国学院大学法学部横山実ゼミ


北斎の肉筆画「隅田川両岸景色図巻」は偽筆か?(1)


横 山 実

2015年3月4日の新聞の夕刊によれば、墨田区は、建設中の「すみだ北斎美術館」の目玉として、北斎の肉筆画「隅田川両岸景色図巻」を1億4900万円で購入するということです。この件は、墨田区の記者会見における説明を受けて、各社とも「100年以上不明の傑作」などの大見出しで報道しました。記者会見では、1人の記者から「偽筆の疑いはないか」との質問がありました。それに対して、北斎研究の権威者である永田生慈先生(「すみだ北斎美術館」の館長に就任の予定と聞いています)は、真筆であると断言しました。各社の記者は、その断言を信用して、大きな記事で私たちに伝えたのです。

酒井雁高氏が提示した疑問

数日後に、私は、酒井雁高氏(酒井好古堂、学芸員)から、図巻「隅田川」は偽筆であるとの連絡を受けました。酒井氏は、9点にわたって疑問点を指摘し、この図巻は明治時代に描かれたものと断定しています。(酒井氏のホームページをご覧ください)。酒井氏の疑問点の主なものは、次の通りです。

1.図巻の最後に書かれてある画賛を根拠として、この図巻は、1805年(文化2年)に烏亭焉馬からの依頼で、北斎が書画会で描いたとされています。しかし、28.5x633.5pの本図巻は、書画会において即興で描けるものではありません。

この点については、私も同じく疑問を持っています。書画会は、江戸時代の中期から開かれていますが、その多くは、1日限りのものです。大作である図巻「隅田川」を、客の求めに応じて1日で描けるとは考えられないのです。

2.北斎は、よく名前を変えましたが、 寛政10.08-享和4(1798-1804)の間、北齋辰政と名乗っていました。その署名で1801年に描いた「隅田川両岸一覧」と比べると、本図巻は「余りにお粗末」です。

3.舟や橋には陰影がありますが、手前の女性は全く陰影が施されていません。これも妙です。日本画の絵師ならば、陰影は施しません。明らかに、これらの陰影法は、明治期の描写であることが否めません。

陰影に関する疑問点については、以下で、私の見解を述べさせていただきます。

北斎は、陰影を描いたか?

日本経済新聞の美術担当の宮川匡司編集委員は、永田生慈先生と田辺昌子氏(千葉市美術館学芸課長)に取材して、3月16日の夕刊で、図巻「隅田川」を高く評価する記事を書いています(以下、「日経記事」と表します)。日経記事は、「陰影まで細やか」という大見出しをつけています。そして、「面白いのは、両国橋の上流に架かる吾妻橋の場面。」「橋の影は両国橋とは反対に向いている」と指摘しています。次いで、この陰影表現は、「この後の時代の肉筆画にも見られない」(永田氏)だけに、画家の実験精神の表れだろう、と解釈しています。しかし、この説明および解釈については、疑問があります。

まず、もし書画席において即席で描いたのであれば、どちらから日光が当たっているかを頭に入れているので、両方の橋の影を、反対方向で描くことは考えられません。これは、異なる日に、両国橋と吾妻橋をそれぞれ描いたので、後で描いた橋の影の方向を、間違えのではないでしょうか。

もし北斎が、1805年当時、実験で風景画において陰影を描いたとするならば、なぜ、本図巻1回で実験は終わったのでしょうか。画家は、自分の独自の描き方を確立するために、実験することはありますが、その場合でも、複数の実験作があるはずです。永田先生は、北斎の真筆であると主張するのであれば、酒井氏がいうように、1805年当時に描かれた肉筆画で陰影を描いたものを数点紹介する必要があるでしょう。

酒井氏が指摘するように、日本画家や浮世絵師は、江戸時代には陰影を描いていないのです。絵師が影を書くのは、西洋の風景画の影響を強く受けた明治時代になってからです。風景画で陰影を描いて評判になったのは、明治時代の絵師である小林清親です。彼は、西洋の画法にヒントを得て、陰影を巧みに描いていますが、それは、光線画と呼ばれています。そのうちの一枚が、下記の「大川富士見橋」です。そこでは、冬の日差しを受けた俵からの長い影が、描かれています。また、川面にも、人や木などの影が巧みに描かれています。

北斎は、没骨体の技法で描いたのか?

酒井氏から疑問点を提示されたので、私は、館山の(鎌田コレクション館)の鎌田英雄館長に、それを伝えました。鎌田氏は、広重を中心とした浮世絵を収集して、それを自分のコレクション館で展示している画家です。彼は、早速、WEBに掲載された図巻「隅田川」を見て、北斎が描いたとは思えないという返事をくれました。そして、2点にわたる疑問を伝えてきました。

第1は、中国北宋の画家が用い始めた没骨体で描かれているという指摘です。鎌田氏は、それに関して次のように記しています。

骨のない弱い表現になるということだと思います。北斎の黒の線描は、立体感や空間(濃い輪郭線で書いたことによって物と空の明度対比によって、はっきりとした空間表現が生まれます。)――それで、この墨田区の作品は、特に、向こう岸の林や木々が、真っ先に目にとびこんできました。――違うと――まるで水彩画で没骨だと、墨線がないか、もしくは弱いと――思いました。 (省略) 私は、広重の「東都名所、両国夕すずみ」の復刻の経験から。当時の浮世絵師の墨線の表現のすごさと緻密さに圧倒されました。そして、江戸情緒を描ききった現場スケッチの墨線のすごさを――北斎の墨線はさらにすごいのですから――そして、江戸の浮世絵師は一生の大半を墨線画きの技法で、技を磨いてきたんだと、実感しました。それが、墨田区の作品のように、突然、北斎が、赤子のような没骨の架空を描く画家になるとは、到底考えられません。

永田先生をはじめとする浮世絵研究者は、現役の画家の立場からの鎌田氏の指摘を、謙虚に受け止めるべきでしょう。

なぜ波紋が描かれていないのか?

鎌田氏が提示するもう一つの疑問は、本図巻では川の波紋が描かれていないということです。鎌田氏は、この点を次のように表現しています。

墨田区の作品の水面に波紋の墨線が描かれていないという疑問です。北斎や広重にとって親しみのある近場の隅田川の水面の描写は、必ず波紋の線がどこかはいっているのが普通ですが、――私が復刻した広重の「東都名所 両国夕涼み」にもいっぱい入っていて、彫るのに苦労しました。このとき、江戸絵師の水面表現の墨線にかけた絵師のハートが伝わってくるようでした。当時の江戸絵師が隅田川を描くとき、必ず波紋の線を大半は入れていると思います。要するに、浮世絵の隅田川の描画技法のスタイルにもなっていたと思います。

北斎は、晩年には、富嶽36景や諸国瀧廻りで、風景画家として不動の地位を確立します。下に掲げる富嶽36景「御厩川岸より両国橋夕陽見」で示されているように、それらの絵には、多種多様の波が巧みに描かれています。そのために、彼は波を描く名手といわれています。その北斎が、1805年頃に描かれたといわれる図巻「隅田川」で、日本画家が伝統的に描いてきた波紋を描かなかったとは信じられません。

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