国学院大学法学部横山実ゼミ


岩佐又兵衛は、浮世絵の元祖として蘇るか


横 山 実

(この随筆は、ゼミ誌から転載しました。)

日本法制史の研究者である小林宏教授によると、法制史の研究の業績は、新しい資料を発見し、それを解釈することから生じるという。そこで、この随筆では、盆踊りの絵の掛け軸(縦24cm、横19cm)を根拠にして、推論を試みる。その掛け軸とは、異端の絵師である岩佐又兵衛勝以(1578-1650年)が描いたといわれるものである。

浮世絵の絵師の伝記を記述した最も古い文献は、太田蜀山人(1794-1832年)が原撰した『浮世絵類考』である。この原典は、その後、1800年に笹屋邦教が「古今大和絵浮世絵の始系」を加え、1802年には山東京伝が追考を記すような形で、何回かの補足をされながら、後世に受け継がれていった。その『浮世絵類考』では、岩佐又兵衛について「按するに是世にいはゆる浮世絵のはしめなるべし」と、書かれていた。つまり、「古今大和絵浮世絵の始系」をたどる文献において、すでに19世紀のはじめには、岩佐又兵衛は、浮世絵の元祖という地位を与えられていたのである。ところが、砂川幸雄著『浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか』(草思社、1995年)で詳しく述べられているような事情で、20世紀の半ばになると、岩佐又兵衛は浮世絵の元祖の地位から引きずりおろされ、その地位は、見返り美人の絵で有名な菱川師宣に、与えられることになった。

龍田舎秋錦が改撰した『新増補浮世絵類考』(1865年)では、菱川師宣について「土佐流の画風を好み、浮世絵又兵衛の筆意を倣て一家をなせり」と記述されている。つまり、江戸時代の民間の文化人によって書かれた文献では、明らかに、浮世絵又兵衛、すなわち、岩佐又兵衛に倣った菱川師宣には、浮世絵の元祖の地位が与えられていなかったのである。それにもかかわらず、どうして岩佐又兵衛は元祖の地位を奪われたのであろうか。

日本経済新聞は、日曜日の特集「美の故郷」で、岩佐又兵衛について、3回の連載をおこなった(1997年2月16日、2月23日、3月2日)。その記事や砂川氏の本によると、岩佐又兵衛は、戦国の武将である荒木村重の側室の末子として生まれ、幼児の時に信長による荒木一族への処刑を免れた。成人して絵師の道を歩んだが、彼は、当時画壇を支配していた狩野派や土佐派の流儀を踏襲せず、独自の絵を描いた異端の絵師となった。京都および越前に住んでいた頃には、お抱えの絵師にはならず、自由に絵を描いていた。しかし、絵師としての名声は高まり、晩年には、将軍家光の要請で、川越の東照宮のために絵を描くことになり、江戸に行き、そこで生涯を閉じた。

岩佐又兵衛は、古典や故事に題材をとったオーソドックスな絵のほかに、復讐劇の長編大作絵巻を描いたことで有名である。また、風俗画を描いたともいわれている。しかし、絵巻や風俗画には、落款を残さなかった。その結果、謎の絵師「浮世又兵衛」としての伝説が、残ることになった。

まずは、半世紀後に、近松門左衛門が、絵師「吃の又平」を主人公にした浄瑠璃「傾城反魂香」を書いた(初演は、1708年)。それが大当たりとなり、「吃の又平」のモデルとされる又兵衛の名前が、知れ渡ることになった。この芝居は人気があって上演を重ねたので、江戸の末期には、浮世又兵衛の伝説が庶民の間に広く共有されることになった。

明治維新直後の日本人は、日本古来の美術を軽視するようになっていた。そのような状況で、日本の美術の価値を啓蒙したのが、フェノロサであった。そのフェノロサも、江戸時代の記録の基づき、岩佐又兵衛に浮世絵の元祖の地位を認め、彼の絵を高く評価していたのである。

ところが、明治19年に、川越仙波東照宮の拝殿を飾る「三十六歌仙扁額」の裏に「絵師土佐光信末流岩佐又衛尉勝以図」という文字が発見され、岩佐又兵衛の本名が勝以であることが判明した。これ以降、「勝以」の落款のある絵が、注目を集めることになった。この落款のある絵の多くは、和漢の古典や人物故事を題材にする絵であった。これらは、上品な絵であったために、従来岩佐又兵衛作といわれてきた風俗画を、どのように解釈したらよいか、問題が生じることになった。そこで、岩佐又兵衛をめぐって、華やかな論争が巻き起こった。

昭和3年には、第一書房社主の長谷川巳之吉氏が、無款の山中常盤物語絵巻を入手して、これを岩佐又兵衛の名品であるとして公表した。それを支持して解説を書いたのが、ジャーナリストの春山武松氏であった。それに反対を表明したのが、笹川臨風氏や藤掛静也氏であった。当時、これは「官学アカデミズム対在野の好事家」の論争として注目された。

その後、藤掛氏は、東京帝国大学の教授となり、浮世絵の学界に君臨することになった。彼は、真贋の標準を落款におき、無款の絵巻や風俗画を岩佐又兵衛の作と認めるのを否定したのである。その見地からすれば、岩佐又兵衛の絵は、古典的題材を扱ったものだけで、「又兵衛は時様の風俗画も描いていない」ということになる。この主張は、春山武松氏が指摘するように、論理性に欠け、非科学的なものであった(砂川幸雄、前掲書、281頁)。しかし、浮世絵学界における藤掛氏の影響力は、絶大であったため、第2次大戦後は、敢えて藤掛氏の説に異を唱えるものはなくなった。そこで、いつしか、浮世絵の元祖の地位は、藤掛氏が唱えたように、菱川師宣に与えられるようになってしまった。現在では、浮世絵に関する辞典の多くにおいて、「岩佐又兵衛は浮世絵の元祖」とは書かれておらず、場合のよっては、その名前さえ記載されていない。つまり、藤掛氏の学界のおける権威によって、岩佐又兵衛の名前は、美術史から抹殺されたのである。

岩佐又兵衛を元祖とするのを否定する根拠は、どこにあるのであろうか。山口桂三郎、永田生滋著『浮世絵』(1990年、ブレーン出版)に、その根拠が示されているので、それを紹介しておきたい。第1に、岩佐又兵衛元祖説は、「文献のみによって(その説を)鵜呑みにしていた」点に問題がある。つまり、『浮世絵類考』の執筆や補足に携わった江戸時代の一流の文化人たちは、「傾城反魂香」という作り物に惑わされて、浮世絵の元祖を見誤ったとするのである。第2に、岩佐又兵衛には、「浮世絵の範疇に入る絵がみあたらない」ことが、挙げられている。そして、第3には、「自ら土佐末流と称しているのであるから、浮世絵系の画人ではなく、土佐系の画人であったと考えられること」が、挙げられている。

以上の元祖否定説に反駁する材料として、私が提示するのが、盆踊りの掛け軸である。

(Painted by Iwasa Matabei in 17th century)

この掛け軸の図では、盆踊りをしている8人が、描かれている。刀を差しているので、いずれも若衆であると思われる。上部に描かれている2人は、縁台に座り、笛と三味線を演奏している。下部には、6人の若衆が、扇を持ち、輪を描いて踊っている。岩佐又兵衛が描く顔は、「豊な頬」に特徴があるといわれている。この絵で描かれている人物の頬は、特に豊かとはいえないが、ややふっくらとしている感じである。

江戸時代の初期には、輪を作って踊ることが、流行していた。この盆踊りの図は、明らかに、「時様の風俗」を描いていたことになる。また、大和絵の風景の中に挿入された点景としての人物ではなく、「時様の風俗」の人物そのものを描いたものである。この事実は、「又兵衛は時様の風俗画も描いていない」、「浮世絵の範疇に入る絵がみあたらない」という説を覆すものといえよう。

ところで、岩佐又兵衛が描いたと言われる風俗画系統の絵の多くは、絵巻であり、そこには、生々しい庶民の姿が描かれている。それに比べると、盆踊りの絵は、品よく描かれている。もしかしたら、この絵は、岩佐又兵衛が描いた風俗画系統の絵巻と、和漢の古典や人物故事を題材とした上品な絵とをつなぐものとして、位置づけることができるのかもしれない。上品であったために、後述のように、住吉家から真筆という鑑定結果を得たとも考えられる。

掛け軸の箱には、表に、「浮世繪」と墨書してある。裏には、「岩佐又兵衛真筆」「文政九丙戌仲秋」「住吉廣」と書かれて、花押が描かれている。もしこれが信用できるとすれば、私は、これを根拠として、次のように推論する。

文政9年(1826年)は、江戸時代の後期であり、すでに岩佐又兵衛の名前は庶民の間に知れ渡り、多くの偽作が出回っていた。画壇の権威である住吉家は、当時、絵の真贋の鑑定もしていた。鑑定の結果、この掛け軸の絵は、岩佐又兵衛の真筆と判定された。そこで、裕福な所有者またはスポンサーが金を出し、この掛け軸は、立派に表装された(この絵の背景には、金粉で秋の七草が描かれ、特製の陶器の軸には、「ぼんおど里」などの字が入っている)。その上で、仲秋のよき日に、祝いをして、上記のような箱書きしたのである。

ところで、住吉派とは、江戸時代の土佐派に属する。土佐光吉の門人の如慶が、その開祖といわれる。彼の子の時代以降、住吉家は、幕末に至るまで、世襲により幕府のご用を承っていた。つまり、京都の土佐家と並ぶ、大和絵の中心的存在であった。その住吉家が、上記のような墨書をしたというのは、少なくとも文政9年には、自分たちと同じく土佐派の流れを汲む岩佐又兵衛を、浮世絵の元祖と認めていたことになる。このことは、元祖否定説の第3点に対する反証となろう。

元祖否定説の支持者は、鑑定した住吉廣(花押)も、既に発行されていた『浮世絵類考』に惑わされて、岩佐又兵衛を誤って元祖とみなしたと、主張するかもしれない。しかし、鑑定の専門家は、多くの本物を見た体験に基づいて、職人的に真贋の判定を下すものである(私は、故高見沢忠雄氏より、そのことを直接聞いている)。その職人的な真贋の判定結果を、後世の浮世絵研究者は、何を根拠として、否定しようとするのであろうか。

20世紀の浮世絵研究者は、江戸時代の一流の文化人が書いた『浮世絵類考』といった原典を、軽視しすぎたのではなかろうか。その最たる例が、写楽をめぐる議論である。斉藤月岑が補記をして1844年に出された『増補浮世絵』には、写楽について「天明寛政中の人、俗称斉藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也」と記されていた。しかし、第2次大戦後になると、この文献の価値は無視されて、いろいろな写楽説が、飛び交うことになった。最近、斉藤十郎兵衛の実在を示す資料が発見され、『浮世絵類考』の記述の信憑性が高まったのは、喜ばしいことである。岩佐又兵衛についても、『浮世絵類考』で与えられた浮世絵の元祖という地位を、回復させたいものである。

前に戻るトップに戻る次に進む