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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> a. 調査 >> グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
長野県北信地域(旧信濃国)調査 
公開日: 2003/10/7
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長野県北信地域(旧信濃国)調査報告

1 調査目的

 調査の基本的なねらいは、本年2月に実施した愛媛県調査(リンク:愛媛県東予・中予地域(旧伊予国)調査報告)と共通する。今回の調査対象を長野県北信地域(とりわけ長野盆地南部)に設定した理由は以下の2点である。
(い)対象地域から出土した考古資料・データが豊富であり、これをもとにした地域環境への言及もなされている。こうしたデータ・研究の成果を、この地域における神社そのものの立地環境を確認することで、古代神社の実態を探る材料として活用するため。
(ろ)9世紀中頃のこの地域の神祇に対する朝廷の施策は相当に積極的であり、現在比定される神社の状況からその影響を見出すため。

2 調査日

 平成15年8月19日(火)〜8月22日(金)
 実際の調査は20日と22日に実施した。なお、19日は調査地への移動日であり、20日・21日には、今回の調査結果等も踏まえた「古代・中世の神道・神社研究会(第4回)」を開催した。研究会については別項を参照されたい。
リンク:第4回「古代・中世の神道・神社」研究会報告

3 調査先

 屋代須々岐水神社(千曲市屋代、調査時点では更埴市)
 史跡森将軍塚古墳ならびに更埴市立森将軍塚古墳館(千曲市森)
 長野県立歴史館(千曲市森)
 大宮神社(千曲市森)
 雨宮坐日吉神社(千曲市雨宮)
 武水別神社(千曲市八幡)
 馬背神社(上田市浦野)
 生島足島神社(上田市下之郷)

4 調査実施者

 事業推進担当者 岡田 莊司(神道文化学部教授)
 COE研究員 加瀬 直弥
 研究協力者 小林 宣彦(COE奨励研究員)
 永田 忠靖(文学研究科博士課程後期)
 鈴木 聡子(文学研究科博士課程前期)
 根本 祐樹(文学研究科博士課程前期)

*外部招へい研究者(敬称略)
 牟禮 仁(皇學館大學神道研究所教授)
 藤森 馨(国士舘大学文学部助教授)
 錦田 剛志(島根県立博物館主任学芸員)
 津田 勉(山口県護国神社祢宜)

 なお、研究会に参加した本学大学院文学研究科博士課程前期修了者3名、本学文学部神道学科学生1名は、この調査にも同行した。

5 調査の詳細
5-1 屋代須々岐水神社・雨宮坐日吉神社等に対する調査

 対象地域の神社の立地環境については、義江彰夫氏が「古代信濃における開発・環境管理と地域の支配」(『国立歴史民俗博物館研究報告』96集・平成14(2002)年)で論じている。今回の調査では立地環境・信仰要素を再確認し、義江氏が示した以外の研究の方向性が確認された。

地形分類図
地形分類図(『更埴条里遺跡・屋代遺跡群:含む大境遺跡・窪河原遺跡』総論編・長野県埋蔵文化財センター・平成12(2000)年より、記号を附して転載)

(い)鎮座地におけるもう1つの地理的特性
 須々岐水神社(地形分類図の(い))の境内には、「祝神社」が摂社として奉斎されており、もともとは一重山(標高457メートル)に鎮座していた。遷座理由としては、須々岐水神社の鎮座地が北に延びた一重山の突端部より約200メートル北西という近い場所に位置している点が影響したものと考えられる。こうした点を踏まえると、須々岐水神社=山に関わる神、という側面が浮き彫りになる。
祝神社
一重山
 この点を踏まえて、もう一方にある雨宮坐日吉神社(地形分類図の(ろ))の神事を確認すると、神輿が、沢山川を挟んだ対岸にある唐崎山(標高481メートル)の麓にある唐崎社(地形分類図の(は))に赴いている。日吉神社と唐崎山は200メートル程度の距離にある。
唐崎社
 以上、2社の立地から条里遺跡地域の東西境にある山とそれぞれ一定に関わっていたことが想定されよう。義江氏は前掲論文で、取水口の神=須々岐水神社、排水口の神=日吉神社、という見方をされているが、山との関わりは、これとは違った生活と神社との関係がうかがい知れる。
 仮に、山が信仰対象であるならば、山そのものが消滅しない限り祭祀の場の変化にはつながりにくい。神社も恒常的な祭祀施設である。こうした共通性は生活環境と神社との関係を考える上で1つの材料となろう(生活環境と祭祀の場の関係については、8月2日に実施した「古代・中世の神社・神道研究会(第3回)」において、笹生衛氏が指摘されている)。
リンク:第3回「古代・中世の神道・神社」研究会報告

水辺の祭祀跡から見た唐崎山


(ろ)屋代遺跡群6区に見られたいわゆる「水辺の祭祀」の跡
 2社のほぼ中央に位置する屋代遺跡群(上信越自動車道沿い)からは、古墳時代から平安時代初期にかけて、千曲川岸で祭祀を行ったと見られる遺物(玉や斎串など)が断続的に発見されている(地形分類図の(ほ))。出土遺物が発見された場所は同時代であっても複数見られるが、ひとまず出土地点が祭祀に関係していた場とみると、千曲川(ないしはその旧流)と、そこに水を流すための湧水坑を対象としている事は共通しており、この水を使用して開発された水田は、2社のある自然堤防の北側に展開されていた(前掲『更埴条里遺跡・屋代遺跡群:含む大境遺跡・窪河原遺跡』総論編)。
 その点に配慮して2社の立地を見ると、南側に比べると北側の落ち込みが激しい。とりわけ日吉神社については、社殿のすぐ北側から東側にかけて1メートル近く急激に標高が下がっている(単位精度3メートルの簡易高度計による測定)。現況を見る限りは、屋代遺跡群における「水辺の祭祀」と同様、千曲川に面して祭祀がなされたように推測される。
 先に示した義江氏の推測は、2社の南に流れる五十里川に関わる信仰と神社との関わりについてのものである。その一方で千曲川の神を理由は明確ではないが想定し、それらに対する祭祀が神社で行われたと見ている。今回の調査で確認できたことは後者に関連しよう。

5-2 名神大社・神階四位以上神社の調査

 今回は、武水別神社・馬背神社・生島足島神社の3社を対象に立地に関する調査を行った。ただし、対象となった神社を、平安時代における式内大社ないし神階四位以上社と比定する材料が現在はない(史料上社名が一致するのは近世・近代の事である)。最初に示したように、当地の神階昇叙は貞観(859〜877)初年に集中しており、全国でも類を見ないほどの昇叙を遂げている神社がある。武水別神社(無位から従二位)・馬背神社(正六位上から従三位)はそれに当たる。ただそれから間もない仁和4(888)年の千曲川大洪水(『類聚三代格』17赦除事・仁和4年5月28日詔)で激甚な被害を被ったと見られる。つまり、これによって鎮座地の流出・奉斎集団の離散等があった場合、これら神社が注目されていた期間はかなり短く見積もる必要があろう。これは、神社の比定に関してかなり不利な材料といえる。その点を踏まえた上で、今回の立地確認を行っている事をご了承頂きたい。

(い)武水別神社
 武水別神社は開析扇状地の扇端に接する砂れき層に鎮座し、東側を更級川が流れている。ちょうど屋代遺跡群6区の水路と同様の位置関係となり、鎮座地から地下水が湧出していたとすれば、千曲川(今よりも東側を流れていたと見られる)との間の氾らん原における水田開発に多大な影響を及ぼした可能性がある。なお、社殿の向きは南面であるが、先にも述べた屋代・雨宮の両社ばかりでなく、今回調査した大宮神社、その他にも粟狭神社(千曲市粟佐)等、千曲市域の神社の多くが南面しているので、ひとまず地域的な傾向の現れと考えられる。

(ろ)馬背神社
 馬背神社は東之宮と西之宮に分かれているが、それぞれ後背山から生成される扇状地の扇端の両端に当たる。扇状地の特性を考えれば水の信仰の可能性が高い。なお、社殿の方向はいずれも南面であるが、これは山を背にした向きでもある。

(は)生島足島神社
 生島足島神社は、周囲を池に囲まれた島に社殿(本殿の中にある内殿は長野県宝)があるが、これは整備されたものである。もう少し広い範囲で確認すると、尾根川が形成する扇状地の扇端に当たる。社殿が北西に面しており、摂社諏訪社(本殿は上田市指定文化財)に対している点や、国府の方向である事が指摘されているが、同時にこの社殿方向は扇央を背にした向きでもある。

6 総括と研究の課題

6-1 総括

 「神社資料データベース」の対象となる神社については、愛媛県調査で見られた程多くの信仰要素は見られず、いずれも扇状地と関係するという結果が確認された。今後は山に対する信仰と水に対する信仰の両面から検討する必要がある。また、水の信仰を検討するためには、この地域における農耕の形態も今後詳細に確認すべきであろう。
 差し当たって上の課題の解決にあたっても、屋代遺跡群のある地域は注目されるが、その地域の神社においては、義江氏の指摘する南部の後背湿地の開発の他に、山の信仰と、北側、すなわち千曲川側の水田開発に対する意識が確認された。水の信仰については、屋代遺跡群6区における「水辺の祭祀」や、笹生氏が紹介した常代遺跡の祭祀の実態が明らかにしているように、神社のある場以外のところで、複数にわたりなされる事もある。不動である山に対する信仰というのは、こうした祭祀を神社に収れんさせるための要素として注目されよう。山に限らず、何らかの自然特性が多く存在すればするほど神社として発展しうる可能性があり、愛媛県の神社における信仰要素の多さの原因もこれに関係しよう。

6-2 課題

 上の指摘については、もともと古代資料が神社に直結せず、現況を確認した神社が河川の流域付近という地形変化の激しい場所である点を考慮していないという批判が当てはまろう。本報告における問題提起は、古代神社の実態も、神社の本質も明らかでない現状においては、神社からできるだけ多くの信仰要素を抽出し、他の神社の要素と相互に比較検討すべきという認識に基づいているのであるが、特に古代神社を研究するにあたっては、今まで以上に、文献史料から見いだせる環境についても詳細に整理していかないと、調査結果の信頼性が高くならないだろう。
 また、愛媛県の調査で確認され、今回の調査で確認できなかった点として、地域支配との関係がある。この地域の南部には、4世紀前半に作られた、全国最大級の石室を持つ森将軍塚古墳(地形分類図の(に))があり、支配者の勢力のほどがうかがえる。また、「水辺の祭祀」に関わる出土品は、官衙と見られる場所の北で発見されているが、支配者側の動向と神社の関係については今回の調査でははっきりしなかった。例えば、名神大社クラスにもなると、国家レベルの立地と、狭い範囲での立地の両面を探る必要がある。今回の対象神社の中にはそうした神社ではないものも含まれるが、支配者の信仰意識は、特に信仰要素が複数存在する点とも密接につながると見られるので、この点の確認を今後の課題と位置付けたい。

文責:加瀬 直弥(COE研究員)
 
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