日清戦争は近代日本において最初の本格的な対外戦争であり、日本にとって、大きな重荷となった。山形県から出征した兵卒は、召集された後予備兵を含めば、5000人を超えると言われている。一般県民にとっては、明治27年(1894)8月25日の最上郡・飽海郡の洪水禍、同年10月22日の庄内大震災の復興のほうが問題であったため、日清間の緊迫は必ずしも身近ではなく、熱狂的に開戦を迎えたわけではなかった。出征風景は日の丸の小旗を振る家族縁者からの見送りを受け唱和を繰り返す素朴なものだった。出征者は、衛生環境が悪く、予防体制が整っていなかったため、赤痢、マラリヤ、コレラなどの伝染病、悪疫に苦しめられ、莫大な犠牲となった。山形県でも400人以上の死者が出ている。日清戦争後、山形県では大軍備拡張が行われ、日露戦争(→「日露戦争」参照)で活躍する「歩兵三十二連隊」が設置されることとなった。兵員に労働力が多く徴用されたため、県民の生活にも大きく影響を及ぼした。