上りは、7月下旬に蝦夷を出帆し、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して11月上旬頃に大阪に到着するルートで、鰊粕や数の子などの海産物を運んだ。下りは、3月下旬頃に大阪を出帆し、航路上の港に寄りながら北上し5月下旬頃に蝦夷に到着するルートで、蝦夷地の人々への日常生活品などが運ばれた。「和漢三才図会」(江戸時代)には、海路として庄内の「鼠ヶ関」「加茂」(→「加茂」参照)「酒田」(→「酒田」参照)が記載されている。この内酒田は、江戸初期に河村瑞賢が開拓した西廻り航路によって大阪と直結したことで、上方の船の出入りが大きく増えることで繁栄した。井原西鶴の「日本永代蔵」に「西の堺、東の酒田」と記されるほどであり、これを背景に鐙屋や本間家などは多大な富を築いた。