「縣社荒倉神社略記」には「往古延喜式内伊氐波神社ニシテ由良八乙女ヲ奥院トシ後西羽黒ト称シ東羽黒ト一対ノ大社ナリ」とあり、東羽黒(羽黒山あるいは出羽三山)と一対の関係であったと記されている。山口村と竹野浦村の中間地点の山内には三十三もの宿坊があったが、それが失われたのは天正19年(1591)頃と推定される。その頃この地は武藤一族(→「武藤家」参照)が治めていたが、一揆を扇動したとの疑いをかけられ改易した。安倍親任「参考安倍系譜 春」には「山内三十三坊ヲ始(中略)一山永ク滅亡ト玉リシ也」と記されている。
「われ逝くもののごとく」の本文には「一切の行法ともども一山を挙げて、羽黒に逃れ去ったからだといいます。」とあるが、「羽黒」へ逃れたとの説を裏付ける資料は確認できていない。
また、森の師匠である横光利一が戦時中に疎開していたのもこの地で、その時の経験をもとに「夜の靴」を執筆している。