国学院大学法学部横山実ゼミ


浮世絵師歌麿の盛衰


横 山 実

(この随筆は、ゼミ誌から転載しました。)

フランスの浮世絵研究家エドモン・ド・ゴンクールの紹介の後、歌麿の名前は、世界的に知られるようになった。しかし、歌麿は、存命中、人気があったとはいえ、狩野派や土佐派などのご用絵師に比べて、町絵師として低い地位に甘んじていた。浮世絵の絵師として頭角を現す前の彼のことは、ほとんど知られていない。生まれた土地も、誕生の年月日さえも知られていないのである。その歌麿の盛衰を、自分のコレクションの絵を眺めながら、想像してみたい。

歌麿は、新興の版元である蔦屋重三郎の引き立てによって、美人画の絵師として、名声を高めていった。天明年間は、清長が美人画の第1人者であったので、歌麿の絵もその影響が見られた。寛政になると、清長の影響から脱し、特に女性の上半身をクローズアップした大首絵を描くことによって、歌麿は、美人画絵師の第1人者としての地位を築くことになった。寛政4〜5年頃に、蔦屋から出された「婦人相学十躰」および「婦人相学十品」のシリーズが、美人大首絵の最も早いものといわれている。このシリーズの絵は、女性の美を引き立てるために、背景には、雲母が豪華に散りばめられたのである。その後も、姿見七人化粧(寛政4〜5年)、高島おひさ、難波屋おきた、富本豊ひなの3美人(寛政5年)、江戸高名美人(寛政5〜6年)、当世踊子揃(寛政5〜6年)、歌撰恋之部(寛政5〜6年)といった豪華な大首絵のシリーズが、蔦屋から次々に出版されていった。

寛政初期の歌麿の最大のライバルは、栄之であり、彼は、大手の版元である西村屋や泉屋から、浮世絵を出版していた。栄之は、武士の出身で、上品な立像または座像の美人画を描いていた。彼に対抗するために、歌麿は、春好の役者大顔絵に倣って、おそらく蔦屋重三郎のアイデアと財力を背景として、上述した豪華な女性大首絵シリーズを刊行した。

ところで、歌麿は、栄之に対抗するためか、女性の立像および座像のシリーズも、蔦屋のもとで出版している。寛政5年には、吉原の花魁を描くシリーズを出しているが、その1つが、角玉屋の花魁春日野を描いたものである。これは、花魁道中の春日野および二人の振袖新造の全身像を描いている。そして、右の短冊には、栃木の川岸松蔭の狂歌が挿入されている。この絵からも、歌麿が、栃木の人々と交流を持っていたことが伺われる。

寛政5年には、六玉川のシリーズが出版され、翌年の寛政6年には、吉原の花魁の一日を描く「青楼十二時 續」のシリーズが、蔦屋から出版された。後者のシリーズは、12枚の絵で構成されているが、そのうちの2枚は、一人の女郎の立像である。そのうちで丑の刻を描いたものは、寝ぼけ眼でトイレに行く女郎を描いたものであり、歌麿の描いた全身像の傑作といわれている。「青楼十二時 續」や「名取酒六家撰(寛政6年)のシリーズを刊行して、女性の立像や座像の絵でも、歌麿の名声は、栄之のそれを上回るようになったと思われる。

(Left: Painted by Utamaro)(Right: Painted by Eishi)

以上のような過程で、歌麿は、蔦屋重三郎との2人3脚で、美人画家としての名声を勝ち得ていった。そうなると、歌麿には、他の版元からも注文が舞い込むことになった。歌麿は、それに応じたため、若狭屋からは当時全盛美人揃(寛政6年)、伊勢孫からは北国五色墨(寛政6〜7年)、村田屋からは娘日時計(寛政6〜7年)というように、蔦屋以外の版元から、秀作のシリーズが次々に出版されていった。

歌麿に逃げられた蔦屋重三郎は、彼に代わるべき絵師を世に出そうと、策をめぐらすことになった。蔦屋重三郎が、まず売り出そうとしたのは、写楽(『増補浮世絵類考』によると、阿波侯の能役者斉藤十郎兵衛)であった。彼は、絵師としては無名であった。それにもかかわらず、蔦屋重三郎のバックアップによって、背景には雲母を散りばめた豪華な役者大首絵を、寛政6年5月から出版することができた。ちょうど寛政6年には、「俗流の眼を悦しむるに妙を得たり、劇場流行の時に逢」(『増補浮世絵類考』)った豊国が、「役者舞台之姿絵」のシリーズを、泉屋から出していた。豊国の絵は、大衆受けして、大当たりとなったために、写楽の絵は、当時評判とはなったが、その売れ行きははかばかしくなかった。『浮世絵類考』によれば、歌舞伎役者の「似顔絵をうつせしが、あまり真を画かんとて、あらぬさまにかけなせし故、長く世に行はれず」、10ヶ月後には、さすがの蔦屋重三郎も、写楽の絵の出版を断念せざるを得なかった。

次いで、蔦屋重三郎は、歌麿と真っ正面から対峙して、美人画の分野で、長喜を売り出しにかかった。長喜は、肩の細い「こけし」のような美人を描いた。彼の代表作である東扇屋つかさ太夫は、写楽の絵と同様に、豪華な雲母摺りであった。しかし、後述するように、歌麿からカウンターパンチを浴びせられて、長喜は、歌麿を上回る名声を勝ち得ることができなかった。彼は、寛政8年頃には、名前を子興と変え、歌麿のライバルとしての地位を放棄した。蔦屋重三郎も、寛政9年5月には、失意のうちに、この世を去ったのである。

(Left: Painted by Utamaro)(Right: Painted by Choki)

歌麿は、寛政7〜8年には、高名美人六家撰と五人美人愛敬競という大首絵のシリーズを、近江屋から出版している。この2つのシリーズ、特に、後者のシリーズは、明らかに長喜の絵を意識し、それにカウンターパンチを浴びせるものであった。後者のシリーズでは、歌麿は、「正銘歌麿筆」の署名と、「本家」という瓢箪印を用いている。また、そのシリーズ中の「兵庫屋花妻」の絵では、花妻が読んでいる手紙の中に、「人まねきらいしきうつくしなし ・・美人画は哥子にとゝめ参らせ候・・」と、自分が美人画の第1人者であることを誇っている。近江屋のこの2つのシリーズでは、最高の彫師および摺師が、腕を振るった。たとえば、朝日屋の後家の絵を見ても、毛先の細かい彫りの見事さは、天下一品といってよい。歌麿が、本家と誇るだけのものが、そこに見られるのである。

五人美人愛敬競のなかの美人は、松葉屋喜瀬川の絵から明らかなように、いずれも肩が細く描かれている。つまり、長喜の美人の特徴を、さらに誇張して取り入れ、それ以上の美人として、描いてしまったのである。そのために、長喜は、歌麿のライバルの地位から去らざるを得なかった。長喜を追い落としたこの頃が、まさに、歌麿の最盛期であった。

(Left: Painted by Toyokuni I)(Right: Painted by Utamaro)

寛政後期から享和になると、浮世絵の大衆化がますます進んでいった。この状況においては、時流にあった絵を描く浮世絵師が、台頭することになった。つまり、多くの弟子を抱えた豊国が、浮世絵界を牛耳ることになった。歌麿も、大衆化の流れに逆らうことができなかった。豊国やその弟子達と同じく、多くの版元の求めに応じて、絵を乱作せざるを得なくなった。大量生産のために、彼の絵の彫りも摺りも、雑になっていった。豊国が描く、頬がこけた、首が前に突き出た美人画を、庶民が好むようになったので、歌麿も、頬のこけた美人を描かざるを得なかった(当時、栄之が描いた肉筆画の美人も同じである)。プライドの高い歌麿にとって、これは、屈辱的なことであったであろう。文化元年には、自分が描いた絵のために(江戸時代には、たとえ歴史的事実であっても、貴族や武士階級のことを、庶民が描くことは、禁じられていた)、入牢のうえ、50日の手鎖の咎めを受けた。その心の傷が癒えない内に、歌麿は、文化3年の9月にこの世を去ったのである。

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