宇治文書によると享和3年(1803)の正月に鶴岡(→「鶴岡」参照)と酒田(→「酒田」参照)、そして加茂(→「加茂」参照)の旅籠屋だけが遊女を置くことを藩から許可されている。鶴岡、酒田とならんで加茂が許可を得ているのは、船での人の出入りが非常に多かったためだとされる。明治初期には、加茂坂(→「加茂坂」参照)入口の山際を開拓した緑町に遊廓街がつくられた。明治10年(1877)には、八軒の遊女屋が確認されている。ただ旅籠屋に遊女を置いた兼業も多く、実数はそれを上回るものだった。しかし加茂の変遷は烈しく、昭和初期頃には緑町の遊女屋は一軒もなくなった。