1.アメリカ大陸およびその周辺島嶼部へのヨーロッパによる侵略
○ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸およびその周辺島嶼部に侵略し、先住民族を殺戮し、アメリカ大陸において労働力不足になったため、アフリカ大陸からアフリカ人を強制連行してアメリカ大陸において強制労働(奴隷労働)させた。
1-1.ヨーロッパによる侵略以前のアメリカ大陸
ヨーロッパによる侵略以前のアメリカ大陸においては、氷河期のためベーリング海峡が陸続きであった頃にユーラシア大陸から移住してきた(モンゴロイド系の)先住民族が居住していた。先住民族の中には、アステカ文明やインカ文明のように高度な農業技術と文明を獲得していた民族もいたが、定住型の農耕を伴わない遊牧生活を送っていた民族も多かった。また、先住民族は、ヨーロッパ系民族であれば免疫を獲得していた、コレラ、ペスト、チフスといった伝染病に対する免疫を獲得していなかった。
1-2.ポルトガル・スペイン型植民地支配:金銀財宝略奪型
○ポルトガルとスペインはアメリカ大陸およびその周辺島嶼部に早くから侵略し、広大な植民地を占領したが、香辛料や金銀の輸入を重視した植民地支配で、自国の工業を発展させることはできなかった。
1-2-1.ポルトガルの海外侵略
- ヨーロッパ諸国の中でもっとも早くから海外侵略を始めたのはポルトガルであった。ポルトガルは
- ヨーロッパの西端に位置しているという地理的条件のためアフリカ・アメリカ大陸に近かった
- ポルトガルはイスラム経済圏との交流が多く、貨幣経済が浸透していた
- 15世紀のヨーロッパの中では戦渦に巻き込まれず国内政治が安定していた
という理由から早い時点で海外侵略を行うことができた(Wallerstein(訳1981a:52-6)。
- ポルトガルの海外侵略の目的の1つは香辛料の輸入であり、喜望峰経由でアフリカ、アジアへ侵略した。
- 1493年に教皇アレクサンデル6世はポルトガル・スペイン両国の争いを調停するために、スペインの要請によって教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、その東をポルトガル、西をスペインの勢力圏と定めた
- 1497年から1504年にかけてイタリアのフィレンツェの人アメリゴ・ヴェスプッチがポルトガルのアメリカ遠征隊に参加して新大陸を探検し、コロンブスが発見した土地はアジアではなく、「新大陸」であるとの見解を報告した。そのためドイツの地理学者ヴァルトゼー=ミューラーがアメリゴ=ヴェスプッチの名を取ってアメリカと呼んで(1507)以来一般化し、新大陸はアメリカ大陸と呼ばれるようになった。
- ポルトガル人のマゼランはスペイン王と契約して、1519年から3年かかって西周りで世界一周した。
- ポルトガル人のカブラル(1460頃〜1526)は、ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路の開拓の後に、国王からインドへの航海を命じられ、1500年にリスボンを出航した。しかし、暴風のためにブラジルに漂着し、同地をポルトガル領と宣言した。ポルトガルのアメリカ大陸およびその周辺島嶼部での植民地はブラジルに限定された。
- 1580年にポルトガルはスペインに併合された
- ポルトガルの東洋貿易進出は、従来から存在していた南アジアの市場にあとから割り込んで、これに寄生した性格が強く、市場をを独占するには程遠い状態にあった。ポルトガルには東洋貿易において、対価をアジアに提供する力がなく、その国力から見ても、市場を独占することには無理があった。ポルトガルの東洋貿易進出は、一時的にはイタリア商業の衰退をもたらしたが、その後イスラム商人も勢力を回復し、ポルトガルの貿易の繁栄もながくは続かなかった。その後オランダがアジアに進出するにおよんで、ポルトガルの地位は17世紀には失われることになった。
1-2-2.スペインの海外侵略
- 15世紀のスペインは小国に分裂し、かつ、ウマイヤ朝のイスラム教徒に国土の半分を占拠されていた。スペインをキリスト教徒の手に取り戻そうとする「国土回復(レコンキスタ)」運動を唱えたカスティリア王フェルナンドとアラゴン女王イザベル夫婦が国土を統一した。
- コロンブスは1492年に(ダスコ・ダ・ガマとは反対に西回りでインドにたどり着こうとして)カリブのサンサルバドル島・サマナ島(この2島はともに現バハマ)・キューバ島・ハイチ島に到達した。コロンブスは彼が到達した地域がインドであると信じていた。
- スペインはアメリカ大陸およびその周辺島嶼部の植民地化を最も早く進め、1513年、スペインのバルボアはパナマ地峡を横断して太平洋を発見、この大陸が「新大陸」であることを確認し、1519年コルテスはアステカ帝国(メキシコ)を侵略、1531〜1533年ピサロはインカ帝国(ペルー)を侵略した。
- 国王は入植者に領主的経営を委任した(エンコミエンダ制)。しかし、スペインによる新大陸の征服は極悪非道なものであり、彼らは行く先々で先住民族を大量に虐殺し、掠奪、破壊の限りをつくしたため、先住民族の人口は急速に減少していった。
- 各地で金山、銀山が発見され、とりわけボリビアのポトシ銀山(1544年発見)は大量の銀を産出し、それがヨーロッパに輸出されて銀の価値の大幅な低落をもたらした。こうしてアメリカからヨーロッパへ流れた銀は、ヨーロッパがアジアから購入する香料への支払いに当てられた。
- 1580年にポルトガルを併合
- 1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗北し、これ以降スペインの勢力は低下した。
1-3.イギリス・フランス型植民地支配:工業製品原材料生産型
○イギリス・フランスはアメリカ大陸およびその周辺島嶼部に遅れて侵略し、広大な植民地を占領できなかったが、砂糖や綿花など自国で製造する工業製品の原材料の輸入を重視した植民地支配で、自国の工業を発展させることができた。
1-3-1.イギリスの海外侵略
- イギリスは1588年にスペインの無敵艦隊を破った以降、世界システムの中心となっていった。
- イギリスはアメリカ大陸およびその周辺島嶼部の植民地化には出遅れて、現アメリカ合衆国の13州や、1898年 米西戦争後、カリブ諸島を植民地にしたにとどまった。
- イギリスは、アフリカでは現在のナイジェリア、シエラレオネ、ガーナ、スーダン、ケニア、タンザニア、ジンバブエ、ザンビア、ナミビア、ボツワナなどを植民地としてアメリカ大陸およびその周辺島嶼部への奴隷供給地とした。
- イギリスは、アジアではインド、パキスタン、バングラディシュ、ミャンマーなどを植民地として、綿花、砂糖などのプランテーション経営を行った。
1-3-2.フランスの海外侵略
- フランスはアメリカ大陸およびその周辺島嶼部の植民地化には出遅れて、現カナダのケベック州やハイチなどを植民地にしたにとどまった。
- フランスは、アフリカではモロッコ、アルジェリア、モーリタニア、セネガル、マリ、ギニア、コートジボアール、ニジェール、チャド、中央アフリカ、ガボン、コンゴ、マダガスカルなどを植民地としてアメリカ大陸およびその周辺島嶼部への奴隷供給地とした。
- フランスは、アジアではベトナム、ラオス、カンボジアなどを植民地として、綿花、砂糖などのプランテーション経営を行った。
1-4.大西洋奴隷貿易
○ヨーロッパ人がアフリカ人をアメリカ大陸へ強制移住して強制労働させた大西洋奴隷貿易は、約1200万〜1500万人とも言われるアフリカ人が大西洋を渡って強制移住させられたこの奴隷貿易は人類史上最悪の強制移住であった。
1-4-1.大西洋奴隷貿易の背景
- 奴隷の存在は「大航海時代」以前からあり、ローマ帝国などの古代文明において、征服した民族を農奴など奴隷労働に強制労働させることがいろいろな時代のいろいろな社会において行われてきた。15世紀の時点で、アフリカ大陸においては、民族間の戦争で敗北した民族が奴隷として強制労働させられる習慣があった。
- ヨーロッパ人がアフリカ人を奴隷として強制労働させたのは12世紀頃、ポルトガル人がアフリカ人にサトウキビ栽培などの奴隷制砂糖生産をさせたのが始まりらしい。
- 1494年のコロンブスの2度目の航海の際に、アフリカ大陸からアメリカ大陸およびその周辺島嶼部へとアフリカ人が強制移住させられ、これが大西洋奴隷貿易の開始となった。
- スペインやポルトガルが侵略したアメリカ大陸およびその周辺島嶼部の鉱山や農園においては、当初は先住民族が強制労働させられていたが、酷使や免疫がなかった伝染病のため先住民族が死亡したり、先住民族の多くは農業労働に不慣れであった。また、ヨーロッパからの移民は熱帯地方の気候下での重労働には不向きであった。アフリカ大陸から強制移住させたアフリカ人を強制労働させる、という奴隷制が盛んになった。
1-4-2.三角貿易
- 三角貿易とは、1.ヨーロッパ→2.アフリカ→3.アメリカ大陸およびその周辺島嶼部と巡回する奴隷貿易である。
- ヨーロッパからアフリカへ:羊毛、繊維製品、金属製品、武器、火薬、ブランデー・ラムなどを輸出し、奴隷を購入する。奴隷は当初は、民族間の戦争捕虜や犯罪者が奴隷として売られていったが、奴隷の輸出が儲かることがわかると、奴隷として販売することを目的とする「奴隷狩り」という誘拐・略奪が行われるようになった。
- アフリカからアメリカへ:奴隷船には奴隷がすし詰めにされて運ばれた。航海中に約3分の1が死亡したらしい。また、奴隷が反乱を起こすこともあった。アメリカに到着した奴隷は競売にかけられた。
- アメリカからヨーロッパへ:砂糖、ラム、コーヒー、唐辛子などの嗜好品や綿花などの工業製品原材料をヨーロッパに輸入した。
- 三角貿易の結果として、アメリカ大陸およびその周辺島嶼部に強制移住させられたアフリカ人は、自分たちの文化・文明から切り離されて、砂糖や綿花などの商品作物を栽培するプランテーション農場で奴隷労働させられた。
- ※参考〜Abbysinians "Declearation of Rights"では、アフリカ人が自分たちの文化・文明から切り離されて、砂糖や綿花などの商品作物を栽培するプランテーション農場で奴隷労働させられた、という三角貿易の結果について記述している。
2.アメリカ大陸およびその周辺島嶼部へ強制連行される以前のアフリカの社会と文化
2-1.ここで考察する民族
※アメリカ大陸およびその周辺島嶼部へ強制連行されたのは、アフリカ西部に居住していたスーダン語系民族とバンツー語系民族が多いため、ここではおもにこれらの民族をとりあげる。
2-1-1.スーダン語系諸民族
スーダン語系諸民族とは、サハラ砂漠南のニジェール川流域の「サヘル」地域に住む、ヨルバ民族(ナイジェリア西部)、イボ民族(ナイジェリア東部)、マンディ民族(マリ)、アシャンティ民族(コートジボアール、ガーナ)、ソンガイ民族(ニジェール)などのスーダン語系言語を使用する民族の総称である。なお、「スーダン」とは地中海沿岸のアラブ人が命名したサハラ砂漠の南の「黒人の国」という意味であり、現在のスーダンが東スーダン、西アフリカ北部が西スーダンと呼ばれた。
2-1-2.バンツー語系諸民族
バンツー語系諸民族とは、赤道以南のアフリカ大陸の広範に居住しているバンツー語系言語を使用する民族の総称である。ここでは、アメリカ大陸およびその周辺島嶼部へ強制連行された人が多かった、ザイール川流域の現在のザイール、コンゴ、ガボンなどに居住していた民族について検討する。
2-2.スーダン語系民族とバンツー語系民族の社会と文化
- 「帝国」や「王国」という名称で呼ばれた国家もあったが(ex.スーダン語系民族ではガーナ王国、マリ王国、ソンガイ王国など、バンツー語系民族ではコンゴ王国など)、多くの社会は集権的な行政機構を持たない分権的な共同体のネットワークであった。
2-3.ヨルバ民族の宗教
- アメリカおよびその周辺島嶼部に強制移住させられた人のなかではヨルバ民族の人数が多く、アメリカおよびその周辺島嶼部での文化においては、ヨルバ民族の宗教が影響を与えている。ヨルバ民族の宗教は多神教で神々はオリシャと呼ばれた。
-
2-4.アフリカ音楽の特徴
アフリカ音楽の特徴のなかで、アメリカ大陸およびその周辺島嶼部の音楽に伝承されたものとして、コール・アンド・レスポンスとポリリズムをあげることができよう。
2-4-1.コール・アンド・レスポンス
- コール・アンド・レスポンスとは、リード・ボーカリスト(など)による呼びかけに引き継いで、コーラス隊(など)による応答が繰り返されるという歌の応答形式のことである。
- 聴覚教材:コートジボーワールのダン民族の「男性の仮面」(in Cote-d'lvoire Masques Dan, 『西アフリカのアミニズム』、キングレコード KICC5743)
2-4-2.ポリリズム
- ポリリズムとは、4(の倍数)拍子と3(の倍数)拍子など、複数の異なるリズムが並列しているリズムのことである。
- 聴覚教材:コンゴの"Xilofono, 2 arpe-ceti percussioni" (in Ritmi e Strumenti Africani Vol.1, 『アフリカの音楽T』アルバトロス名盤復刻30選、キングレコード KICC 5775)は、木琴が8分の6拍子、ムヴェット(撥弦楽器)が8分の8拍子をとるポリリズムの例である。
- 聴覚教材は、4小節ずつ、表2-2 4分の4拍子→表2-3 4分の3拍子→表2-4 4分の4拍子と4分の3拍子とのポリリズム→表2-5 8分の8拍子→表2-6 8分の6拍子→表2-7 8分の8拍子と8分の6拍子とのポリリズム、の例である。
表2-2 4分の4拍子の例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 | 7 | 8 |
24beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○ | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | |
スネア |
| | | | | | | | | |
| | ○ | | | | | | | |
| | | |
ハイハット |
○ | | | | | | ○ | | |
| | | ○ | | | | | |
○ | | | | | |
ローコンガ |
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| | | | | | | | | |
| | | |
ハイコンガ |
| | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
|
表2-5 8分の8拍子の例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○ | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | |
スネア |
| | | | | | | | | |
| | ○ | | | | | | |
| | | | |
ハイハット |
○ | | | ○ | | | ○ | | |
○ | | | ○ | | | ○ | | |
○ | | | ○ | | |
ローコンガ |
| | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
ハイコンガ | | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
|
表2-3 4分の3拍子の例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 | 7 | 8 |
24beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○ | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | |
スネア |
| | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
ハイハット |
| | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
ローコンガ |
○ | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | |
ハイコンガ |
| | | | | | | |
○ | | | | | | | |
○ | | | | | | | |
|
表2-6 8分の6拍子の例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 | 7 | 8 |
24beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○ | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | |
スネア |
| | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
ハイハット |
| | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
ローコンガ |
○ | | | | | | | | |
| | | ○ | | | | | |
| | | | | |
ハイコンガ |
| | | | ○ | | | | ○ |
| | | | | | | ○ | |
| | ○ | | | |
|
表2-4 4分の4拍子と4分の3拍子とのポリリズムの例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 | 7 | 8 |
24beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○ | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | | |
スネア |
| | | | | | | | |
| | | ○ | | | | | |
| | | | | |
ハイハット |
○ | | | | | | ○ | | |
| | | ○ | | | | | |
○ | | | | | |
ローコンガ |
○ | | | | | | | | | |
| | | | | | | | | |
| | | |
ハイコンガ |
| | | | | | | | ○ | |
| | | | | | ○ | | | |
| | | |
|
表2-7 8分の8拍子と8分の6拍子とのポリリズムの例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○ | | | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | | | |
スネア |
| | | | | | | | | |
| | ○ | | | | | | |
| | | | |
ハイハット |
○ | | | ○ | | | ○ | | |
○ | | | ○ | | | ○ | | |
○ | | | ○ | | |
ローコンガ |
○ | | | | | | | | |
| | | ○ | | | | | |
| | | | | |
ハイコンガ |
| | | | ○ | | | | ○ |
| | | | | | | ○ | |
| | ○ | | | |
|
3.スペインによる植民地支配とキューバの社会と文化〜ソン、マンボ、ルンバ、サルサの創造
3-1.キューバ概況 ※外務省(2003)「キューバ共和国(Republic of Cuba)」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cuba/data.htmlを参照
- 面積 110,922km2(本州の約半分)
- 人口 1,121万人(2001年キューバ企画省)
- 首都 ハバナ(219.0万人)
- 民族群 ヨーロッパ系25%、混血50%、アフリカ系25%(推定)、つまりヨーロッパ系が約半数を占めるが、北米へ移住したプロテスタントが家族を伴って移住した人が多かったのと比べて、中南米に移住したカトリックはは単身で移住した人が多く混血が進んだ。
- 言語 スペイン語
- 宗教 宗教は原則として自由
3-2.キューバ略史
- キューバ島の先住民族は、シボネイ民族、タノイ民族、アラクワ民族などであった。
- 1492年 Columbusがキューバ島に侵略し、ディエゴ・デ・ベラスケスがキューバを征服した。Columbusの侵略後約100年でキューバ島の先住民族は絶滅させられてしまった。キューバにはほとんど「金銀財宝」がなかったため、スペインはメキシコやペルーの「金銀財宝」に関心を移し、キューバは放置された。
- 1804年 フランス領サン=ドマングで独立戦争が起こり、ハイチがフランスから独立した。フランス革命の影響を受けて、フランス領サン=ドマングでトゥーサン・ルベルテュールという「解放奴隷」が1801年に独立戦争を起こした。ナポレオンが「鎮静(侵略)」軍を派遣したが、アフリカ系移民はナポレオン軍を追い払い、1804年に独立を達成した。フランスはサン=ドマングでサトウキビ・プランテーションを行い砂糖生産に成功していた。ハイチ独立の結果、フランス領サン=ドマングからキューバへフランス人やフランス領サン=ドマングにいた奴隷が多数移住し、キューバへ砂糖生産とフランス文化が移転された。(八木・吉田(2001:43-5参照)
- 砂糖生産が盛んになってからアフリカからの奴隷の強制移住は増加した。アフリカ系移民は出身民族ごとに居留地が決められ、カルビドと呼ばれる集会所が作られた。アフリカ系移民へはカトリック信仰が強要されたが、カトリックの聖者をヨルバの神々になぞらえたサンテリアという宗教が生まれた。
- 1898年 米西戦争
- 1902年 キューバがスペインから独立
- 20世紀のキューバはアメリカ合衆国のすぐ近くにあるという地理条件のため、とりわけ1920年代のアメリカ合衆国の「禁酒法」時代以降、ハバナは「第2のラスベガス」として栄えた。
- 1959年 カストロ政権成立(キューバ革命) 以降、アメリカ合衆国と断行した。
3-3.キューバにおけるヨーロッパ文化とアフリカ文化との異文化接触とソン、ルンバの創造
- キューバでは、スペイン文化およびフランス文化とアフリカ文化との文化融合がおきた。ボレロ、ハバネラ、ダンソンはヨーロッパ文化の影響が強く、ルンバはアフリカ文化の影響が強かった。ヨーロッパ文化とアフリカ文化とが融合し、かつ、のちのキューバ音楽およびアメリカン・ヒスパニック音楽の原型となったのがソンである。
- ヨーロッパ文化の影響が強いボレロの例:Maria Cevantes (1928)"Tus Manos Blancas(君の白い手)" (in 『The Music of Cuba 1909-1951 楽園時代のキューバ音楽』ソニー・ミュージック・エンタテイメント、SRCS 2326)
3-3-1.クラーベ (八木・吉田(2001)参照)
- キューバ音楽のリズムの鍵となるのが2小節で5音のクラーベというリズム・パターンである。クラーベは拍子木に似た木製の2本の棒状の打楽器であるが、これ以外の楽器で代用されることもある。
- クラーベの各小節はアクセントが強い緊張側の3音の小節と、弛緩側の2音の小節との連結から構成され、緊張側から始まるのを3-2クラーベ、弛緩側から始まるのを2-3クラーベと呼ぶ。
表3-1 クラーベの例
| 1小節目 | 2小節目 |
8beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
3-2クラーベ |
1○ | 2× |
3○ | 4○ |
5× | 6× |
7× | 8× |
1○ | 2× |
3 | 4○ |
5× | 6× |
7× | 8× |
2-3クラーベ |
1○ | 2 |
3 | 4○ |
5 | 6 |
7 | 8 |
1○ | 2 |
3○ | 4○ |
5 | 6 |
7 | 8 |
- ソンの例(3-2クラーベ):Floro Zorrilla y Miguel Zaballa (1919) "Se Acabo la Choricera(最後のチョリソー)" (in 『The Music of Cuba 1909-1951 楽園時代のキューバ音楽』ソニー・ミュージック・エンタテイメント、SRCS 2326)では、「モントゥーノ」と呼ばれるコール・アンド・レスポンス形式の掛け合いを聞くことができる。
- ルンバの例(3-2クラーベ):Lecuona Cuban Boys (1936) "Tabou" (in 『The Music of Cuba 1909-1951 楽園時代のキューバ音楽』ソニー・ミュージック・エンタテイメント、SRCS 2326)は、マルガリータ・レクオーナが作曲した曲でいろいろな国の多くのアーティストによってカバーされている。
3-4.アメリカ合衆国の影響とマンボ、チャチャチャの創造
- 1920年のアメリカ合衆国の「禁酒法」以降、キューバはアメリカ合衆国からの観光客が増加した。キューバ人ミュージシャンがアメリカ合衆国からの観光客向けのキャバレーやクラブなどでジャズなどを演奏する機会が増加した。その結果、キューバ音楽とアメリカ合衆国音楽との融合が起きた。さらに、キューバ音楽はアメリカ合衆国のジャズに影響を与えて「アフロ・キューバン」スタイル・ジャズが生まれた。
- ヨーロッパ文化の影響が強かったダンソンはソンやルンバなどアフリカ文化の影響が強い音楽の影響を受けてリズムを強調したスタイルに変化してマンボやチャチャチャが生まれた。
- マンボの例:Perez Prado (1950発表-1967録音) "Mambo No. 5" (in 『マンボNo.5/情熱のラテン・リズム』日本ビクター、VFC-1016)
- チャチャチャの例:Orchestra Enrique Jorrin (1955) "Milagros Del Cha Cha Cha" (in 『ラテン音楽・ベスト』、BMGジャパン、BVCM-37034
表3-2 マンボのリズム・パターンの例
| 1小節目 | 2小節目 |
8beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
クラーベ |
○1 | 2× |
○3 | ○4 |
5× | 6× |
7× | 8× |
○1 | 2× |
○3 | 4 |
5× | 6× |
7× | 8× |
ロー・コンガ |
○1 | 2 |
3 | 4 |
○5 | 6 |
7 | 8 |
○1 | 2× |
3 | 4 |
○5 | 6 |
7 | 8 |
ハイ・コンガ |
1 | 2 |
○3 | ○4 |
5 | 6 |
○7 | ○8 |
1 | 2 |
○3 | ○4 |
5 | 6 |
○7 | ○8 |
3-5.キューバ革命の影響と汎アメリカン・ヒスパニック運動〜サルサの創造
- 1959年のキューバ革命によりカストロ政権が成立し、キューバはアメリカ合衆国と断行した結果、キューバ人ミュージシャンはアメリカ合衆国に渡航できなくなるか、アメリカ合衆国に亡命するかの選択を迫られることになった。一部のキューバ人ミュージシャンはアメリカ合衆国に亡命したが、アメリカ合衆国においてはキューバ人ミュージシャンの代わりにプエルトリコ、パナマ、ベネズエラといったスペイン語圏のアメリカン・ヒスパニックのミュージシャンに仕事が回るようになった。
- 1960年代にアメリカ合衆国在住のアメリカン・ヒスパニックによって、キューバ音楽とロックンロールやソウルとを融合したブガルーが生まれた。Bobby Valentin "Batman's Bogaloo" (in Young Man with A, Fania Records, LP 332)のように、ブガルーはコミカルな曲も多かった。
- 1970年代に入ると、キューバ音楽とファンクとの融合によってサルサが生まれた。サルサの発祥は1971年8月26日にニューヨークのクラブ・チータで行われたFania Allstarsのライブであった。Fania Allstars (1971)"Introduction Theme"〜"Estrellas De Fania"〜"Closing Theme" (in Fania Allstars Live Cheetah, Fania 748、Sonido Inc. Fania Allstarsとは、Faniaレーベル所属のアーティストのAllstarsであり、このライブ盤には、演奏家はRay Barretto, Willie Colon, Larry Harow, Johnny Pacheco, Roberto Roena, Bobby Valentin、歌手はSantos Colon, Hector Lavoe, Ismael Miranda, Pete "El Conde" Rodriguez, Adalberto Santiagoが参加している。
- サルサはキューバ以外にプエルトリコなど旧スペイン領のアメリカン・ヒスパニックのアーティストたちが広く歌唱・演奏した。プエルトリカン・サルサの例:El Gran Combo "La Salsa De Hoy" (in Historia Musical de El Gran Combo de Puerto Rico 20 Anos - 20 Exitos, Combo Records RCSLP 2029)
- サルサは8分の6拍子系のリズムが入り、ポリリズム的要素が強い。
表3-3 サルサのリズム・パターンの例
| 1小節目 | 2小節目 |
3beat | 1 | 2 | 3 | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
クラーベ |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ロー・コンガ |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ハイ・コンガ |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | ○22 |
23 | 24 |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | ○22 |
23 | 24 |
ロー・ボンゴ |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ハイ・ボンゴ |
1 | 2 |
3 | 4 |
○5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
○11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
○17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
○23 | 24 |
1 | 2 |
3 | 4 |
○5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
○11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
○17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
○23 | 24 |
- サルサはアメリカ大陸およびその周辺島嶼部に居住するヒスパニック、すなわちアメリカン・ヒスパニックの連帯を求める汎アメリカン・ヒスパニック運動を生んだ。パナマ人による汎アメリカン・ヒスパニック運動の例:Ruben Blades (1984) "Buscando America(アメリカを求めて)" (in Buscando America, Elecktra Records, 60352
はジャケットの内側の歌詞をスペイン語と英語の両方で印刷してある。
4.ポルトガルによる植民地支配とブラジルの社会と文化〜サンバ、ボサノヴァの創造
4-1.ブラジル概況 ※外務省(2003)「ブラジル連邦共和国(Federative Republic of Brazil)」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/brazil/data.htmlを参照
- 面積 851.2万km2(日本の22.5倍)
- 人口 1億6,954万人(2000年地理統計院)
- 首都 ブラジリア
- 民族群 ヨーロッパ系(55%)、混血(38%)、その他(アフリカ系・アジア系等)、北米へ移住したプロテスタントが家族を伴って移住した人が多かったのと比べて、南米に移住した人は単身で移住した人が多かったこともあって、ブラジルは「混血」に寛容な社会である。
- 言語 ポルトガル語
- 宗教 カトリック教徒約90%
4-2.ブラジル略史
- 1500年 ポルトガル人カブラルによるブラジル侵略。ポルトガルの2度目の探検隊が赤い染料の原料となるブラジルボクを発見し、ブラジルボクの採取が初期の主産業となる。その後、砂糖、金、ダイヤモンド、コーヒー、ゴムなどの輸出が基幹産業となった。
- 1538年 奴隷貿易開始。アフリカ系移民は出身民族・出身地ごとにインマンダーヂという地域集団に所属し、ここでアフリカ文化がある程度継承された。ヨルバのオリシャ信仰はカンドンブレーに形を変えた。
- 逃亡奴隷はブラジル奥地に作った集落はキロンボと呼ばれ、これもアフリカ文化の保存を助けた。
- 1822年 ブラジルがポルトガルから独立(9月7日)
- 1888年 奴隷制廃止
- 1889年 共和制樹立(11月15日)
- 1964年 カステロ・ブランコ軍事政権樹立
- 1985年3月 民政移管(21年振り)
4-3.サンバの創造
- サンバの起源についての定説はないが、語源は現アンゴラのキンブンドゥ語の「ダンスに誘うこと」を意味する「センバ」らしい。
- 最初にレコーディングされたサンバは1911年録音の「ベロ・テレフォーニ(電話で)」らしい。
- サンバはカーニバル(起源はギリシア文明時のデオニソス神祭りであるが、カトリックに同化し、ポルトガルのエントルードという祭りがブラジルに移植されたことに始まる)の音楽としても欠かせない。
- 国際的にヒットしたサンバには、1942年作成の『サルードス・アミーゴス』というディズニー・アニメの挿入歌に選ばれたCarmen Miranda "Aquarela Do Brasil(ブラジルの水彩画)"(作曲はアリ・バホーゾ)(in Os Grandes Sucessos de Carmen Miranda, Atracao, ATR 11096)がある。
- ブラジルでは、アフリカ系とヨーロッパ系の混血男性をムラート、アフリカ系とヨーロッパ系の混血女性をムラータと呼ぶ。ブラジルの国民的歌手Elizete Cardoso "Mulata Assanhada (情熱のムラタ)" (in Disco de Oure, Global, GB-368-11、日本コロムビア、YX-7182-GB)
表4-1 サンバのリズム・パターンの例
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
ロー・ティンバレス |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ハイ・ティンバレス |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ロー・アゴゴ |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
○17 | 18 |
19 | 20 |
21 | ○22 |
23 | 24 |
ハイ・アゴゴ |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
4-4.ボサノヴァの創造
- サンバのリズム・パターンを抽象化し、打楽器が担当していたリズムをギターとピアノに代替させたのがボサノヴァである。ボサノヴァの創造のうえでは作曲家兼ピアニストのAntnio Carlos Jobinとギタリスト兼歌手のJoan Gilbertoの貢献が大きい。
- Antnio Carlos Jobin作曲・編曲、Vinicius de Moraes作詞、Joan Gilbertoがギターを演奏したElizete Cardoso(1958) "Chega de Saudade(想いふれて)" (in Cancao do Amor Demais, Festa, FT 1801)がボサノヴァの最初のレコーディングであるらしい。
- ボサノヴァがアメリカ合衆国でヒットしたのはStan Getz, Joan & Astrad Gilberto and Antnio Jobin(1963) "The Girl from Ipanema(イパネマの娘)"であり、この曲はビルボード誌ポップ・シングル・チャートの5位を獲得し、この曲を収録したアルバムGetz/Gilberto, Verve原盤(Polygram Records, POCJ-2452)はビルボード誌ポップ・チャートの2位を獲得した。
表4-2 ボサノヴァのリズム・パターン例 実際に使用される楽器は流動的
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
ギター |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ピアノ |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | ○22 |
23 | 24 |
バスドラム |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
スネア |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
オープン・ハイハット |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
クローズド・ハイハット |
○1 | 2 |
3 | 4 |
○5 | 6 |
7 | 8 |
○9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
○17 | 18 |
19 | 20 |
○21 | 22 |
23 | 24 |
4-5.軍事政権の影響とMPB以降
- 1964年にカステロ・ブランコ軍事政権が樹立され、1968年の「軍制令第5号」の発令以降は軍事独裁政権による弾圧が激しくなった。この時期のブラジル音楽は"Musica Popular Brasiliera"を略してMPBと呼ばれている。
4-5-1.プロテスト・ソング
- Geraldo Vandre(1966) "Pra Nao Dizer Que Nao Falei(花について語りたくないから)" (in Perolas, Somlivre 6072|2)は「真の意味でのブラジル国歌」という評価の一方、10年間禁止され、Geraldo Vandreは1969年から1973年まで国外を転々として、帰国後逮捕された。
4-5-2.ブラジル人ミュージシャンのアメリカ合衆国での活躍
- ブラジル国内での活動を制約されたブラジル人ミュージシャンのなかにはアメリカ合衆国で活躍する人もいた。
- ボーカリストのMilton NasimentoはWayne Shorter(1975) Native Dancer Columbia, CK 46159 に参加し、"Ponta de Areia(砂の岬)"などの自作曲を歌っている。
- パーカッショニストのAirto MoreiraはMiles DavisグループやWether Reportに参加するなどアメリカ合衆国のジャズ・フュージョン界で活躍した。Airto Moreira(1988) "Samba de Flora(花のサンバ)" (in Airto, Montuno, MJL 528)はParadise Phase 2 Hi 325 "Samba Magic"のサンプリング・ソースとしても有名な曲である。
5.スペイン・イギリスによる植民地支配とジャマイカの社会と文化〜スカ、ロックステディ、レゲエの創造
5-1.ジャマイカ概況 ※外務省(2003)「ジャマイカ
(Jamaica) 」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jamaica/data.htmlを参照
- 面積 11,424km2(秋田県とほぼ同じ大きさ)
- 人口 260万人(1999年世銀)
- 首都 キングストン
- 民族群 アフリカ系91%、混血7.3%、その他(インド人、ヨーロッパ系)1.7%、つまりジャマイカはアフリカ系移民がほとんどである。
- 言語 英語
- 宗教 プロテスタント、エチオピア正教会、ラスタファリズムなど
5-2.ジャマイカ略史
- 先住民族はアラワク民族
- 1494年 コロンブスがジャマイカ島を侵略してスペイン領となる。
- 1655年にイギリス遠征部隊に対してスペインが条件付で降伏し、1670年にジャマイカがマドリッド条約でイギリスに譲渡される。
- 1655年にスペインが解放した奴隷はマルーンと呼ばれ、イギリス軍に対しての反乱を起こすだけでなく、アフリカ文化の保存にも貢献した。
- 1670年に英領植民地となり、砂糖生産のプランテーションが主産業となる。
- 1807年 イギリスの植民地におけるアフリカ奴隷取引が廃止される。
- 1838年 ジャマイカでの奴隷制度が完全廃止
- 1944年 選挙による議会設置
- 1957年 英国自治領となる
- 1962年8月 独立(カリブ海英領植民地の中で最初)。初代首相はジャマイカ労働党(Jamaican Labour Party)(親米保守的な政党)のアレキサンダー・バスタマンテ
- 1972年の総選挙でマイケル・マンレーが率いる人民国民党(The People's National Party)が勝利
- 1980年の総選挙でエドワード・シーガが率いるJLPが勝利
5-3.スカとロックステディの創造
5-3-1.サウンド・システムとスカの創造
- 1962年の独立の時点では、ジャマイカにはキューバなどとは異なり独自のポピュラー音楽のスタイルは確立していなかった。独立以前からのジャマイカ庶民の憩いの場が移動式ディスコであるサウンド・システムであった。当初はアメリカ合衆国から輸入したレコードを再生していたが、1962年の独立後はサウンド・システムで再生するためのジャマイカ独自の音楽を録音しようという意図でClement Doddなどのサウンド・システムのオーナーがレコードの録音を開始した。この際に演奏を担当したのが、もとはアメリカ合衆国からの観光客を相手に演奏していたジャズ・ミュージシャンであり、1962年ごろからアフター・ビートにリズム・ギターをカッティングすることを特徴とするスカが生まれた。スカの代表的なバッキング・ミュージシャンは、Roland Alphonso(sax)、Don Drummond(tromborne), Tommy MaCock(sax), Lyn Taitt(g), Jackie Mitoo(Key)などであった。
5-3-2.Studio One
- Clement 'Coxsone' Dodd(2004/5/4没)がオーナー兼プロデューサーであるStudio
Oneはスカを創造した場であるだけでなく、のちのダンスホール・スタイルを創造した場であり、極論すればアメリカ合衆国でのヒップホップの雛形となった場でもある。Clement
'Coxsone' Doddの功罪のうちの効は、このようにスカやダンスホール・スタイル、「リズム・トラックの使い回し」を創造したことである。
- Clement 'Coxsone'
Doddの功罪のうちの罪は、アーティストの著作権を尊重しなかったことである。例えば、作曲・作詞著作権はClement 'Coxsone'
Doddが搾取し、歌唱著作権・演奏著作権は「1曲吹き込んでいくら」という形で売上には関係なくギャラを支払っていた。(日本では「泳げタイヤキ君」で子門真人がこの方式で契約して「大損」したことが有名である。)
5-3-3.スカとロックステディとの比較
- 同一曲でのスカとレゲエとの比較:WailersがStudio Oneレーベルで録音した"One Love/People Get Ready"はImpressions (1965)"People Get
Ready"のカバーであり、この"One Love/People
Get Ready"はBob Marley and the
Wailers(1977)のアルバムExodusで再演されている。(※音源はともにBob Marley Songs of
Freedom, Tuff Gong, TGCBX T)
- 1966年にリズム・ギターをカッティングする回数を半分にしたロックステディが生まれた。ロックステディとレゲエとは基本的なリズム・パターンは共通している。ロックステディの例:Alton
Ellis "Rock Steady" (in
V.A. Rocksteady Soul, Treasure Isle, METRECD061)
表5-1 スカとロックステディ・レゲエとのリズム・ギターの相違
8beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
スカのギター |
1× | ○2 |
3 | ○4 |
5× | ○6 |
7 | ○8 |
ロックステディ・レゲエのギター |
1 | 2 |
○3 | 4 |
5× | 6 |
○7 | 8 |
5-4.レゲエの創造
5-4-1.ラスタファリズムとナイヤビンギ
- ジャマイカで1887年に生まれたMarcus Garvey(Burning Spear feat.Marcus Garvey and Big Youth "Marcus Garvey", Human Race Records)はアメリカ合衆国で全黒人地位改善協会(UNIA)を設立してアフリカ帰還運動を提唱した。1927年のキングストンの教会での演説で「アフリカを見よ、今に黒人が王座につくだろう。その時こそ解放の時だ」と予言した。1930年にエチオピアの皇帝にハイレ・セラシエ(幼名はラス・タファリ)が即位すると、ジャマイカの下層階級の人びとはGarveyの予言が実現したと信じ込んだ。1924年に出版されたピビィ聖書は聖書の原典に近いものでアムハラ語(エチオピアの公用語)で書かれている。ハイレ・セラシエ皇帝を黒人の救世主とあがめるラスタファリズムが生まれた。
- ラスタファリアンの儀式で演奏された音楽がナイヤビンギであり、マルーンたちが継承してきたアフリカ音楽の伝統を強く継承していると考えられる。また、ロックステディからレゲエへの変化は、ナイヤビンギで用いられたアフリカン・パーカッションの影響を受けている。Count OssieをリーダーとするMystic Revelation of Rastafari "Grounation" (in Grounation, MRR Records)
5-4-2.販売戦略と主要レーベル
- サウンド・システム指向(国内市場指向)とは、スカが生まれたときと同様に、サウンド・システム(のちにダンスホールと呼ばれる)での再生、すなわち国内市場を重視した販売戦略のことであり、Clement DoddがオーナーであるStudio Oneレーベル、Duke ReidがオーナーであるTresure Isleレーベルが二大大手となった。一方、インターナショナル指向とは、TrojanやIslandといった配給レーベルを通じてイギリスなどの海外市場を重視した販売戦略のことであり、1960年代ではLeslie KongがオーナーであるBeverley'sレーベルがこの指向が強かった。Desmond Dekker(1968)"Israelites" (in V.A. The Story of Jamaican Music, Mango, 162-539935-2)は、Malody Maker誌のポップ・チャートで第1位(=全英No.1)を獲得している。
- Beverley'sレーベルに録音したToots and the Maytals(1968)の"Do the Reggay"が歌詞に「レゲエ」という言葉を用いていることから最初のレゲエとする説もある。しかし、ロックステディがナイヤビンギとファンクの影響を受けて変化したものがレゲエであると考えるならば、Lee Perryプロデュース兼オーナーのUpsetterレーベルの方がより一層レゲエを創造したと解釈するのにふさわしいであろう。Wailers (1971) "Comcrete Jungle" in The Complete Bob Marley & the Wailers 1967 to 1972 Part V, Keep on Skanking, JAD Records, JAD-CD 1005、なお、Lee PerryプロデュースのWailersの曲およびIslandレーベルに録音したBob Marley & the Wailersの全曲で、ベースはAston 'Familyman' BarrettとドラムスはCarlton Barrettの兄弟が演奏している。
表5-2 レゲエのリズム・パターン例 実際に使用される楽器は流動的
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
ギター(ダウン・ピッキング) |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
ギター(アップ・ピッキング) |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | ○22 |
23 | 24 |
バスドラム |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
スネア |
1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
オープン・ハイハット |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
○7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
○19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
クローズド・ハイハット |
○1 | 2 |
3 | 4 |
○5 | 6 |
7 | 8 |
○9 | 10 |
11 | 12 |
○13 | 14 |
15 | 16 |
○17 | 18 |
19 | 20 |
○21 | 22 |
23 | 24 |
5-4-3.インターナショナル市場への展開
- Wailersは英Islandレーベルと契約し1972年にCatch a Fireをリリースして、本格的に国際市場に打って出た。このアルバムに収録されている"Comcrete Jungle"はオリジナル・テイクとは異なり、テンポは速く、リード・ギターがオーバー・ダビングされている。
- Bob Marleyは、狙撃事件の2日後の1976年12月5日の「スマイル・ジャマイカ・コンサート」や政治抗争を続けていたJLPのシーガとPNPのマンリーとをステージ上で握手させた1978年4月22日の「ピース・コンサート」を実施したり、
- "Zimbabwe"という曲の予言の自己成就となった1980年4月17日のジンバブエ独立記念式典での公式祝典プログラムでの演奏などを実施した。
5-4-4.DJスタイル
- DJスタイルとは、Version(ボーカル・トラックが録音されていない「カラオケ」)にトーキング・スタイルのボーカル(D.J.)をかぶせることである。シンガーのヒット曲のアンサー・ソングとしてDJが、同一のリズム・トラックにDJを吹き込むという「リズム・トラックの使い回し」が頻繁に行われるようになった。Paragons (1969) "The Tide is High", On the Beach, Treasure Isle TI 004〜U. Roy (1969) "The Tide is High", Version Galore, Treasure Isle。そして、ジャマイカのDJスタイルはアメリカ合衆国のヒップポップに強い影響を与えた。
5-4-5.ダブ
- ダブとは、マスター・テープからボーカルや一部の演奏を「消した」り、ディレイやリバーブなどのイフェクターをかけるというremixによる創造のことである。Cornell Campbell "Sun"(※原曲はStudio One録音の"Stars") Justice 7″single〜King Tubby "Roots of Dub", Roots of Dub, Clock Tower CT:084
5-5.1984年以降のレゲエの変化
1980年代前半のジャマイカン・レゲエは、イギリス市場だけでなくアメリカ合衆国市場での売上拡大をねらった人たちもいたが、芳しい成果を上げることはできなかった。また、ジャマイカ国内では相変わらず、JLPとPNPとの対立も激しかった。
5-5-1.ダンスホール・スタイル
- ダンスホール・スタイルとは、もともとはサウンド・システム指向(国内市場指向)ダンスホールと呼ばれるようになったサウンド・システムでの再生、すなわち国内市場を重視した歌唱・演奏様式のことであり、極論すればリード・ギターやストリングスなどのオーバー・ダビングや共演がないレゲエのことであった。
- 1980年頃からシンガーとDJとの中間的な歌唱方法とでも言うべき早口の歌い方が現れ、当初はシング・ジェイと呼ばれたが、のちに歌唱様式としてのダンスホール・スタイルと呼ばれるようになった。Sugar Minott(1984)"Herbman Hustling"
- 同時に1980年代の半ば頃から、従来のシンガーのヒット曲のアンサー・ソングとしてDJがレコードをリリースするのではなく、Admiral Bailey(1987)"Punanny"に代表されるようにDJが最初からヒット曲を飛ばすことが多くなった。
5-5-2.コンピュータライズド
- 1980年代の半ば頃から、「ダンスホール・スタイル」と呼ばれる、コンピュータライズド演奏の国内市場指向の音楽が流行するようになった。
- ジャマイカで言うところのコンピュータライズドとは、MIDI音源のことではなく、リアルタイム入力のドラム・マシーン(Sugar Minott(1984)"Herbman Hustling"、Sly Dunbar:Drms, Robbie Shakespeare:Bass)、カシオトーンのプリセット・リズム(Wayne. Smith(1985) "Under Me Slengteng"〜Johnny Osbourne(1985) "Budy Bye"、カシオトーン演奏はノエル・ディビ)、アナログ・リズム・マシーンとシンセ・ベースとの併用Little John (1986)"Clarks Bootey"(ドラム・プログラミングはClevie Browne、ベース・シンセサイザーはSteely)などによる演奏のことを指す。
5-5-3.再びインターナショナル市場への展開
- 1980年末期からは、米メジャー・レーベルと契約して、インターナショナル市場(とくにアメリカ合衆国市場)でヒットを飛ばすDJが増加した。1980年末期からはサウンド・システム指向(国内市場指向)だけでなく、インターナショナル指向の「ダンスホール・スタイル」が生まれた。Shinehead(1992) "Jamaican in N.Y." (in Sidewalk University, Elektra, 61139-1)、原曲はSting "Englishman in N.Y."
6.イギリスによる植民地支配とアメリカ合衆国の社会と文化〜ジャズ、ブルースなどの創造
6-1.アメリカ合衆国におけるアフリカ文化の影響
- アメリカ合衆国では中南米諸国と比べてアフリカ文化が保存された程度が低く、ポピュラー音楽においてアフリカ的要素が復活していく過程においては、中南米諸国のポピュラー音楽の影響が必要であった。
6-2.1920〜30年代のジャズとブルース
- アメリカ合衆国に強制移住させられたアフリカ系移民たちが、かすかに口頭伝承してきたメロディーがジャズとブルースの原型となった。
- デキシーランド・ジャズやスウィング・ジャズは大人数のバンド編成やオーケストラ編成で演奏されることが多かった。Louis Armstrong & His Hot Five(1928) "West End Blues" (in A Portrait of Louis Armstrong 1928, CBS Sony 20AP1466では、「スキャット唱法」が聞かれる。
- Louis Armstrong and Duke Ellington "It Don't Mean a Thing" (in The Great Reunion, Roulette Birdland, R 52103)は録音年が不明であるが、リズムなど演奏様式はハードバップである。
- ブルースはギターやピアノの弾き語りで演奏されることが多かった。Charley Jordan(1930)"Hunkie Tunkie" (in St. Louis Town 1929-1933, Yazoo Records, L-1003)。ブルースは12小節を単位として構成される。
6-3.ジャズの変遷〜器楽演奏曲編
- ジャズは第二次大戦以降ではボーカルを伴わないインストメンタル曲として演奏されることが多くなっていった。「英語」という言語によってアフリカ系移民に対する差別への抗議を「歌えば」逆に「返り討ち」に会う危険が高かったからではないかと推測される。アフリカ系移民に対する差別への抗議を「英語」という言語によって歌う場合には婉曲的な比喩表現を用いる必要があった。Billie Holiday(1939) "Strange Fruit" (作詞: Lewis Allan)The Greatest Interpretations of Billie Holiday, Commodore Record K23P-6611
意訳:死体が見せしめのために南部の木に吊り下げられ、木の葉に血が滴り、その血が木の根まで流れ、メラニン色素が多い肌色の身体が南部の風に揺られ、死体がポプラの木に吊されている。
※注:JASRACのホームページで[作品名]Strange Fruit キミョウナカジツ、[権利者名]Lewis Allan ルイス アレン、[アーティスト名]Billie Holiday ビリー ホリディ、で検索した結果、「該当無し」だったので、作詞者没後60年以上経過しているのだろうと判断しました。
- 1945年頃からビ・バップというアドリブ(即興演奏)を重視したスタイルが生まれた。Dizzy Gillespie(1947) "Night in Tunisia" (in Diz' 'N' Bird in Concert, 日本コロンビア YW-7502、tp:Dizzy Gillespie, as:Charlie Parker)
- アフロ・キューバンという、キューバ音楽の影響を受けたジャズのスタイルは、のちのアメリカ合衆国音楽にアフリカ的要素を移植した点において、影響力を持っていたのではないか。Dizzy Gillespie(1954) "Night in Tunisia" (in Mantica, Verve MG V-8208)には、Rafael Miranda:piano, Robert Rodrigues:conga, Joe Mangual:bass, Ubaldo Nieto:bongo, Candido Camero:Timbalesといったキューバ人が参加している。
- 1954年頃からハード・バップという(当時普及しだしたLPレコードへの録音を前提とした)スタイルが生まれ、ハード・バップ期のドラミング・スタイルにはポリリズム的要素の片鱗が認められる。Miles Davis(1954) "Walkin'" (in Walkin', Prestige LP 7076) Miles Davis:trumpet, Kenny Clarke:drm, Percy Heath:bass, Horace Silver:piano, Lucky Thompson:Tenor Sax, Jay Jay Johnson:trombone
表6-1 ハード・バップのドラミング・スタイル例
3beat | 1 | 2 | 3 |
4beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
6beat | 1 | 2 | 3 | 4 |
5 | 6 |
8beat | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
24beat |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 |
バスドラム |
○1 | 2 |
3 | 4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
23 | 24 |
シンバル1 |
1 | 2 |
3 | ○4 |
5 | 6 |
7 | 8 |
9 | ○10 |
11 | 12 |
13 | 14 |
15 | ○16 |
17 | 18 |
19 | 20 |
21 | ○22 |
23 | 24 |
シンバル2 |
1 | 2 |
3 | 4 |
○5 | 6 |
7 | 8 |
9 | 10 |
○11 | 12 |
13 | 14 |
15 | 16 |
○17 | 18 |
19 | 20 |
21 | 22 |
○23 | 24 |
- 1958年にリリースされたMales Davis "So What" (in Kind of Blue, CBS Sony 23AP 2556), Miles Davis:trumpet, bass:Paul Chambers, drm:James Cobb, piano:Bill Evans は長調or単調以外の、Dドリア、E♭ドリアの2コードでのモード奏法を創造した。
- ※スケール(基音):Ionian or 長調(C)→Dorian(D)→Phrygian(E)→Lydian(F)→Mixolydian(G)→Aeolian or 短調(A)→Locrian(B)
- 電気楽器や「16ビート」を導入したクロスオーバーもしくはフュージョンは演奏曲版のファンクであると考えられる。Miles Davis(1969) "Spanish Key" (in Biches Brew, CBS PG 26), tp:Miles Davis:trumpet, Wayne Shorter:Tenor Sax, Lenny White and Jack DeJohnette:Drums, Bennie Maupin:bass Clarinet, Chick Corea:Electric Piano, Jim Riley:Percussion, Harvey Broock:Fender Bass, Dave Holland:bass, John McLaughlin:Electric Guitar)。1970年代のクロスオーバーもしくはフュージョンにはブラジルなど中南米のミュージシャンが数多く参加している。
6-4.ジャイブ、ロックンロール、ソウル、ファンクの創造〜歌唱曲編
- ジャイブの語源は「ジャンプ・ブルース」の略らしく、1940年代後半に流行した。Louis Jordan "Choo Choo Ch Boogie"(1946) (in Louis Jordan Rockin' & Jivin' 1958/57 Vol.1, Bear Family Records BFX 15401)
- ロックンロールはアフリカ系移民の間では1950年代後半の短期間だけ流行したスタイルである。Little Richard "Long Tall Sally"(1956) (in The Georgia Peach, Charly Records CR30190)。しかし、ロックンロールはアメリカ合衆国のヨーロッパ系移民やヨーロッパ人に模倣されて、全世界的に広まった。
- 1950年代後半、ブルースがアフリカ系移民に支持されなくなっていったころ、ソウルと呼ばれるスタイルが生まれた。ソウルはアフリカ系移民向けのキリスト教会での「黒人聖歌」であるゴスペルの影響を受けている。Sam Cooke and the Soul Stirrers "Jesus, I'll Never Forget" (in The Gospel Soul of Sam Cooke with the Soul Stirrers Vol.1, Specialty Records, SPS 2116)。ゴスペルはコール・アンド・レスポンス形式を重視していた。のちのソウル・コーラス・グループでのコール・アンド・レスポンス形式はゴスペルの伝統を継承したと考えられる。
- 1960年代の公民権運動と平行して、アフリカ系移民が本来持っている権利を主張する歌詞が「英語」で歌われるようになった。Impressions(1965) "People Get Ready" (in The Impressions Greatest Hits, MCA 1500)、
James Brown(1969) "Say It Loud〜I'm Black and I'm Proud"
- 1960年代末期にアフリカ的要素が強いファンクというスタイルが生まれた。ファンクはアフロ・キューバン・ジャズやこれの影響を受けたニューオリンズの音楽やニューヨークのブガルーなどからポリリズム的要素を継承したと考えられる。ファンクの曲はコード進行はE 1コードでBPMは110程度の曲が多い。
- James Brown(1970) "(Get Up, I Feel Like being a)Sex Machine", Polydor(James Brown:Vo., Bobby Byrd:organ, Phelps 'Catfish' Collins:guitar, Wiiliam 'Bootsy' Collins:bass, Fred Wesley:trombone, Maceo Parker:tenoe sax, Clyde Stubblefield:drums)のメンバーはホーンセクションはジャズ・ミュージシャンでもあり、Wiiliam 'Bootsy' Collins、Fred WesleyとMaceo ParkerはのちにP-Funkに参加した。
- 〜Sly and the Family Stone(1970) "Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)", (in Sly and the Family Stone Greatest Hits, Epic PE 30325 Sly Stone:Vo., Freddie Stone:Guitar, Rose Stone:Piano, Larry Graham:bass, Andy Newmark:drums, Jerry Martin & Pat Rizzo:sax, Cynthia Robinson:trumpet)
- 1970年代のファンクを支えたのはGeorege ClintonをリーダーとするP-Funk(Purest form of Funk)軍団であり、Parliamentやほぼ同一メンバーであるFunkadelicというグループ名で活動した。Funkadelic(1977) "One Nation Under a Groove" (Drums & Percussion:Tyrone Lampkin, Jerome Brailey & Larry Fratangelo, Bass:Wiiliam 'Bootsy' Collins, Cordell Mosson & Rodney Curtis, Guitar; Gary Shider & Mike Hampton, Keybord:Bernie Worrel, Trombone:Fred Wesley, :Tenor sax:Maceo Parker, Vocal:Georege Clinton, Raymond Davis, Ron Ford, Greg Thomas etc.ではラテン系のパーカッショニストが参加している。
6-5.ヒップホップの創造
- ヒップホップはジャマイカ系移民のKool Herkがブロンクスにジャマイカのサウンド・システムのスタイルを移植し、Break Beats(間奏部分)にRap(韻を踏んだトーキング・スタイルのボーカル)をかぶせることから始まった。
- Boogie Down Production(1991) "Bo Bo Bo" (in Live Hardcore Worldwide, Paris, London and NYC Zomba Recording Corp.)は、Shabba Ranks(1989)"Wicked inna Bed"、Shabba Ranks and Clystal(1989) "Twice Ny Age"のVersionにラップをかぶせるというジャマイカのサウンドシステム=ダンスホールのスタイルを踏襲している。
- レコード化された最初のヒッブホップがChic(1979) "Good Times", Greatest Hits, Atlantic SD16011原盤→ワーナーパイオニア P-10767を「パクった」〜Sugarhill Gang (1979-80)(Micheal Wright, Henry Jackson, and Guy O'brien) "Rapper's Delight", Sugarhill Gang, Sugarhill SH245である。"Good Times"の作曲者であるが"Rapper's Delight"の作詞者ではないBernard Edward and Nile Rogersが"Rapper's Delight"の著作権・印税を裁判の結果、獲得した。なお、この曲の音源は演奏である。
- レコードという音源そのものを引用し、スクラッチ(レコードを引っ掻く音)をかぶせる
Trouble Funk (1982) "Pump Me Up", Drop the Bomb, Sugarhill原盤→Vogue VG409
〜Dr. Funnkenstein and D.J. Cash Money (?) "Scrahin' to the Funk", Sound Maker Records TTED-3014-A
- 打ち込み(リズム・マシーン Roland TR-808(ヤオヤ)にRapをかぶせる
Run DMC (1986)"My Addidas"[日本でもAddidas Super Starの靴紐をはずして履くことが流行った] "Walk This Way"["Walk This Way"では著作権者であるSteve Tylerがボーカルをとり、Joe Perryがギターを演奏している], Raising Hell, Profile PRO 1217
- アルバム・コンセプトの参照と、サンプリングした音源の引用
David Bowie (1972) "Starman", The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars, RCA 〜Parliament (1975) "Mothership Connection", Mothership Connection, Cassablanca〜Dr. Dre (1993) Copyright: REX and Snoop, Contain a sample of "Mothership Connection" written by George Clinton, Bootsy Collins and Bunnie Worrel and published by Waner Chappell Music (BMI)>"Let Me Ride" Deth Row Records,6544-96959-0
6-6.ハウスの創造
- Houseの語源はChicagoのClub: WarehouseでFrankie Knucklesなどがレコード、リズム・マシーン、サンプラーなどを音源としてremixして作り出したことに起因するらしい]
- O'Jays (1975) "I Love Music", Family Reunion, Philadelphia International Records PZ 33807〜Frankie Knuckles (1991) "The Whistle Song", Virgin Records America Inc. VUST 47
- ガラージ・ハウス:16ビート換算でバスドラが1,3,5,7,9,11,13,15拍目、スネアが3,7,11,15拍目、しかし、ハイハットは24ビート換算で4,5,10,11,16,17,22,23拍目で、ハードパップのシンバルのフレージングと共通している。
- J.M.Silk(1985)"Music is the Key", The House Sound of Chicago, D.J. International Recordsが、一応、Houseで最初にリリースされたレコードであるらしい。
- Fingers Inc. featuring Chuck Roberts(1986) "Can You Feel It", The History of the House Sound of Chicago, BCM Records 39138 [Chicago産のHouseをDeep Houseと呼んだ。この曲のイントロではMartin Luther King, Jr.牧師の演説をサンプリングしている。
- Model 500(1987) "No UFO", The History of House Music, Westside Records HOUSBX 1 のようにDetroit産のHouseを指してTechno Houseと呼んだ]〜Fast Eddie(1988) "Acid Thunder", The History of House Music, Westside Records HOUSBX 1はChicago産のAcid House(直訳すると「酸性の家」)
- Whitney Houston(1987) "I will Always Love You", The Bodyguard Original Soundtrack Album, ARISTA 07822-18699〜"I will Always Love You (Hex Hector Culb Mix)", The Unreleased Mixes, ARISTA 07822-14654-1 のようにヒット曲のHouse Versionはだいたいリリースされている。
7.音楽スタイルの自己生産
7-1.文化と価値
- 「文化システム(culture system)とは、コミュニケーションを規制する価値を構成素とするシステムのことである」(小木曽(2000)『組織と集合行動における自己組織化と自己生産〜ブリコラージュなリゾーム』夢窓庵、p63)。
- 「価値(value)とは意味作用という交換に加えて、さらに善悪や優劣といった比較を可能にするところの、意味の下位類型である」(小木曽(2000:59))。
- 音楽スタイルとは、「こういうリズム、こういうスケール.etc.で演奏すべき、演奏する方がカッコいい.etc.」という価値−文化システムである。
7-2.文化システムの自己生産と自己生産過程の4類型
- 自己生産(ギリシア語でautopoiesis)とは、Maturana and Varela(訳1991)が生命システムの固有性を記述するために提唱した概念であり、生物の特徴に例えるならば、生物は自らを構成する細胞や器官などの構成素(component)を自ら生みだすことがこの概念の内容である。
- 文化システムはコミュニケーションを規制する価値を自己生産する。したがって、音楽の作曲・演奏・歌唱などは文化システムの自己生産過程である。また、新しい音楽のスタイルを創造することは、文化システムの構造変容自己生産である。
- 吉田(1990:13)の自己組織化の4フェーズに準拠して、つぎの自己生産過程の4類型を分類できよう。
- コミュニケーションを制御する価値−文化システムが保存され、(その文化によって規制されるコミュニケーションを行ううえで情報エントロピーが低ければ)その価値−文化システムが採択されれば、構造保存自己生産が起き、従来からの文化が維持される。
- コミュニケーションを制御する価値−文化システムが保存され、その価値−文化システムが棄却されれば、構造崩壊自己生産が起き、従来からの文化が棄却される。
- コミュニケーションを制御する価値−文化システムが変化し、その価値−文化システムが棄却されれば、構造探索自己生産が起き、新しい文化が棄却される。
- コミュニケーションを制御する価値−文化システムが変化し、その価値−文化システムが採択されれば、構造変容自己生産が起き、新しい文化が創造される。
7-3.音楽スタイルの自己生産
- アメリカ大陸およびその周辺島嶼部における、アフリカ文化とヨーロッパ文化との間でのカオスからの創造としての音楽の創造とは、伝統的なアフリカ音楽、および、伝統的なヨーロッパ音楽がともに構造崩壊自己生産され、アフリカ音楽のある要素とヨーロッパ音楽のある要素とが選択・融合されて創造された、新しい音楽スタイルの構造変容自己生産である。
7-3-1.音楽スタイルの構造保存自己生産
- 従来からの音楽スタイルが継承され、その音楽スタイルがアーティストおよび聴衆に支持されれば、その音楽スタイルは採択され、従来からの音楽スタイルが維持される。
- アフリカ音楽の影響を受けないヨーロッパ系音楽は、1小節は原則として4の倍数によって分割されるモノリズムであり(※「4分の3拍子」という概念は3拍子曲であっても4分音符を前提としている)、Ionianスケール(長調)またはAeolianスケール(短調)という2つの旋律に限定される、という音楽スタイルを継承してきた。
- キューバ音楽およびアメリカン・ヒスパニック音楽におけるクラーベというリズム・パターンは、21世紀に継承されている。
- ブラジル音楽のサンバというリズム・パターンは、21世紀に継承されている。
- ジャマイカ音楽のレゲエというリズム・パターンは、21世紀に継承されている。
7-3-2.音楽スタイルの構造崩壊自己生産
- 従来からの音楽スタイルが維持され、その音楽スタイルがアーティストおよび聴衆に支持されなければ、その音楽スタイルは棄却され、従来からの音楽スタイルが淘汰される。
- キューバ、ブラジル、ジャマイカ、アメリカ合衆国などのアメリカ大陸およびその周辺島嶼部のポピュラー音楽の一部は、モノリズムなどの伝統的なヨーロッパ音楽スタイルを淘汰した。
- アメリカ合衆国でうまれたロックンロールはアメリカ合衆国のアフリカ系移民の聴衆からは1950年代末には淘汰された。
7-3-3.音楽スタイルの構造探索自己生産
- 新しい音楽スタイルが創造され、その音楽スタイルがアーティストおよび聴衆に支持されなければ、その音楽スタイルは棄却され、新しい音楽スタイルが淘汰される。
- Thelonious Monkのピアノの演奏法は革新的すぎたためか、Miles Davis(1954) "Bags' Groove" (in Bags' Groove, Prestige LP 7109)でのリーダーであるMiles Davisには支持されず、
Davis,M. with Troupe,Q.(訳2000、T巻:308)は「オレはただ、モンクが作った<ベムシャ・スイング>以外では、オレのソロのバックでピアノを弾くな、休んでろ、と言っただけだ。理由は、ホーン・プレイヤーのバッキングについてモンクがあまり理解していなかったからだ。(中略)オレの意見だが、モンクはたいていのホーン・プレイヤー、特にトランペットとの演奏は得意ではなかった。トランペットは、演奏できる音符の数が限られている。だからリズム・セクションには、目一杯演奏させなきゃならない。だがモンクのやり方は、それとは正反対だった。(中略)あのレコーディングではオレが唯一のホーンだったし、彼の和声進行のボイシングがしっくりとこなかったから、オレが吹いている間は休んでくれといったんだ」
という理由で、Miles Davisのトランペット・ソロ時にピアノの伴奏をすることを断られた。
- Admiral Bailey(1987)"Punanny"のリズム・トラックでは、Clevie Browneがプログラムしたオーバーハイム社製のアナログ・リズム・マシーンのクラーベが使用されていると推測されるが、2003年までのジャマイカ音楽では、クラーベというリズム・パターンは定着していない。
7-3-4.音楽スタイルの構造変容自己生産
- 新しい音楽スタイルが創造され、その音楽スタイルがアーティストおよび聴衆に支持されれば、その音楽スタイルは採択され、新しい音楽スタイルが定着する。
- キューバのソンは、20世紀初期頃にヨーロッパ音楽の影響が強いボレロなどのメロディーと、アフリカ音楽の影響が強いクラーベや「モントゥーノ」と呼ばれるコール・アンド・レスポンス形式とが融合されて創造され、演奏するアーティストとキューバの聴衆の両者に支持されたため、キューバのポピュラー音楽として定着した。
- サルサは、ソン、ルンバ、マンボといったキューバ音楽(とりわけクラーベとマンボなどのコンガのリズム・パターン)と、ファンクなどのアメリカ合衆国音楽との融合によって、1971年頃ニューヨークにおいて創造され、アメリカ大陸およびその周辺島嶼部のアメリカン・ヒスパニックのアーティストと聴衆の両者に支持されたため、アメリカン・ヒスパニックのポピュラー音楽として定着した。
- ボサノヴァは、作曲家兼ピアニストのAntnio Carlos Jobinやギタリスト兼歌手のJoan Gilbertoなどによって、サンバのリズム・パターンを抽象化し、打楽器が担当していたリズムをギターとピアノなどに代替させることによって創造され、多くのブラジルのアーティストとStan Getzなどごく一部のアメリカ合衆国のアーティストと広範な聴衆の両者に支持されたため、ブラジル産インターナショナル市場のポピュラー音楽として定着した。
- レゲエは、ロックステディがナイヤビンギとファンクの影響を受けて創造され、最初はジャマイカの、のちには広範なアーティストと聴衆の両者に支持されたため、ジャマイカ原産インターナショナル市場のポピュラー音楽として定着した。
- Thelonious Monkのピアノの演奏法のうちの、「1」拍目のタイミングや短2度の和音などの演奏法は、のちにJimmy SmithやJackie Mitooといったオルガン奏者に継承されている。