日露戦争は、日清戦争(→「日清戦争」参照)に比べ、大規模かつ苛烈な戦いであった。この戦争において、山形県では12000人を超える出征者が出征し、1360名が戦死した。市町村による軍需品の供給、愛国婦人会山形県支部が明治36年(1903)に設立されていたなど、県民ひとりひとり、民間の団体、市町村や県そのものまでもが、戦争遂行のための協力組織あるいは協力の枠組みのなかに位置付けられ、一丸となって銃後活動を展開していた。徴兵の拡大によって徴兵年齢に達した青年たちの比較的多数が現役兵として兵役についたため、貴重な労働力が失われた。政府は明治37年(1904)4月に「下士卒家族救助例」を交付し、留守家族に経済的な方法で救護の手を差し伸べたが、政府にその余力はなく、「隣保相扶」として国民に転化た。それをうけて「加茂町出征軍人家族救護会」など各地に戦時協力組織が結成された。山形県に設置された「歩兵三十二連隊」が属していた「第八師団」は熊本の「第六師団」とともに陸軍最強の師団と目され、明治38年(1905)1月下旬の黒溝台会戦で大きく活躍した。