「吉原の花」が偽作である根拠
NHKの放映によると、歌麿の肉筆画「吉原の花」は、寛政3〜4年(1791〜92)頃に、栃木で描かれたということです。松平定信が老中首座として在職していた1787年〜1793年の間、幕府の風紀取締りが強化されました。1971年には、歌麿のスポンサーであった蔦屋重三郎が、風紀を乱す本を出版したということで、手鎖および家財の半分没収を科せられています。NHKでは、当時、美人画を描いて評判を得ていた歌麿が、幕府に睨まれることをおそれて、栃木に逃避し、そこで「吉原の花」を描いたとされています。
ところで、当時の歌麿は、ふしだらな女性を描いていたのでしょうか。当時の美人画の第一人者は、栄之です。栄之は、武士出身で、高雅な気品をただよわせる美人を描いています。下の絵は、歌麿が寛政5年頃に描いたものです。そこには、栃木の川岸松蔭の狂歌が挿入されています。この絵で描かれた女性は、品良く描かれています。歌麿は、寛政の初めには、栄之風の美人画を描いていたのですから、幕府の取締りをおそれて、栃木に逃避する必要はなかったはずです。
なお、庶民出身の町絵師であった歌麿には、栄之のように、出生の記録が残っていません。そこで、栃木と縁が深かった歌麿は、栃木出身であるという説もあります。この説によれば、栃木の豪商たちが、地元出身の歌麿を応援するために、スポンサーになって、蔦屋重三郎に資金を提供して、自分の狂歌入りの美人画を歌麿に描かせたということになります。NHKの放映によれば、狂歌の縁で歌麿は、栃木の豪商と知り合ったとされています。狂歌を楽しむ商人や知識人は、栃木以外の都市にもいましたので、NHKのこの説明は、説得力に欠けています。
歌麿の肉筆画「吉原の花」は、遊郭の1階には、華やかな花魁や女郎たちが描かれています。そして、2階には、高貴な家の女性たちが遊んでいる姿が描かれています。NHKの放映では、それは、寛政の改革への抵抗であり、栃木という地方都市からの異議申し立てであると説明しています。当時、町絵師の歌麿や彼のスポンサーである栃木の豪商が、このような異議申し立てをすることができたのでしょうか。江戸時代には、出版や交通網が発達しており、地方における情報も、江戸にすぐに伝わります。ですから、栃木で異議申し立ての絵を描いた場合、歌麿が江戸に戻れば、幕府からお咎めをうけることは、必定だったはずです。歌麿は、そんな“やばいこと”をしたはずがありません。
「吉原の花」で描かれている一人の女性は、徳川家の三つ葉葵の家紋の服を着ています。江戸時代の町絵師は、幕府批判に繋がるような武士に関する絵を描くことは禁じられていました。ですから、忠臣蔵の絵も、歌舞伎の舞台絵としてしか描くことができなかったのです。そのような状況の中で、しかも寛政の改革で取締りが強化されていた状況の中で、栃木とはいえ、歌麿が、徳川家の家紋のある服を着た女性を描くことができたとは考えられません。徳川家が朝敵になった明治時代になって、この絵が描かれたと推測するのが自然でしょう。
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