1948年の少年法は、保護主義を高らかにうたい、健全育成の理念を強く打ち出した。この少年法のもとで、どんな重大な事件を引き起こした少年でも、その犯した行為ではなく、要保護性に着目して、原則として保護処分で対処することになった。可塑性に富む非行少年には、保護処分で十分な教育・保護を与えることにより、社会復帰を促すことにしたのである。戦争直後には、貧しさ故に非行を犯す少年がたくさんいたために、少年非行は社会的要因によって引き起こされたとみなされ、保護主義による処遇は広く人々の共感を集めた。このような世論を背景にして、保護主義を目指す少年司法制度は、実務家の努力があり、また、非行少年問題や少年法を研究する者が正当化したので、充実していった。
他方、保護主義の少年司法制度を創設したアメリカでは、戦後、非行少年の再犯に悩まされることになった。また、少年院などで金をかけて保護的に処遇しても、その効果が上がらないとして、Cost Benefit(対費用効果)の観点から、保護処分は疑問視されるようになった。また、保護処分の名の下に、少年にとって不利益処分である施設収容などが、恣意的に課されていると批判されるようになった。
そこで、Just Deserts(犯罪行為には、それに相当する刑罰を科するという理論)の提唱の中で、少年事件でも、成人の刑事事件と同じく適正手続をとり、行為に見合った制裁を受けるべきと主張されるようになった。その結果、少年の要保護性よりも、彼等の犯した行為の重大性が問題視されるようになり、重大な結果を引き起こした殺人などを犯した少年は、刑事手続きに自動的に移行することになった。少年裁判所運動が展開した1920年代には、10州でのみ、少年を刑事裁判で審理する道を設けていたのに、今日では、全ての州で、重大事件を犯した少年は、保護手続を経ることなく、刑事裁判所で裁かれるようになっている。
戦後の日本は、すべての面でアメリカに追従してきたのであるが、幸いにして、少年司法制度については、研究者及び実務家のほとんどが、保護主義を支持していたので、長い間、刑罰化に向かっての改変はなされなかった。非行の第2のピークの1964年頃も、また第3のピークの1983年頃も、アメリカの刑罰化の流れに同調せず、保護主義を堅持してきたのである。それが堅持できたのは、多くの市民が、非行少年に共感を持っていたからである。また、多くの市民が、少年補導員や保護司などという形で、ボランティアとして非行少年の補導や処遇にあたったからである。カナダのJohn A. Wintedykは、それに着目して、日本の少年司法制度をParticipatory Model(市民参加型のモデル)の代表とみなし、高く評価している。
しかし、1990年代の後半から、事態が激変した。その基底にあるのは、保守主義の蔓延である(横山実「人々の意識と犯罪化・重罰化」、菊田幸一・西村春夫・宮澤節生『社会の中の刑事司法と犯罪者』、日本評論社、2007年)。保守主義的雰囲気の中で、人々は自分の私生活の安全に過敏となり、政府に治安対策の強化を求めるようになった。それを増幅したのは、凶悪事件についてのマスメディアの誇大な過剰報道である。その報道により、人々の間にモラルパニック、つまり、凶悪犯罪者への過度の恐怖が引き起こされることになった。その結果、少年が引き起こした凶悪な事件についても、刑罰化や重罰化による強硬な対策が求められるようになった。人々は、少年の凶悪犯罪は、その少年の規範意識の欠如の産物だと見なすようになり、その規範意識を覚醒するために、厳しい処罰が必要と考えるようになっていった。
もう一つの重要な要因は、犯罪被害者運動の高まりと、人々のそれへの共感である。犯罪被害者にとっては、加害者が成人であろうが、少年であろうが、受けた被害の重さには変わりがない。しかし、刑事裁判の場合には傍聴ができるけれども、少年事件の審判は非公開で傍聴できない。また、少年事件の場合には、刑罰が科せられるのは希で、原則的には、制裁として軽いと思われる保護処分を課せられるに過ぎない。
このような状況のもとでの犯罪被害者の不満は、1997年に神戸の14歳の少年によって引き起こされた児童殺傷事件によって、顕在化することになった。当時の少年司法制度では、このような凶悪事件を犯した少年でも、2年以内の少年院での処遇が課せられるに過ぎなかった。この事実がマスメディアで報道されると、少年法は「非行少年を甘やかせる法」として、厳しい非難を浴びることになった。被害者運動の高まりと、それへの世論の支持の中で、少年法は、2000年に一部刑罰化の方向で改変さることになった。
少年事件の場合でも、加害少年と被害者との間の葛藤関係の修復を行うことは必要である。加害少年のBest Interests(最善の利益)のためという理念で、保護主義のもとでその少年を処遇するとしても、被害者との葛藤を解消する手立てを取る必要がある。犯罪被害者の運動が高まる前は、非行少年の処遇において、被害者の視点が不十分であったのは事実である。それゆえに、世論の後押しの中で、2000年に少年法が刑罰化の方向で改変されるのを、保護主義を支持する者は阻止できなかったのである。
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