国学院大学法学部横山実ゼミ


浮世絵の世界への誘い


横 山 実

日比谷高校昭和37年卒業の同期会が、2003年11月8日に日本プレスセンタービルで開かれた際に、催し物が行われました。その一環として、三点の浮世絵が展示されました。展示の案内文は、以下の通りでした。

 私たちは、高校までの美術の時間で、主として西洋の美術を学びました。明治以来、西洋の文明に追いつくことを目標にしていたので、美術の分野でも、西洋追随主義がはびこっていたのです。私が、はじめて浮世絵の展示を見たのは、大学2年の時です。東京オリンピックを記念して、リッカーの社長が、コレクションの浮世絵を、有楽町の本社ビルで展示したのです。その時、私は、日本にもこのような美術品があったのと、驚嘆しました。そして、浮世絵が19世紀の半ばに、西洋の画家たちに、とくに、エドゥアール・マネやエドガー・ドガなどの印象派の画家たちに、影響を与えたことを、納得したのでした。

 今、世界はグローバリゼーション(地球化)を迎えており、日本の伝統的な生活様式が消えようとしております。浮世絵の世界でも、複製画の制作によって、かろうじて彫り師や摺り師の技が受け継がれているに過ぎません。その中で、日本的なものを求めてやってくる外国人は、浮世絵に大きな関心を示しております。しかし、日本人、とくに若い日本人は、ほとんど実物の浮世絵を見たことなく、たんに古い時代遅れのものとして、見過ごしております。日比谷高校の同期の皆さんの多くも、おそらく、浮世絵を見たことがないことでしょう。浮世絵は、美人画、役者絵、相撲絵、風景画など、いろいろなモチーフで描かれております。それらは、本来、庶民の楽しみのために提供された職人技だったのです。ですから、肩肘を張って、美術品として鑑賞するというのではなく、自分自身の目で自由に見て欲しいのです。今回、日比谷高校同期会の会場で展示されるのは、三点です。その簡単な解説は、以下の通りです。

葛 飾 北 斎

[生没年:宝暦10年から嘉永 2年、 作画期:安永 8年から没年]

 北斎は、19歳のときに、春章に弟子入りする。初めは、春朗の名で、役者絵や美人画を描いていた。その後、勝川派から破門され、貪欲にいろいろな画技を学び、晩年には、独自の絵の世界を展開する。彼が、文政 6年(1823年)頃に描いた揃物「富嶽三十六景」は、風景画の傑作として、世界的に有名である。

 今回展示されるのは、富嶽三十六景の中の「隠田の水車」である。これは、現在の表参道付近が描かれている。富嶽三十六景では、労働の場面が描かれており、ここでの人々は、水車小屋での脱穀の仕事に携わっている。傍らでは、子どもが亀で遊んでいる。

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歌 川 廣 重

[生没年:寛政 9年から安政 5年、 作画期:文政11年頃から没年]

 絵が好きだった廣重は、15歳頃に、豊春の弟子で初代豊國に次ぐ力を持っていた豊廣のもとに入門した。当初は、美人画や武者絵を描いていたが、天保 2年(1831年)頃に風景画の揃物「東都名所」を出版して、絵師として評価されるようになった。そして、その2年後に、竹内保永堂から55枚の揃物「東海道五十三次」を出し、絵師としての地位を不動のものにした。北斎や廣重の絵には、鮮やかな青色が使われている。これが可能になったのは、文政以降、化学染料のベロ藍が、外国から入ってくるようになったからである。このベロ藍があったからこそ、北斎や廣重が、鮮やかな風景画を描くことができたのである。

 今回展示されるのは、廣重の晩年の作である「名所江戸百景」の中の「大はしあたけの夕立」である。この絵は、ゴッホが模写したことでも有名である。夕立に見舞われて、大橋の上で人々は逃げまどっている。雨に煙る対岸が、「あたけ」である。

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伊 東 深 水

[生没年:明治 31年から昭和47年]

 日本画家の鏑木清方の下で、子どもの頃から絵を学ぶ。大正4年に第9回文展で入選してから、美人画家および風俗画家として認められるようになる。浮世絵の衰退を打破するために、版元の渡辺庄三郎は、大正4年から新版画運動を起こした。その時に、渡辺は、若手の画家である深水を抜擢したのである。新版画運動は、昭和の初めには、海外でも評価されるようになったが、その後は衰退した。なお、朝丘雪路は、深水の娘である。

 今回展示されるのは、美人シリーズの中で制作された「蚊帳をつる女」の絵である。これは、昭和4年に制作されている。すでに、西洋画の影響で、250部の限定版として出版されている。

Picture painted by Hokusai

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