田子家文書調査の体験記


 平成19年の8月25日から28日の間、根岸茂夫と吉岡孝が引率して、大学院生、学部学生及び卒業生が参加して、田子家の子文書の調査を行いました。

 田子家は、江戸時代には陸奥国磐前郡上三坂の名主を世襲し、岩城平と郡山を結ぶ加味三坂宿の本陣・問屋でした。明治時代になって、郵便局を開設しております。

 田子家に保存してあった古文書は約5000点で、江戸時代の中期から明治時代にまでの上三坂村の村方文書、宿場文書、郵政関係の文書などです。今回の合宿の目的は、これらの文書を調査することにより、上三坂地域の江戸時代における景観と景観の変貌を史料的に確認することでした。

   この合宿に参加した史学科3年の学生から、次のような体験記をもらいましたので、下記に掲載いたします。

 私は8月25日〜28日まで、福島県いわき市、田子令直家所蔵史料の調査に参加した。この調査は、本学大学院生が中心となって毎年8月に行なわれ、今年で6回目となる。旧上三坂村に位置する田子令直家は、近世には名主、宿問屋を、近代に入ってからは戸長、郵便局長を務めた御宅である。当家には近世中期から近代にかけての文書が残されており、近世の上三坂村の概要を示す村明細帳をはじめ、証文類、近代の郵便・戸長役場関連の史料など、貴重な史料が数多く残されている。現在、近世の史料整理はほぼ終っているが、未整理の近代文書も多く残っている。実際、今年度整理した文書も近代のものが多かった。

 調査初日、田子家に保管されている文書を、作業場兼宿舎となる長沢ドライブイン(いわき駅よりバスで1時間ほどの所にあり、ドライブインより田子家までは車で10分ほどである)に運び、調査が開始された。調査は、封筒詰、表題取り、校正などが行なわれ、私も封筒詰、表題取りを行なった。近世・近代の文書が如何に整理されていくのか、その過程に携わることが出来、学ぶことは多かった。

 調査3日目には、旧中三坂村の巡見が行なわれ、私も参加した。巡見には、旧下三坂村出身で、案内役を務めて下さった白石烈氏を含めた3名が参加し、白石氏の車に同乗し、旧中三坂村及び周辺地域を回った。最初に訪れたのが旧中三坂村である。こちらでは、かつて名主頭を務めていた大竹氏の御宅に立ち寄り、御当主の方から、ご先祖や地域のこと等についてのお話を伺った。

 その後、旧差塩村へと向かった。差塩は明治22年〜昭和30年に上、中、下三坂の3地区と併せて三阪村と呼ばれたところである。一面に田圃の広がる旧中三坂村・旧下三坂村を過ぎ、旧差塩村へ向かう道は、一転山道となった。私達は車での移動ではあったが、江戸時代にはこのような山道を徒歩で人々が行き来していたのだなと思いを馳せながら、木々の生い茂る景色を車窓より眺めた。

 旧差塩村は旧中三坂村と同様に田圃の広がる地域であった。この地域には差塩湿原があり、小規模な湿原ではあったが、天然記念物で有名なミツガシワの葉などを見ることができた。続いて乾燥センターと呼ばれる、山を切り拓いた家畜飼料の加工所を訪れた。かなり標高の高い場所にあるため、天気の良い日には太平洋が見渡せるそうである。この日は生憎の曇天で見ることはできなかったが、周辺の山々を一望することが出来た。明治期に三阪村と呼ばれた地域が山奥に位置していることを強く実感すると共に、都会では味わえない、雄大な景色と開放感を満喫した。その後は旧下三坂村から旧中三坂村、そして長沢ドライブインへと戻り、その帰途に浄心寺、稲荷神社、古峯神社などに立ち寄り、写真撮影をした。

 最終日、長沢ドライブインに運び込まれた文書を田子家へ返却に伺い、令直氏にお礼の挨拶をした。その後、田子家より歩いて10分ほどのところにある綿津見神社を見学した。私自身、昨年は田子家の周囲を見たに過ぎなかったので、今回、僅かではあるが、足を伸ばして旧上三坂村を歩き、周辺の環境をみることが出来たのは良い体験であった。田子家の正面は直線道路が走り、この道に面して家々が軒を連ねており、かつての宿場町を彷彿させる景色であった。しかし、一歩横道に入るとそこには一面田圃が広がっており、この表通りと裏通りの景観の差が印象的であった。

 当研究会では月に1度、田子家文書の中から「御用留」とよばれる、廻状を写した史料を輪読している。史料の中には、上三坂は勿論のこと、今回巡見を行なった、中三坂、下三坂、差塩などの旧村名も出てくる。今まで、このような村名が出ても、どのようなところであるのかやや不鮮明であった。そのような点で、今回、史料に出てくる地域を実際に訪れ、現地の距離感を体感し、村の様子を見ることが出来たのは貴重な経験であった。このような体験を通じて、近世文書の世界を、より臨場感を持って眺めていけるのではないかと思った。

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