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平成二十二年 | 基盤研究(B) | |
〜二十五年度 | 研究課題:「文化現象としての源平盛衰記」研究 −文芸・絵画・言語・歴史を総合して− |
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研究代表者 | 松尾葦江 | 國學院大学文学部教授 |
連携研究者 | 小林健二 | 国文学研究資料館教授 |
| 石川 透 | 慶應義塾大学文学部教授 |
| 伊海孝充 | 法政大学文学部准教授 |
| 小助川元太 | 愛媛大学教育学部准教授 |
| 岩城賢太郎 | 武蔵野大学文学部准教授 |
| 坂井孝一 | 創価大学文学部教授 |
| 高橋典幸 | 東京大学大学院人文社会系研究科准教授 |
| 吉田永弘 | 國學院大学文学部准教授 |
| 原田敦史 | 岐阜大学教育学部准教授 |
研究協力者 | 辻本恭子 | 兵庫大学非常勤講師 |
| 平藤幸 | 鶴見大学非常勤講師 |
| 伊藤慎吾 | 國學院大學非常勤講師 |
| 山本岳史 | 國學院大學研究開発推進機構PD研究員 |
| 秋田陽哉 | 滝高等学校教諭 |
| ワイジャンティー ・セリンジャー | ボウドイン大学准教授 |
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課題番号 | 22320051 | |
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<研究の目的と実施方法> ----------------------------------------------------------
源平盛衰記は、『平家物語』諸本の中でも最も記事の分量が多く、しかも後世に与えた影響の大きい諸本である。源平盛衰記には、中世から近世にかけてのさまざまな文化の生成、変容、継承などの諸問題を解明する手がかりが大量に含まれている。
本研究は、従来の『平家物語』研究が繰り返してきたような諸本の先後関係の決定や、『平家物語』から他の文芸への影響関係を指摘するために源平盛衰記を取り上げるのではない。むしろ、源平盛衰記をひとつの「文化現象」としてとらえ、これを拠点として、室町文芸及び文化の生成と変容を、他のジャンルや時代にも及んで究明しようとするものである。その結果、『平家物語』本文の流動の様相や、その中での源平盛衰記の位置づけも明らかになると考える。
上記の目的を達成するために、以下のグループを設け、連携研究者はそれぞれ2つ以上のグループに所属し、各自の問題意識に従って調査・研究を実施していく。各グループを( )内の研究者がまとめ、年2回程度の全体会議を開き、相互の交流をはかった上で、研究代表者の松尾が総括する。
T 『平家物語』諸本の一つとしての源平盛衰記の研究及び記事年表作成(統括者:松尾葦江)
U 室町文芸と『平家物語』諸本との交流の研究(統括者:小林健二)
V 源平盛衰記や『平家物語』を題材にした奈良絵本や絵巻などの調査研究(統括者:石川透)
W 歴史的な環境と文芸との関係についての研究(統括者:坂井孝一)
X 中世語彙の出典としての源平盛衰記の研究(索引作成の試行。統括者:吉田永弘)
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平成二十五年 四月二十五日 | 資料展示「軍記物語の世界」
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4月25日(木)9:00〜10:00
大学図書館との共催による資料展示「軍記物語の世界」(〜4月29日)が図書館2階で始まるので、山本及び作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山が解題原稿を作成し、資料の展示を手伝った。学部学生や一般の方々の参観も多かったとのことである。
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四月二十七 〜二十八日 | 文献調査・記事年表作成部会・打合せ会・公開シンポジウム・資料展示
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4月27日(土) 絵画資料調査
9:50に東京駅八重洲口に集合して徒歩で調査先に向かった。10:00過ぎに到着、兼ねてお願いしてあった『扇面絵保元平治物語』を熟覧させて頂いた。参加者は松尾・石川・小林・小助川・伊海・辻本・平藤・原田・伊藤慎吾・山本・伊藤悦子・大谷・大山の計13名である。『扇面絵保元平治物語』は、台紙に小扇面1枚と詞書を記した紙1葉(方形・円形・団扇型など)とを貼り付けたもの60枚で一揃となっている。箱の内張や台紙、表紙などは新しく、近代の加工であろうが、箱そのものは古く、絵も一部、金が変色しているくらいでさほど傷んでいない。
保元物語が30枚、平治物語が30枚で、三巻本にもとづき上中下巻それぞれ10枚ずつであるが、平治物語は中巻相当部分が12枚、下巻相当部分が8枚となっている。詞書はいずれも流布本本文に基づき、かなり要約している箇所と殆どそのまま引用している箇所とがあり、また文章の位置を入れ替えたりもしている。60枚目の絵は子供を連れた常磐が清盛邸に出頭する場面(清盛は入道姿になっているが、平治物語版本の挿絵もそうなっている)になっており、流布本平治物語にはこの後かなり長い記事があるのだが採っておらず、頼朝のその後などは描かれていない。あるいは平家物語の扇面絵と一具で制作されたため、ストーリーが重複しないよう配慮したのかも知れない。120枚一揃の根津美術館蔵『小扇面絵平家物語』などと比較して見る必要があろう。
人物の顔や衣装、武具、背景の室内調度、植物などが精細に色彩豊かに描きこまれ、川・遣水などの浅い水と海とは区別して描かれている。一部にはすでにデザイン化した文様のような描き方も見られ、寛文延宝期の制作と思われるが、熟成した技術がむらなく画面に行き渡っている。すやり霞は金泥、切箔、金砂子などを併せ用い、全体に豪華な印象を与える。
15:30頃一通り熟覧を終え、一同意見や感想を述べ合った。すでに根津美術館の松原茂氏によって他の絵巻や小扇面絵と構図の一致、類似などが指摘されており、辻本も屏風の縁金具の模様などが根津美術館蔵『小扇面絵平家物語』と一致することを指摘した。最後に所蔵者立ち会いで確認の上、16:30に辞去した。この間作業従事者3名は記録、本文対照などを行った。熟覧に最適な環境を用意して下さった所蔵者に感謝したい。
〔 京橋個人蔵『扇面絵保元平治物語』調査メモ 〕
〈台紙寸法〉縦二九・〇糎×横三二・三糎
〈扇面の幅〉約二五・〇糎 〈扇面の高さ〉約八・六糎
〈本文料紙寸法〉縦一一・五糎×横一三・三糎
〈保存状況〉良好。ただし、金が一部変色している。また、日に焼けた変色が料紙の端に散見される。
〈体裁〉台紙に、小扇面絵一枚と詞書を記した紙一葉(方形・円形・団扇型など)とを貼付けたもので、六十枚で一揃いとなっている。
〈巻冊〉六十枚で一揃いのものだが、一枚目〜十枚目が保元物語上巻、十一枚目〜二十枚目が保元物語中巻、二十一枚目〜三十枚目が保元物語下巻、三十一枚目〜四十枚目が平治物語上巻、四十一枚目〜五十二枚目が平治物語中巻、五十三枚目〜六十枚目が平治物語下巻の内容となっている。ただし、六十枚目は子供を連れた常磐が清盛邸に出頭する場面となっており、これで完結しているのか否かは未審である。
〈料紙〉詞書・小扇面絵共に鳥の子紙。ただし、交ぜ漉きの可能性もある。また、詞書の料紙に下絵は施されていない。
〈本文用字〉漢字平仮名交じり
〈制作年代〉寛文延宝期。ただし、現在の形態に改装されたのは近代以降と思われる。あるいは小屏風に貼られていたかもしれない。小扇面絵の痛み具合から見ると、常時出していたものではなかったと思われる。
〈詞書の特徴〉
詞書は流布本に依りつつ、一部は抄出している。筆跡は一筆で、朝倉重賢のものではない。墨の濃淡が一定のリズムで変化し、墨継ぎをした箇所が明確である。三十三枚目の詞書は、書き出しが特殊である。絵が描かれた時期と、詞書が書かれた時期は、近いと思われるが、同時かどうかは不明である。
〈小扇面絵の特徴〉
建物・植物・衣類などは、細部まで極めて丁寧に描かれる。例えば、黒い装束に浮き出すように文様が描かれていたり、乗物の幕に細かく唐草文様が描かれていたりする。また、襖や屏風も詳細である。人物の表情も、丁寧に細かく描く。
すやり霞は金泥、切箔、金砂子などを併せ用いている。金泥の上に絵が描かれていることもある。膠で雲を形取って、金粉を蒔く手法も見られる。植物の青の顔料は、ラピスラズリーではない。また、水は、川と海とで描き分けており、海は群青を使用するが、川は群青を使わず、銀で波を描くなど凝っている。一方で、火炎の描き方はおとなしい。
その他に、気になった点を挙げる。為朝は、白装束に紫の袴で、体が大きく描かれる。また、大きな弓を持っている。彼の自害の場面では、血が描かれる。鬼ヶ島の岩と、日本の岩とを描き分けている点も興味深い。
三十一枚目から、平治物語になるが、改まった描き方はしていない。平治物語では、清盛が赤い装束、義朝が緑の装束というふうに、描き分けられている。五十一枚目は、内海に向かう場面が、川ではなく海を船で渡る絵になっている。五十三枚目の金王丸の報告の場面では、牛若の姿は描かれない。六十枚目は、常磐が清盛の許に出頭する場面で、入道姿の清盛が描かれる。 (文責:大山)
4月28日(日)
10:30から渋谷の國學院大学若木タワー5階509教室で年表作成部会を行った。参加者は小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・原田・山本・松尾、それに作業従事者3名である。
すでに全巻の基礎稿はできあがっているので、今後どのように公刊するかを話し合った。版元の編集長が組見本・執筆要項及び作業日程の資料を配付、説明し、質疑応答が行われた。平成26年3月刊行、A5判、縦組、編者名は松尾葦江で、総合年表と各巻年表とを併載する。なるべく多くの人が使いやすいものをめざすことにした。今後、小助川を中心に全員で原稿を点検、最後に歴史学の立場から高橋が校正刷を見ることになった。7月27日に年表部会を開催、各巻年表の体裁を再検討することにした。この間、作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山の3名は会場設営、記録、資料配付などに当たった。
昼食後、12:20から同室で今年度初めての打ち合わせ会を行った。参加者は上記の10名のほか、坂井・高橋・吉田・小林・石川・伊海・岩城の合計17名である。昨年度の収支報告、事務方の交代、今年度の交付額などについて松尾が説明し、今年度の事業計画を話し合った。6月15日、7月27日はすでに公開研究発表会の開催が決まっており、そのほか9月7日に公開研究発表会、10月に室町芸能部会主宰の公開シンポジウム、11月に歴史学部会主宰の公開講演会、12月に締めくくりの講演会を企画することになった。調査では林原美術館の平家物語絵巻熟覧を中心に参考源平盛衰記の調査、白描絵巻の調査などを計画している。この共同研究の成果は平成26年度末に論集として公刊することとし、版元の編集長から企画に対する要望が述べられた。ひろく一般の読者をも対象としたいとのことで、構成、レイアウト、書名、付録資料などに関する提案があった。一部は論集として不相応な点もあるので、今後可能なかたちを模索していくことになった。
13:30から常磐松ホールで公開シンポジウム「軍記物語と絵画資料をめぐって」が開催された。司会は小林・石川両名で、まず基調講演根津美術館学芸部長松原茂氏「平家物語小扇面絵について」が行われ、休憩時間には石川透架蔵の小扇面絵の実物が展観された。その後工藤早弓氏「源平盛衰記絵巻について」、泉万里氏「安徳天皇縁起障子絵の構想」の発表があり、質疑応答が行われた。17:40にシンポジウムを終え、松尾が閉会の辞を兼ねて軍記物語の絵画資料研究について感想と見通しを述べ、散会した。この間作業従事者3名は会場設営、受付、資料複写と配布、記録、プロジェクターやマイクの管理、会場撤収などを行った。
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平家物語小扇面絵について 松原 茂
ここで紹介するのは、『平家物語』を描いた、通常の半分の寸法(上弦が約25p)の小さな扇面絵の一群である。『倭錦』や「住吉家鑑定控」(東京藝術大学蔵)に、「小扇面」と記される形式がこれにあたると思われ、制作当初からの呼称であったかどうかは明確ではないが、一連の作品を「平家物語小扇面絵」とよぶこととする。
同じ図様を共有する「平家物語小扇面絵」は、すでに公刊された、(1)ベルリン国立アジア美術館本(60段59図)、(2)徳川美術館本(60図)、(3)根津美術館本(3帖・120段・120図)、(4)遠山記念館本(36図)のほかにも、1974年にドイツのボンでオークションにかけられた55枚があり、さらに、シンポジウム当日、石川透氏によってこれらと一連の8枚の小扇面が紹介された。詞を伴うのは(1)と(3)で、(1)は各段別の小扇面に、(3)は扇面を貼り込んだ金砂子や金泥下絵で装飾される折帖に直接書き込まれる。いずれも本文は流布本にもとづく。注目すべきは(3)の詞書で、120段を一筆で書き通した流麗な書風は、石川透氏によれば100部以上の奈良絵本の詞書を執筆したという朝倉重賢のものと認められる。絵は群青や緑青、あるいは金泥や銀泥など高価な絵具を惜しげもなく厚塗りし、描写はきわめて細密である。凄惨さや残虐性を避けた表現や装飾性の高さなどから、嫁入り道具として誂えられた可能性がある。
図が最も多い(3)にない場面が(1)や(2)に含まれることから、120図以上の図様の中から、注文により適宜選択された図によって各作品が成り立っているものと思われる。各本相互の図様は衣装の色や文様、群像の人数など、細部は異なるものの、全体として見た場合、粉本を共有する環境でなければ描け得ない共通性がある。同一の工房で作られたものであろう。制作年代は、朝倉重賢の活躍期から17世紀後半と推定される。
また、(4)に独自の1図が『平家物語』ではなく『平治物語』の一場面であるとみなされていたが、その図を含む「保元平治物語小扇面絵」(60段・60図)が昨年発見された。しかも、「平家物語小扇面絵」と部分的に下絵を共有したと思われる図様がいくつも確認され、この工房では「平家絵」だけでなく、広く「軍記物語小扇面絵」を扱っていたと想定されるのである。今後も新出の可能性のある「小扇面絵」に注目したい。
源平盛衰記絵巻について 工藤早弓
『源平盛衰記絵巻』(個人蔵)は盛衰記四十八巻を四巻ずつ十二巻にし、一巻に25〜30場面の絵と、画面上部に書かれた短い解説文から成る。水戸徳川家旧蔵で、三巻ずつ四段の塗箱入り、錯簡もなく首尾一貫の原装の完本である。同一体裁の『太平記絵巻』十二巻が各所に分蔵され欠巻や模本も含むことを考えると実に有難いことである。
源氏と平氏の長大な物語が丁寧で達者な筆さばきでバランスよく描かれ、左方へ時間が進む絵巻の特色を生かした貴紳のはなやかな行粧や平家物語の女性説話のほか、管弦の場や嘆きの場などの悲劇の女性たちの姿が各処に出て来る。名だたる合戦での武士たちの活躍、主従・親子の関係はしっかり描きながら、むごたらしい場面は一歩手前で止められて表現は抑制的である。皇室や貴族への配慮も感じられるのは徳川政権が皇室との融和を計り文治主義に変わりつつある時代の要請だろうか。全体に話題の選択やテーマの一場面での的確な表現など読み手を飽きさせない工夫がこらされ、注文主や編集制作工房の想定など今後の課題は多い。
石川透氏は、寛文・延宝ころに作製された奈良絵本や絵巻のうち上等な注文品と思しき作品の詞書のなかに『源平盛衰記絵巻』、『太平記絵巻』など同筆と思われる作品を数十本報告されている。その一つ『保元・平治物語絵巻』十二巻(海の見える杜美術館蔵)に注目すると『源平盛衰記絵巻』の絵との相似が見られる。周の幽王と烽火は『保元』にも『盛衰記』にもある題材だが人物の配置反転などの相異はあっても幽王の衣装の描写顔付きまでが同じである。また『保元』の左大臣頼長が流れ矢に当る場面と『盛衰記』で高倉宮が落馬する場面も同一である。まだそんな例は出て来ると思われ、二つの絵巻は同一の絵師もしくは同じ粉本を参考にした絵師グループが想像される。『太平記絵巻』は海北友雪筆とされるが、この二つの絵巻は別の絵師を想定する方がよいように思われる。
安徳天皇縁起障子絵の構想 泉 万里
「安徳天皇縁起障子絵」(赤間神宮〔阿弥陀寺〕蔵)は、全八面がそろって現存する貴重な作例である。本発表では図様の構想に着目し、その制作時期を再考する。
まず、第一幅から三幅の「御産」「公卿揃え」「山門御幸」が描かれる前半部分と、第四幅から八幅の合戦場面からなる後半部分では、図様の構想が異なっている。後者は、すでに定型となっていた合戦の名場面図様を組み合わせて図様の主要部分が作られている。この方法は、近世初期の合戦図屏風と同じであり、きわめて手慣れた筆捌きが感じられる。それに対して、前半部分の図様はやや散漫な印象がぬぐえない。おそらく後半の合戦場面とは対照的に、参照すべき先行作例や定型的図様をもたずに、苦労して作り上げたものであろう。このように、前半と後半の図様の完成度に差があることに注目したい。
これに関連して一六世紀とされてきた制作時期についても再考する。おそらく、この障子絵は、慶安年中(一六四八〜五二)の阿弥陀寺二十五世増円が毛利秀元の助力をえて御影堂を再興した際に作られた「源平絵惣金」に相当するものだろう。
なお、『薩陽往返記事』に、一八二九年時点に、障子絵はすでに御影堂からはずされて、かわりに新調された模本がはめ建てられたことが記されている。おそらくそのときに掛幅に改装されたのだろうと推測する。ただし、この点については別の解釈も提出されており、さらなる検討が求められている。
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六月十五日 | 打合せ会・公開研究発表会 |
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6月15日(土)13:00 2402教室の一角で本年度2回目の打ち合わせを行った。出席者は松尾・小林・岩城・坂井・高橋・吉田・原田・辻本・平藤・伊藤慎吾・山本の11名。まず松尾から今後の計画と現在の予算執行状況が説明され、特に、検索可能な源平盛衰記本文の入力作業について、吉田から報告があった。本科研担当の事務職員~山を紹介した後、来年度に向けて論文集刊行の企画が進んでおり、版元から書名と付録について提案があったので今後具体的な検討を進めていくことを相談した。
この間作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山は会場設営、配付資料の印刷、展示や投影機器の準備を行った。
13:30から同室で、公開研究発表会を開催し、同時に本学所蔵『参考源平盛衰記』写本の展示を行った。発表は伊藤悦子「調査報告 河野美術館所蔵源平合戦図屏風」(司会:山本岳史)、吉田永弘「『源平盛衰記』語法研究の視点」(司会:平藤幸)、大阪工業大学教授岡田三津子「『参考源平盛衰記』浄書本(享保本)の成立過程−國學院本・京大本・東大本・書陵部本傍書の検討を通じて−」(司会:高橋典幸)の3本で、質疑応答も活発に行われた(発表要旨は別掲)。
今回は学外者のみならず本学の学部学生も多く聴講し、初めての知見に触れて大きな刺激を得たようであった。17:40に松尾から展示資料の説明や次回の公開研究会の予告が行われ、終了した。
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調査報告「今治市河野美術館所蔵源平合戦図屏風」 伊藤悦子
本発表は、愛媛県・今治市河野美術館所蔵「源平合戦図屏風」についての調査報告である(平成24年3月20日、科研による調査旅行に同行させていただいた)。
本屏風は、右隻に一の谷合戦、左隻に屋島合戦を描いた、いわゆる「一の谷・屋島合戦図屏風」であり、全体的な構図や場面配置は、数多く現存する「一の谷・屋島合戦図屏風」の典型的なものである。各場面は、覚一本『平家物語』の章段でいうと、右隻は巻9「老馬」〜「小宰相身投」、左隻は巻11「勝浦付大坂越」〜「弓流」に当たり、他の屏風が描いているほとんどの場面が取り込まれている。その点、「老馬」などを描かない智積院本系統(智積院本は一の谷・屋島合戦図屏風の現存最古と推定されている)よりも、成立時期が下ると考えられる。後出の屏風の特徴の一つとして、増加された人馬の中に各場面が埋没してしまう傾向があるが、本屏風では、各場面に力点が置かれ、人物が特定しやすく、智積院本系統が持つ特徴も多く有している。また、各場面の内容は、一方系『平家物語』の記述に最も近いが、装束の色など、異なる箇所も見受けられる。これらのことから、本屏風は、必ずしも『平家物語』本文を直接参照したのではなく、智積院本系統の構図を引き継ぐ絵画資料をはじめ、複数の絵画資料を参考にして制作されたと考えられる。
本屏風は、他の屏風が描いている凄惨な場面を、ほとんど描いていない。首や手足の切断部分や血の描写は無く、しかも人間に限らず、馬や鹿などの動物さえ、死の描写を避ける傾向があり、凄惨な場面を極力描かない事を意図して制作された屏風であると推定できる。
『源平盛衰記』語法研究の視点 吉田永弘
源平盛衰記は十四世紀前半に成立したとされるが、言語資料として扱う場合には、後世の表現が混入している可能性があるので、慎重に扱わなければならない。本発表では、後代的な言語事象が反映した可能性のある箇所について検討を加えた。まず、単語レベルで『日本国語大辞典』に初出例とされている例を検討し、他の資料では十六世紀以降にしか確認できない例や盛衰記の孤例を指摘した上で、十四世紀に遡り得ないことを証明するのは難しいということを述べた。次に語法レベルでは通時的変化が観察可能な場合があることを指摘し、活用の変化、構文の変化、敬語の変化のなかに盛衰記の例を位置づけて、延慶本・覚一本より後代的な言語事象が含まれていることを示した。
『参考源平盛衰記』浄書本(享保本)の成立過程
−國學院本・京大本・東大本・書陵部本傍書の検討を通じて− 岡田三津子
『参考源平盛衰記』は、水戸光圀の命を受けて編纂された四種の参考本の一つである。(以下、「参考源平盛衰記」を「参考本」と略称する)。元禄15年(1702)にいったん完成したが、その後も改訂作業が続けられ、浄書本が幕府に献上されたのは、享保16年(1731)であった。現存する参考本の伝本は12種であり、元禄本の系統と享保本(浄書本)の系統に大別できる。浄書本の系統は、1)浄書本とその写し、2)浄書本完成に至るまでの中間形態をとどめる本、3)浄書本をもとに独自の注を加えた本の3種に分けられる。
本発表では、上記2)に属する書陵部本・京大本・東大本の三本に、新出資料として國學院本を加えた四本を具体的な検討対象とする。傍書に着目することで、四本の相互関係を明らかにすることを試みた。
第一に、注釈に関する京大本の傍書(書き入れ)が、書陵部本および浄書本で割注として定着する過程を明らかにする。具体的には、以下の四つの場合について検討した。@異朝故事の省略、A本文に対する疑義、B注の異同、C引用書目の変更である。そのいずれの場合も、京大本の傍書が、書陵部本・浄書本で割注として記されている。その検討の過程で、東大本と國學院本は、京大本ときわめて近い関係にありながら、京大本よりも下位に位置づけられることが判明した。すなわち、京大本から書陵部本、書陵部本から浄書本へという成立過程を辿ることが可能となる。
第二に、古本・異本として書き入れられた本文が、古本系『源平盛衰記』のうちB系に属する本文と一致する。その反面、これらの異本の書入れは、浄書本の本文改訂には反映していない。異本の書き入れに対する姿勢から、浄書本ができるだけ注を減らし、読みやすい本文を作り上げようとする意図に基づいて編集されたものであると意義づけられる。
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七月二十七日 | 記事年表作成部会・打合せ会・公開研究発表会 |
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10:30より國學院大学渋谷校舎2403教室で、年表部会を開いた。JRの事故のため原田は1時間遅れの参加となった。あらかじめ小助川からML配信された総合年表の礎稿の一部と、凡例案及び覚え書きを検討した。出席者は高橋・小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・山本・松尾、それに出版側として三弥井書店の吉田編集長が陪席した。目下、総合年表を小助川が点検、統合して問題点をマークした礎稿を作成中であるが、膨大な作業となり、当初の予定よりやや遅れ気味である。8/15までに各作成者にML配信するので、確認の上、9/20入稿を目標に調整することになった。総合年表は原則、盛衰記の本文に基づいた日付で作成、備考欄に史実を指摘するが、同一事件が異なる日付で複数回記されている場合、別の箇所に配置されるのはおかしいので、一箇所にまとめることとする。記事コードや年月日コードは省く。時期が判明しない記事は原則として省く。一方、巻別記事内容一覧は、記事コード順に配列し、時期の曖昧な説話もなるべく拾うが、熟語や1文以下の短い説話は採らない。その凡例は別途に辻本が案を作成、8/15までにML配信するので、それまでに各自の担当巻ごとに原稿を整理しておく。その後、総合年表を1ヶ月遅れで追うように、巻別記事内容一覧を作成、入稿することとした。まとめ役は小助川が総合年表、辻本が巻別記事内容一覧を担当、校正は前回の申し合わせ通り、次回の年表部会は10/26となるので、それまではML連絡で進めることを申し合わせた。12:30に終了。この間、作業従事者の伊藤悦子、大谷、大山の3名は会場設営、記録、レジュメ印刷などを行った。
13:00から同室で、打ち合わせ会を開き、今後の予定、上半期の収支報告、年表部会の進行状況、論集の原稿依頼を9月早々に行うことなどを報告、了承した。なお8/7に調査する予定の林原美術館蔵『平家物語絵巻』について、松尾ゼミで予習した結果、従来の研究では指摘されていなかった問題点が明らかになったので、参考資料が全員に配布された。出席者は松尾・小林・石川・吉田・伊海・岩城・小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・山本である。
引き続き13:30から2402教室で、公開研究発表会を開催した(石川・岩城は校務のため欠席)。発表者はワイジャンティ・セリンジャー、辻本恭子、それに仏教大学教授黒田彰の3名(発表要旨は別途掲載)で、司会は小林健二、吉田永弘、原田敦史がそれぞれ務めた。来聴者は40名ほどで、各発表の後には活発な質疑応答が行われ、17:30に終了。この間、作業従事者の3名は会場設営、受付、記録撮影、撤収などを行った。
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母として、巫女としての建礼門院の六道語り−『孝養集』の摩耶説法と 『平家物語』の比較を通じて− ワイジャンティ・セリンジャー
『平家物語』の終結部に建礼門院は独白形式の話をして、自分が体験したことを六道輪廻の世界になぞらえる。この部分は「六道語り」と呼ばれ、従来、竜女として往生する女院の竜宮めぐりの語りだとする説もあった。本発表では、建礼門院の六道遍歴が『孝養集』の摩耶夫人の六道巡りに相似的構成を持っていることを検討し、中世日本の母性尊重の言説とあわせて考えてみた。また、建礼門院が霊媒となって、自分の母や一族の救済を語っているモチーフも取り上げてみた。中世の仏教が女の体のままで成仏できないとしていたことはよく論じられるが、建礼門院の六道語りでは、「母」として、また「夢告者」として、その差別意識を回避する方法が垣間見られることを提示した。
『源平盛衰記』に見える「神国」という語について 辻本恭子
本発表は、『源平盛衰記』の「神国」という語を通じ、盛衰記における神々の描かれ方の一側面を読み解くことを目的とした。盛衰記は、読み本三本の中では「神国」という語を多用している。この語は、日本が神孫君臨の国であるとの記述、清盛ら平家が朝政にかかわることを非難する記述や、辺土・末世の自覚とそれを救う神明の力を記述する中などに記される。ただし、「神国」の語は、神孫君臨や神明擁護といったいわゆる神国思想の描出のためにだけちりばめられているのではないようである。盛衰記が独自に描く霊験譚を見ると、神は非礼を為した相手を殺したり、時の帝を弓箭によって威嚇したりするなど、激しい神威を持つ存在として描かれている場合がある。その独自記事の一部には、記紀の神話を違えて、神により強い力を持たせて描いているものもある。
独自の明神譚や霊験譚を読むに当たり、盛衰記が天武天皇について繰り返して記述すること、それらの半数以上が何らかの形で壬申の乱に触れていることにも注目した。盛衰記は天武天皇について、ときに神助霊験譚も交えて何度も記述する。盛衰記は、神孫君臨の神国日本においては、朝意にそむくことは神意にそむいたことになるとする。「神国」の語を多用し、本筋の平家滅亡の物語に、記紀にはない或は記紀とは姿を違えた神を多数配置して、「非礼を受けない神」、「朝恩に背いたものや朝敵には激しい罸や祟りをなす神」を登場させる。一方で天武天皇のこと、特に壬申の乱について何度も記す。これは、朝意に背いた平家が神々の冥罸によって滅亡すること、一度は追われる身となった天武天皇が神助も得て帝位についたように、伊豆に流された頼朝が後には国を治めることを描くという構想があってのことではないかと考える。
祇園精舎覚書−鐘はいつ誰が鳴らすのか− 黒田 彰
平家物語巻第一「祇園精舎」の冒頭句、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり
は古来、平家物語の主題としての無常観を表出したものとして、余りにも有名なものである反面、その意味する所は、常に明らかであった訳ではない。平家物語の研究史を繙いてみると、その冒頭句の意味が明らかとなったのは、昭和三年六月の後藤丹治氏による明論文「平家物語難語考(一)」(『国語国文の研究』21)のことであり、後藤氏は、
平家物語 ← 往生要集 ← 祇園寺図経(ぎおんじずきょう)
という、平家物語は、往生要集巻上大文第一(第七惣結厭相)を参照し、往生要集はまた、祇園寺図経下巻を引用していることを明らかにされたのであり、私もかつて、中世における往生要集や祇園寺図経が参照される環境の一つとして、色葉歌注釈の世界などがあったことを、指摘したことがある(拙著「祇園精舎覚書―注釈、唱導、説話集―」、拙著『中世説話の文学史的環境』〈和泉書院、平成7年。初出平成2年2月〉U一1)。
さて、平家物語の冒頭句の背景には、
(一)往生要集
(二) 祇園寺図経
の二つのあったことが知られるが、例えばその二つの資料が、これまで十分に読み解かれているかというと、必ずしもそうではない。今、(一)、(二)の解釈のレベルを設定してみると、祇園精舎の鐘は、
(一)いつ鳴るのか
(二)誰が鳴らすのか
という問題を指摘することが出来よう。そして(一)については、往生要集の古訓が、現在のものとは異なることや、(二)に関しては、祇園寺図経の文献学的研究が不十分で、例えば、大正新修大蔵経45所収の本文は、必ずしも信用出来ないことなどの問題が浮かび上がって来る(大正蔵経は、卍続蔵経を底本としていることなど)。この度の発表においては、それらの幾つかの疑問に対し、少し踏み込んで考えてみた。
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| 八月七日 | 調査旅行(岡山・林原美術館) |
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8月7日(水) 林原美術館蔵『平家物語絵巻』調査
8:10東京駅発のぞみ15号で、松尾・石川・平藤・山本及び作業従事者大谷は岡山に向かった。なお別途資金により小林・岩城の2名も調査に参加、11:30に岡山駅到着、バスで県庁前まで行き、林原美術館に入った。許可された時間通り13:00〜15:30の間に、あらかじめ申請してあった巻11,12の中から15場面を開けて頂き、熟覧した。比較的淡泊な色づかいながら、詞書の料紙にも金銀を用いた下地絵が描かれ、すやり霞には赤・青2種の金砂子が撒かれており、義経など特に注目させたい人物の装束には剪り金が貼り込まれていた。海面は藍ではなく青灰色で描かれるが、白い波頭が装飾的に鏤めるように描かれ、人物の衣装の文様なども精密である。殊に集団の人物がぎっしりと描かれ、家屋を表わす線がきっちりしている。植物を描く緑には白や銀が混ぜられている例が多い。絵の錯簡や詞書の傍書などに注意しながら熟覧し、この間作業従事者大谷は記録を担当した。
15:30からは館内で展示中の巻1,2,4を見学した。巻11,12のようなしみや黴痕もなく、ガラスケース内の展示用照明で見ると、刊行本とさして変わらぬように見える。今回熟覧しなかったら我々の印象もそのままだったであろう。現物を実見すると、展示品は複製ではないかと思えるくらいである。
市電で岡山駅へ戻り、17:49発のぞみ48号で帰京、解散した。
今回の調査に備えて松尾の担当している演習で、先行研究の検証をした結果、本文の底本や版本挿絵との関係などは改めて検討する必要があることが分かった。また奈良絵本や絵巻に比べて、やや上方の視点から描く構図が多いことも指摘できる。さらに本資料は旧蔵者越前松平家が他家と姻戚関係を結ぶ際に調えた(もしくは持参された)品であった可能性が考えられ、林原美術館から頂いた「大名家の売り立てではまず奥向きや能楽などの関係の品から手放し、藩主の関係する品はめったに放出しないことが通例」とのご教示は貴重な手がかりとなりそうである。
調査報告「林原美術館蔵平家物語絵巻について」 山本岳史・大谷貞徳
林原美術館蔵『平家物語絵巻』を実見して得た、挿絵の特徴は次の通りである。
@絵巻の挿絵は、奈良絵本と比べて色彩が淡白である。その要因は、金泥をほとんど用いていないことや、霞が淡藍色地の上に金砂子を散らすだけの装飾であること、海は青灰色で波頭を薄い白で描いていることなどにある。奈良絵本は、金泥を用いたり、海を濃紺で描いたりと、全体的に濃い色彩が目立つ。
Aひとつの場面にたくさんの人物を描き込む。
Bその場面の主要人物に金の切箔を用いて目立つようにしている(例:源義経)。
C巻十二上・中・下に亘り、挿絵の錯簡がある。錯簡には、似た構図の挿絵を取り違える、挿絵を入れる場所が前後逆転している、挿絵を入れる章段が異なるといったパターンがある。その錯簡箇所を実見したところ、紙継ぎに不審な点は見られず、現在の装訂からは改装を示す箇所は確認できない。ただし、装訂当初から挿絵の錯簡が生じていたか否については、なお検討を要する。
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| 八月二十八 〜二十九日 | 調査旅行(宮城県図書館) 高橋典幸 |
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8月28日から29日までの日程で、宮城県図書館にて同館所蔵の『参考源平盛衰記』(伊達文庫本のうち。以下「伊達文庫本」とする)の調査を行なった。
伊達文庫本は首巻・巻一〜四十八・剣巻の全50冊、全篇同一筆跡からなる完本である。奥書や書入れなど全くなく、書写者・書写時期・書写背景などの手がかりはほとんど得られないが、本文のみならず、字配りなどがほとんど国立公文書館所蔵内閣文庫本『参考源平盛衰記』(以下「内閣文庫本」とする)に一致すること、数カ所確認される訂正箇所はいずれも内閣文庫本に倣う形で訂正されていることから、内閣文庫本(享保16年(1731)に江戸幕府に献上されたとされる)の忠実な写本と考えられる。
『参考源平盛衰記』は、先行する源平盛衰記の章段変更(章段の削除・移動、複数の章段の統合)などを行なっており、どのような操作が行なわれたかが目録に注記されている。さらに本文中にも章段変更箇所が注記されている場合がある。そこで伊達文庫本・内閣文庫本の章段変更の有無・その方法を精査し、史籍集覧本(元禄15年(1702)の第一次完成本の形態をとどめると考えられている)のそれと比較検討してみた。その結果、両者には共通する章段変更が見られる一方で、それぞれ独自の章段変更も加えられていることが判明した。すなわち伊達文庫本・内閣文庫本は、第一次完成本(史籍集覧本系)のテキストをそのまま継承しているわけではないと考えられ、両者に共通する祖本の存在が浮かび上がってくる。
今回の調査結果により、『参考源平盛衰記』のテキスト形成過程の一端をうかがうことができた。先行研究および本研究課題で行なっている他の本文調査の成果とも突き合せて、『参考源平盛衰記』のテキスト形成過程の全貌解明に進んでいきたい。
なお今回の調査をご許可いただき、調査にあたっては種々便宜を図られた宮城県図書館の方々に感謝申し上げる次第である。
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| 九月七日 | 打合せ会・公開研究発表会 |
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10:30から3307教室(予約したのは3301教室だったがプロジェクターが必要だったため、3307教室で行うことにした)で、8月中に実施した調査の報告会が行われた(出席者は、松尾・吉田・石川・岩城・原田・平藤・辻本・伊藤慎吾・高橋・山本・秋田と作業従事者3名である)。この間、作業従事者の伊藤悦子、大山は会場設営、記録などを行った。
8月7日に林原美術館で調査した『平家物語絵巻』について、山本岳史と大谷貞コが、パワーポイントを使って調査結果を説明した。調査先の都合で巻11,12を中心に熟覧を行ったのであるが、展示や印刷物で見るのと実見するのとでは印象が大きく異なること、先行研究の指摘に漏れていた点や、必ずしも通説とは一致しない点などが発見できた。絵巻の画風と奈良絵本や屏風絵のような大きさの絵の画風との相違か、また絵具の違いや経費の関係からか、これまでに実見した絵画資料は、濃い彩色のものと淡泊な彩色や構図をとるものとに分けられるという意見も出た。
次に8月28,29日に仙台の宮城県立図書館で『参考源平盛衰記』を調査した高橋典幸の報告があった。清書献上本とされる内閣文庫所蔵享禄本と比較すると、その写しであろうと思われるが、破綻のないきちんとした写本であった。
12:50から3301教室で、打ち合わせ会を行った(出席者は前掲の14名のほか、伊海が加わった)。松尾から議案書に基づき、@前回配布した収支報告書の記載に誤りがあったこと A今年度下半期の計画 B論文集の企画案 C3/29の打ち上げ会について報告と提案がなされ、了承された。また辻本から、源平盛衰記各巻記事一覧の凡例案が提案された。9/30までに各自担当した巻の原稿を整備して辻本に送付し、辻本が整理して10/20に入稿する、という日程で進めることになった。
13:30から3307教室で公開研究発表会を開催した。発表は秋田陽哉「源平盛衰記の「べし」の用法」(司会:吉田永弘)、伊藤慎吾「頼朝軍物語の基礎的考察」(司会:山本岳史)、原田敦史「『源平盛衰記』形成過程の一断面」(司会:辻本恭子)の3本で、それぞれ発表後質疑応答が行われた。日本語学専攻の院生や他大学の院生も参加し、突っ込んだ議論も交わされた。この間、作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山は受付、資料配付、記録、会場撤収などを行った(なお石川と岩城は校務のため、午後は欠席した)。
最後に代表者の松尾が、今後の企画の一部を述べて17:40に散会した。 以上
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源平盛衰記の「べし」の用法 秋田陽哉
高等学校の文法教科書等の記述に反して、古代語研究では「べし」に〈命令〉の意味を積極的に認めていない。本発表では『源平盛衰記』を資料として、〈命令〉を表す「べし」が存在することを述べた。またその出現要因についても考察を加えた。
〈命令〉用法の認定基準は、@「べし」を含む会話文を〈命令〉だと判断できる表現が同一文脈に共起する、A命令形が期待される構文中に「べし」が存在する、B命令表現が複数並ぶ中に「べし」が存在する、の三点とし、それぞれ適合する例が確認できた。また平家諸本で同一場面を比較すると、『源平盛衰記』『長門本平家物語』では「べし」が用いられている箇所が、『覚一本平家物語』では命令形になっている例が見られた。中世期には〈命令〉を表す「べし」が確かに存在する。
次に〈命令〉用法の出現要因を探るために中古期まで調査範囲を広げたところ、中古和文資料で〈命令〉用法は見られず、『御堂関白記』『権記』といった変体漢文資料に〈命令〉を表す「可」が散見された。
このことから中世期ごろから〈命令〉用法が出現した要因を次のように考える。
変体漢文では、漢字表記だけで〈命令〉の意味を明示することはできなかった。そのため中古和文で「適当」の意味を表し、「可」という語形を持つ「べし」を用いて〈命令〉であることを明示していたと考えられる。また中世期に〈命令〉の「べし」が出現するのは、当時、口語としての「べし」は滅んでおり、文語としての用法が取り入れられやすい状況下にあったためだと考えられる。
また文献の分量差はあるものの『源平盛衰記』における〈命令〉の「べし」は『覚一本平家物語』『延慶本平家物語』に比べて、多く見られる。
『源平盛衰記』形成過程の一断面 原田敦史
『源平盛衰記』において、巻二十六の忠盛説話群と、巻十六の頼政説話群とは、一対のもののごとくに仕組まれ、表現上、構成上の対応が企図されている。これらの記事を対象として、『源平盛衰記』が現在ある形になるまでにどのような経緯があったのかを窺うことが、本発表の主旨である。
たとえば、白河院が祇園の女のもとへ御幸した際に忠盛が供奉し、遭遇した怪異に対処したという話には、頼政の鵺退治説話と重なる表現が極めて多い。「王命を重んじて行動する忠盛」像が付け加えられてい点も、頼政鵺退治との対応をいっそう密にしている。
また、忠盛が宮中で女房の袖を引いて歌を詠み交わす場面、女が院の愛人だったと知っておののくが、歌を誉められて許されたという説話がある。これも、頼政説話群の中の菖蒲前と、細部の表現が極めてよく一致し、しかもそれらの中には『盛衰記』内に他出を見ない語句も含まれている。そのほか、忠盛・頼政ともに『今物語』に由来する和歌説話を持つことや、それらが名前に関わる話であること、両者ともに連歌にまつわるエピソードを有することなど、表現・構成の両面で、一方が一方を強く喚起するよう仕組まれていることは明らかである。
ただし、両者の造型が類似するという傾向だけであれば、四部合戦状本などについても指摘があり、必ずしも『源平盛衰記』のみの問題だと断じることはできない。そのことを踏まえつつ『盛衰記』ならではの特徴と言いうるものを見いだそうとするならば、やはり説話の増補という点であろう。他諸本と比較すれば、菖蒲説話・和歌説話などに加え、石川某将軍の鵺退治辞退説話など、実に多くの説話が上記の方向性のもとに、表現上の加工を施しながら盛り込まれていることが看取できる。構想を実現する手段として説話を使いこなすという点に、『盛衰記』形成に関わる問題を見ておきたい。
『頼朝軍物語』の基礎的考察 伊藤慎吾
『頼朝軍物語』は江戸前期に刊行された絵入版本の物語草子である。内容は源頼朝の挙兵から石橋山合戦での敗退を経て隅田川に東国の源氏方を集結させるまでを描いている。本発表では本作品の基礎的な調査を踏まえて、『源平盛衰記』との関わりについて言及した。本物語の本文は『源平盛衰記』巻20〜23を抜粋し、部分的に改変して作られている。三浦・和田・畠山の活躍を主に描き、故事説話を省略し、頼朝を礼讃し、石橋山合戦やその後の頼朝の敗走を直接描かない点に特色がある。版元は大坂で古浄瑠璃正本を刊行してきた西沢太兵衛である。太兵衛の出版歴からすると、恐らく本物語は正本刊行の経験を生かして古浄瑠璃風の読み物として作ったものではなかったかと思われる。古浄瑠璃とお伽草子・仮名草子との境界が曖昧な領域の読み物の一つとして本物語を位置付けることができよう。
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| 十月二十六日 | 記事年表作成部会・打合せ会・公開研究集会 |
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10:00〜12:10 年表部会(出席者:小助川・辻本・原田・伊藤慎吾・平藤・山本 ・高橋・松尾) 國學院大学渋谷校舎2402教室
総合年表の初校が出ているので、各人の疑問点や不統一な箇所などについて意見を交換した。その結果を小助川がまとめて、11月中旬には版元へ返すことになった。
各巻記事一覧の方は辻本が原稿をとりまとめ、一部未完の箇所はあるが既にデータ入稿済みとのことで、原稿見本が配布された。総合年表にだいたい1ヶ月遅れで進行させていく。12月の研究会に合わせて部会を開き、それまではMLで連絡することとした。
この間、作業従事者3名は会場設営・資料印刷・記録などを担当した。11:00から、伊海は玉村恭氏・横山太郎氏と共に午後のシンポジウムの打ち合わせを行った。
12:30〜12:50 同教室にて打ち合わせ会(出席者:小助川・辻本・原田・伊藤慎吾・平藤・山本・松尾・伊海・岩城及び作業従事者3名の計12名)。
年表作成の進行状況・現在の科研費残高が報告された後、松尾から今後の企画が提案された。11/16の歴史学部会主宰講演会については坂井から説明があり、H26刊行予定の論集企画に関して版元の編集担当者が紹介され、執筆要項を確認した。
13:00〜15:00 公開研究発表会 同校舎2103教室
大山峻也「『源平盛衰記』・『太平記』絵入版本考−血の描写を中心に−」及び平藤幸「長門切と伝貞敦親王筆平家切数葉の紹介」の発表に対し、質疑応答が行われた。
15:10〜17:40 公開シンポ「芸能が描く女武者−巴の造型をめぐって」 同
司会を伊海が務め、まず伊海孝充「長刀を持つ巴像の意味−『平家物語』諸本との比較から」、次にゲストの玉村恭「美的表象としての女武者−能<巴>を題材に」の発表の後、コメンテーターの横山太郎を交えてシンポジウムを行った。フロアからもいろいろな質問や意見が出され、有益であった。公開研究集会の発表要旨は別掲。
この間、作業従事者3名は受付、プロジェクターの操作、記録、会場撤収などを行った。
17:40に代表の松尾が閉会の辞と今後の予定を述べて散会した。 以上
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『源平盛衰記』・『太平記』絵入版本考−血の描写を中心に− 大山峻也
本発表では、『源平盛衰記』、『太平記』、『平家物語』の三作品の、各絵入整版本の挿絵における血を描く意識の在り方について検討し、考察を行った。
まず、それぞれの作品の絵入整版本の種類と簡単な書誌を確認し、血の描写の具体的検討を行い、以下の三点を指摘した。@『源平盛衰記』の絵入整版本には、縦型本の寛文五年版系と、横本の元禄十四年版系の二種類があるが、寛文五年版系では血を描く意識が希薄であり、元禄十四年版系では血を描く意識が強いという傾向が見出せる。A『太平記』の絵入整版本には、寛文頃の成立と推定される縦型本の無刊記絵入整版本と、横本の元禄十年版・元禄十一年版の三種類があるが、無刊記絵入整版本では、血を描く意識が希薄であり、元禄十年版・元禄十一年版では血を描く意識が強いという傾向が見出せる。B『平家物語』の絵入整版本には、縦型本の明暦二年版・寛文十二年版系・延宝五年版系と、横本の元禄十二年版の四種類があるが、明暦二年版・延宝五年版系では血を描く意識が希薄であり、寛文十二年版系・元禄十二年版では血を描く意識が強いという傾向が見出せる。
次に、この三点を踏まえて、以下の二点を指摘した。C元禄十四年版系『源平盛衰記』、元禄十年版『太平記』、元禄十一年版『太平記』、元禄十二年版『平家物語』は、出版時期、横本という形態、巻頭目録の形式が共通するが、血を描く意識が強いという点でも、これらは近い傾向を示している。寛文五年版系『源平盛衰記』と、無刊記絵入整版本『太平記』は、出版時期が近く、挿絵数が多いという点でも共通し、共通する挿絵も数例見出せるが、血を描く意識が希薄であるという点でも、両者は近い傾向を示している。
Dさらに、寛文十二年版系『平家物語』が、血を描く意識が強いことが、明暦二年版及び延宝五年版系の『平家物語』と比較しても、寛文期に出版された『源平盛衰記』と『太平記』と比較しても異質であると考え、『保元物語』、『平治物語』、『義経記』、『曽我物語』の絵入版本の出版に関する情報と血の描写について、年代順に整理して考察を試みた。そして、『義経記』、『曽我物語』においても、寛文頃から血を描く意識が強くなることを指摘し、寛文十二年版系『平家物語』も寛文期の出版を取り巻く文化の影響を受けて、血を描く意識が強くなったと推測した。
最後に、『平家物語』や『義経記』、『曽我物語』が寛文期になって血を描く意識が強くなったのに対して、寛文期に出版された『源平盛衰記』や『太平記』は、血を描く意識が希薄である点で特殊であることを問題提起し、今後の課題として報告した。
長門切と伝貞敦親王筆平家切数葉の紹介 平藤幸
新出の長門切「ける是を粟」(4行。盛衰記巻三十五「木曾頚被渡」相当部分)と長門切の模写「は明俊にく」(3行。盛衰記巻十五「宇治合戦」相当部分)を紹介した。前者の紙背には、「平家」本文とほぼ同じ字面の高さで、『十七条憲法』の一部本文と、注と思しき記述がある。後者はいわゆる「橋合戦」の名場面で、明俊(明秀)が箙に矢を「二」残したとする点独自で、解釈上に不審も残るが、田中登氏蔵断簡(『平成新修古筆資料集 第1集』〈思文閣出版 2000年〉に掲載)に前接する可能性が高く、長門切の模写と見てよい。模写を含めた長門切は、現在70葉が確認される。紙背にも注意しつつ、さらに博捜に努めたい。
新出の伝貞敦親王筆平家切7葉の紹介も行った。いずれも巻十相当部分で、従来指摘されているとおり、本文は八坂系一類B種に属する。漢字には多くふりがなが付されているが、中にはそれがすべて摺り消された断簡も存在する(「もやあらん」〈中院本巻十「本三位中将上人にたいめん并くわんとうけかうの事」相当部分〉)。視認可能な断簡には巻皺は認められず、もとは巻子本ではなく「大ぶりな袋綴本」(「巻子装の平家物語―「長門切」についての書誌学的考察―」〈『斯道文庫論集』47 2013年2月〉)とする佐々木孝浩の見解が、補強される。ツレは、14葉が確認される。
長刀を持つ巴像の意味−『平家物語』諸本との比較から 伊海孝充
能「巴」のシテは、大力を発揮する女武者として描かれていない点、木曾義仲と最期を共にできなかったことを無念に思い、主君に恋慕の情を寄せる女性として描かれている点、長刀をもつという点など『平家物語』の巴の造型が大きく乖離している。発表者は、以前、長刀の風流性と室町時代後期における女武者の粧飾化の観点から能の巴像を論じたことがあるが、今回は、能「巴」と『平家物語』諸本とりわけ『源平盛衰記』との関係と、能「巴」の改作の可能性に注目しながら、前稿の補足を試みてみた。
能「巴」と『源平盛衰記』の関係との緊密性については先行研究で既に指摘されているが、能作者がこのテキストで注目したのは、大力の女武者の姿ではなく、女武者から常の女性へと〈変身〉することへの視覚的効果であったと考えられる。世阿弥は『花伝』で、『平家物語』のまま能を作るように説いているが、物語から所作を生む場面・文句も見つけことの重要性も説いている。女武者から常の女性への〈変身〉は、『平家物語』諸本の描写では表現できない場面であり、能作者は『源平盛衰記』からその新趣向を発見したのではないだろうか。能の巴物の多く(「衣潜巴」「御台巴」「形見巴」)が、この〈変身〉に注目していることが、そう考える証左である。能作者は、軍記物語からこうした所作を生むような種を探していた(たとえば『伏木曾我』に伏木に馬が躓く場面など)。つまり、わざわざ長刀を持つ巴を作り出さなくても、この曲は作品として充分に成立しているように思える。
このことを踏まえると、能「巴」は長刀を持つ巴の姿がないほうが、一貫性がある曲構成となっているように考えられる。長刀をもち奮闘する場面は、十段[中ノリ地]のみに描かれているが、この場面は前後との繋がりが悪く、この場面がない方が恋慕の女性として描く巴像に一貫性があると思える。永正期に編まれた装束付『舞芸六輪次第』に長刀が書かれていないことは、この推測を裏付ける傍証となるのではないだろうか。
「巴」が用いる小袖は能の発案で、『源平盛衰記』がその影響を受けたことも考えられるが、その可能性も視野に入れて、改めて再考したい。
美的表象としての女武者−能<巴>を題材に 玉村恭
既に指摘があるように、能《巴》は、『源平盛衰記』の影響が色濃くうかがえる作品である。ストーリー展開などにおいて脚色が加えられてはいるものの、『盛衰記』を下敷きにしたと思しい文言や表現が随所に見られる。他方で、この能は、作品としての評価がそれほど高い曲ではない。『盛衰記』の表現を踏まえ、同書の世界に寄り添うようにして作られながら、そうすることが必ずしも能としての成功に結び付かなかったらしい。それはなぜなのだろうか。
美学者・西村清和は、文学作品が映画化される際に多くの人が感じる失望感を、文学(文字テクスト)と映画(映像)とがそれぞれ行う「描写」の違いに起因するものとした。事物を「描写」する際、文字テクストの供する情報は、視覚的イメージには乏しいが、事物の「意味」は明瞭に規定することができる。他方、映像は、事物の像を細部まで克明に提示することができるが、それらのものの多くの「意味」を未規定で多義的なままにとどめおくほかない。言葉が指し示す物事の「意味」の一義性と、映像が提示するそれの多義性、この相違が、小説から映画へのメディア変換を困難にする要因である。
『源平盛衰記』から能《巴》へのメディア変換にあっては、どうだろうか。能では通常、テクストの視覚化の際、能面の使用、演技の様式化、舞台の簡素化といった一連の様式的措置によって、言葉の一義性と映像の多義性とのギャップが回避される。しかし《巴》の場合、いくつかの箇所で、こうした措置がうまく機能していないように見える。
キリの場面で、主人公巴は物の具を脱ぎ置き、小袖と小太刀を引きかづき、笠を着る。これらの小物類はいずれも平家物語の諸本に根を持つものであるが、観者の視覚化の欲望を喚起する風情に乏しく、そもそも一義性と多義性とのギャップを生じにくい。またそれらを扱う所作も、能には珍しいほど即物的・具体的な形でなされる。これにより、能《巴》では、一義性と多義性の緊張関係が悪い形で弛緩してしまい、舞台芸術としての表現の密度が減少する結果になってしまったのではないだろうか。
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| 十一月十六日 | 記事年表作成部会・打合せ会・公開講演会 |
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11月16日(土) 於國學院大學渋谷校舎1105教室
10:00〜12:00 年表部会(参加者:辻本・小助川・高橋・原田・平藤・伊藤慎吾・山本・ 伊藤悦子・大谷・松尾)
総合年表の初校の結果、疑問点を小助川が書き出し、それらの一々について処理方法
を話し合って決定した。また巻別記事一覧の初校が来たので、一見して何が問題になるかを話し合った。今後問題点はMLで連絡をとりながら進める。総合年表は25日に小助川から版元へ戻す。巻別記事一覧もおよそ1ヶ月後には辻本を通して版元へ戻す。初校は作成者だけで見たが、再校三校は複数の目で見るよう分担を決めることにする。
12:00〜14:00 講演打合せ(松薗・坂井・高橋)
14:10〜18:00 公開講演会(参加者:午前中からの参加者に加えて岩城・坂井・吉田 及び講師の松薗斉)
この間、松尾は13:15〜14:05まで、1103教室、國文学会で定年記念の講演「いま文学するということ―平家物語の半世紀―」を行った。本共同研究とも関連する内容であるので、公開講演会講師の3名以外は聴講した。14:10から公開講演会を開催(各講師の講演内容は別掲)。各講師の講演後、会場と質疑応答が交わされた。社会人、史学科の学生・院生、他大学の院生も参加し、中には講演終了後も熱心に講師と対話する人もあった。18:00過ぎに代表の松尾が閉会の辞を述べ、散会した。この間、作業従事者の伊藤悦子・大谷は会場設営、受付、記録、撤収などを行った。
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中世の日記に見える夢の記事について 松薗斉
『平家物語』には数多くの夢が登場する。それらは、諸本によって同じ夢でもヴァリエーションがあったり、テキストによって独自の夢の記事を採用していたりする。また福原遷都の章あたりに掲載される源雅頼の青侍の夢のように、前半の物語の中心であった清盛から頼朝へとスポットライトを変えていく転換点として物語上重要な役割を果している夢もあれば、物語とは一見関係のないような夢も存在する。
一方、平安中期より多く残され始める天皇・貴族の日記(具注暦に記される日次記)にも、当初より彼らが見た夢が記されており、今日残存するものでは、ちょうど『平家物語』によって描かれた十二世紀に記された日記が夢の記事の数的なピークをなしているように思われる。彼らが見た夢は、『中右記』の藤原宗忠の場合のようにストレートに記される場合も多いが、『台記』の場合のように、彼らの何かの所願に関わるような夢は、自分が見た夢ばかりでなく、他人が見て送ってきた夢なども含め、日記に記される前に一旦ストックされ、その所願が実現すると日記の表面に出てくるようである。日記に見える夢の記事の背後にはそれに何倍かの夢が存在したことであろう。そのような大量の夢は個人の内部に留まるものばかりでなく、社会に流通しており、時に人々を写経や仏像の造立などに向かわせる原動力ともなり得た。特に主家に関わる夢は、そこに仕える人々にとっては、自分たちの運命を左右するものであり、天皇や摂関、上級貴族などその地位が高いほど影響力が大きくなる。『平家物語』に描かれた夢もそのような夢が社会的な力をもった時代を前提としており、なぜ夢の形で表現されたかについても、その前提のもとに捉え直す必要があろう。中世を通じて日記に記された夢の記事を見ていくと、中世末期16世紀あたりでは、夢をあまり記さなくなり、少ない夢の記事も多くは夢想連歌に関わるものになっている。そのような時代に、夢を信じた時代に作られた文学作品がどのように享受されるのかも一つの問題であろう。
後白河院、二つの脱出劇―後白河院政と内乱― 高橋典幸
後白河院については、同時代の人間からも、その君主としての適格性・正統性に疑問がもたれていたが、結果として35年以上にわたって5代の天皇に治天として君臨することになった。その背景には競合者の死去など偶然的要素が少なくないが、貴族社会との関わりから後白河の位置づけの変化を概観したい。その手段として、彼の生涯における二度の脱出劇を比較・検討する。
平治元年(1159)12月の平治の乱は、二条天皇が内裏から六波羅に脱出したことにより転機を迎えるが、この時、後白河も内裏から仁和寺に脱出している。しかし後白河の脱出は二条脱出を画策した反信頼派の作成計画のうちにはなく、後白河の独自の判断によるものと考えられる。その後の後白河は六波羅に合流することができず、二条派対後白河派という貴族社会の新たな対立軸が顕在化し、後白河はその当事者の一人であることを意識せざるをえない状態だったと考えられる。一方、寿永2年(1183)7月の平家都落ちに際して、事前に情報を察知した後白河は、その直前に院御所法住寺殿から比叡山へと脱出している。この脱出劇も後白河の独自の判断によるもので、周辺の人間を困惑させているが、その一方で貴族社会のなかにはこの脱出劇を歓迎する空気もあり、比叡山の後白河のもとには、その後、続々と貴族たちが集まってきている。高倉没後、後白河は唯一の治天であり、安徳の西走後の貴族社会の唯一の結集核であった。すなわち後白河の脱出は、平家西走により安徳を失った貴族社会を危機的状態から救うことになったのである。貴族社会における後白河の位置づけが、平治の乱時とは全く異なっていることは明らかであろう。
そもそも治承・寿永の内乱は、武家という新たな対抗勢力と直面せざるを得ない状況を貴族社会にもたらした。このような局面で貴族社会を代表して武家に対するという役割を担ったのが後白河院であり、それは貴族社会における彼の地位を相対的に高める結果になったと考えられる。
歴史・文学・芸能の中の和田義盛 坂井孝一
和田義盛は、源頼朝の挙兵成功を支えた大武士団三浦氏の中核にあって、侍所別当(侍別当)を務めるとともに、宿老として活躍した武士である。鎌倉初期最大の武力抗争である建暦三年(一二一三)の和田合戦で、北条義時を中心とした幕府軍と激闘を展開した末、一族もろとも滅亡したが、その存在感は並外れていた。本報告では、文学や芸能の作品と『吾妻鏡』や諸系図などの歴史の史料とを比較しつつ、和田義盛に再評価を加えたい。
文学の作品、たとえば『源平盛衰記』や鎌倉後期の東国で成立した『真名本曽我物語』の和田義盛は、「左の一座」を占める御家人の最上首、大力の弓射の名手、血縁・姻戚関係を大切にする東国武士らしい東国武士であるが、同時に壇ノ浦合戦の「遠矢」にみられるような、自信過剰から失敗もする人間的な面を持った人物でもあった。『吾妻鏡』の侍所関係の記事、「弓始」の記事、御家人同士の抗争に際し、それを止めるべき立場にありながら、いち早く片方の味方に加わっていたとする記事なども同様の傾向を示している。
しかし、南北朝・室町期に成立した『仮名本曽我物語』や、能・狂言・幸若舞などの芸能の作品になると、和田義盛は怪力無双の三男、朝比奈義秀とセットになって登場することが多くなる。朝比奈は和田合戦で幕府軍の御家人を多数死傷させ、幕府の南大門を破った逸話で知られる豪傑である。和田義盛が起こした和田合戦は、中世の人々にとって、朝比奈義秀の名とともに語り伝えるに値する衝撃的な事件だったということである。
そこで、『吾妻鏡』『明月記』『愚管抄』を用いて和田合戦を検証すると、豪勇一辺倒と思われがちな和田義盛が北条義時を相手に様々な駆け引きを展開し、相模や南武蔵の武士たちを糾合して幕府軍を追い詰めたことがわかる。敗因は親密な関係にあった将軍実朝を一瞬早く義時に確保されたことにあり、義盛が実朝を確保していれば結果は逆であったかもしれない。それほどの影響力を持った武士として和田義盛を再評価する必要があろう。
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| 十二月二十日 | 文献調査(東京・静嘉堂文庫美術館) 小林・小助川・松尾・山本・伊藤悦子 |
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静嘉堂文庫美術館に「白描平家物語絵巻」特別観覧をお願いし、許可を得ていたので、10:00〜11:30、学芸員立ち会いの下で、熟覧を行った。伝土佐光信筆の小絵巻1軸。平家物語巻1の「鱸」「禿童」「吾身栄花」「二代后」の絵と詞書がある。但し台紙など改装の跡が歴然としており、室町の制作だが近世に台紙を替えたと推測される。本文の振仮名は墨色が異なり、後補があるかもしれない。絵は場面を広くとり、土佐派らしい、力量ある筆致である。桜町中納言の祈祷をする場面は薄墨で満開の桜木が描かれ、鱸が船に躍り込んだ場面では人々にも鱸にも躍動感がある。二代后が迎えの車に乗る場面では松明やたき火の炎のみ薄い金泥を刷いている(伊藤悦子指摘)。本文は葉子本系かと思われるが、今後精査が必要である。この白描絵巻は国立京都博物館に巻6に当たるツレがあることが知られているが、元来全巻揃っていたとすると、小絵巻でありながら24乃至は36巻という膨大なものであったことが予想される。
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| 十二月二十一日 | 記事年表作成部会・打合せ会・公開研究集会 |
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9:00〜11:00 國學院大學渋谷校舎506教室 年表部会(出席者=小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・原田・山本・松尾・伊藤悦子・大谷貞コ 陪席:三弥井書店)。
総合年表の再校が出たので、問題点を検討し、方針を確認した。再校は小助川・辻本・伊藤慎吾が担当、来年1/15までにゲラを小助川のところで整理し、編集部へ返す。凡例については松尾が検討の上、近日中にMLで相談することとした。各巻記事一覧は初校を戻したばかりで、今後の日程や担当を決めた。この間、作業従事者の伊藤悦子と大谷は会場設営、レジュメ印刷、記録などを行った。
11:00〜12:00 同教室 打ち合わせ会(欠席者=高橋・秋田)。
昼食を摂りながら共同研究最後の打ち合わせをおこなった。年表作成の現状、12/20の静嘉堂文庫美術館蔵白描絵巻調査の結果、予算残高、年次報告書の内容、最終年度報告書の文案、今後の日程などが松尾から報告され、補足があり、おおむね了承された。この間、作業従事者の伊藤悦子と大谷は講演会場の設営、投影機の試運転などを行った。
13:00〜18:00 1306教室 公開研究集会(欠席者=高橋・秋田)。
最初に松尾がこの共同研究の趣旨、4年間に行った主な事業、その結果などについて報告した。次に連携研究者の岩城・小助川・石川が研究発表を行い、最後に兵庫県立歴博の相田愛子氏が平家納経をめぐって発表した(要旨は別紙)。この間、作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山は受付、投影機の操作、記録撮影などを行った。この日は、学部学生も多く参加した。松尾が閉会の辞を述べ、18:10に散会した。 以上
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「文化現象としての」源平盛衰記 松尾葦江
本共同研究のテーマを設定するに当たって、「文化現象としての」という冠辞をつけたのは、従来の『平家物語』研究が繰り返してきたように諸本の先後関係を推定しようとしたり、源平盛衰記から他の文芸への下降的影響関係を指摘したりするのではなく、いわば源平盛衰記を動態として、もしくは文化の多面体ととらえ、それを拠点として、室町文芸及び文化の生成と変容を、他のジャンルや時代にも及んで究明しようと志したからである。『平家物語』本文流動の様相や、その中での源平盛衰記の位置づけは、結果として明らかになってくると考えた。
4年間の活動を通じて、特に記憶に残ったのは、@長門切の位置づけ、A源平盛衰記の伝本(整版本)の問題、B絵画資料との関係、C芸能との相互関係、D周辺作品の裾野の広がり等であり、平家物語の近世における流布・享受・影響・変容を新たな角度から見直す結果になった。近世以降近代に至るまでの日本人の心性をはぐくんだものを知らされた思いもある。@については國學院雑誌11月号掲載の拙稿にも書いたが、平家物語の成立論を根底から考え直してみるよい契機だといえる。Aは未着手の問題が山積している状態であるが、近世における源平盛衰記の流布の広さは、必ずしも知識欲や文学愛好の結果とは限らないのではないかと思うほどである。Cでは、軍記物語と芸能は相互に交流を繰り返しており、その両方をひっくるめて「源平の物語」と認識されてきたのだということが分かった。Bの絵画資料と国文学の関係(国文学にとって絵画資料から何が分かるのか)については未だ確信がもてないが、以下のようなことは言えよう―絵画資料の形態別(表現媒体や目的の相違)によって分けて考える必要があること、絵師の創意工夫をどう発見し評価するかが問題であること、軍記物語絵だけ見ていても駄目で、絵師や工房は王朝物語絵にもその他の工芸にも関わっていたであろうこと、国文学側から絵画資料に接する方法論は模索するしかないが、本文との関係は「不即不離」として見るべきこと。本文との一致に注目するのみでなく、また絵画から本文の解釈を拘束するのでもなく、それぞれの表現を尊重して、さしあたって作品別、形態別、年代別に作品を調査し考察していくべきであろう。
無刊記整版『源平盛衰記』に関する調査報告
―寛政八年版から明治版へ― 岩城賢太郎
無刊記整版本に関する平成二十四年二月の報告に続き、無刊記整版本の後刷と見られる寛政八年茨城多左衛門方正版以降の諸版について、諸機関に蔵される本やマイクロフィルム・電子情報等の調査結果から報告した。
寛政八年版の後刷等の諸版には、巻第四十八冊の後表紙見返に、書肆の連名や版行時に関する情報が付されていることが多いが、国立公文書館内閣文庫蔵内務省旧蔵本(請求記号167-45)は、「文栄堂蔵版/阪府書林/東区南久宝寺丁四丁目八番地/前川善兵衛」とあり、明治期の版行である。発表時には報告を漏らしたが、明治十六年六月版『絵本石山軍記』第二編巻之十(早稲田大学図書館蔵)巻末に載る大阪伊丹屋(前川)善兵衛の「軍書小説類蔵板目録」冒頭に「源平盛衰記 片仮名 廿五冊」とあることから、内務省旧蔵本のごとき前川文栄堂版は、明治十六年頃までは版を重ねていたと見られる。この内務省旧蔵本は、各冊題簽に「補刻」と刷られており、寛政八年版を含むいわゆる無刊記整版本の題簽とは字体も異なるが、東京大学駒場図書館一高文庫蔵本(請求記号 三-い-95)も、同様の題簽を備えている。但し一高文庫蔵本は、三都の書肆による版行であり大阪の書肆は「河内屋茂兵衛」である。また内務省旧蔵本は、巻第十三の版面数丁に板木の割れが確認できるが、一高文庫蔵本には確認できない。この他にも、寛政八年版以降と見られる諸版には、表紙の色や空押紋等、形態的特徴を異にする例も多く、寛政八年版以降の整版本版行の展開を追究することは容易でなく、あるいは、板株や類版の問題にまで検討を要する点があるのかも知れない。
なお東京では、明治十六年九月から十八年一月にかけ、渡邊(文京)義方が序文に無刊記整版本の貴重なることを説く『重訂 源平盛衰記』八冊が報告社から刊行されている。無刊記整版の本文にかなり忠実な近代活字版であり、第一冊には総目録も載せているものの、内閣文庫と国会図書館の同本はいずれも巻第二十四までを収めた第八冊目までであり、巻第二十五以降を収める予定であった第九冊以降は刊行されなかった可能性もあろう。明治後半期には、無刊記整版の本文に対する検討や研究が進められ、慶長古活字版等の本文が刊行されるのであり、無刊記整版本の展開は、『重訂 源平盛衰記』の刊行をもって終焉を迎えたと見て良いのではなかろうか。
当日の報告では無刊記整版本が元和寛永古活字版の影響下に成立し、乱版は無刊記整版よりも後の成立であろうこと等にも言及したが、引き続き調査・検討を進め、併せて近世期に夥しい版を重ね流布した意味や背景等の考察を進め、改めて無刊記整版本の調査研究として原稿化したいと考えている。
『源平盛衰記』の日付から見える編集意識について
―殿下事会・鹿谷酒宴を中心に― 小助川元太
夙に松尾葦江氏が指摘されたように、『源平盛衰記』の顕著な特徴としては、多様な情報を集大成しようとする「百科全書」的な志向や、先行資料を参照しつつも、ときおり創造を織り交ぜながら、まことしやかな事実を語ろうとする「偽装された記録性」が挙げられる。それらは、従来指摘されてきたように、『源平盛衰記』が、源平の内乱期の記憶がほとんど残っていない時代に作られた作品であることを示すと同時に、歴史的事件を評論的な立場から語るという知的営みによって生まれた作品であることを意味する。本発表では、いわゆる殿下乗合事件、後徳大寺実定の厳島詣で、鹿谷の謀議の三つの場面における『源平盛衰記』独自の日付の設定に注目することによって、そこにどのような編者の意図や意識があったのかを考察した。
まず『源平盛衰記』巻三〈殿下事会〉では、事件の起こりである資盛凌辱事件を史実に従って書き改める一方で、清盛による報復事件(基房襲撃事件)の日付を曖昧にするという処置がなされていた。また、同じ巻三の妙音院師長の左大将辞任に伴う後任人事で、左右の大将に重盛と宗盛が除せられたことによる波紋を描いた場面では、新大納言成親による平家打倒の企てが、実定の厳島詣でをきっかけに起こったものであるという設定のもとに、日付を所々不明瞭な形で記すという処置が行われていた。しかも、他本とは異なり、成親による鹿谷の謀議は二度に分けて描かれていた。これについては、『源平盛衰記』が徳子入内の流れの中で、重盛・宗盛左右大将昇任から実定の任左大将、それをきっかけとした成親の謀議といった流れを重視しつつ、史実としての陰謀発覚とのつじつまを合わせた可能性がある。以上のように、『源平盛衰記』の日付からは、事件をいかにも史実であるかのように描きつつ、物語の流れを分断しないようにするといった編集意識が垣間見られることを指摘した。
奈良絵本・絵巻における軍記物語 石川透
奈良絵本・絵巻とは、江戸時代前期を中心に制作された手彩色・直筆の絵本や絵巻のことである。これまでは、奈良絵本・絵巻といえば、御伽草子や平安物語等の作品が連想されたが、実際には、軍記物語もよく題材となっている。おそらくは、奈良絵本・絵巻を注文・所有したのが大名家が中心であったことによるのであろう。武家が所有するものとして、家の先祖が登場する絵本や絵巻は、ぜひ所蔵したかったものと思われる。近年出現した『源平盛衰記絵巻』は、たいへん豪華な絵巻物の大作である。これを所蔵していたのは水戸徳川家であり、制作時代の推測から、注文主は水戸光圀である可能性もある。また、この絵巻と近似する、各地に伝存する『太平記絵巻』も、同時に注文・制作されたものであろう。この豪華絵巻が作られた時代は、浅井了意が『源平盛衰記』と『太平記』の豪華写本を制作した時代でもあり、版本としての軍記物語の流行に合わせて、豪華本としての写本が制作されていたことがわかる。現在最もよく知られている林原美術館の『平家物語絵巻』も、越前松平家が所有していたことが判明しているので、江戸時代前期は、徳川家・松平家を中心とする軍記物語の豪華絵巻制作の時代であったと考えられるのである。これまでは、その制作者については、ほとんど明らかではなかったが、前記浅井了意のような、おそらくは京都の草紙屋に雇われていた人物によって制作されていたことも分かるようになった。それらの作品と類似している、『平家物語』や『源平盛衰記』、『保元・平治物語』の奈良絵本・絵巻、さらには、それらを題材とした小扇面画は、一七世紀後半のほぼ同時代に京都で制作されたろうことも想像がつく。そして、それらは一八世紀にはほぼ作られなくなったと考えられるのだが、その理由は、注文主の大名家の経済的な落ち込みによるのであろう。軍記物語の奈良絵本・絵巻の存在は、江戸時代前期の大名家の浮沈と直結したと考えられるのである。
『平家物語』の登場人物と「平家納経」
―東西文化交流の視点から― 相田愛子
厳島神社所蔵の「平家納経」は、『法華経』を主とした大乗経典32巻と平清盛自筆「願文」1巻の全33巻で構成された一品経で、経箱も附属する。この経巻類33巻という巻数は、観世音菩薩の三十三応身にちなむもので、「願文」には伊都伎嶋社の本地仏が観世音菩薩であることが記される。またこの「願文」や7巻分の奥書署名には、これら一品経のが清盛や近親の平氏男性によって結縁され、長寛2年(1164)に「宝殿(※本殿の美称)」に安置されたことが記される。彼らの生涯や人生の一幕は、『平家物語』諸本やその他の文学資料に記されるところだが、実在した彼らのどのような文化的特質が「平家納経」の絵画からは読みとれるのだろうか?
興味深いのは、これまでに書風や料紙装飾、絵画様式などから工房や作者の分類が重ねて試みられてきたように、「平家納経」の経巻類33巻には表現主題の重複・類似する巻があり、一品経とは言いながらもある程度統一された企画構成が示されることにある。
たとえば蓮池を描くグループや、装飾を箔散らしと染めのみとするグループがあるほか、図像に「宋風」受容を示すとされるグループと、「女絵」のような物語絵風のグループの双方が存在しており、対極をみせている。この「宋風」の経意絵になるグループの背景には、南宋との日宋貿易による文化交流が想定されてきたのだが、同グループのうちの普門品表紙絵・見返絵には、観音諸難救済にひきよせて釈迦の本生譚が表現されており、実際には北宋ないしは契丹(遼)に導入されていた新しい大乗仏教や密教が、反映されていたことを指摘できる。
その一方で物語絵風のグループは、従来では当世風俗の十二単をまとう貴族女性を描くことから、王朝文化の極みとして位置づけられてきた。しかしながら発表者はむしろ、葦手(※隠し文字)は訓伽陀を記したものであるとの説に注目する(関口静雄「厳島信仰と文芸」『国文学 解釈と鑑賞』第58巻3号、1993年3月)。この新説はこれまでの今様とその社会的文脈による解釈に再考をうながすからであり、より仏教儀礼に親しい環境が「平家納経」結縁者たちに想定されるからである。
くわえて、銀地に十二単をまとう貴族女性を描く2巻(涌出品、観普賢経)は、裳唐衣をつけた正装の婦人像であり、本来は陀羅尼品の錯簡であるとの説が定説となっている。なぜならこの婦人像は十羅刹女のうち黒歯を表したものとみなされているからである。この説を否定する訳ではないが、観世音菩薩は三十三応身により後宮女性に身を変じる普門品の経説を念頭に置けば、剣を持つことをのぞき、「願文」に表明される伊都伎嶋社の本地仏そのものとみなすことも可能ではなかろうか。しかも『平家物語』巻第三「大塔建立」には、厳島に参詣した清盛が夢中にて大明神より「銀のひるまきしたる小長刀」を賜ったことが記され、後日談ではかなり人口に膾炙した話であると推察されることから、もともと厳島の神が「銀のひるまきしたる小長刀」を持つ姿としてイメージされたことがうかがわれる。
これらは、「平家納経」が前世代から継承された仏教文化を基盤に、より遊びや世俗の要素を抑制し、より『法華経』にもとづく厳島に対する信仰心を実直に表明したという特徴をよく示しており、こうした古神宝を奉納する結縁者たちの文化的背景が示唆されるようである。ただし論証にはまだ不十分な点もあり、いわゆる「葦手」のさらなる分析や、『源平盛衰記』を含めた『平家物語』諸本のテクスト比較が、仮説の裏付けのためには必要なことから、直近の課題としたい。
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| 二月十三日 〜十四日 | 文献調査(三重県・斎宮歴史博物館、西尾市・岩瀬文庫) 松尾・伊藤慎吾・平藤・山本 |
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2月13日(木) 東京発8:13のぞみ315号で伊藤慎吾・山本・松尾(新横浜から平藤)は名古屋へ向けて出発した。今回は斎宮歴史博物館所蔵の「源平合戦図絵巻」3軸の熟覧・調査が目的で、すでに許可は出ている。なお松尾は大学の個人研究費による参加である。名古屋―津―斎宮とJR・近鉄を乗り継ぎ、正午頃到着した。斎宮遺跡群のある広大な原と畑を横切って館に到着、資料を出して頂いた。館が1991年に古書肆から購入した3軸の絵巻である。色使いなども近世初期のものとは異なり、幕末から明治の制作かと推定される。平家物語や源平盛衰記、幸若、義経記などの名場面を選びつつも従来の絵巻・絵本、挿絵とは異なる描き方をしようとしたと思われる。源平盛衰記のみに拠ったものではないので、資料名はやはり「源平合戦図絵巻」としておくのが妥当であろう。
学芸普及課長のご厚意により松阪の銘菓店柳屋奉善が所蔵される「源平盛衰記絵巻」4軸を見せて頂けることになった。急遽松阪で下車、柳屋奉善を訪ね、4軸の絵巻を拝見した。宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦など義経の活躍する名場面を抽出して描いたものか。あるいは流布本で言えば巻九、十一、十二の残欠本が修補の際に錯簡を起こしたまま保存されてきたものか。空間をたっぷりと採った構図の絵巻である。汽車の時間が迫っているので後ろ髪を引かれつつ、辞去した。再調査の機会のあることを祈りたい。
伊藤以下3名は松阪発17:24の快速みえに乗り、名古屋からのぞみ44号18:53発で帰京した。但し平藤は岩P文庫蔵の長門切を調査するため、名古屋で1泊した(調査報告は別項)。
2月14日(金) 岩瀬文庫調査 平藤幸
14日の名古屋は未明から雪が降り始め、積雪のため早朝から交通機関のダイヤが乱れていた。9時には名鉄名古屋駅を出たが、西尾市岩瀬文庫に到着したのは11時であった。
今回は、長門切の模写と思しき断簡が貼付されている、岩瀬文庫所蔵『芳翰模彙』(144・97)の熟覧・調査が目的である。同書の書写者は不明だが、長門切の模写断簡は「行俊」の項目に分類されているので(全10冊の第7冊)、少なくとも書写者あるいは編者は行俊の筆と認識していたと考えてよい。林原美術館蔵池田光政筆「古筆臨模聚成」第二巻所収の模写断簡や、國學院大學図書館所蔵の模写断簡の存在と併せ、他にも複数模写が存在する可能性があることを窺わせる資料の一つである。本文の末尾は「矢種尽」なので、田中登氏蔵断簡「けれは弓を打棄て長刀茎短に取直し(以下略)」(田中登氏蔵断簡〈『平成新修古筆資料集 第1集』思文閣出版 2000年〉に掲載)に前接する可能性が高く、長門切の模写と見てよいであろう。盛衰記に近いが、独自本文と言える。特徴的な箇所は、明俊(覚一本は「明秀」)が矢を箙に「二」残したとする点である。他本は「一」(四部本は本数に触れず)で、矢を一本残したとすることの意味は従来様々に論じられてきたが、このたび二本残したとする本文の存在が明らかになったことで、かつて松尾葦江が那須与一登場場面の諸本の異同の大きさについて「諸本が趣向を凝らし表現を洗練しようとした痕跡が窺える」と指摘した(『軍記物語論究』若草書房 1996年)とおり、有名な場面は特に、各々独自の表現を試みた可能性があったことがわかる。なお、本断簡の詳細については、本年3月刊行予定の鶴見大学文学部50周年記念論集掲載の拙稿「新出『平家物語』長門切―紹介と考察」にて報告予定である。今回の調査にあたって種々便宜を図って下さった西尾市岩瀬文庫の方々に感謝申し上げる。
予定していた用務は終わり、大雪のため帰路の交通網も乱れていたため、13時過ぎに退館した。西尾駅を13時半頃に出、名鉄線を乗り継ぎ名古屋へ向かい、新幹線の乗車予定を変更し、通常名古屋14:23発だが雪のため15分程度遅れていたひかり522号で帰京した。
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