一つの安定をもたらす、そうではなくてならない姿勢として、積極的な意味を持っている。確かに、あらゆる場面で反応の乏しいような子どもの場合、その姿勢を自ら選択したかのようには見えにくいが、寝返りをしたり、手足を活発に動かしたりしている子どもが、あえて仰向けの姿勢を選択し、安定を作り出そうとしている姿に出会うことも少なくない。このように、一見、まったく反応のないかに見える仰向けの姿勢の中にも、様々な意味が隠されている。

この姿勢における受容の特徴は、一つは、背中の全面に生じているべったりとした触刺激の受容にある。できるだけ底面に密着していたほうがよく、すきまができて背中の全面に生じている触刺激に区切りができたりすることによる変化を嫌い、この状態で作られている安定を、できるだけくずしたくないという状況にあるわけである。われわれが、こうした状況にある子どもに対して、抱きあげたり、体を起こすなどの働きかけをしたとき、不快になったり、そっくり返ったりすることがあるが、それは、背中の触刺激が急に取り去られたことによる不安や、べったりとした触刺激があったもとの状態にもどろうとしていることが原因になっていると考えられる場合もある。したがって姿勢を変えるような働きかけに際しては、この背中の触刺激をどのように置き換えて行くかということが一つの重要なポイントとなる。

一方、背中と同様に重要なのは、耳の受容である。耳は、「開閉器がついているかいないか」(中島、1983)という観点からすると、手や目のような器官とちがって意図的に閉ざすことがむずかしいこともあって、様々な刺激を早いうちから受け入れる器官となっている。そして、それを通して子どもは、その子なりの仕方でいろいろなことがわかっている。しかし、後述するような積極的な注意の集中とはちがい、感覚を閉ざすような方向性をもっており、特定の音に固定的に反応したり、不快感につながるようなことも多い。それは、「等質の、底知れぬ、深い、拡散した、原空間の中に引き込まれるように包み込まれている」(中島、1984〉といえるようなものである。働きかけとしては、「音楽もよいが、紙をこすり合わせる音、畳や床を指先でこする音、お米やあずきをお盆にのせて振る音、ものをたたいたり、ぶつけたりする音など」(中島、1983)が、受けとめやすい刺激であるといえる。

こうした状況を、自己調整という観点からとらえてみると、予測や調節、確認などは、明確なかたちでは存在していない。しかし、この否定的な事態は、まったく無意味なのではなく、自己調整が生み出されてくる土台としての可能性を含んだものであるといえよう。

こうした自己調整のあり方のなかで、構成されている身体と世界は、いかなるものであろうか。身体と世界は、その構成された状態を見れば、別個のものであるが、それは、もともと別個のものがそれぞれ平行的に構成されてきたのだろうか。それとも、「始めは一体だったものが、分かれた」(中島、1984)のだろうか。別個のものであるということは両者が、区切りや境目というものを持っていることを意味するが、これまでに述べてきたような状況の中で、区切りや境目はどのようになっているといえるだろうか。べったりとした背中の触刺激や、積極的とはいえないかたちで耳から受容されるさまざまな聴覚刺激は、そういう意味では、区切りや境目というものを持っておらず、そこでは、身体と世界という別個のものとして構成されてくる以前の、未分化なまま一体化している状況にあるといえる。そして、それは、「有限への第一歩」(同)を踏み出す前の「無限の広がり」(同)とでも呼べるものであるといえるだろう。そこには、空間としての規定性をほとんど持たない、面としての姿勢空間が、根源的な場として開けているのみである。そして、この無限の広がりから、身体と世界は構成されてくるのである。

(2)激しい情動の奔溢

こうした一体としての身体と世界に、「区別がつき、境目がはっきりするために大切なのは動きである」(中島、1984)が、明瞭な動きとしての運動に先立って、情動というものに着目したい。情動は、大別すると、激しいものと静かなものとに分けられる。そこで、まず、激しい情動のほうから見て行きたい。

激しい爆発的な情動の奔溢には、刺激の変化を嫌ったり、刺激が強すぎたり合わなかったりすることによって引き起こされる不快感の表出としての泣きと、体を大きく揺さぶられたり、特定の絶対化した聴覚刺激が与えられることによって引き起こされる快感の表出としての大きな笑いとがあり、これらの情動の表出は、手足をばたばたさせるなどの大きな身体運動を伴うことが多い。両者は、子どもにとって、不快と快という正反対の意味を持つものであるが、外界の刺激に対する自己調整の水準という観点からは、共通の性格を持っているため、一括して見て行きたい。

こうした激しい情動をもたらす受容は、「受け身で、ある特定の刺激と一対一の固定的な結びつき」(中島、1983)を持っていることが多いと考えられ、意図的選択的な受容の結果として起こる調整をともなった運動にはつながることがなく、調整されず方向性もない激しい情動の奔溢となってしまうのである。したがって、こうした激しい情動は、調整や方向性が生まれてくる土壌にはなりにくいもので、われわれが働きかけて行く場合、こうした激しい情動に訴えても、新たな調整や方向性を生むだめにはあまり意味がないことになる。つまり、ある種の訓練で、子どもが激しく泣いてもそのままにしておいている場合が見られたりするが、少なくともそうした状況では、子どもは、納得した意図的な調整を身につけることはないということができる。

一方、子どもに大きな快感を与える身体の大きな揺さぶりは、一つのコミュニケ−ションとして人間関係を深めるきっかけになったり、不必要な不安を取り去ったりするという意味で、重要な働きかけの一つであるが、こうした情動の激しい表出は、調整をともなわないため、もっと意図的な調整が生み出されるような働きかけの工夫をあわせて試みて行かなければならないといえる。

こうした激しい情動を、より調整のとれたものにしていくには、一つは、受容をより意図的選択的なものにして行くことである。外界の刺激の受容が、そのまま直接的に情動につながるのではなく、後述するようなもっと静かな情動をともなった刺激への集中、あるいは、予測に基づいた運動へとつながっていくためには、受け身的で固定的になっている受容の幅を広げて行かなければならないのである。この時提示する刺激の性質として留意しなければ旨ならないのは、強い刺激よりもむしろ弱い刺激で、実感よりも関係が浮かび上がるようなものを用意することである。

また、激しい情動に調整をもたらす要因として今一つあげられるものは、姿勢である。仰向けの姿勢の中では、どんなに激しい情動の表出も、仰向けの姿勢を壊すことにはならないが、体を起こした姿勢の中などでは、情動の激しい表出は、その姿勢を保持していくことを困難にしてしまう。ところが、姿勢の調整が進むにつれ、しだいにその姿勢を保持しつつ激しい情動を表出するようになっていくのである。

こうした激しい情動の奔溢という状態を、自己調整という観点から整理し直すと、すでに述べてきたことから明らかなように、明確な自己調整の過程はここでは存在していないことがわかる。前項で述べた無反応に見える状態と比べると、明確な調整の不在にもかかわらず、一つの秩序ある安定を作り出していたのとは逆に、ここでは、それが、ある無秩序さを作り出しており、調整されるべき対象がはっきりと姿をあらわしているといえる。ただし、その調整のきっかけは、その激しい情動自体の中にはなく、受容や姿勢の問題として考えて行かなければならないこともすでに述べた通りである。

こうした状態の中で構成されている身体と世界は、次のように考えられる。身体と世界との間の区切りは、空間的な規定性を持った境目としては存在していないが、情動に伴って生じている強い実感を通して、分節化されていない未分化な塊のようなものとして世界から浮き上がっている。世界の方も、刺激を方向や位置などを基礎づけるような空間としては存在しておらず、混沌とした背景としての場であるに過ぎないといえる。

(3)外界の刺激に対する注意の集中と静かな情動

上述のような激しい情動に対して、外界の刺激が静かな情動を引き起こす場合もある。この静かな情動は、体の運動を止め、外界の刺激に対して注意を集中させるという受容のあり方と関係が深い。主として触刺激や聴覚刺激に対して注意を集中させ、予測に伴う期待感、生じた刺激に対する驚きや微かな戸惑い、あるいは、刺激の関係がわかった喜びなどが、小さな仕草や表情の中に表されるのである。

このような状況をもたらす刺激は、すでに述べたように、強すぎる刺激よりは、むしろ軽くて弱く、リズムを伴ったものであるほうがよく、刺激の直接的な実感よりも、刺激の中にある関係が浮き上がるようなもののほうがよい。そして、触刺激の場合、受容が起こりやすいのは、からだの背面では、うなじや膝の後ろなど、関節の後ろの部分や足の裏など、そして、体の前面では、とりわけ、口とその周辺があげられる。また聴覚刺激は(1)で述べたように物のこすれ合う音などがよく、遠くでかすかに生じる音なども効果的である。

こうした受容が起こっているとき、子どもは全身のむだな運動を止め、全身をわずかに緊張させ、刺激に対して一つの身構えを作る。これは、無反応に見える仰向けの姿勢と、外見上大きな違いはないように見えるが、受け身的であった受容の中に積極的なものが芽生え始め、非常に初期的なものではあれ、身構えの中に一つの方向性がもたらされているということにおいて大きな意味がある。この時、瞬きをしたり、眼球運動を止めたりして、集中していることがはっきりと感じ取られるような表情が生まれ、そこには、上に述べたような刺激の予測にともなう期待感や、受容した刺激に対する微かな驚きや戸惑いなどが読み取れる。また、刺激によって直接的に引き起こされる強い喜びとは異なる、わかった喜びに基づくほほえみなどが生まれることもある。

仰向けの姿勢の場合、運動を止めるという姿勢は比較的作りやすいわけであるが、仰向けで寝ている子どもを起こすような働きかけを行った場合、全身を僅かに緊張させ、むだな体の動きを止めるという姿勢の保持が難しいため、始めは、こうした受容が起こりにくくなり、それだけ、外界の刺激に注意を集中させることがむずかしくなる。しかし、しだいに首を少し後ろにそらせてそこで体を止めるというような姿勢の保持ができるようになるにつれて、そうした受容が可能になっていくのである。

こうした状態を自己調整という観点から整理すると、ある繰り返しの中で与えられる刺激を予測し、その予測に基づいた調節を、「外へ」という一つの方向性をもった身構えを作る中で行い、さらに、刺激を確認するという一連の過程が何ら一かのかたちで存在しているといえる。そして、ここでは、まだ、実際の運動に基づくものではないため、実際の運動を通して、初めと終わりの際立った一つの時問的なまとまりを外界から主体的に切り取って来て、そこに区切りを与えるのとは違い、外界の刺激のあり方に多く依存しており、予測や確認は明確には際立ちにくい面も強いが、身構えを作るという調節が存在することで外界の刺激に新たな意味が付与されるということにおいて、主体的な過程であるということができる。

身体と世界の構成に関しては、一体化した身体と世界とが、受容した刺激を境目として、分化を遂げるといえる。この時、世界は、受容した刺激の明確な方向や位置を基礎づけるような空間的規定性をまだそなえていないが、外へという未分化な方向づけを通して、刺激が帰属する外部として、内部としての身体と区別されるようになる。その内部としての身体の方は、激しい情動の場合のように、単に世界の中に塊として浮かび上がっているのとは異なり、未分化ながら外へという方向性を持った構えとして、世界と向かい合っているといえる。また、こうして境目をもとにした身構えとしての身体と世界とが向かい合う中で、無限の広がりの面は、有限な面としての姿勢空間として開かれてくることとなる。

(4)外界への働きかけの始まり

次に、上に述べたような、外界の刺激に対してある構えを作って受容に終始するのではなく、積極的に運動を起こして外界に働きかけていくことを通して、刺激を確かめようとする状況について見て行きたい。

こうした外界への働きかけの中で、もっとも基本的なものは、対象を舌を突き出してなめる、首を振って唇で触るなど、口に関するものである。こうした運動によって得られる刺激は、対象に触れたり離れたり、強く触ったり弱く触ったりするといった、主体の側の運動の起こし方に応じたものであり、−方的に刺激の変化が外部からもたらされる状況と比べ、刺激の変化を自分で作り出すことができるということにおいて大きな意味を持っているだろう。なお、外界への働きかけは、口のほかに、足や手なども考えなければならないが、ここでは、もっとも基本的な口に限定しておきたい。

働きかけとしては、様々な触刺激を用意して選択的な状況を作ることや、なめる、噛む、頬やあごで押すなどの運動を通して音をならすような教材を提示することによって、外界への働きかけを豊かにし、より調整の取れた運動を引き出して行くとともに、より間接化された因果関係の理解を深めて行くことが大切である。

また、体を起こすような働きかけに際しては、こうした外界へ働きかける運動が、体を起こすことによって取り去られた背中の触刺激に代わる前面からの刺激を取り入れることに結びつき、起こした体を安定させることにつながる。さらに、体を起こした状態で、このように外界に働きかける運動を行うことは、姿勢のバランスによるコントロ−ルを必要としており、そのような中で、姿勢はより柔軟性を増すことになる。

このような外界への働きかけの始まりを通して、自己調整のあり方は大きく変化する。上で触れたように、自らが外界を変化させる主体となることによって、予測と確認は、運動の始めと終わりにはっきりと位置づけられるようになる。また、調節も、感覚による運動のコントロールの観点からは、口周辺の触覚や、首の運動感覚を通した運動の大きさや強さ、方向などのコントロ−ルが行われており、姿勢のバランスによるコントロ−ルの観点からは、未分化ながら、口や首の運動が持つ方向とは逆の方向に体を動かすようなことが起こっている場合もある。

このような状況における身体と世界の構成に目を向けてみると、特に重要なことは、外界と身体との境目に、運動を通して「間(あいだ)」(中島、1984)がもたらされることである。比喩的にいえば、まず身体と世界とが一体化していた状況があり、そこに境目がもたらされるわけであるが、その時は、身体と世界は密着したような感じである。ところが、ここで間(あいだ)が成立することによって、密着していた身体と世界の境目に、ある「隙間」(同)がもたらされることになり、そこに自由性や選択性のもたらされる根拠が生じることとなる。

身体の構成に関しては、外界へ働きかけるという一つの全体的な構えの中に、運動を起こしている部分(ここでは口や舌や首)と、運動を起こさず、運動を起こしている部分を背後から支える部分とが分節化してくる。そして、その分節化に基づいて、全体的な構えの意識を背景にして、体の部分の意識が浮かび上がってくるといえる。なお、ここでいう意識とは、構えについては、姿勢にともなって生ずるある種の緊張状態の実感であり、また体の部分については、運動にともなって生ずる実感を意味している。

一方、世界は、始めと終わりのはっきりした運動を通して、点という空間的な規定性を持つようになってくる。この段階ではそれぞれの点は、相互に関連づけをもたない孤立した点であるが、さらに世界を高次化していく上で重要な拠点となる。また、この「点」の成立は、外界に対する諸操作の結果として構成され、かつそれら諸操作を基礎づけていく「操作空間」(柴田、1986)の構成の最初の一歩である。

(5)身体の確かめ

人が確かめる対象は、外界だけではなく、自己の身体もその対象となる。外界を確かめる重要な器官としての口は、運動の器官としては、動くことのできる範囲が狭いため、特に迎向けの状態では、口の方から他の身体部位を確かめるという行動は起こりにくいが、手のように運動の範囲の広い器官は、半ば偶然に口と出会うことがあり、そこで、その手を口が積極的に確かめるというようなことが起こる。そして、確かめるのは口のほうだけでなく、手も口を確かめようとしており、相互的な確かめ合いがおこっているということができる。

人は、基本的には、つねに外界を確かめたいという欲求を持っていると考えられるため、とりわけ実感の強い口に手が行った時には、そこに非常に強い結びつきが生まれることになる。変化に富んだ外界を確かめるのと違い、自分の身体を確かめるのは、状況に左右されにくく変化が少ないため、わかりやすいと考えられ、それだけ再現しやすくなる。そして、繰り返されるたびに、その結びつきはいっそう強くなり、そこに、非常に安定した状況が作られることとなり、確かめ方も、きめ細かく厳密になっていく。

また、外界を確かめるという行為は、非常に主体的なものであるにもかかわらず、その状況設定に関しては、偶然に多くを負っているのに比べ、自己の身体を確かめるという行為は、状況設定自体を自分で作り出しやすいため、強い自発性をもっているといえるが、一方で、本来の確かめるという目的を失い、とめどない繰り返しの中で固着を引き起こしやすいともいえる。

そのような固着した状況にある場合には、それが子どもにとって非常に安定した状況で

あるということを十分に理解した上で、それを、ただ直接的にやめさせるのではなく、何らかの働きかけを行うことが大切である。例えば、物を持たせてみるだけでもちがってくる。また、われわれの手を子どもの口に持って行ってみたり、子どもの空いているほうの手をわれわれのほうでなめてあげるというような働きかけが功を奏する場合もある。

なお、相互に出会う体の部分は、口と手だけではなく、声と耳、足と口、手と手、目と手などがあげられる。また、盲児によく見られるが、手が、触覚的に敏感な箇所としての目に出会うこともある。ただし、ここでは、口と手に限定して話を進めていく。

こうした身体の確かめは、調整のとれた安定した状態を作り出すため、外界に対してある構えを取ろうとする時、あえて、身体を確かめるときの態勢を取って、自らの構えを安定させようとする場合がある。仰向けの姿勢は、それ自体が非常に安定しているため、顕著には見られないが、体を起こすような働きかけをした時、口を手に持って行って姿勢を安定させようとする子どもは多い。

こうした身体の確かめを自己調整という観点から見ると、それが高い意図性をもって行われている時には、明確な予測と確認が存在し、運動感覚や触覚を通したコントロールが行われているといえるが、習慣化自動化してしまうと明確な予測や確認は失われ、コントロールの意図性は非常に低いものとなる。

こうした状況で身体と世界の構成を見ると、自己の身体の客体化の始まりという注目すべき点がある。口でなめることにより、手はなめられるものとして客体化され、手でさわることにより、口はさわられるものとして客体化されるのである。そして、主体にとっては、客体化された身体が世界となっており、本来の世界は背後に退いている。

この客体化され世界としてとらえられている身体の空間的なあり方は、操作空間によって基礎づけられる孤立した点であり、身体の各部の空間的な関係づけは、まだ成立していない。ただし、そうした関係づけは、客体化された身体の上だけで進行することはなく、主体的な身体の構成との関係の中で進行していくものである。

ところでこうした身体の確かめが、習慣化され固定化してしまった状況では、主体としての身体と客体としての身体との境目や隙間が、再びあいまいになって一体化してしまい、(1)で述べたような無限の広がりの中で、絶対的な安定が作り出されている。

(6)底面から離脱しようとする状態

以上のような5つの状態は、仰向けの安定した状態の中で起こっていたのであるが、次に、その仰向けの安定した状態から、新しい姿勢へ変換していく方向性を持った、底面から離脱していこうとする状態を見て行きたい。底面から離脱する運動としては、手や足を空中に差し上げたり、体をねじったり、寝返りをしたり、うつぶせの状態で顔を起こしたりするなどを上げることができる。

これらの運動は、実際に面から離脱する部分の顕在的な運動と、それを支えるために、逆に面に押しつけられる部分の潜在的な運動とからなっていると考えられる。つまり、面から離脱するという目に見える運動は、体の別の部分を面に押しつけるという目に見えない逆の運動に支えられて起こっているというわけである。例えば、仰向けの姿勢で右肩を持ち上げようとする場合、左肩や腰などを底面に押しつけてその運動を支えることになるわけである。これは、未分化で塊のようになった身体の状況では起こりにくいもので、少なくとも押しつけられる部分と離脱する部分とが分化している必要がある。そして、この二つの部分は、反対の運動方向を持っており、その異なる方向の運動の組み合わせを調整することによって、目に見える運動が起こっているのである。

このような、面から離脱する運動は、外界の対象への働きかけを目ざしたものではないが、運動の結果として外界の刺激の状況は変化する。その主なものは、背面にあったべっとりとした触刺激の変化と重力の変化である。

背中の触刺激の変化に関しては、それまでの背中全面にべったりと生じていた触刺激が、いくつかに分化してくる。大きくわけると、腰を境にした上と下、及び、それぞれの左右である。そして、運動に応じて底面に接する部分と離れて行く部分の役割が、分化していくのである。

重力の方に関しては、面に密着する状況では重力の方向にそのままそっていたわけであるが、ここでは、重力に逆らう方向で運動が起こっているわけである。ある意味では、こうした運動は、運動を起こした時に生じる重力による抵抗感に対して運動を起こしているといえるだろう。ところで、この重力という刺激は、そのままある感覚器官に静的に受容されているのではないということに注意しておく必要がある。重力という刺激は、決してそれ自体をそのまま捕らえることのできないもので、あくまで運動をおこした結果として生ずる抵抗感として受容されているのであり、運動をぬきにしては考えられないものなのである。それは、物の重さの感覚が、基本的には、持ち上げることによってしか生じないということを考えるとわかりやすいだろう。こうしたことは、立位におけるようにきわめて微妙な重力の受容においても本質的には同じことがいえるのではないかと思われる。まず、主体の側の動きがあって、その結果として変化するある抵抗感を、重力として受容しているのである。

寝たきりの子どもを起こして行くという働きかけに際しては、こうした、面から離脱する運動が、すでに何らかのかたちで起こっている場合は、肘を机について上体を起こし、体をその状態で安定させるための基本的な条件は、ほぼそろっているといってよいと思われる。なお、こうした働きかけとうつぶせで上体を上げることとの関連が問題にされることがあるが、両者は、肘を面に押しつけるということにおいては、類似した行動であるけれども、垂直軸があるかないかに大きな違いがあり、姿勢のバランスの作り方も、まったく違ったものとなっているのである。したがって、垂直軸を構成していくためには、うつぶせの姿勢で上体を起こすことだけでは不十分であるといえる。

こうした底面からの離脱を、自己調整の側面から整理すると次のようになる。予測と確認に関しては、働きかけの対象として、はっきりとした外界の対象が介在していなかったり、始めと終わりがはっきりとしにくいため、明確にしにくいが、運動にともなって、なんらかのかたちで存在しているといえるだろう。調節に関しては、運動の強さや大きさを運動感覚でコントロールする過程が存在していることが明らかであるが、ここで重要なのは、上ですでに述べた逆の方向性を持つ潜在的な運動を起こすことによって、面から離脱するという顕在的な運動をコントロールする過程が存在していることである。これは姿勢のバランスによるコントロールとして位置づけているものであるが、体の各部分が、分化しつつ有機的な統一を保つという意味で、重要な自己調整の過程であるといえる。

さて、こうした状況で構成されている身体と世界は、どのようなものであろうか。ここでは、身体の確かめで見られたような、外部感覚で自分の身体自身を客体的に受容するという過程は起こっていないが、主体としての身体は、重要な分節化を遂げることとなる。すなわち、底面から離脱する運動とその逆の運動にともなって、相反する二つの方向の力の実感が生じており、その結果、身体は、−方で、それらの実感を通して相反する方向を持った二つの部分として明確に分節化され、他方で、それらが、バランスというものを介して統合されるというかたちで、身体が構成されることとなるのである。そして、底面から離脱する運動の多様さに応じて、身体は、多様な力の交錯するバランスの場として構成され始めることとなるのである。

世界の構成に目を向けると、ここでは、姿勢空間に関する新たな規定性がもたらされている。すなわち、まず、それまで一方的によりかかるだけであった面が、そこから離脱していく面となり、さらに、上に述べたような身体の分節化の結果、面に分散してかけられていた力が、重心として、集約され始めるようになるのである。離脱する面、及び重心としての集約化という新たな規定性は、人間が体をおこしたり立ち上がったりするという場合、不可欠のもので、面から離脱させた体を、集約された重心の上に垂直軸として立て、さらに、その重心を自由に移し変えるということの中で、人間は座ったり立ったりしているわけなのである。

 

おわりに

身体と世界、自己調整といったいくつかの基本的な概念の相互の関連や性格づけに関して、十分納得の行く整理ができないまま、進めて行ったため、不十分なところを随分残してしまう結果となってしまった。

しかし、障害が重く寝たきりと呼ばれるような子どもの世界が、普通に思われているほど狭く単純なものではなく、きわめて豊かであるというわれわれにとってはもはや自明の事実となってしまったことがらの一端は、荒削りながらも紹介することができたのではないかと思う。

また、本来、もっと具体的な事例を細かく上げて実証的に検討していく必要があるにもかかわらず、その整理をするまでには至らなかった。しかし、こうした考察を進めるに当たっては、様々なかたちで関わりあいをもった子どもたちの具体的な姿が、たえず念頭にあったことも付け加えておきたい。

最後になったが、本稿の底を流れる基本的な発想は、東京水産大学教授で財団法人・重複障害教育研究所理事長の中島昭美先生より、学んだものがすべてであるといってよい。そして、本稿のもとになった文章は、重複障害教育研究所で学ぶものたちで、先生の還暦をお祝いするために作った小さな文集にのせたものである。それは、まだ、本年(1987年)の4月のことであった、それから、間もなく、8月に先生は心臓のご病気で、講演中の広島でご病床に伏されることとなった。障害の重い子どもの豊かな世界の姿を明らかにし、共に学びあいながら育ちあって行く仕事は、まだ、始まったばかりである。先生のご健康のご回復を心からお祈りするとともに、この仕事を、今後、いっそう深めていくことを自らの課題として自覚しつつ、本稿を締めくくらせていただきたいと思う。

 

引用文献

柴田保之 1986「重度・重複障害児の教育に関する基礎的考察─人間行動の成りたちの基礎に立ち返って」東京大学教育学部紀要第25巻

中島昭美 1977『人間行動の成り立ち』財団法人・重複障害教育研究所研究紀要第一巻二号

中島昭美 1979「課題学習とは何か」『講座・重度重複障害児の指導技術第5巻課題学習の指導』岩崎学術出版社

中島昭美 1983「足から手へ、手から目へ一重複障害児教育から見た認知の本質」サイコロジーNo.36サイエンス社

中島昭美 1984「精神についての学び方」『研究報告書第6号』財団法人・重複障害教育研究所

中島昭美 1987「自主シンポジウム・重複障害児の教育心理学的研究─その3・今後の課題テーマ設定の主旨」日本教育心理学会第29回総会発表論文集

中田基昭 1984『重症心身障害児の教育方法』東京大学出版会浜田寿美男1984『子どもの生活世界のはじまり』ミネルヴァ書房

村瀬 学 1981『初期心的現象の世界』大和書房

村瀬 学 1983『理解のおくれの本質』大和書房


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