第4回「古代・中世の神道・神社」研究会


第4回「古代・中世の神道・神社」研究会報告

1 実施目的
1-1 概要
 現在、本プログラムの事業の一環である「神社と神道に関する基礎データの収集とその分析・研究」においては、古代の神社研究によって、いかなる点が解明され、またいかなる面で研究が立ち後れているのか、その確認を行っている。
 これは近年、神社に関わる資料分析が緻密になり、その成果が蓄積されてきている反面、その整理がなされていない事による。この確認作業において、これらの結果を整理した上で、論点・問題点については資料を再解釈し、これまでの説の妥当性と新たな方向付けの必要性を検討する。さらに、過去3回の「古代・中世の神道・神社研究会」の成果を踏まえて、研究発信の拠点形成をもくろむ。

1-2 経緯
 これまでの古代神社研究は、(1)神社に関する朝廷の政策の実態を把握するか、(2)朝廷の政策における神社の果たした機能の検討を行うか、という2点に集約されてきた。特にここ最近では(2)の研究が主流となっているが、本事業で社会における神道の社会的な役割を見いだす事を目的としている点に対応して、「神社と神道に関する基礎データの収集とその分析・研究」においても、朝廷との関係だけではなく、社会全体から見た神社像の抽出を方針に定めた。
 しかしながらこの方針を取ると、資料分析に特に注意する必要がある。それは、古代神社研究に使用する資料の性格が、他の時代と比べて特殊だからである。すなわち、これまで主に採用されてきた資料である文献資料(史料)のほとんどが朝廷の編さんにかかり、性格上も何らかの形で必ず朝廷に関係してくるからである。従来の研究が偏っていた主たる原因も、これによるものといえる。
 ただし、ここ最近においては、考古資料や、地理学的分析に基づくデータの蓄積などにより、そういった側面以外のアプローチによる古代の社会像も具体的になりつつある。これらから神社そのものの実態に迫る事ができれば、史料の持つ問題を克服できよう。
 もっとも、これらを神社の研究に結びつける作業は容易ではなく、現段階ではそれらのデータと神社との接点を確認するだけに留まらざるを得ないが、それをなしえただけでも事業目的を効果的に達成できる視点が開ける事になろう。また、朝廷編さんの史料とはいっても、朝廷に関わらない部分での神社の社会的役割を抽出する事は全く不可能ではなかろう。
 そこで原点に立ち返り、研究対象の軸を神社に置き、神社全般に関わる資料を改めて見直し、そこに見られる諸相をデータ化して、その上で社会全体を貫く性格か、あるいは朝廷との関係においてのみ見られる要素であるかどうか、確認する必要がある。
 そこで、本テーマ推進にあたって、神社に関わる諸要素を以下のように抽出し(括弧内はその例として、本調査で検討した小テーマ)、それぞれの見地から研究動向と研究課題を把握する事にした。

 A 時代的な特徴
  → 総論・神社の本質
 B 空間
  → 祭祀場(神社環境・社殿成立)
 C 信仰主体
  → 祭祀者(神主・祢宜・祝)
 D 信仰対象
  → (神社祭神に対する崇敬姿勢)
 E 行為
  → 祭祀(国家祭祀・氏神祭祀)
 F 影響
  → 祭祀の及ぼす効果(神仏交渉・神社経済)

 これにもとづいて、COE研究員ないし大学院生が先行研究の整理を行い、さらに、古代神社研究に対する高度な知識を有する外部研究者を招へいして、研究発表を行った。今回はこの研究会に先立って、長野県更埴市(現:千曲市)域の調査を行い、地域環境と神社の関係を把握し、そこで得られたデータ等を踏まえてのコメントを同時に得る事にした。

2 開催日
 平成15年8月20日(水)17:00~22:00
 平成15年8月21日(木) 9:00~18:30
 なお、本研究会は、「長野県北信地域調査」の一環である。

リンク:長野県北信地域(旧信濃国)調査報告


3 開催場所
 公営国民宿舎永保荘(長野県長野市若穂保科)
 
4 発表者・討議参加者(担当した内容については5-1参照)
 事業推進担当者 岡田 莊司(神道文化学部教授)
 COE研究員    加瀬 直弥
 研究協力者   小林 宣彦(COE奨励研究員)
         永田 忠靖(文学研究科博士課程後期)
         鈴木 聡子(文学研究科博士課程前期)
         根本 祐樹(文学研究科博士課程前期)

*外部招へい研究者(敬称略)
 牟禮 仁(皇學館大学神道研究所教授)
 藤森 馨(国士舘大学文学部助教授)
 錦田 剛志(島根県立博物館主任学芸員)
 津田 勉(山口県護国神社祢宜)

 なお、これに加えて、横山直正(文学部神道学科)が、D・祭神論についての共同研究を行い、これに基づく発表を行った。また、本学大学院文学研究科出身の研究者4名が参加した。

5 研究会の詳細

5-1 発表概要・質疑を経て得られた知見と今後の課題
(これについては、各発表者が作成した要旨を提示する)

B 「神社創立論、立地・環境論」 根本 祐樹
 古代神社の創立、立地・環境に関して、これまでの研究動向と今後の課題について報告された。始めに神社立地・環境論の研究動向については、これまでの神社の創立、立地・環境に関する研究を①式内社研究(主に式内社の鎮座地の比定、分布傾向に関する研究)②考古学的研究(古墳、祭祀遺跡との関連性の中で神社を位置づけた研究)③歴史地理学的研究(神社の鎮座地と周辺環境に関する研究)の3分野に分類した上で各々に説明を加え、最近の研究動向として前回の研究会における笹生氏の研究発表を踏まえた上で、自然環境と人間生活との歴史を総合的に解明しようとした「環境歴史学」と文献史料との接点を模索する形での神社研究についても報告を行った。
 上記の研究動向を踏まえた上で、今後の研究課題として①自然科学・考古学などの研究成果と文献史学の研究成果をどのように結びつけていくか②史料の限定される地域での方法論的問題③祭祀と神社との関連性といった3つの問題が提起され、これらについて参加者からコメントがなされた。牟禮氏からは式内社研究の様々な問題点を理解した上で今後細部にわたって研究を行う必要があるという指摘がなされた。この点に関して藤森氏からも、個別的な立地・環境の把握だけに留まり、立地・環境「論」として成立しうるのかというコメントがなされた。また、岡田氏からは古墳と神社の関係についての指摘があり、これについて錦田氏から今後神社と周辺遺跡・古墳についてのデータを整理していく必要があるとのコメントが寄せられた。

B 神社創立論、立地・環境論の諸課題~最近の研究動向と問題の所在~ 錦田 剛志
 最大の問題として、「神社」とは何か、如何に定義して語るのか、という点がある。報告ではこの問題意識を重視し研究動向と問題の所在を整理した。先ず主たる従来説として建築史学の福山敏男氏等の学説を中心に検討した。次に、最近の主要動向として次の2点に注目した。一つは、福山氏等の従来説に対する批判的検証と新たな思考的枠組の模索が建築史学からなされている点。もう一つは、近年発掘される弥生・古墳時代に遡る特殊もしくは大型の掘立柱建物跡をめぐり神殿や祭殿としての性格や後代の神社建築との系譜関係を積極的に認める論説とそれに対する批判論の展開をとり上げた。そして主たる問題の所在として、神殿、神社等の用語が研究者によって十分な概念規定を経ることなく安易に語られている点、とりわけ神社をどう定義づけるのか、一般名詞の如く広義に捉えるのか、古代史上の律令祭祀に表出した法律上の用語として狭義に捉えるのかなど、何を以て神社の成立、創立とするのか、という究極の問題意識に帰結する点を指摘した。また、古墳時代以前の祭祀遺跡の立地・環境と後代のいわゆる「神社」のそれについて両者の連続性、非連続性を見極めるため比較検証すべき点なども指摘した。現状は学際的な「神社創立論」への視座をあらためて定立せねばならない状況といえるが、予見として神社の成立過程は決して一様ではなく古代以来今日の神道祭祀をも貫く多様性の中で捉えるべき問題であることを述べまとめにかえた。

C 古代神職論 永田 忠靖
 古代神職論に関しては、多くの先人によって研究がなされている。おそらくその一番の焦点は各神職の定義だろう。今回は「神主・禰宜・祝」を対象とした研究整理を行った。 まず初期の研究においては三者の区別に関しての論究が主になされている。その後においては、「神主」と「祝」の性格について言及する研究がなされてきており、さらに「神主」を祭祀との関わりから、その性格に触れられるようになる。しかし未だに神職の相対関係も明確ではなく、各神職の性格・定義などもベクトルによって大きく差異が見られる。今研究会では以上の先行研究の整理を踏まえ、津田勉氏と藤森馨氏による報告が行われた。現役神職である津田氏は、「古代神職総説」と題して初期の神職には祝のみがあり、この祝に他の神職が付随し、平安時代後期までに神職組織を形成したと提示された。藤森氏は「古代における神主」と題して、神主が臨時職であったことを確認する中で、禰宜・祝との性格の違いとして、禰宜・祝を公的職であるのに対し、神主はそういった性格のものではないとされた。古代神職論の研究を進めるにあたり、様々なベクトルでの視点が要されることが確認された。今後は兼ね合う研究との相互関係を研究に反映させていく次第である。

C 古代における神主 藤森 馨
 神主という用語は、今日専業の一般神職を指すことから、古代においても専業神主を指していたと考える嫌いがある。しかしながら、古代の神主という用語を厳密に検討すると、今日とは違う側面が見えてくる。変遷は見られるものの、古代社会にあって神主は、専業神職を指さず、祭りに際して臨時に任命される存在であったことがわかる。神主という用語は、『古事記』崇神天皇条の大三輪祭祀の意富多々泥古命の任用が初見記事である。天皇は疫病発生に際し、自ら大物主神を祭祀することなく、神言に従い、大物主大神の後裔とされる意富多々泥古命を探しだし神主に任命し、祭祀を執行させ、疫病の猖獗を鎮静させている。この大三輪伝説は、周知のように『日本書紀』にも見られるが、同様の記事で、記紀二典によれば、神主は臨時に任命されるものと記されている。大物主と意富多々泥古命との関係は、祖神と子孫という典型的な氏神祭祀の形態であるが、こうした氏神祭には、祭祀に臨んで、氏上(後世では氏長者もしくは卜定された氏人)が臨時に神主役を勤仕するというのが、他の氏神祭でも一般であったものと思われる。

C 古代神職総説 津田 勉
 神社における神職の名称は多数にのぼり、『古事類苑』では、「祭主・国造・宮司・神主・神長・祢宜・祝・預」が列挙されている。
 しかし、管見によれば奈良時代では、国史に見いだされる神社の神職名は「宮司・神主・祢宜・祝」のみである。したがって、神職が置かれた神社では、これらの職名が主な神職名であったものと思われる。しかも前述したように奈良朝後期では、それぞれの神社の規模の大小や社格に応じて「宮司・神主・祢宜・祝」の何れの職も神社主長職名として通用されていたと考えられる。
 さらに、『日本書紀』では「神主」と「祝」のみであるが、奈良朝以前になると、神主は大和朝廷と特別親密な関係を有する限られた神社にのみ設置された職と考えられることからすれば、奈良時代以前に於ける大部分の神社は「祝」のみが存在していたのではないかと思われる。
 したがって最初期の神社神職には祝職のみがあり、この職に神主職、祢宜職、宮司・大宮司職といった職が次々に架上された神職組織が平安時代後期までに形成されたと思われる。

D 古代の神社祭神について 加瀬 直弥
 神社に関わる祭神についてのアプローチ方法はかなりの数になるが、差し当たって神社の成立=神社の本質に触れるものとして、現在通説的な理解となっている直木孝次郎氏の「森と社と宮-神観念の変遷と社殿の形成-」(『古代史の窓』学生社・昭和57(1982)年)に注目して、その見解が妥当であるか考察を加える。直木氏は、祭祀の場が「もり」から「やしろ」に変遷した理由のひとつとして、神を恐れる意識から貴い意識へと変化した事を指摘している。
 しかし、六国史にみられる神に対する表現は依然として、「恐」・「畏」や、平安中期に「おそれる・かしこまる」と訓まれていた「敬」など、恐れに関連するものが多く、貴いとみる表現はほとんどみられない。
 こうした点から、社殿成立=神社で祭祀を行う形態の成立に伴って、その祭神への意識が変化したとみる事には疑問が残る。

E 神社における国家祭祀 加瀬 直弥
 国家祭祀研究は現在、主体である国家の意図に重点を置く手法が確立されている。これは昭和40年代に、イデオロギー統制の政治的本質を探るための材料として注目されたからである。こうした研究は、緻密・詳細な史料分析をもたらした反面、「国家祭祀」という言葉を、祭祀以外の神社政策全般を指す意味として捉える傾向を生み出した。
 今回は、「国家祭祀」として位置づけられている祭祀が、いかなる祭祀上の特徴を有しているのかという点について確認した。その一例として、神祇令に規定されている班幣儀礼を伴う祭祀をとり上げ、祭祀において使用する祝詞を見ると(『延喜祝詞式』)、特定の名称が挙げられていない班幣対象神社に対しては、祭儀を斎行し幣帛を奉る旨の文言のみ記載されているという共通性が見い出せた。
 一方、祈年祭・月次祭祝詞で具体名が挙げられている神社や、朝廷祭祀の古態を有しているとされる相嘗祭に預かる神社については、奈良時代以前の天皇の居所であった大和盆地の生産活動に密着したものが多い。皇居への近接性という意味では、平安遷都後にみられる公祭においても同様であり、祭祀対象とその意識は、都城周辺に集中する傾向の一貫している事が明確となった。
 これに基づいて、参加者による批評・討議がなされた結果、この傾向が「国家」による祭祀の特性であるのかどうか、また、大多数の神社に願意が伴わない点と全国的な官社の展開についての関係を明確にする必要性が明らかになった。

E 氏神祭祀論 鈴木 聡子
 氏神祭祀論を検討するに当たって、今回の発表では、これまでの研究を戦前と戦後に分けて比較した。戦前の研究史は、「氏神」を氏の起源に求め、氏神は祖神かどうかという問題に注目し、さらに、氏神社と祖霊社が同時期に存在していたという論が展開されていたことが特徴としてあげられる。
 戦後の氏神研究史では史料上「氏神」という語が初見される奈良時代後期以降に着目している。具体的には、1,この時期における氏神の形成と背景・狭義の氏神信仰について、2,平安時代における氏神祭祀の公祭化していく過程について中心に論じられていることが特徴としてあげられる。このように戦前と戦後の氏神研究史を比較してみると、「氏神」という語を定義づける際の史料の扱い方に差があることが見えてきた。今後の課題として、戦後の研究をさらに進展させる形で、地域・氏族・神社の繋がりについて史料を中心に検討し、古代における氏神の実態を探っていきたい。

F 古代の神社経済について 小林 宣彦
 「古代の神社経済について」という題目で、古代の神社と経済について発表をし、朝廷が描いた神社経済の理想像とその実態との乖離を指摘した。「神社の修理=神戸・祢宜・祝・神主。神社経済の管理=国司。」という朝廷の理想は、様々な要因から「神社の修理=神戸・祢宜・祝・神主。神社経済の管理=神主。」というものへと変化したのである。この発表について、主に藤森馨氏・錦田剛志氏から、今後の課題について指摘がなされた。藤森氏からは、神戸と祝との関係について指摘がなされた。神社経済と神職とは「神戸」によっても強い関連性を持っており、今後は両者を視野に入れた研究が求められよう。そして、錦田氏からは「木簡などから神社経済の実態を探ることが出来るのではないか」という指摘がなされた。ただし、考古資料集成という物理的な作業は、経験や考古関係者の幅広いネットワークなどが必要であるとの指摘も同時になされた。今後は、木簡や墨書土器などの神祇関係の考古資料を、全国から國學院大學に収集させるシステムを作り上げる必要性があろう。

第4回研究会の様子

5-2 総括・今後の展望と課題
 これらの各論報告が終わった後、牟禮仁氏によって、神社研究をどのようにすべきかという見地からの発表があった。牟禮氏は、官社・非官社を合わせた古代神社の実数について、『出雲国風土記』と『和名類聚抄』双方の分析から約25,000社と推測された。その上で「官社」が国家ないし諸国が祭祀主体である神社であり、「非官社」が氏の祭祀にかかるものとされている。神社の実態を把握するためには、この官社と非官社の性格の差異を明確にすることで、官社についての定義を言及すべき旨を主張された。結果、この点については、国家祭祀における論点の一つとして把握する事となった。
 最後に、参加者全員で今後の事業推進の方針を確認した。まず、神社の定義がはっきりしないために、上に掲げた全ての項目において研究史上の混乱を来しているという現状を重視し、当該事業で何を研究対象にするかという範囲の設定を前提として推進する事にした。
 また、最も神社の定義設定に直面し、文献以外の資料を使う関係上より注意深い整理が必要となる、祭祀を行う場としての神社の研究(B)を、重点的に考察する事にした。

文責(作成者が明示されている部分以外):加瀬 直弥(COE研究員)





日時:  2003/10/29
セクション: グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
この記事のURLは: http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=77