国学院大学法学部横山実ゼミ


日本における少年非行の動向と厳罰化傾向(結論)


横 山 実

(この論文は、2000年の12月に韓国のソウルで開かれた会議で報告したものですが、國學院法学第38巻第4号に掲載されています)

結 論

 日本では、犯罪被害者調査や自己申告調査をしていないので、公的な犯罪統計でしか、少年非行の動向を判断する材料が存在しない。一般には、少年刑法犯の検挙人員の推移を見て、実際の少年犯罪も、それと同じように推移していると判断している。しかし、少年の検挙人員の推移は、法執行機関の活動の推移の従属変数でもある。この論文では、その視点を強調して、実態の変化と、法執行機関の活動の変化という2つの変数を念頭に置いて、日本における少年非行の動向を分析した。

 結論としては、おそらく、実態としての少年非行は、質的には軽微化し、量的には減少しているであろう。しかし、警察白書や犯罪白書で公表されているdata及びその分析では、日本の少年非行は、戦後一貫して、悪質化し、量的にも増大していることになる。この分析結果は、mass mediaを通して、広く一般の日本人に共有されている。

 ところで、警察は、重大な犯罪事件が起きる度に、警察力の強化をcampaignしてきた。また、長らく自由民主党を中心とした保守政権が続いたので、彼らのcampaignは、治安維持の視点から容易に受け入れられた。そこで、警察の人的および物的な資源は、毎年、増強されることになった。例えば、警察官の定員は、1972年度の181,768人から、1998年度の263,402人へと大幅に増加しているのである(『昭和48年版警察白書』1973年、372頁および『平成11年版警察白書』1999年、254頁)。他方、成人刑法犯検挙人員は、1972年の814,394人から1998年の812,299人へと、横這いの状態であった(『平成11年版犯罪白書』1999年、496頁)。実際の成人犯罪が横這いの状態の中で、警察力が増強されれば、どうなるか。おそらく、警察力は、軽微な犯罪や非行を行った少年をも、積極的に検挙や補導をすることであろう。

 1999年の秋から半年の間、警察の不祥事が社会問題化した。その結果、警察は、監査体制の強化などの施策をとることになった。しかし、それらの施策の導入と共に、警察は、空き交番の解消、stalker対策、少年事件、被害者支援などの対策要員として、2001年度は、2,775人の警察官増員の予算要求をし、それを手始めに、数年間で、警察官を1万数千人増員する予定である(日本経済新聞、2000年11月2日)。もし、犯罪の実態が変わらない中で、この増員が実現すれば、より多くの少年が、軽微な犯罪や非行で、検挙・補導されることになろう。

 警察が、軽微な犯罪や非行を行った少年を、早期の段階で検挙・補導して、彼らに矯正教育や保護を与える契機を与えることは、少年犯罪を減らすと言う目的から見ると合理的である。しかし、それを過度に追求すると、それは、弊害を伴うことになる。例えば、普通の少年が疲れていたために放置自転車に乗っただけで、警察に占有離脱物横領罪で検挙されたような場合、彼は、非行少年というlabelが押しつけられ、自己のidentityが傷つけられる。日本の警察は、1997年には「強くやさしい」少年警察を、sloganとして掲げた。もし「やさしい」少年警察をも標榜するならば、1990年代の前半に一度試みたように、普通の少年が放置自転車を無断で乗るといった軽微な犯罪への検挙を、手控えるべきではないだろうか。

 ところで、社会のおいて、実際に重大な犯罪や逸脱行動が、減少した場合には、どうなるか。その時は、人々は、重大な犯罪や逸脱行動の周辺に位置する軽微なものに対する許容性を低めて、それを積極的に統制すべき犯罪あるいは逸脱行動とみなすようになるであろう(Yokoyama, 1986:111)10)。また、「いじめ」のように可視性が低い逸脱行動も、顕在化させて、統制の対象とするであろう。

 犯罪や逸脱に対する人々の意識の変化と、法執行機関の活動の変化とはどのような関係にあるのであろうか。一つは、人々の意識が変わり、それを反映して、法執行機関の活動が変わるという関係がある。例えば、従来は性犯罪の被害者の女性に、男性の警察官が事情聴取をして、second rapeといわれるように、その女性を再度傷つけることがしばしばであった。しかし、最近、犯罪被害者の人権の保障という意識が高まるにつれて、警察は、従来の男性中心のやり方を改めて、女性警察官を積極的に活用して、被害者女性の保護や、性犯罪を犯した者の検挙活動に、当たらせるようになっている。1990年代の後半に、強姦の容疑で検挙された少年が増えたのは、このような過程によると思われる。

 他方、法執行機関が活動を変えて、それが人々の意識を変えるという関係も存在する。日本では、少年非行については、この関係の方が強かったと思われる。つまり、実態として少年の犯罪や非行は、質的には、例えば、動機、行為の態様あるいは侵害した法益という面では、軽微化し、量的にも減少してきたと思われる。しかし、警察は、毎年、その人的および物的な資源を増大させたので、非行少年に対する検挙・補導活動をnet wideningさせてきた。その結果、「遊び型」といえるような軽微な犯罪を犯した年少少年を、大量に検挙することにより、少年非行は量的に増大したと、情報を流すことになった。また、少年による特異な凶悪犯が起こると、それは新しい傾向の少年犯罪であると、強調するのが常であった。警察からこれらの情報を提供されたmass mediaは、それが客観的に見えるために鵜呑みにして、そのまま報道し、人々に犯罪の増大と凶悪化という現状認識をさせてきた。また、繰り返して報道することにより、その認識を増幅してきたのである。そこで、警察は、世論の支持を得たとして、さらに、犯罪や非行を犯した少年の検挙・補導活動を強化してきたのである。そこには、予言の自己成就といえるような、一つの循環過程が見られる。

 警察が情報を提供し、mass mediaがそれを流すことにより、人々は、非行少年の凶悪化と増大という認識を持ち続け、非行少年対策への関心を持続させた。その背景の中で、多くの人々が、volunteerとして、非行少年の予防活動や処遇に関与し続けてきた(Yokoyama, 2000a; Yokoyama, 2000b)。それゆえに、日本の少年司法systemは、participatory modelを採用しているとして、世界的に高く評価されているのである(Yokoyama, 1997:5)。

 これまでmass mediaは、警察の情報に基づいて、人々に少年の犯罪や非行について、問題を提起し、人々の倫理を呼び覚ます作用をしてきた。それは、実態を誇大化して、報道するものであった。それが、問題意識の喚起で終わっていれば、それは実態と違っていても、社会にとって望ましい作用を及ぼしていたと言える。しかし、mass mediaの報道が過激となり、人々にmoral panicを引き起こすようになると、それは社会にとって逆機能となる。例えば、神戸事件以降、mass mediaは、次々に、少年の重大事件を大々的に取り上げて、人々に、年少少年による非行の凶悪化という印象を強化した。その結果、少年法は甘いので、それを改正して、少年に規範意識を覚醒するために厳罰化すべきという見解が行き渡った11)。それを受けて、自由民主党を中心とした与党は、2000年の秋に、厳罰化の条文を盛り込んだ少年法の改正案を、国会に提出した12)。これにより、戦後、長い間、少年司法systemにおいて実務家によって築かれてきた保護主義のmodelが、崩されようとしている。世界的に見ると、1980年代から保守化の流れの中で、欧米では、保護主義の少年司法法制が崩壊して、犯罪を犯した少年に対して、厳罰化で対処するようになっている。その中で、日本は、少年法の下で保護主義を保持してきたのであるが、非行少年の凶悪化あるいは量的増大という幻想が人々に行き渡ったため、それが崩されようとしているのは、残念なことである。韓国においては、その轍を踏まないで頂きたい。

(Glass Craft in Taiwan)

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