国学院大学法学部横山実ゼミ


円山応挙と眼鏡絵


横 山 実

(この随筆は、ゼミ誌から転載しました。)

昭和51年の12月に、神奈川県立近代美術館で、「渡辺紳一郎コレクション・・・江戸の泥絵展」が開かれた。そのカタログには、上方泥絵の元祖である円山応挙と、彼が描いた眼鏡絵のことが、詳しく書かれている(江戸泥絵の元祖は、銅版画で有名な司馬江漢である)。それに基づいて、円山応挙の眼鏡絵といわれる肉筆画『四条河原遊涼図』にふれながら、彼にとっての眼鏡絵の意義を考察してみたい。

大和絵といわれる伝統的な絵では、遠近法が用いられていなかった。江戸時代に、遠近法で描かれた絵が、長崎から入ってきて、日本人は、それに注目することになった。遠近法を取り入れた絵は、まず、元文(1736-1741)に、浮世絵師の奥村政信によって描かれた。それは、当時、評判となり、絵が浮き出て見えたことから、浮絵と呼ばれた。浮絵はすぐに模倣されたので、奥村政信は、「浮絵根元」と称して、浮絵の本家であることを主張しなければならないほどであった。当時の浮絵は、室内の様子を描いたものであった。畳、襖それに天井の直線を一点に集中させるという手法で、遠近感を出すものであった。おそらく、まだ複雑な景色を遠近法で描くことができなくて、このような図を描いたと思われる。この浮絵は、宝暦(1751-1763)になると、室内遊興図として流行するようになった。そこでは、室内で双六や囲碁などを楽しんでいる様子が描かれた。

1750年頃になると、西洋で創出された「覗きからくり箱」で、中国製のものが、日本に本格的に輸入されるようになった。覗きからくり箱には、入り口にレンズが取り付けられていた。そこから、45度に傾けた鏡に映る絵を見ると、その絵は、奥行きが深く見えた。ところで、この仕掛けであると、絵は左右逆に見えるので、それを補正するため、覗きからくり箱用の絵は、はじめから左右逆に描かれた。それが、眼鏡絵と呼ばれるものであった。円山応挙は、この眼鏡絵を描くことによって、絵師としての名声を獲得したのである。

円山応挙は、1733年に丹波の小農の家に生まれた。跡継ぎでない小農の子の常として、彼も、11歳か12歳の頃に、四条新町東へ入る岩城と云える呉服屋の小厮となった。その後、四条柳馬場東へ入る中島勘兵衛と云える玩具物商家で、人形の彩色などの仕事をしていた。刻苦勉励して画工となり、中島の世話で四条の道場に世帯を持ち、自分の絵を店頭にならべて売ったりしていた。ちょうど、そのような時期に、中島は、覗きからくり箱を取り扱うことになった。ところで、覗きからくり箱で絵を楽しむためには、眼鏡絵が必要であった。はじめは、覗きからくり箱と一緒に輸入した、オランダや中国で描かれた眼鏡絵(その多くは、風景画)を、使っていた。しかし、その数には限りがあった。また、顧客は、新しい風景画の眼鏡絵を欲していた。中島は、それに応じて、円山応挙に、眼鏡絵を描かせたのであった。円山応挙は、後世において、日本の写生画を完成させた絵師として、高く評価されているが、遠近法を駆使した眼鏡絵との出会いこそ、彼に写生の極意を会得させるきっかけになったのである。

円山応挙は、眼鏡絵から多くのことを学び、室内図の範疇の浮絵を越えていった。彼は中国の風景の眼鏡絵を模写しただけでなく、彼独自の眼鏡絵として、京都の風景を描いた。そのうちの一つである『四条河原遊涼図』では、夏の夕方に、鴨川沿いを夕涼みにそぞろ歩きをしている人々の姿が、影絵のように描かれている。また、川の対岸の街には旗が掲げられている。その旗には、長崎麒麟太夫という女曲技団の団長の名前が書かれているが、その字は左右逆である。それは、レンンズで拡大してみてもはっきり写る、まさに細密描写の迫真的な眼鏡絵であるといえる。

(Scenery in Kyoto painted by Okyo Maruyama in 18th centrury)

円山応挙が描いた眼鏡絵は、大変に人気があった。そこで、彼の本絵は、泥絵具を使ってた版画として、出版されることになった。それが、泥絵と呼ばれる物である。後には、覗きからくり箱とは独立して、一種の風景画として、泥絵は出版されるようになった。泥絵のほとんどは、無名な人々によって描かれたようで、浮世絵と違って、絵師の名前さえ記入されていない。

「渡辺紳一郎コレクション・・・江戸の泥絵展」のカタログでは、上方泥絵の元祖の円山応挙が描いたものとして、第一番目の絵として、『四条河原遊涼図』を掲載していた。現在のところ、円山応挙が描いた眼鏡絵として認められたいるのは、約15点であり、そのうちの6点ほどが、肉筆画である。半紙位の大きさで掛け軸になっている『四条河原遊涼図』は、無署名ではあるが、その肉筆画のうちの1点である。

中島は、高級な玩具を取り扱っていたので、御所、公卿や門跡寺院などにも出入りしていた。彼が扱う眼鏡絵を通して、円山応挙の名前は、上流階級の人々に、知れ渡ることになった。その結果、円山応挙は、まず、桜町院の宮嬪蓮池尼院公に仕えることになった。その後も、円満院の裕常門主や三井家をはじめとして、有力なスポンサーを持つことができた。彼らの注文に応じて、後世に残る名作を描き、それによって、写実主義の日本画を確立し、円山四条派の元祖の地位を確立したのである。まさに、眼鏡絵との出会いこそが、封建的身分制の中で、小農出身の彼の画才を、奇跡的に開花させたのである。

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