現在まで、多くの浮世絵研究者が、浮世絵の落款について研究している。私は、それらの研究に疎い。しかし、この随筆では、いくつかの絵を比較しながら、春信の落款について、思いをめぐらせてみたい。
春信は、錦絵の前に、紅摺り絵を描いている。紅摺り絵の時期の最後を飾る細判の揃い物が、「風流やつし七小町」である。これは、謡曲で名高い小野小町に関する七つの逸話を、当世の風俗で見立てたものである。その揃い物では、「鈴木春信画(筆)」という落款が入っている。とこで、揃い物の7枚の絵の内で、2枚だけが、つまり、「かよい小町」と「そとば小町」のみが、草体の落款なのである。春信の絵の落款の殆どは、楷書であるので、この2枚で何故に草体の落款が用いられたのかは、謎である。
春信の高い名声は、彼の死後も続いたので、すでに、江戸時代において、彼の絵の複製品が作られている。現在、どれが初摺りで、どれが後摺りであるかを、比較研究することは、殆ど行われていないようである。同じ図柄の絵を持っている所蔵者は、全世界に分散しているために、比較研究は不可能なのかもしれない。しかし、今後は、コンピュータを活用すれば、浮世絵の画像を簡単に送信できるので、この比較研究が進むかもしれない。
「風流やつし七小町」の揃い物の場合には、東京国立博物館が昭和45年に発行した「春信・・没後200年記念・・」のカタログ(以下、「東博のカタログ」と称する)を見る限りでは、初摺りと後摺りの判断は、比較的容易であると思われる。東博のカタログには、無落款の細判および中判の絵がある。これらが、紅摺り絵よりも多種の色を用いた錦絵であるならば、後摺りであることは間違いないであろう。河野元昭氏によれば、この揃い物には「鈴木春信画(筆)」の落款があるものと、無いものがあるが、前者を代表するのが、神戸・埜村家の所蔵本である(『浮世絵八華1・春信』、平凡社、130頁)。それは、画帳に仕立てられているが、奥書には「この絵は、むかし宝暦時分に主人から頂戴したものだ」と、記されている。これにより、紅摺り絵の時代の作品であることが、推測される。
春信の代表的な絵の一つに、蚊帳の母子の絵がある。その図柄の絵は、東博のカタログには、3枚載っているし、さらに、高橋清一郎コレクションの中にも入っている(1993年に開かれた、高橋清一郎コレクション浮世絵名品展のカタログの40頁)。この絵の特徴は、子供の肌の柔らかさを出すためか、子供の体の輪郭を、空摺りで描いていることである。ところで、東博のカタログの内の1枚は、輪郭が線で描かれているので、これは、明らかに後摺りであると思われる。
今回、私が提示する同じ図柄の絵は、「鈴木春信画」という落款になっている。それに対して、東博のカタログの3枚の絵も、高橋コレクションの絵も、落款は「春信画」である。春信の絵では、「鈴木春信画」と「春信画」との両方の落款が用いられている。そこで、蚊帳の母子の絵について、「鈴木春信画」の落款があるからといって、それが初摺りであるとは、断言できない。河野氏によれば、「絵暦期以後の作品を見ると、春信は、版元印や奥村政信が使ったような長たらしい落款を、画面の詩情を破壊するものとして、忌避したふしが強い」という(前掲書、136頁)。その説を前提とするならば、「鈴木春信画」の落款のある蚊帳の母子の絵は、絵暦と同じく、明和の早い時期に作成されたと、推測できるかもしれない。
ところで、高橋コレクションの絵は、「鈴木春信画」の絵に比べて、色は鮮明であるが、色のずれが見られる。安達以作牟氏によると、初摺りは、紙をきちんと湿して、きちんと摺っているので、墨線の中に色がきちんと入っている(小林忠・大久保純一編著『浮世絵の基礎知識』、至文堂、192頁)。それに対して、後摺りの場合には、何度も色を摺ったために、色板が墨の線からずれることがあるという。この観点から、上記の二つの絵を比較すると、「鈴木春信画」の絵では、色のずれが見られないだけでなく、空摺りや「きめだし」もしっかりしているのに対して、高橋コレクションの絵では、明らかに墨の線からの色のずれが見られるのである。
春信の絵の中には、無款のものもある。東博のカタログの269番目の「色子の送り」の絵が、その一例である。私が提示するのは、それとは同じ図柄ではあるが、アンリー・ベベールの所蔵していたものである(左下の赤い印が、それを示している)。「色子の送り」の図は、色子(女装した若い歌舞伎俳優)が、おそらく、男色の相手として、客が待つ陰間茶屋に送られて行く姿を描いたものである。
春信は、紅摺り絵の時代には、役者絵を何枚か描いている。ところで、大田南畝は、『半日閑話』において、春信の死亡記事を書いている。そこでは、「この人一生役者の絵をかかずして伝。我は大和絵師なり。何ぞ河原物の形を画くにたへんや」という記述が見られる。それを根拠に、また、無款を根拠にして、「色子の送り」の絵は、春信の作品ではないという説が、成り立つかもしれない(1996年に開かれた、錦絵の誕生展のカタログの106頁)。そこで、この説をめぐって考察してみたい。
明和において錦絵が誕生したとき、春章や文調が、役者似顔絵を描いて、人気を博していた。おそらく、春信は、彼らに対抗して、美人画の第一人者であることを誇ったのであろう。確かに、錦絵の時代になると、春信は、役者似顔絵的な絵を描いていない。しかし、彼は、例外として、女形の名優の第二代瀬川菊之丞をしばしば描いている。第二代瀬川菊之丞は、33歳の若さで亡くなったが、生前には艶やかな美貌を持っていた。そのために、春信によって、中性的な可憐な女性にとともに、よく描かれたのである。
ところで、春信の時代には、武士階級において、義兄弟の系譜として、男色が流行していた(氏家幹人著『江戸の少年』、平凡社、141頁以下)。江戸には、湯島天神前や芳町において、男色のための陰間茶屋が、多く見られたのである。春信は、絵暦の作成などを通して、当時の旗本や知識人と交流があったといわれる。これらの者の中には、男色を好む者がいたことであろう。その影響で、春信自身も、男色への傾斜があり、艶やかな美貌の第二代瀬川菊之丞の姿を、しばしば描いたのではなかろうか。
もしそうならば、次のような推測が可能であろう。春信は、男色を好む旗本や知識人の注文によって、配り物として「色子の送り」を作成した。それゆえに、これは、厚手の奉書に摺られている。配り物は、私的に配布する物であるので、春信は、自分の落款を入れるのを控えたのであろう。また、男色は、公的には禁じられていたので、そのために、春信作といわれる多くの艶本と同じく、落款を欠いたのかもしれない。ところで、明和に作成されたと推測される「階段をのぼる色子と送りの女」(『原色浮世絵大百科事典第5巻』、大修館、47頁)は、「色子の送り」と同じ系統の図であり、同じく無款であるが、春信の作品であるとは認められていない。「色子の送り」だけが、無款であるにもかかわらず、春信の作品として東博のカタログに掲載された理由は、不明である。なお、職人的な鑑識眼を持っておられた故高見澤忠雄氏は、「色子の送り」の絵を見て、「これは、後期の作品のように背景がごたごたと描かれておらず、春信の初期の名品だ」と、述べておられた。
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