国学院大学法学部横山実ゼミ


英語による授業の出会い


(この随筆は、『院友ふくおか』から転載しました。)

横 山 実

 国学院大学では、120年近く、日本の文学や歴史、神道を教授してきた。そこで、人々は、国学院大学に対して、古色蒼然とした大学というイメージを持ち、国際化に立ち遅れていると、考える傾向にある。しかし、このイメージは、明らかに誤っている。私は、某大学に非常勤講師で犯罪社会学を教えていたとき、聴講していた英語学科の学生と話をしたことがある。彼は、自分たち英語学科の学生は、通訳術としての英語を習得できても、英語で語るべき内容を、きちんと学んでいないと、私に悩みを訴えたのである。つまり、語るべき内容とは、自分自身の考えや感情である。これを持つためには、日本の文化、政治、経済、宗教などの習熟が必要であるが、英語学科では、それらの習熟に掛欠けるものがあると、その学生は、訴えたのである。彼が持つような悩みに対しては、国学院大学は、よく対応できるようになりつつあるといえる。自国の文化などについての教育は、これまで、世間においても広く認められてきたが、その上にたち、今、国学院大学では、学生の英語の習熟にも大いに力を入れているのである。その成果があがれば、国学院大学こそ、国際化に最も対応した大学という名声を得ることであろう。

 国学院大学は、この数年、国際化に対応するために、いろいろなプログラムを実施してきている。その一つが、K−STEPと呼ばれている英語での授業である。このプログラムは、1999年度の後期から始められた。海外の姉妹校から留学生を招き、日本語習得のための授業と共に、日本の文化などを理解してもらうための英語による授業を、彼らに提供することになったのである。半期ごとに組まれているカリキュラムには、日本の宗教、文化、歴史についての講座のほかに、日本事情の理解のために、経済、法と政治、スポーツの講座が、設けられている。各講座では、複数の教員が、半期11回の授業を分担して受け持っているのである。

 この計画が立てられた時、私は、永森教授と半々で、法と政治の授業を担当することになっていた。しかし、永森教授が学部長になったので、数名の政治学の教員が担当する政治についての授業のほかは、すべて、私が担うことになった。

 海外の大学のほとんどは、9月から新学年が始まる。だから、1999年後期の授業は、日本に来たばかりの学生を対象にすることになった。彼らは、日本についての知識が乏しい上に、一般教養として、法と政治の授業を履修することであろう。このように考えて、私は、法制度の変遷に焦点を当てて、日本の歴史を話すことから、授業を始めることにした。法と政治の授業の履修者は、カナダのマニトバ大学から来たリチャードだけだった。そこで、1対1で授業を行うことになった。前半は、日本の歴史の講義をしたが、私が一方的に話し続けると、彼の目は、眠そうにとろんとしてきた。そんな時は、質問して、彼から、意見を引き出すようにしたのである。後半は、私が海外で発表した英文を、テキストに使うことにした。授業中に私の英文を棒読みしても無意味なので、彼には、テキストを事前に読んできてもらい、コメントや質問を出してもらうことにした。それに応えるという形で、私は、授業を進めたのである。彼は、アジアの国際関係に関心があり、社会科学的な発想を持っていたので、私との質疑応答を十分に楽しんでいた。私たちは、1時間半の授業時間を持て余すようなことは、一度も無かったのある。

 1999年度の授業は、外国人学生だけを対象としていた。そこで、私は、刑事政策の授業を受けていた学生に、自由に参加することを呼びかけた。これを受けて、一人の4年生が、授業に参加した。彼は、英語で自由に話せたので、授業中の討論に積極的に参加し、自分の意見を表明していた。彼は、渋谷キャンパスで履修している授業との関係で、この一度しか、私たちの授業に参加できなかったのは、残念であった。

 法学部では、1999年の12月に、アート・ミキ氏を招いて、講演会を催した。ミキ氏は、マニトバの日系人協会の世話役を勤めている。カナダにおける日系人は、第二次大戦中に、敵国民ということで、財産を奪われ、強制収容所に閉じ込められた。ミキ氏は、その不当性を訴え、カナダ政府に補償をさせる運動の主導者だったのである。講演会は、私の通訳で行われたが、リチャードもそれを聞きに来ていた。私は、次の授業のときに、ミキ氏の講演について、彼に感想を聞いた。彼は、ミキ氏の運動についての考えに対しては、全面的に賛同した。しかし、かれは、ミキ氏が述べた一つの点について、批判をした。それは、ミキ氏が、他民族の人との通婚が広がっているために、カナダにおける日系人社会が先細りになると嘆いた点である。カナダは、人種のモザイクと言われるほどであり、そこでは、多種多様な人種の人々が共存している。これまでに、通婚を通して、人種にとらわれない新たなカナダ人が、続々と生まれているのである。これらの人々こそ、カナダの今後の国づくりを担うのである。このような状況を理解すれば、リチャードの言い分は、よくわかる。この例のように、外国人留学学生からは、日本人的な発想を越えた刺激的な意見を、しばしば聞けるのである。

 姉妹校からの女子留学生については、大学が、ホームステイ先を見つけている。彼女たちは皆、ホームステイで世話してくれる日本人を、自分の親のように慕っている。ホームステイの家で、日本人と同様な生活しているので、日本語の上達も早い。それに対して、男子留学生は、大学の若葉寮で生活している。若葉寮では、これまでの伝統的な生活様式が維持されている。例えば、寮生に会ったら、かならず挨拶するというような慣行がある。また、共同の日本式の浴場を使うことになる。それらの生活習慣は、自国において個人的な生活をしてきた留学生にとって、最初のうちは戸惑いを覚えるようである。しかし、留学生の多くは、日本を理解しようと努力しており、それらの生活習慣にも適応しているようである。

 12月に授業を終えた後、リチャードからe−mailで問い合わせがあった。マニトバ大学の教員から、資料集めを頼まれたという。依頼の内容は、第二次大戦中の南京事件について、中国の研究者が書いた英語の論文は多数あるが、日本人の書いた英語の論文は見当たらないので、それを探して欲しいというものであった。国学院大学は、日本文化研究所を中心として、これまで、日本の文化や宗教などを、広く世界に発信してきた。私も、毎年のように国際会議に参加して、犯罪や少年非行について、日本の現状を分析した論文を報告している。しかし、外国語による発信は、アジアの他の諸国に比べても、日本は、立ち遅れているようである。

 2000年度からは、国学院大学の学生も、K−STEPの授業を履修できるようになった。履修した日本人学生は、前期には2名(文学部日本文学科と法学部が1名ずつ)、後期には3名(文学部外国語文化学科1名と法学部2名)であった。外国人留学生は、前期は4名(スペイン2名、カナダ2名)、後期は5名(スペイン2名、カナダ1名、アメリカ1名、マレーシア1名)が、法と政治の授業を履修した。私は、テキストを棒読みにするのではなく、黒板を活用しながら、内容を説明するようにした。しかし、それでも、日本人学生にとっては、難しい用語を使って早く話されていて、聞き取りが困難だった。そこで、英語で説明した後、要点を日本語で話をすることにした。また、国際比較することを心がけ、留学生には、自国について説明させるようにした。留学生は、お互いの国について知らないことが多かったので、この意見交換は、留学生同士の交流に役立った。スペインから来たアランチャは、国学院大学への留学を終えて、カナダに留学する計画を立てていたし、マリアは春休み中にカナダに旅行したのである。留学生同士の交流だけで終わってはもったいないので、私は、日本人学生にも、積極的に話をするように、激励している。英語で話せなければ、私が通訳するといってあるが、なかなかうまく交流できないようである。その主たる原因は、日本人学生は、外国人学生のように、自分の見解を明確に打ち出さない点にある。この点を、学生時代に克服しておけば、国際化時代の彼らの前途は、開けるであろう。このように思いながら、これからも、英語による授業の充実を図るつもりである。

日本人形(Doll at Sado Island in Japan)

前に戻るトップに戻る次に進む