ゼミ生が、春合宿を韓国で行うことに決めた。2年前には、姉妹校の京畿大学校を訪れて、そこで春合宿をした。その時は、京畿大学校に手配していただいて、ソウル少年院を参観した。ゼミ生は、今回は、異なる施設を参観したいという希望を述べていた。幸いにも、2月9日に、韓国の春川市の江原大学校法科大学の李漢教先生と、お会いすることが出来た。来日していた李先生にお話ししたところ、私達の春合宿のために、便宜を図ってくださると、約束してくださった。その厚意に甘えて、私達は、春合宿を韓国で行うことにしたのである。
1999年3月23日(火)
朝の6時に起床する。e−mailを確認してから、家を出た。早朝であるにもかかわらず、東京駅の地下ホームでは、崔鍾植さんが私を待っていた。崔さんは、江原大学校で、李先生の指導の下で、少年法を研究して、博士号を取得した。2年半前に来日し、澤登俊雄教授の下で、日本の少年法と韓国のそれとを、比較研究するために、國學院大学大学院で特別研究員として滞在していた。、崔さんは、李先生への土産を私に託すために、東京駅に来ていたのである。
成田エクスプレスに乗って、9時には、成田第2空港ビルに到着する。集合時間の9時半には、9名が到着していた。上杉君は、リムジンバスが遅れたため、9時40分頃に到着した。彼は、携帯電話で、遅れるという連絡があったので、安心していた。他方、相模原に住む谷君は、成田エキスプレスに乗り遅れて、大幅に遅れてやってきた。しかし、日本エアシステムのカウンターで、無事にチェックインの手続きを済ますことが出来た。
11時20分発のJD250便の飛行機に乗る。飛行機は、15分遅れで成田空港を出発する。前の2日間は、大荒れの天気だったが、この日は、快晴だった。大学院生の中條君の実家がある江戸町も、窓からよく見えた。霞ヶ浦の先には、筑波山がそびえ立っていた。大宮の上空から左に旋回して、秩父山系を越えて、北八ヶ岳の上空を飛ぶ。昨日までの悪天候で、山々は、きれいな雪化粧をしていた。谷君と代わってもらって、窓際の席に座り、その雪化粧の山々、特に、長野市上空以後のアルプスや白山の雪景色の写真を、望遠レンズで撮ることをたのしんだ。越前海岸から日本海沿いに飛び、松江付近から海を渡って、韓国の上空に到着した。はるか遠くには、漢江の流れと、それをせき止めて出来た人造湖を、見ることが出来た。春川は、その一番奥の大きな湖の畔にある都市である。
私が、春川に初めて訪れたのは、1985年5月であった。その時は、海外留学の下見で訪れたのであるが、江原大学校の教員から歓迎された。そして、海外留学を始めた1985年8月中旬から、12月初旬まで、李漢教先生と日韓の少年非行の比較研究をするために、春川の学生下宿で滞在したのである。
1985年当時は、飛行機が、ソウル上空にさしかかると、窓のすべてで、ブランドを下ろさなければならなかった。アナウンスでその指示を聞くことによって、冷戦構造下の韓国に入国するのが、実感させられた。しかし、今では、冷戦構造が緩和したため、飛行機の窓からソウルの町を眺めることが出来た。巨大都市のソウルには、日本の都市以上に、高層のアパートが立ち並んでいた。特に、漢江の南の地域の発展は、めざましかった。
2時20分に金浦国際空港に到着した。入国手続を済ませ、荷物を受け取る。江口君は、入国のための書類を、飛行機の中においてきてしまったので、手続に時間がかかっていた。税関を抜けて、両替を済ませて、出国ロビーに出る。そこで、柳泰烈さんが、私達を出迎えてくれた。
2年前に私達が京畿大学校を訪問したとき、当時4年生だった柳さんが、日本語の通訳として、私達を民家園などに案内してくれた。大学卒業後、彼は就職したが、勉強をあきらめきれず、大学院に進学したのである。この日は、大学院の授業の合間を縫って、私達と会いに来てくれたのである。
柳さんと再会して、まず、日本エアシステムのカウンターに行き、帰りの飛行機の座席の確認をしておいた。その後、地下鉄でソウルの中心部に向かった。大きな荷物を持ったゼミ生は、地下鉄の乗り継ぎで、長い距離を歩くのに難儀していた。私達は、清涼里駅に行った。そこは、ソウルの東北部にある拠点駅である。ここでは、北側からのスパイを警戒して、絶えず、軍人が見張りをしている。江口君は、迷彩色の服を着た軍人の姿を見て、なぜ彼らがそこにいるのかと、疑問を発していた。私が説明して、彼は初めて、冷戦というものを実感した。私達は、駅前で集合写真を撮ったが、それは、1985年当時では、考えられなかったことである。当時は、飛行場、駅、橋、ダムなどは、軍事拠点であり、それらの写真を撮ることは、禁じられていたのである。
韓国の不況を反映して、駅前には、ホームレスと思われる人もいた。柳さんは、その一人から、金を乞われていた。しかし、全般的には、1985年当時に比べると、韓国の経済力は強くなっており、人々の消費の意欲は旺盛のように思われた。
清涼里駅では、柳さんに頼んで、座席指定の列車の往復切符を買った。乗る列車が確定したので、柳さんに頼んで、彼の携帯電話で、李漢教先生に連絡してもらった。4時半発の列車に乗る。1985年に初めてこの列車に乗ったとき、車窓から、ほとんどすべての家で、キムチを作る瓶を保有しているのを、見ることが出来た。しかし、今では、その瓶は見られなくなっていた。かって、韓国の人々は、秋になると白菜を買って、大きな瓶で、沢山のキムチを作ったものである。韓国人にとって、キムチは、お袋の味であった。しかし、今では、自分の家でキムチを作る人は、激減しているのである。
列車の中では、柳さんと話を楽しんだ。昔は、清涼里駅を出発するとすぐに、車窓から野山を眺めることが出来た。しかし、今では、延々と人家が連なっていた。1985年当時の風景を探すのが、困難なほどであった。しかし、春川に近づき、谷が深くなると、高速道路が建設されたのを除けば、昔の美しい漢江の風景を見ることが出来た。6時20分に南春川駅に到着する。李先生が、そこで出迎えてくださった。李先生が大学のマイクロバスを手配してくださったので、私達は、それに乗って、韓国式旅館の清水荘に行った。韓国式の家の特徴は、オンドルの床である。清水荘の部屋もオンドル式であり、私達は、暖かい床の上に、薄い布団を敷いて寝ることになった。
荷物を部屋に置いて、私達は、再びマイクロバスに乗り、李先生が予約した料亭に行った。そこで、本格的な韓国料理をご馳走していただいた。江原大学校法科大学の尹龍奎先生が、私達の歓迎のために、この席に参加してくださった。尹先生は、昨年の10月に、國學院大学で開かれた日本犯罪社会学会大会に参加されていた。その時以来の再会であった。尹先生とは、英語で歓談した。李先生は、酒をたしなまれる。中條君と、4年の仲井君および斉藤君が、韓国式の酒の嗜み方を教えてもらってから、李先生のお相手をした。その結果、仲井君は、酒を飲み過ぎてしまった。9時頃に、私達は宿に戻った。李先生は、明日の朝食をとる食堂を、紹介してくださった。その後、李先生は、尹先生および中條君と共に、2次会に出掛けられた。中條君の話によると、李先生は、12時頃まで、カラオケで、日本の歌を歌っておられたということである。
10時からは、ゼミ生に、自己紹介をかねて、3分間スピーチを行わせた。新3年生、新4年生の順番にスピーチが行われたが、さすがに4年生のスピーチは、まとまっていた。中條君は、12時頃に帰ってきた。その後は、同室の柳さんと、夜遅くまでおしゃべりを楽しんだようである。成田空港の免税店で酒を買ってきていたが、皆疲れていて、この夜は、さらに酒を飲む元気はなかったようである。
3月24日(水)
私は、7時に起床した。荷造りをして、カメラを持って、散歩に出掛けた。1985年に歩き回った町であるが、その当時の面影を探すのに苦労した。宿の前の大通りの坂を上がっていった。その先には、セジョン・ホテルがある。その場所には、戦前には神社があり、韓国の人々は、そこでの礼拝を強制されたという。今は、石段だけが昔のままに残っていて、神社の境内だった場所に、ホテルが建っている。その朝は、残念ながら時間がなくて、ホテルまでは行けなかった。日本語の使用、神社での崇拝、日本姓への改姓の強制などによる、戦前に受けた心の傷は、いまだに韓国の人々の中に残っているのである。
30分ほど歩いて、8時20分に宿に戻った。8時半には、全員が集まったので、李先生に紹介してもらった食堂に行った。一人4千ウオン(約400円)の定食を注文する。韓国式の辛い食物だったが、魚や野菜の料理が、8品ほど出されたので、それを皿に取って、味を楽しんだ。9時半に李先生が、宿に迎えに来てくださった。ゼミ生たちが、荷造りをしている間、二人で喫茶店に行き、コーヒーを楽しんだ。宿の戻ったら、ゼミ生たちは、マイクロバスで出発する準備を済ませていた。宿泊代は、李先生の手配ということもあって、非常に安くて、ゼミ生たちは喜んでいた。
私達は、春川少年院を訪れた。私は、まず、李先生と共に、院長室に案内され、金鍾禄院長と歓談した。その後、李先生は、会議室で、ゼミ生たちに施設について説明してくださった。あらかじめ、日本語のパンフレットを作成しておいてくださったので、理解するのが容易だった。説明の後に、斉藤君が、韓国の少年院では、外国籍の少年をどのように処遇しているか、質問した。回答によれば、外国籍の少年を収容していないということであった。
次いで、李先生および数人の少年院教官の案内で、施設の中を見せていただいた。私達は、宗教教誨の部屋、教室、居室、分類分類審査室の順に見せていただいた。春川少年院には、李先生の案内で、1985年にも訪れていた。その時に比べると、処遇の状況は、確実に向上していた。特に、日本の少年鑑別所の機能を果たす分類審査室の併設が、注目される。また、春川少年院は、1990年から、新村(小・中)学校として、学科教育を充実させていた。新村学校卒の肩書きを付与することによって、少年院卒のスティグマの排除を、意図しているのである。私達に参観の機会を与えてくださったことに対して、金院長を初めとして、春川少年院の方々に、お礼申し上げる。
この後、私たちは、李先生の案内で江原大学校を訪問した。江原大学校は、韓国の国立の総合大学である。広いキャンパスに、多くの学部(韓国では、大学と呼ぶ)の建物が建ち並んでいた。私が滞在していた1985年当時に比べて、江原大学校は、大きく発展していた。私達は、李先生の案内で、図書館の中に入った。そこでは、沢山の学生が勉学に励んでいた。中央広場の彫像の前で写真を撮って、私達は大学を後にした。
李先生は、私達を料亭に案内し、春川名物の冷麺をご馳走してくださった。ゼミ生たちは、李先生の薦めで、初めて韓国のどぶろくを飲んだ。その後で、ソーヤンダムに案内してもらった。そのダムは、二つの川をせき止め、巨大な人造湖を作っている。私達は、その雄大な景色を眺め、記念撮影した。ソウルオリンピックのマスコット人形の像があったので、本橋さんは、その前で写真を撮っていた。次いで、道の両側に並んだ、小さな屋台や土産物店を覗いた。江口君は、煮た蛹を買って、食べていた。私は、土産物屋で大きなキセルを買った。煙草用のキセルは、私の祖父がよく使っていたもので、とても懐かしかった。また、老人が道ばたで藁の草履を売っていたので、それも買った。日本と同じように、このようなものを作る人は、確実に減って行くであろう。
私達は、マイクロバスで、春川の中心部に戻った。まずは、マーケットの中を歩いた。そこは、1985年にも歩いたところで、懐かしかった。次いで、昨年出来た地下の商店街を、歩いた。それは、春川の発展を示すものとして、印象深かった。私達は、李先生に見送っていただき、5時50分発のソウル行きの列車に乗った。春川では、私達は貴重な経験をすることが出来た。これも、李先生の手配、案内、通訳があってこそ、出来たものである。それらに対して、李先生に厚くお礼申し上げる。
車中は、尾崎君と話を楽しんだ。清涼里からは、柳さんに交渉してもらって、タクシーに分乗した。私達のタクシーは、高速道路を走り、ソウルの中心街を迂回して、漢江の南側にあるソウル教育文化会館に行った。到着して、この会館には、昨年の8月に来たことを思い出した。その時は、アメリカのウィチタ州立大学の張大鴻先生の招きで、パーティに出席したのである。そのパーティは、張先生が、ジャーナルの編集権を、ミシガン州立大学に委譲する儀式として、開かれたのであった。私は、半年ぶりにこの会館を訪れ、宿泊することになった。この会館での宿泊の手配も、李先生がしてくださったのである。
部屋に荷物を置いて、私達は、ホテルのシャトルバスに乗って、良才に出た。地下鉄の駅がある良才には、新しい店が立ち並んでいた。私達は、柳さんの案内で、焼肉レストランに入った。韓国の庶民のためのレストランなので、柳さんに料理を注文してもらった。ここでの焼き肉は、ハサミで肉を切り、炭火で焼くものである。また、焼き肉は、野菜を挟んで食べるのが、普通である。一人約3千円で、腹一杯になるまで焼き肉を食べ、酒を楽しんだ。その後で、2日間行動を共にし、私達のために通訳してくれた柳さんが、帰っていった。
私達は、明日の朝食のために、コンビニでパンと飲み物を買って、シャトルバスに乗って、ホテルに戻った。1985年当時には、コンビニは存在しなかったが、今では、韓国の大都市では、至る所で見られるようになった。コンビニでの買い方は、日本と同じなので、ハングルを話せない私達でも、簡単に買い物が出来た。
私は、大邱に住む朴南煥さんに、ホテルの部屋から電話した。朴さんと奥さんと、話をすることが出来た。大邱では天気が悪いということであったが、私達は、ほとんど雨に降られなかったので、幸いだった。朴さんの息子の在信君は、高校生で毎晩夜遅くまで学校で勉強している。その夜も、まだ帰宅しておらず、彼と話が出来なかったのは、残念であった。
10時からは、全員が集まり、新聞記事を使って、討論の練習をした。1組目は、江口君が有事法制について問題提起して、谷君が司会をした。2組目は、藤澤君がキャリア女性と少子化について問題提起して、関君が司会をした。各組とも30分間で討論して、その後で、私が、討論の過程を分析して、どのようにして討論したらよいか示唆した。11時過ぎに終わり、雑談してから、就寝した。
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