国学院大学法学部横山実ゼミ


歌麿の肉筆画三部作「雪月花」は本物か(3)

「深川の雪」は偽作


横 山 実

「深川の雪」が偽作である根拠

歌麿の後期の絵は、粗製乱造されて、寛政初期の作品のような輝きを失っています。私は、寛政後期には、美人画の第1人者の地位は、初代歌川豊国に取られたと推測しています(このホームページに掲載した「浮世絵師歌麿の盛衰」をお読みください)。

NHKの放映によると、「深川の雪」は、歌麿の晩年の1802年から1806年の間に描かれたと推測されています。文化元年(1804)には、『絵本太平記』関係の版本に関連して、一枚絵が取り締まられた際、歌麿の錦絵も対象となり、歌麿は、入牢および手鎖50 日の刑罰を受けています。そして、その2年後の1806年に亡くなっています。NHKの放映では、栃木の豪商が、亡くなる直前の失意の歌麿を招いて、最後の大作「深川の雪」を描かせたというのです。しかし、酒井さんが指摘するように、その絵を本物と判断するには、多くの疑問があるのです。ここでは、「深川の雪」で描かれた女性たちが、笹色紅(NHKの放映では、そのように表記していましたが、専門家は「笹紅」と読んでいます)をしていることを、決定的な偽作の根拠として示しておきます。

歌麿が亡くなった後に、弟子の一人が、二代目歌麿して、美人画を出版しています。その一つが、下の絵です(落款は、初代歌麿のものと見分けることが困難なほど、そっくりです)。その絵で描かれている女郎は、歌麿の後期に描かれた美人とそっくりですが、笹色紅をしていません。

二代目歌麿は、人気を得ることが出来ず、表舞台からすぐに消えてしまいました(大量出版の浮世絵では、版元は、人気がなくなった絵師に、絵を描く機会を与えなくなるのです)。文化期(1804〜1814年)に美人画の絵師として評判を得たのは、菊川英山です。リッカー美術館は、1985年の秋に「−文化文政 浮世絵美人画中興の祖− 菊川英山美人画傑作展」を開催しています。ここの展示品からは、英山が描く美人は、歌麿風から独自性が出てきたことがわかります。図録に掲載された美人画のいずれも、女性は下唇に笹色紅を塗っていないのです。下の絵は、彼が描いた「風流雪月花」のうちの月の図です。右上方のコマ絵には、高輪の月と書かれています。そこでは、高輪の高台が月見の名所になっていることが示されています。この絵で描かれた女性も、笹色紅をしていません。

文政期(1818〜1830年)になって、笹色紅が流行しました。その流行を追う女性を描いて、美人画家の第1人者となったのが、英山の弟子である菊川英泉です。その代表作の一つが、今様美人十二景です。下の絵は、下町の鉄火娘が、笹色紅を下唇に塗っているところを描いています。

この絵から明らかなように、初代歌麿が、笹色紅の女性を描くことは、絶対にありえないのです。それゆえに、「深川の雪」は、歌麿の死後に描かれた偽作なのです(2014年4月10日執筆)。

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