「六十里越」の名称は、庄内と村山地方の境界をなす大岫峠を中心に、月山(→「月山」参照)山中の急坂が続く西村山郡西川町本道寺と東田川郡朝日村大網との間が六十里あるところからとされる。
 開削の時期は、古代出羽国府と最上・置賜の各郡衙を結ぶための道として開かれたとする説、庄内の塩を内陸に運ぶ道として整備されたとする説がある。また、湯殿山(→「湯殿山」参照)・月山への参詣道として整備されたとも伝えられている。江戸時代に入り、主に三山の主体は湯殿山であると考えられるようになり、湯殿山詣りとともに六十里越街道は宗教道路として栄える。明治37年(1904)には馬車の通れる新道が開削される。さらに自動車の発達に伴い、昭和7年(1932)に六十里越街道新道工事がされる。昭和28年(1953)に2級国道112号に指定され、昭和40年(1965)に一般国道となった。月山道路30.9㎞は豪雪地帯でもあるために冬期間の交通確保のため大改修が行なわれ、昭和56年(1981)に全線が開通した。