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平成二十二年 | 基盤研究(B) | |
〜二十五年度 | 研究課題:「文化現象としての源平盛衰記」研究 −文芸・絵画・言語・歴史を総合して− |
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研究代表者 | 松尾葦江 | 國學院大学文学部教授 |
連携研究者 | 小林健二 | 国文学研究資料館教授 |
| 石川 透 | 慶應義塾大学文学部教授 |
| 伊海孝充 | 法政大学文学部准教授 |
| 小助川元太 | 愛媛大学教育学部准教授 |
| 岩城賢太郎 | 武蔵野大学文学部准教授 |
| 坂井孝一 | 創価大学文学部教授 |
| 高橋典幸 | 東京大学大学院人文社会系研究科准教授 |
| 吉田永弘 | 國學院大学文学部准教授 |
| 原田敦史 | 岐阜大学教育学部准教授 |
研究協力者 | 辻本恭子 | 兵庫大学非常勤講師 |
| 平藤幸 | 鶴見大学非常勤講師 |
| 伊藤慎吾 | 國學院大學非常勤講師 |
| 山本岳史 | 國學院大學研究開発推進機構PD研究員 |
| ワイジャンティー ・セリンジャー | ボウドイン大学准教授 |
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課題番号 | 22320051 | |
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<研究の目的と実施方法> ----------------------------------------------------------
源平盛衰記は、『平家物語』諸本の中でも最も記事の分量が多く、しかも後世に与えた影響の大きい諸本である。源平盛衰記には、中世から近世にかけてのさまざまな文化の生成、変容、継承などの諸問題を解明する手がかりが大量に含まれている。
本研究は、従来の『平家物語』研究が繰り返してきたような諸本の先後関係の決定や、『平家物語』から他の文芸への影響関係を指摘するために源平盛衰記を取り上げるのではない。むしろ、源平盛衰記をひとつの「文化現象」としてとらえ、これを拠点として、室町文芸及び文化の生成と変容を、他のジャンルや時代にも及んで究明しようとするものである。その結果、『平家物語』本文の流動の様相や、その中での源平盛衰記の位置づけも明らかになると考える。
上記の目的を達成するために、以下のグループを設け、連携研究者はそれぞれ2つ以上のグループに所属し、各自の問題意識に従って調査・研究を実施していく。各グループを( )内の研究者がまとめ、年2回程度の全体会議を開き、相互の交流をはかった上で、研究代表者の松尾が総括する。
T 『平家物語』諸本の一つとしての源平盛衰記の研究及び記事年表作成(統括者:松尾葦江)
U 室町文芸と『平家物語』諸本との交流の研究(統括者:小林健二)
V 源平盛衰記や『平家物語』を題材にした奈良絵本や絵巻などの調査研究(統括者:石川透)
W 歴史的な環境と文芸との関係についての研究(統括者:坂井孝一)
X 中世語彙の出典としての源平盛衰記の研究(索引作成の試行。統括者:吉田永弘)
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平成二十四年 四月二十八日 | 第15回記事年表作成部会・第1回打合せ会・公開講演会・資料展示
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4月28日(土)
10:00から國學院大學渋谷校舎若木タワー5階の502教室で、年表部会が開かれた。発表者は伊藤慎吾(巻22)、山本(巻23)、原田(巻24)、辻本(巻25)、助言者として高橋、ほかに平藤・松尾が出席、司会は小助川が務めた。昨年凡例を作ったので、コード処理や記事の取捨選択はかなりスムーズに行くようになった。記事の分割(立項)のしかたや記事と史料の日付が異なる場合の扱い方、「○○以前」の場合のコード処理などについて討議した。平将門記事や壬申の乱などのように何度も登場する記事については、最終的に一本化する際に手作業で点検する必要があろう。
12:40から國學院大學図書館との共催による資料展示「國學院大學所蔵奈良絵本平家物語」を見学した。
13:10から今年度初の打合せ会を502教室で行った。出席者は上記の8名のほかに伊海・石川・小林・坂井・吉田の計13名である。松尾から平成23年度会計報告、今年度の交付申請について、旅行手続きの変更について、研究組織の一部変更について、今年度の事業計画についてなどの報告と議案が出され、おおむね了承され、また事業計画の日程を決定した。
14:00に会場を2102教室に移し、機器の試運転をした後、14:30から「平家物語と屏風絵」と題する公開講演会を開催した。司会は石川透、講師と演題は、立教新座中学校・高等学校教諭出口久徳氏「源平合戦図屏風の世界」、国文学研究資料館教授小林健二氏「屏風絵を読む―香川県立ミュージアム蔵「源平合戦図屏風」をめぐって―」である。講演後それぞれ質疑応答が行われたが、絵画資料研究・能楽研究の専門家や、新潟、神戸、倉敷など遠方からの参加者もあり、活発な議論が交わされた。最後に松尾から今後の予定が告げられ、17:30に解散した。
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源平合戦図屏風の世界
立教新座中学校・高等学校 出口久徳
『平家物語』や『源平盛衰記』に関連した屏風絵について、研究の現在を示した上で、今後の見通しについての私見を述べた。
屏風絵作品は、以下の四種類に分類できる。@屏風に一つの場面をクローズアップして描くもの(埼玉県歴史と民族の博物館蔵『一の谷合戦図屏風』(敦盛最期)など)。A屏風に物語のさまざまな場面を描くもの(大倉集古館蔵『平家物語図扇面散らし図屏風』、神奈川県立歴史博物館蔵『平家物語図屏風』など)、B合戦など一連の出来事の全体像を俯瞰的に描くもの(智積院蔵『一の谷合戦図屏風』、大英博物館蔵『一の谷・屋島合戦図屏風』など)、C屏風絵の一双で一続きの《物語》を描くもの(千葉市立美術館蔵『義仲合戦図屏風』(国立歴史民族博物館にも)など)。@〜Cの代表的な作品を紹介し、屏風絵の世界を概観した上で、今回はBの作品(中でも一の谷・屋島合戦図屏風)にしぼり、屏風絵における物語表現の方法について述べた。例えば、一の谷合戦図屏風では、個々のエピソードの配置に注意して平家敗北が象徴的に読み取れる構造であることを示した。
さらに、舞台となった〈場〉の表現を論じた。具体的には、屋島合戦図屏風諸本の各所に描かれるお堂について、海辺にあるのは「洲崎の堂」(舞の本『八島』、近世期には源平合戦の旧跡)、山上にあるのは「屋島寺」(屋島寺と源平合戦の旧跡との結びつき、屋島寺の勧進活動など)かと考えた。また、屋島寺蔵『屋島合戦図』やケルン東洋美術館蔵『屋島合戦図屏風』とその他の『屋島合戦図屏風』を比較し、近世当時の土地の理解に基づく屏風(屋島寺蔵本など)と、平家物語等を媒介にイメージされた合戦図屏風の差異を指摘した。名所図会的な表現を見せる熊本大学北岡文庫蔵『平家物語』(絵入り写本)の例も取り上げ、〈場〉をめぐる表現が今後の問題になるとの見通しを述べた。
屏風絵を読む―香川県立ミュージアム蔵「源平合戦図屏風」をめぐって
国文学研究資料館教授 小林健二
屏風絵の世界では、十六世紀の後半から十七世紀の前半にわたって『平家物語』を題材とした屏風が見られるようになるが、一の谷合戦と屋島合戦を画題とした六曲一双の構成のものが多い。ところが、香川県立ミュージアムに所蔵される「源平合戦図屏風」は二曲一双で、一の谷合戦と藤戸合戦を一対とした特殊な構成を持つ。金銀の切箔や砂子・野毛をふんだんに用いた豪華な作風で、慶長から元和にかけて長谷川派の絵師によって描かれたと推定される屏風である。
右屏風の藤戸合戦を描いた左隻が、『平家物語』によるのではなく能《藤戸》をもとに描かれていることは既に指摘されているが、本報告では、室町末期から江戸初期にかけて活躍した金春流の素人役者である下間少進の型付『童舞抄』や、やはり室町末から江戸初期にかけて書写・出版された下掛リの謡本である車屋本に照らして、盛綱を訴訟する母親(シテ)の他に、古くは登場していたであろう殺された男の妻子(ツレ・子方)が描かれていることを指摘し、さらに、盛綱の従僕らしい人物(間狂言)が描かれていることから、演じられた能の舞台を知っている画家によって描かれた可能性についても言及した。
また、両隻に四つ目結の紋が見られることから、佐々木家と関係があることは指摘されていたが、左隻の能《藤戸》の内容が佐々木家の武功譚として相応しい画題であることを確認し、右隻の一の谷合戦にも、佐々木家の嫡流ではないが、佐々木神社神主家の成綱(俊綱)が平通盛を討ち取る場面があると読み解き、両隻に佐々木の家紋とともに佐々木家先祖の武功を顕彰する内容が描かれていることを考察した。
さらに、描かれた紋が佐々木嫡流の「隅立四つ目結紋」ではなく、庶流の用いた「平四つ目結紋」であることから、この屏風が京極氏の依頼により制作されたことが考えられる。その時代の京極家は、長男の高次が初代の若狭小浜藩主となり、次男の高知が初代丹後宮津藩主である。幕藩体制が確立していくなかで、京極氏が家名をあげるために先祖の名誉を顕彰する目的で本屏風を制作した動機についても見解を示した。
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六月二日 | 第16回記事年表作成部会・第2回打合せ会・公開研究発表会
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6月2日(土)10:00から國學院大学503教室で年表作成部会を開いた。平藤幸が巻26の年表原稿を配布、年次コードの付け方や年代推定の方法について検討した。出席は平藤のほか原田、山本、松尾、司会は辻本恭子である。11:00から一旦休憩、本学の伝統文化リサーチ資料センターで開催中の資料展示「古典籍でたどる日本文学史」を見学し、早めに昼食をとった。伊藤慎吾が遅れて出席、12:00から今後の計画について簡単に打ち合わせを行った。この間作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山の3名は記録、会場設営、レジュメの複写と配布などを行った。
13:00から会場を2102教室へ移し、公開研究発表会を開催した。年表部会のメンバー以外に岩城、伊海、吉田が出席した。絵画資料調査報告として@山本岳史「本学所蔵奈良絵本平家物語について」、A伊藤悦子「兵庫県立歴史博物館所蔵石橋合戦屏風について」、B伊藤慎吾「国会図書館所蔵平家物語絵巻について」の発表に対し、徳田和夫氏らフロアとの間で質疑応答が行われた。16:00からはゲスト講師である関西学院大学教授北村昌幸氏の研究発表「京童部の笑い―源平盛衰記と太平記―」が行われた。司会は原田敦史が務めた。会場からも活発な意見や質問が出て、有意義な議論となった。
17:30に終了、松尾から今後の公開の催しについてアナウンスがあり、閉会した。
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國學院大學図書館所蔵奈良絵本『平家物語』について
國學院大學研究開発推進機構PD研究員 山本岳史
國學院大學図書館蔵奈良絵本『平家物語』(以下、國學院本と略称)について現在までの調査結果は次の通りである。
國學院本は十二巻十二帖で、縦二三・四糎×横一七・三糎、牡丹唐草文様の裂表紙を用いて列帖装に仕立てた豪華本(斐紙に銀泥で草花の下絵を描く。見返しは金地。)である。各冊目録丁に「津軽蔵書」の印記があり、弘前藩津軽家の旧蔵本であったことがわかる。挿絵は全部で四十九図、すべて半葉で見開きの絵はない。挿絵のある丁の半葉はすべて空白、その他にも空白箇所が複数ある。
國學院本の特徴として、以下の五点を指摘した。
@本文、挿絵ともに『平家物語』の絵入り版本、寛文十二年版・天和二年版系統を底本としている。
A挿絵は、全体の構図、人物の配置、画面の向きなど、寛文版(天和版)とほとんど一致する。國學院本と寛文版(天和板)を比較すると、國學院本の方が簡略な箇所が多い。
B版本では大童姿であった平家の公達に烏帽子をかぶせている点や、巻十二「紺掻の沙汰の事」で義朝の髑髏を描かない点など、享受者への配慮が見られる。
C挿絵の数に注目すると、空白箇所に挿絵があったとすると寛文版、最初から現存する挿絵だけであったとすると天和版に近い。現在のところ寛文版と天和板のどちらが直接の典拠となっているかは特定できない。空白箇所の意味を考えるとともに、改めて國學院本、寛文版、天和版の三種で、異文の有無や字母の違いなど、細かく比較していく必要がある。なお版本は各本ごとに挿絵の数や位置が異なっているので、底本としての判定には注意が必要である。
D寛文版(天和板)の章段の立て方や本文の字母と共通する例が多い。版本の漢字表記を國學院本が平仮名に改めている箇所も多数確認できる。
『平家物語』の奈良絵本は、今のところ十点の現存が知られているが、その多くは最初に刊行された絵入り版本である明暦二年版と近い関係にあることが指摘されている。その中で、寛文十二年版・天和二年版系統を直接の典拠として制作された例はなく、奈良絵本の制作事情や制作過程を知る上で、貴重な伝本である。
兵庫歴史博物館蔵石橋合戦図屏風について
國學院大學大学院後期課程 伊藤悦子
兵庫県立歴史博物館蔵の「源平合戦図屏風(三浦・畠山合戦図)」および名古屋・個人蔵の「源平合戦図屏風」についての調査報告は以下の通りである。
兵庫歴博の屏風が『源平盛衰記』をもとに描かれていることはすでに指摘されているが、屏風の各場面と『源平盛衰記』の本文とを対比させ、共通点や相違点をあげた。両者は細かい描写については多少の相違はあるが、概ね一致しており、『源平盛衰記』を典拠としていることはほぼ間違いない。屏風は六曲一隻で、小坪合戦と衣笠合戦が中心に描かれており、その周囲には石橋山合戦に敗れた頼朝主従の移動の様子が描かれている。もしもう一隻があったら、山木合戦と石橋山合戦が中心に描かれていた可能性がある。石橋山合戦を描いた屏風はあまり見かけないが、生田神社蔵「源平合戦図屏風」には、伏木に隠れる頼朝主従の姿が描かれており、対の一隻にはこのような場面も描かれていたかもしれない。
個人蔵(名古屋)の「源平合戦図屏風」は、調査前には『源平盛衰記』をもとにした石橋山合戦図屏風と聞いていたが、調査の結果、屏風に記されている人名表記や絵の配列から、八坂系一類本である中院本によって、一の谷合戦の公達の活躍を中心に描いた屏風であることが判明した。人名表記が無い場合でも、絵の配列は、城方本など八坂系二類本の一部の諸本としか一致が見られず、この屏風が八坂系諸本を典拠としていることは、ほぼ間違いないと考えられる。
国立国会図書館所蔵『平家物語絵巻』について
國學院大學非常勤講師 伊藤慎吾
本発表では国立国会図書館に所蔵される『平家物語絵巻』の書誌及び本文の性格について報告した。
全3巻で、第1巻「老馬の事」「一二のかけの事」、第2巻「二度のかけの事」「坂をとしの事」、第3巻「盛としさいこの事」「忠度のさいこの事」とそれぞれ2つの章段から構成されている。改装されたものゆえ、製作当初の姿をとどめているかどうかは判然としない。本来はもっと分量があった可能性も残るものである。
書写奥書に、「源宣慶」(第一巻)と「藤原業長」(第三巻)とがある。これは葛岡宣慶と堤業長とのことかと思われる。まず宣慶(1629‐1717)については早稲田大学図書館所蔵『古今和歌集』や東京成徳学園十条台キャンパス図書館所蔵『三十六人歌合』を見る限りでは同筆と判断される。早稲田本『古今集』書写奥書に、
右一冊者或人之
依懇望書写候畢
十二月日 源宣慶
とあるように、同文を同書式で記しているところからもそれは察せられる。しかしもう1つの業長の奥書は、宣慶の奥書と同文、同書式であること、さらに生没年が宣慶に合わないことから、甚だ疑わしいものである。どういう理由からか、宣慶が子どもの頃に亡くなった堤業長の名を宣慶が用いたように思われるが、今後、検討を要する。
物語本文は語り本系諸本の中でも近世期の版本や奈良絵本の本文に近似するものである。その中でも「老馬の事」を取り上げて検証したところ、寛永三年刊平仮名整版本に酷似することが明らかとなった。今後、他の章段においても同様の検証をすることで、親本を明らかにしていくことができると思われる。
なお、そのほか、近世期の平家物語絵巻粉本断簡である「文覚院参図」(個人蔵)を紹介した。これは「狩野洞雲筆」とされるものである。狩野派の平家物語絵巻は現存しないため、これを手掛かりに今後の発掘が俟たれることを述べた。
京童部の笑い―『源平盛衰記』と『太平記』―
関西学院大学教授 北村昌幸
太平記作者は作中において、しばしば平家物語の逸話を話題にしたり、模倣して記事を構成したりしている。平家物語諸本のうち『源平盛衰記』のみに見られる独自の説(空海筆の額字火極殿、赤山明神の夢想、扇的の日月図への畏怖、梶原の花箙、平維盛生存説、源頼政と菖蒲前)も、『太平記』には盛り込まれている。しかし、同文関係は認めがたく、細部の記述内容には相違点も多い。このように直接の依拠関係が疑わしいという事実は、両作品が踵を接するようにして成立した可能性を示唆するものである。
右の検証結果を踏まえ、『源平盛衰記』と『太平記』の両方を育んだ南北朝時代の京都文化圏のありようを考えたとき、例えば、二条河原落書に象徴される「京童ノ口ズサミ」が想起されてくる。そこで、当時注目を集めていた京童部を、両作品がそれぞれどのように描いているのかを確認した。浮かび上がってきたのは、『太平記』の京童部による揶揄が道義的見地からの欲心熾盛批判であるのに対し、『源平盛衰記』の京童部による揶揄の方は、道義とは無縁の悪ふざけに近いということである。しかも、『源平盛衰記』は明らかに他の読み本系諸本よりも事例を増やし、この傾向を強めていることが知られる。
よって、笑いの問題をさらに掘り下げるために、『源平盛衰記』の語り手自身がいかなる物事を笑い、「ヲカシ」というコメントを寄せているのかについても俎上にのせた。すると、殿上闇討の折に動けなくなった中宮亮秀成や、憤死して怨霊となった頼豪ほか、「ヲカシ」の標的となっている人々が、いずれも人間性の負の部分(臆病、執着、見栄、依存心など)を露呈していることが確認できた。評語「ヲカシ」をあまり用いない太平記作者とは異なり、盛衰記編者は自らの描く京童部と同調するかのようにして、自由気ままに人間の営みを笑うという、作品の性格の一端を作り上げているのではないかと考えられる。
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六月四〜六日 | 調査旅行(熊本)
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6月4日羽田20:00発ANA273便で、松尾・岩城・山本の3名が福岡空港へ向けて出発した。永青文庫が熊本大学図書館に寄託している奈良絵本平家物語36冊の調査が目的である。同図書館が耐震工事のため7月14日から当分の間(来年度も)貴重書閲覧を停止するとのことで、急遽永青文庫に申請して調査を許可された。22:00過ぎに博多駅筑紫口前のホテルサンルート博多に投宿、松山発20:00JAC3600便で来た小助川と合流した。
6月5日(火)7:36博多駅発つばめ331号で熊本へ行き、9:00に熊本大学図書館へ到着、貴重書閲覧室で奈良絵本平家物語巻1から巻6まで18冊を熟覧、書誌調査、及び挿絵部分の撮影を行った。永青文庫の規定では閲覧は1日に20冊以内となっているので、この日は各巻3冊に仕立てられている12巻の前半部分を調査した。やや大型の本で、料紙や表紙・題簽はいわゆる豪華本(表紙は藍色地に金泥で草花・風景を描く。見返しは金紙、料紙には金泥で草花などの下絵があり、朱題簽)なのだが、袋綴であることが意外である。絵の数が多く、1冊に15面前後ある(片面、見開き両様あり)こともあり、絵は貼り付けではなく、片面の場合は本文を書写した料紙に糊で継いでいる。集団や群衆など大人数の人物を描くこと、それらの顔に個性があること、添景の植物や調度品を詳細に描くこと、すやり霞には切箔を用いていること、場面の選び方が独自であること、やや俯瞰的な構図が多いことなどが、特徴的である。
本文は葉子十行本らしいが仮名書きが多くなっている。16:30までで予定した書誌調査と撮影を終えることができた。市内の熊本ホテルキャッスルに投宿。
6月6日(水)9:00から巻7以降18冊の調査と撮影を開始した。奈良絵本の中には残虐な場面や血・死体・斬り首などをあえて描かない物も多いが、本資料は流血場面を描くことにためらいがなく、豪快な戦闘場面が繰り広げられている。炎の描写も印象的である。PCに保存して持参した他の絵画資料や平家物語の画像とも比較することができ、今後の研究の見通しを話し合ったが、詳細は、今回撮影した画像を分析した結果によることになる。15:30頃必要な作業がほぼ終わり、小助川は17:03発さくら564号で博多経由、福岡空港18:45発JAC3601便で松山へと帰途に着いた。16:20頃松尾・岩城・山本も熊本図書館を辞去した。熊本大学図書館ではゆったりした閲覧室を用意して頂いたので、作業がはかどり、当面の研究に必要な情報を収集することができたことを感謝したい。20:40熊本安蘇空港発ANA650便で帰京した。なお研究協力者の山本は自宅が宇都宮なので本日中の帰宅は困難なため、東急ステイ渋谷新南口に一泊した。
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七月二十一日 | 第17回記事年表作成部会・第3回打合せ会・公開シンポジウム
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7月21日(土)9:30から國學院大学渋谷校舎502教室で、年表作成部会が開かれた。発表者は伊藤慎吾(巻28)、山本(巻29)、原田(巻30)、辻本(巻31)の4名で、司会は小助川が、記録は作業従事者の伊藤悦子が務めた。ほかに平藤・松尾も出席、年次コードの付け方や記事の取捨選択など疑問点を一つずつ討議しながら進めた。最後に今後の予定と担当巻を確認して、12:00に終了した。
12:00からは午後の公開シンポジウムの講師3名と司会者岩城の打ち合わせ、及び事務の諸手続きが同室で行われ、12:45から石川・吉田・小林も参加して今年度の今後の予定を確認した。10月、11月、来2月と公開研究発表や講演会を行い、9月、10月、12月には絵画資料の調査を企画している。そのほか、単独の調査旅行も計画が進められており、年度末には年次報告書第3号を出す予定である。
13:30から2202教室で、公開シンポジウム「芸能・絵画と軍記物語―中世から近世へ―」が開催された。内容は以下の通りである。
武蔵野大学講師岩城賢太郎「源平盛衰記の世界を考える」
立教大学兼任講師宮腰直人
「敦盛・直実譚と語り物文芸の絵画化―幸若舞・古浄瑠璃・説経をめぐって―」
学術振興会特別研究員RPD田草川みずき
「浄瑠璃作品における<平家>考―文字譜<平家>の摂取と変遷をめぐって―」
帝塚山学院大学准教授鈴木博子「古浄瑠璃における軍記物語の利用方法」
会場には近世芸能が専門の武井協三氏や能狂言が専門の岩崎雅彦氏なども見えて、活発な質疑応答が行われた。シンポジウムは17:50に終了、研究代表者の松尾が謝辞を述べ今後の予定を説明して、18:00に閉会した。
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趣旨説明にかえて:「源平盛衰記の世界」を考える─壇ノ浦以降の知盛を例に
武蔵野大学文学講師 岩城賢太郎
例えば、延享四年(1747)初演の並木宗輔らによる浄瑠璃『義経千本桜』をはじめ、「碇知盛」として著名な平知盛は、『源平盛衰記』には、「中納言サル謀リ賢コキ人ニテ…哀レ此ノ人ニ世ヲ譲リタラバ。タトヒ運ノ極メ成リトモ。都ニテ如何ニモ成リ給ヒナマシト。惜シマヌ者ハナカリケリ」(無刊記整版本巻第43、慶長古活字本等では一字下本文)等とあり、流布本『平家物語』本文に比して詳細な描写はあるが、その最期は周知の通り、如白本以外の『平家物語』は、碇を背負って入水したとはしない。17世紀の絵画資料を見ても、例えば、東京国立博物館蔵『源平合戦図屏風』(左隻5・6扇)や林原美術館蔵『平家物語絵巻』(巻第11中第3図)に、碇を背負った平氏の武者が見えるが、これらは流布本本文に従った教盛兄弟や資盛らと考えられ、碇を背負った知盛は見えない。一方芸能を見てみれば既に、永正7年(1510)奥付の金春禅鳳自筆本転写の謡本「碇潜」(法政大学能楽研究所般若窟文庫蔵)に舞台に碇を出したことや、綱貫を履く知盛が見え、周知の通り、浄瑠璃の知盛は能「碇潜」の影響下に成立している。そして浄瑠璃・歌舞伎を通して近世人に浸透した知盛像は、19世紀の歌川国芳や芳艶・芳虎ら門下による浮世絵の素材として取られ、大碇を携えて海底で安徳天皇以下平氏一門を護持する知盛や、怨霊化して海上に長刀を携えて現れる図等が盛んに描かれている。これらの浮世絵の構図には、例えば『源平盛衰記』巻第44や巻第48等の本文に見える壇ノ浦合戦以降に関する本文が併せて参照されていると思しき例もある。また、芸能が形象した知盛像への注目から、昨今は、能楽研究や軍記研究の側からも、『平家物語』と芸能との関係等についても様々な見解が提出されるに至っている。
浄瑠璃や歌舞伎等の近世演劇においては、その作品の成立は「世界」という概念に依るところが大きいことは知られているが、例えば歌舞伎狂言の作者らが参照した『世界綱目』等に掲げられる源平合戦に係わる「世界」の項目の内容や、そこに「引書」と掲げられる『源平盛衰記』や『平家物語』との関わりはいかなるものであったのだろうか。上記の知盛の例を見ても、近世演劇における「世界」の内実を探ること、或いは絵画資料等を博捜することは、近世人が共有していた軍記物語に関する認識・知識、引いて言えば歴史観にまで迫る可能性をも秘めていると言えよう。
本シンポジウムは、軍記や芸能といったジャンル、または中世や近世といった時代等の区分にとらわれず、関係する領域をひろく捉え、横断し、越えて行く研究を進めたいとの立場から企画されたものであり、こうした趣旨に応じて下さった以下のパネラーをお招きして行われた。
敦盛・直実譚と語り物文芸の絵画化―幸若舞・古浄瑠璃・説経をめぐって
立教大学兼任講師 宮腰直人
本報告では、舞の本『敦盛』の寛永版と明暦版、本問屋版の比較を手がかりに、それぞれの伝本の特徴を述べ、『敦盛』の挿絵の読解から敦盛・直実譚の物語の展開と変容の一端を論じた。
まず、寛永版から明暦版への展開では、明暦版の見開きの場面が寛永版の二図の活用から成っていることを指摘した。これはすでに指摘があるように、古活字版から寛永版の挿絵にも見られ、舞の本の挿絵形成の基本的な手法であることを確認した。次に明暦版とほぼ挿絵の構成を同じくする本問屋版では、人物や出来事が整理され、よりわかりやすい画面になっていることを明暦版との比較から明らかにした。その上で、明暦版の挿絵で敦盛の首をとる直実の姿が菱川師宣の武者絵本『古今武士道絵づくし』に描かれる敦盛・直実譚に類似している点、絵本の頭書の本文も舞の本に拠る可能性が高いことを検証した。
ついで、直実が扇で敦盛を招く場面の図像を、明暦版と本問屋版、双方の相違に注目しつつ読解を試みた。舞曲『敦盛』の本文を忠実に絵画化している明暦版に対して、本問屋版では、屏風や扇面、絵馬などで流布していた平家物語絵の定型表現が反映している可能性を示した。最後に、明暦版と本問屋版の挿絵、両者に描かれる脇役・近江源氏の「めかだ」「まぶち」に着目し、この二人が挿絵に描かれた点に注意を喚起した。加えて、『醒睡笑』巻七の記事にふれ、たしかに舞曲『敦盛』の享受のなかで「めかだ」が注目される存在であったことを再確認した。結論として、舞の本の挿絵に描かれた「めかだ」「まぶち」への人びとの注視が、後に古浄瑠璃や金平浄瑠璃の世界で新たに再生を遂げる動向に繋がったのではないかとの見通しを述べた。
発表後の質疑では、舞の本や古浄瑠璃正本が音曲の書としての性格をもつのかどうかが話題になった。即座に解答が得られる問題ではないものの、「正本」とは何かを考える上で、興味深い意見交換がなされた。発表者もこの問題に関しては、引き続き考えてゆく所存であることを付言させていただく。
浄瑠璃作品における〈平家〉考 ―文字譜〈平家〉の摂取と変遷をめぐって
日本学術振興会特別研究員RPD 田草川みずき
義太夫節成立前後の人形浄瑠璃は、独自の節廻しを確立すると同時に、先行芸能や他流派の浄瑠璃から、〈ウタイ〉〈舞〉〈文弥〉等、多くの旋律を自流へと摂り入れてきた。そのひとつに、平曲(平家)から摂取した、〈平家〉という節譜がある。本発表では、浄瑠璃正本に記された文字譜〈平家〉が、いつ発生し、作品の中でどのように用いられてきたのかを、古浄瑠璃から近松時代を対象に考察した。
調査の結果、対象となった六一〇作品のうち、〈平家〉関係文字譜が記譜された作品は二三作品であり、その初出は、謡曲に深く傾倒し、浄瑠璃の品位向上を目指した古浄瑠璃太夫・宇治加賀掾の正本「為義産宮詣」(延宝三年十月宇治座)であることが確認された。
これは、同じく先行芸能である謡曲由来の〈ウタイ〉と比して、ごく僅かな摂取数であり、発生時期も遅い。そこで、この二三作品の、〈平家〉関係文字譜の記譜箇所の詞章を抜粋し、各種の本文索引を用いてその摂取元を調査してみると、文字譜〈平家〉摂取における、浄瑠璃側の柔軟な姿勢が明らかになってきた。
文字譜〈平家〉は、必ずしも『平家物語』からの引用本文に記譜されてはおらず、楽器としての琵琶が登場する箇所、および謡曲からの引用詞章と組み合わされている例が多い。特に『平家物語』を本説とする謡曲、「敦盛」「清経」「盛久」等から引用された詞章に文字譜〈平家〉が付される傾向が顕著であり、謡曲を通しての『平家物語』受容の様相が浮き彫りとなった。
また、加賀掾正本「江州石山寺源氏供養」(延宝四年五月宇治座)中の、謡曲「雲林院」「盛久」等に由来する特定の詞章と文字譜〈平家〉の結びつきが、その後の近松作品「松風村雨束帯鑑」「国性爺合戦」の二作にも継承されていたことから、今回の調査が、近松存疑作問題に寄与する可能性についても指摘した。
古浄瑠璃における軍記の利用方法
帝塚山大学人文学部准教授 鈴木博子
古浄瑠璃は軍記や舞曲を基盤にして成り立っている。金平浄瑠璃の作者岡清兵衛に関する『古郷帰の江戸咄』の記述によると、「太平記、盛衰記、東鑑などを空に覚え」ていたとされ、自在に「故事来歴」を引いている点を高く評価されていた。
江戸古浄瑠璃界を代表する太夫である土佐少掾の演目にも、様々な形で軍記の利用が見られる。本報告では、軍記の利用方法の一つとして、故事を使っている例に注目した。
土佐座の人気演目であった「大職冠二代玉取」は「大職冠」の後日談のような設定で、房前を主人公としている。房前は優美な貴公子として造型され、『平家物語』や『源平盛衰記』で知られる高倉天皇の事蹟が、房前に置き換えて使われている。詞章も『平家物語』の本文と大きく重なる。さらに、土佐少掾「土佐日記」にも同様の利用方法が認められる。「土佐日記」は加賀掾「伊勢物語」の改作であるが、三段目の合戦場面は独自に創出されている。ここで使われているのが、『曾我物語』巻第一「杵臼・程嬰が事」である。人物を清秀・浜荻夫婦に置き換えて、本文も多くをそのままに用いている。
これらは、軍記の故事を原拠とし、パロディのようなおもしろさを意図したものと推測される。ただし、「大職冠二代玉取」の後期の本文では、『平家物語』の引用箇所が、原拠を離れて改変される傾向も指摘される。原拠への意識が薄れていたとも考えられる。
また、土佐少掾「源氏花鳥大全」の合戦場面では、『前太平記』巻十六「満仲京都宿所強盗事」の本文が、満仲を保昌に置き換えて、ほぼそのまま使われている。
土佐少掾における軍記の具体的な利用例を見ていくと、軍記がいかに種本たりえていたかが知られる。それぞれの利用において、観客側が原拠を認識することを意図されていたかどうかという点が、今後の課題となると考える。
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八月十〜十二日 | 調査旅行(耶馬溪文庫)
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10日(金) 松尾葦江及び伊藤慎吾に、作業従事者の伊藤悦子、大谷貞徳、大山峻也の3名が同行して、大分県中津市の耶馬溪文庫(耶馬溪風物館内)で、『平家物語』と小野桜山収集資料の調査を行った。
羽田空港8:05発のANA191便で大分空港に到着、バスでJR中津駅に向かい、駅前からさらにバスに乗って中島下車、耶馬溪風物館(中津市本耶馬渓曽木)に13:00過ぎに到着した。館では当文庫の所蔵品や事業について説明を受け、あらかじめ申請しておいた資料について閲覧、書誌調査を行った。調査した『平家物語』は、当館の目録による整理番号で記すと「平家物語(1)〜(6)」(2-17-1-10-1〜6)、「平家物語」(2-17-1-11)である。(1)〜(6)の装丁は統一されているが、長門本(全16冊。巻1〜3及び巻5欠。複数人による寄合書き)、流布本系写本(現存巻2,3,5の3冊)が混在し、(2-17-1-11)は絵入り平仮名十五行整版本(巻10のみ1冊)であることが判明した。長門本は源平盛衰記とも関連が深く、近世の知識人にはひろく注目されていた本文であるので、これを中心に調査することにした。閉館直前に退出して、中島から中津駅前に戻り、ホテルルートイン中津駅前に宿泊。
11日(土) 開館と同時に耶馬溪文庫に入館。昨日に続いて『平家物語』の書誌調査及び本文照合、さらに撮影を行う。所蔵される『平家物語』の収集経緯の把握に役立てるため、それ以外の古典籍についても閲覧・撮影させていただいた。これら諸書の調査から、小野桜山の収集した典籍には、山口県周辺から出たものが多くあることが分かった。この収集の状況は、当館所蔵の長門本平家物語の伝来解明にとって示唆的である。また「柴田蔵書之印」の蔵書印があることは、今後、伝来経路の手がかりになるかもしれない。調査終了後、ホテルルートイン中津駅前に宿泊。
12日(日) 昨日と同様、開館と同時に入館して、本文照合と撮影を行った。今回の調査で注目されることは、当館の長門本平家物語が初期の書写の面影をよく残していることである(帰京後確認したところ、旧国宝本の系統で、長府藩が書写に関わったと思われる伝本の本文に近く、1面8行であるところから、山口文書館本や伊藤家本、また山口大学本や宮内庁書陵部大型本などに関連がありそうなことが分かった)。端本ではあるが今後の調査研究によっては、長門本研究の上で懸案となっている初期伝本の書写・流布について新たな手がかりとなるものかもしれない。
帰路はJR中津駅から17:32のソニック48号で博多に出て、福岡空港から19:45発のANA270便で羽田着、解散した。
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八月二十三 〜二十四日 | 調査旅行(奈良博物館) 橋本貴朗・平藤 幸
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8月23日(木)
平藤は小倉駅から15:47発のぞみ44号に乗車し、京都駅で近鉄特急に乗り換え、19:06近鉄奈良駅着。橋本は品川駅から17:07発のぞみ243号に乗車し、京都駅で近鉄特急に乗り換え、20:05近鉄奈良駅着。両人ともホテルサンルート奈良に投宿。
8月24日(木)
約束時間の13:30に奈良国立博物館へ行き、学芸部企画室長の野尻忠氏に詳細にご説明いただきながら、館蔵手鑑に押された長門切2葉を熟覧。「て引すへたり」で始まる『源平盛衰記』巻41「梶原逆櫓」相当部分の1葉と、「に馳集る此」で始まる『源平盛衰記』巻42「屋嶋合戦」相当部分の1葉で、いずれも未紹介断簡である。前者は源平盛衰記・延慶本が有する場面、後者は源平盛衰記・延慶本・長門本が有する場面だが、本断簡独自の詞章も見られる。松雲本巻11と長門切との比較を行っている原田による検討が俟たれる。前者は極札に「尭孝門弟周興」とあり、既出の長門切の極札は伝称筆者を「世尊寺行俊」とするものばかりなので、大変貴重である。この点については、8月31日の本科研公開シンポジウム「1300年代の平家物語―長門切をめぐって―」(於國學院大學)において、平藤と橋本がそれぞれ考察を加えたので、その発表要旨を参照されたい。保存状態も非常に良く、料紙や墨色もよく確認でき、有意義であった。手鑑全体を熟覧させていただき、特別展「頼朝と重源」を拝観し、16:30過ぎに館を出、平藤、橋本ともに近鉄奈良駅17:17発の近鉄急行に乗車し、18:16発京都駅発ののぞみ44号に乗車、平藤は20:14に新横浜駅着。橋本は20:33に東京駅着。
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八月三十一日 | 第18回記事年表作成部会・第4回打合せ会・公開シンポジウム
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8月31日(金)
10:10から國學院大学渋谷校舎502教室で年表部会が行われた。発表者は小助川(巻27)、山本(巻37)、辻本(巻39)である。参加者はほかに松尾・伊藤慎吾・原田・平藤及び伊藤悦子・大谷・大山の合計10名。作成上の原則が次第に固まってきたので、その記事を立項するか否か、日付の曖昧な事項をどこに置くか(年次コードの付け方)、盛衰記が事実とは異なる、もしくは自らの記事と矛盾する日付を付けている場合はどう処理するのかなど議論が絞られるようになった。今年度中に全巻の草稿ができる見込みなので、年次報告書にはどのような形で載せるか、年末までに検討することとした。作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山3名は、11:50から午後のシンポジウム会場設営を行った。
12:30から同教室で、さらに小林・石川・岩城・吉田の4名が参加して打ち合わせ会が開かれ、松尾から@今年度下半期の事業計画 A共同研究終了後の成果発表方法 B来年度の方針が提案された。Aについては、共同研究のメンバー+作業従事者+招聘したゲスト研究者約40名の論文集刊行を出版社と交渉していくことが了承された。
13:00から常磐松ホールで公開シンポジウム「1300年代の平家物語―長門切をめぐって―」が開催された。基調講演として、中央大学教授池田和臣氏「長門切の加速器分析法による14C年代測定」が14:20まで行われ、14:30から16:20まで、研究協力者平藤幸が「新出長門切数葉の紹介」、國學院大学助教橋本貴朗氏が「「長門切」に見る世尊寺家の書法」、連携研究者原田敦史が「長門切の本文―屋島合戦譚を中心に―」をそれぞれ発表した。司会は研究代表者松尾が務め、この間会場では、國學院大学所蔵の模写長門切、古筆学大成所収の長門切写真や松雲本平家物語の紙焼写真、池田和臣氏所蔵の長門切及び伝貞敦親王筆平家切などが展示された。坂井は校務のため遅れて出席した。16:30から質疑応答に入ったが、この日は古筆研究者が多数参加しており、17:30まで活発に議論が行われた。古筆切の極札にはしばしば裏書きとして重要な情報があること、加速器分析法による14C年代測定の精度についての疑問、長門切の料紙はすべて同じなのか、なぜ世尊寺家の中でも行俊筆とされるのか、奥州後三年記絵詞等との関係、源平盛衰記の諸伝本との関係、頼政記や松雲本の評価について等々、問題は多岐にわたった。司会から、1270〜1380という炭素判定の年代と平家物語成立時期の関係、及び初期の平家物語本文が現存諸本中では源平盛衰記に近いとすれば平家物語の諸本論ではどう受け止められるのか、また平仮名交じり大型巻子本(全巻あったなら膨大な量)という書物のありようなど、軍記物語研究においては黙過できない問題があることが確認されて、17:30に閉会した。その後も参加者の間では、鎌倉末期の文化的雰囲気との一致など有益な感想が交わされ、今後、さらなる研究の必要を確認しながら解散した。なおこの間作業従事者3名は、受付・資料配付・記録・マイク管理・会場撤収などを行った。
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長門切の加速器分析法による14C年代測定
中央大学教授 池田和臣
放射性炭素14年代測定法は、国際学会により厳密に確立されてきた信頼される科学技術である。最新の加速器を用い、試料の厳密な科学処理を行い、高度な数学的解析によって導かれる、国際的に認知された方法である。10年以上にわたる名古屋大学との共同研究により、古筆切・古写経・古文書などの試料85点の測定を行い、その精度・正確度に信頼のおけることを証明してきた。ここでは、長門切の年代測定の結果を報告する。なお、時間の関係でシンポジウムにおいて詳述できなかったことを、ここに補足しつつまとめておく。
測定した長門切は、縦三〇・五センチ、横四・五センチ、二行の断簡。極札は失われているが、裏書きに達者な筆跡で「住吉社家 津守国冬」とある。ほぼ世尊寺行俊を伝承筆者 とする長門切にあって、注意される。「親王をは二條皇太后宮とそ申ける鳥羽/院は康和五年正月十六日御誕生同八月十七日」とある。『慶長古活字版源平盛衰記』巻十六「仁ェ流罪事」と比べると、『盛衰記』が「正月十六日ニ御誕生」と「ニ」が入っているだけで、ほぼ同文。延慶本は「(白河院ノ御子ノ全子ノ内)親王ヲバ、二条ノ大宮トゾ申ケル。鳥羽院ノ位ニ即セ給ケルニ……」で異同が大きい。
測定の結果は、炭素14年代が694[BP]で、1σの誤差範囲694±21[BP]を暦年代に較正した値が1279(1284)1291[calAD]。2σの誤差範囲694±42[BP]を暦年代に較正した値が1273(1284)1299、1370( )1380[calAD]。炭素14年代694[BP]を暦年代に較正した値が1284年であるから、この年代周辺、すなわち1279年から1291年の範囲に実年代がある確率が最も高い。ちなみに、書写年代が明らかなもので、時代の近い三つの資料がある。ひとつは文永末年(1275)頃の書写とされている奈良懐紙、これは1276(1287)1303、1366( )1383という結果である。ふたつめは正応3年(1290)頃御の書写とされている西園寺実兼自筆詠草切、これは1279(1291)1309、1361( )1386という結果。三つめは延慶2年(1309)12月19日の日付の清原俊宣申文案、これは1285(1300)1323、1346(1368、1381)1393という結果。いずれも、年代の早い方の誤差範囲に実年代が含まれている。これがこの時代の傾向である。つまり、長門切はやはり1279年から1291年の範囲に実年代のある可能性が高いのである。
小松茂美『古筆学大成』の、世尊寺定成の生存期である13世紀末から14世紀初頭という推定に、奇しくも合致する結果である。この数字を軽々に扱うことはできないであろう。
シンポジウムのはじめに 松尾葦江 (司会)
氷河が音を立てて動き始めるように、 長門切の研究が動き出している、と言っていいだろうか。このうごきは平家物語の成立論を変えるかもしれないし、(私たちが鈍感で憶病だったら)変わらないかもしれない。
基調講演では、炭素14年代判定の原理と可能性と限界が述べられ、さらにその測定によれば、池田氏所蔵の長門切一葉は一二七三〜一三八〇年の間(確率上はその前半期間が有力)の料紙を使用しているという。
長門切は当日新紹介のものも含めて六十六葉以上が知られ、その大半は現存諸本中では源平盛衰記の本文にかなり近く、しかし未だ流動期にあったことを思わせる本文である。大型巻子本でしかも平仮名書き、上下に界が引かれている。江戸初期から古筆鑑賞の分野で珍重され、世尊寺行俊筆との極書が付されている場合が多い。これらを整合させて、初期の平家物語を思い描くと、どうなるのか。
詳細はそれぞれの要旨を参照して頂くとして、司会者は@長門切が模写されていたことを考えると、現存の切すべてが同じ料紙の同時代書写なのかどうかを調査する必要があるか A書物としての形態や世尊寺家筆者の格からいうと、「記」として制作された可能性がつよい。それは原平家物語そのものに及ぶのか、一諸本の性格と見るべきか B一二七九〜九一年といえば八帖本平家が編纂途中だった一二五九年からは三〇年ほど後である。現存延慶本は十五世紀に、また現存盛衰記は何度も、特に十六世紀の増補改訂を経てきているらしいので、初期の読み本系本文をかなり大胆に、自由に思い描くことが要求されよう C流動期の本文を、すでに固定した時期の本文と対照して前後関係を立証する方法は極めてあやうい。流動期の本文をとらえる方法を、研究者が共有する必要がある、等々を考えさせられた。これを機に闊達な議論がわき起こることを期待してやまない。
新出長門切数葉の紹介
鶴見大学非常勤講師 平藤幸
新出長門切、@「掌ニにぎり」(8行。盛衰記巻26「忠盛帰人」「天智懐妊女賜大織冠」相当部分)、A「輔にはあは」(3行。盛衰記巻27「信乃横田原軍」相当部分)、B「義成多々良」(6行。盛衰記巻41「同人(義経)西国発向」相当部分)、C「て引すへた」(3行。盛衰記巻41「梶原逆櫓」相当部分)、D「に馳集此」(8行。盛衰記巻42「屋嶋合戦」相当部分)、E「からをあら」(3行。盛衰記巻42「玉虫立扇」相当部分)、F「鞍置て請し」(8行。盛衰記巻42「継信教養」相当部分)の紹介。長門切の伝称筆者は「世尊寺行俊」だが、Cの二代古筆了栄と思しい極札には「尭孝門弟周興」とあり、その不審は措いて、長門切には了栄と同時代の古筆別家了任の極札も存するので、初代了佐の極札の未確認の現状では、了栄・了任頃の切断とも考え得る。なお、大方の便宜に供するべく、既紹介の長門切、G「取ニせん事」(5行。盛衰記巻26「祇園女御」相当部分)、H「見参ニ可奉」(6行。盛衰記巻27「信乃横田原軍」相当部分)、I「りけれとも」(4行。盛衰記巻37「重衡卿生虜」相当部分)の本文印影を掲示した。次いで、長門切の類似断簡及び長門切的本文の断簡を紹介。九代古筆了意が行俊と極めたJ「将只可被仰」(6行)は、有界で書風も長門切に似るが、本文は『平家物語』ではなく、古記録切か。長門切筆者解明の手がかりとして、追究の要がある。K「丹波少将成」(18行。盛衰記巻7の「俊寛成経移鬼海嶋」相当部分)は、池田光政による行俊筆本の臨模。本場面は盛衰記・延慶本・長門本のみが有するが、本文の細部はいずれとも異なり、長門切的本文と言える。字詰(長門切約18字、本断簡約15字)や紙高(長門切より5糎程度低い)に差異があり、原断簡の忠実な臨模かは不審も、欄上に「行俊 行忠庶子」とあり、光政は行俊筆と認識していたらしい。仮に長門切の臨模とすれば、一桁巻次本文の初出現であり、長門切原本は巻一から存し、その切断は全巻に及んだ可能性を窺わせる。また、光政(1609〜1682)の時代に既に臨模に値していたことになり、古筆了栄・了任の極札と矛盾しない。右新出7葉の本文は、概ね盛衰記に最も近似し、次いで延慶本に近く、長門本とはやや遠く、まま独自の詞章や配列を有する。松尾葦江氏『軍記物語論究』が、1996年当時確認の40葉により示した見解に齟齬せず、夙に藤井隆氏「平家物語異本「平家切」管見」が、1986年当時確認の15葉により、「(長門切本文は)独自の立場を主張する一系統本であって、延慶本、長門本より先行する」とした見通しはなお有効である。本シンポジウムで池田和臣氏と橋本貴朗氏により紹介された新出2葉を加え、現在66葉を確認し得たことになる。今後は、異伝の極札、長門切的外形の切、転写資料をも博捜すべきであろう。
「長門切」に見る世尊寺家の書法
國學院大學助教 橋本貴朗
従来「長門切」は、古筆鑑定家により筆者を、能書の家・世尊寺家の十四代、世尊寺行俊と鑑定されてきた。こうした近世の古筆鑑定は再評価されつつあり、実際の筆者と異なる場合、すなわち伝称筆者であっても、格付け、時代の指標、様式の指標としての意義が指摘されている。「長門切」における伝称筆者・世尊寺行俊の性格が様式の指標であるとすれば、「長門切」にはその書法が看取され得ることになろう。先行研究においても、多く「世尊寺流」「世尊寺風」と認識される。
如上を踏まえ、本報告では世尊寺家の書法とは具体的にどのようなものか、その一端を明らかにし、「長門切」においては如何かを考察した。小林強・高城弘一『古筆切研究』1集(思文閣出版、2000年)において、小林氏より、世尊寺家十二代・行尹の仮名の書をめぐって新たな見解が示されている。その方法・成果に学び、行尹筆「七社切」「続古今集巻物切」に加え、世尊寺家十三代・行房筆「後三年合戦絵巻」下巻・詞書をも対照すると、共通する書法的特徴として、太線による仮名の連綿を見て取ることができる。『入木抄』『尺素往来』等の記述からも、世尊寺家には遵守された家の書法があったことが窺われ、以上をあわせて、太線による連綿を中世世尊寺家の書法の一つとして指摘するものである。歌人を伝称筆者とする古筆切に比して、当該期の同家を伝称筆者とするものの多くにこの特徴が見られることを確認し、本見解の有効性を検証した。
「長門切」においても、上述の太線による連綿が看取される。世尊寺家書法の一端を認めるものであり、伝称筆者・世尊寺行俊には様式の指標として一定の妥当性が首肯される。ただし今般、新たに行俊以外とする鑑定の事例が紹介され、「長門切」の伝称筆者については、複数いると考えられる実際の筆者、切断開始の下限等とも関わっていっそうの精査を要する。
なお、本文未集成の大阪かな研究会『かな研究』37号(1969年)所載の断簡影印(1葉。『源平盛衰記』巻42相当)についても、あわせて紹介を行った。
【附記】本報告は、鹿島美術財団の「美術に関する調査研究助成」による研究成果の一部を含むものである。
長門切の本文―屋島合戦譚を中心に―
岐阜大学准教授 原田敦史
『源平盛衰記』に近似した本文を多く有しつつ部分的には延慶本に近い箇所もある長門切の本文は、盛衰記に先立つ段階にあると位置づけられてきた。よく似た評価をされてきたものの一つに『頼政記』があり、いま一つに松雲本『平家物語』がある。後者は、弓削繁氏によって、巻十一の前半が盛衰記に先立つ読み本系の本文であるとされているものであり、該当する屋島合戦譚は、長門切が多く残されている部分でもある。従来、長門切を扱う際に言及されてこなかったこの松雲本を比較対象に加えることで、読み本系諸本の複雑な流動の一端が、よりはっきりと見えてくるはずである。
本発表では、上記のような問題意識から、諸本の本文を対照させるかたちで考察を行い、結果として、長門切・盛衰記・松雲本の間には、現存本を遡ったところに共通の段階があったのではないかと思わせる用例や、長門切と松雲本の間でのみ共通する記述があることなどを指摘した。長門切の本文が『平家物語』諸本の中でどのような位置にあるのかは、これらのことを念頭に置いた上で考察されなければならない問題であろう。そのような視点で屋島合戦譚以外の部分にも目を向けると、必ずしも長門切が盛衰記に先立つとばかりは言い切れないと思われる用例も散見することに気づく。延慶本のようなかたちが本来で、盛衰記・長門切の順で崩れてゆくと見られる例や、盛衰記と長門切が同箇所で別々の問題を生じさせている例など、現存の本文に即する限り、長門切の本文から盛衰記が作られたとは考えにくいと思わせる箇所を、少数ながら見出すことができた。そのような現象を踏まえた上で盛衰記を基準として長門切の位置を見定めようとするならば、本文の検討だけでなく一つの文学として、盛衰記の評価を明らかにすることが必要なのではないかと思われる。
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九月二十二 〜二十三日 | 調査旅行(長野県立歴史館)
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9月22日(土)
東京駅8:16発長野新幹線で松尾・小林・岩城・伊藤悦子・石川の5名が出発、大宮から伊藤慎吾・山本の2名が加わり、現地で辻本が合流、また小助川は、費用はこの科研費からの支出ではないが調査に同行した。長野駅からJR・しなの鉄道に乗り換え、屋代駅に10:23に到着、ここからは公共の乗り物がないためタクシーで調査先の長野県立歴史館に向かった。館では総合情報課が丁寧に対応して下さり、あらかじめ申請してあった平家物語・源平盛衰記を(固着のため閲覧不能の1点を除き)閲覧・調査することができた。依田家文書の中の整版本平家物語の端本1点と土屋家文書中の平家物語の抜き書き4点及び同源平盛衰記の抜き書き8点を調査した。土屋家文書の合計12点はいずれも土屋直右衛門(1802~1890)が安政6年から明治18年にかけて抜き書きしたものである。信濃年表・信濃雑誌・信濃雑記・正臣反故袋などの書名のもとに細かな文字でびっしりと和歌や文書や義仲関係記事や、その他関心のある記事を書き抜いている。土屋直右衛門は佐久に生まれ、和漢の書に通じ、明治初期に村誌編集を手がけた人物で、何かしら興味と必要があって書き抜いたと思われるが、目的や意図、使用した底本などについて述べるところはない。
午後からは「木曾義仲合戦図屏風」を熟覧、撮影させて頂いた。近世初期、4曲1双の紙本金地着色の屏風である。館の紀要11号所収解説によれば、もとは画帖だったものを貼り付け屏風に仕立てたものという。絵は12枚あり、「嗄声」から「木曾山門牒状」まで、つまり義仲が平家にとって脅威となる時期から、都入り直前までを描いていることになる。典拠は流布本平家物語と思われる。もとの画帖に何枚の絵があったかは不明である。各場面に松の木がくっきりと描かれているのが印象に残る。熊本藩家老松井家旧蔵、同家のお抱え絵師矢野派のものという。作業後、各人の疑問点や印象を述べ合い、意見交換を行った。16:40に館を出て、タクシーで屋代駅前のホテルルートインコート千曲更埴へ行き、投宿。
9月23日(日)
一行9名は8:50に館に到着、「平家物語屏風」「源平合戦図屏風」の2種を熟覧、撮影させて頂いた。両方とも近世中期(の初期)の作か。総合情報課長のご説明によれば両方とも購入品なので伝来は不明とのことであった。「源平合戦図屏風」(6曲1双)の方は宮次男氏と井原今朝男氏とによる鑑定メモが残されているが、どうやら頼朝の旗揚げから始めて、義仲入洛、一ノ谷合戦、屋島合戦などの名場面を抜き出して並べて描いているらしい。頼朝の旗揚げや義仲義経の対決などは源平盛衰記によらなければ描けない内容なので、平家物語流布本と源平盛衰記との双方をふまえて描いたと思われる。「平家物語屏風」(8曲1双)の方は一ノ谷合戦、屋島合戦、そして先帝入水などの場面を、金箔で広く覆ったすやり霞の合間に描いている。今後、構図や選ばれた場面、人物などを分析していく必要がある。平家物語絵巻所蔵の風聞は誤りであったことが判かり、予定よりも早く調査が終了したので、今回の屏風絵調査について意見交換を行い、今後比較対照すべき資料を確認した。その後も雨脚は激しく、タクシーで屋代駅へ戻り、上田へ出て、長野新幹線でそれぞれ帰宅した。辻本は篠ノ井―名古屋経由で帰宅、また別資金で参加した小助川とは東京駅で別れた。この2日間、作業従事者の伊藤悦子は記録、撮影、スケジュール管理などを行った。
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十月二十日 | 第19回記事年表作成部会・第5回打合せ会・公開研究発表会
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10月20日(土) 10:00から國學院大学渋谷校舎503教室で年表作成部会が行われた。当初出席予定であった高橋典幸は急病のため欠席、出席者は松尾・小助川・辻本・伊藤慎吾・平藤・原田・山本のほか、作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山の計10名である。最初に小助川から前回の議事録の確認があり、次いで松尾から今年度の年次報告書への掲載内容と日程及び共同研究終了に向けての発表方法について提案があった。即ち、今年度は巻21〜48までを一本化した年表を年次報告書に掲載する、原稿締め切りは年内を目標とし、最終的な成果については、全巻を一本化した年表と記事索引を兼ねた各巻年表48巻分とを併せて収録し一冊とする。出来れば来夏原稿締め切りとして、来年度末に公刊したい。各巻年表は制作者名を入れ、巻ごとに多少の不統一はやむを得ないこととする。以上のような提案に対して、現段階では概ね了承された。
続いて巻32(平藤)、巻33(小助川)、巻34(伊藤慎吾)の原稿が示され、各々制作上の問題点が議論された。詳しい議事録は後日、小助川からML配信される予定。また伊藤慎吾から巻34の修訂版がML配信される。次回は巻38,巻40,巻41の原稿を検討する予定だが、それで全48巻の年表原稿が出揃うことになる。その後に一本化作業についての討議を行い、公刊については版元とも相談する。
この間、作業従事者3名は、案内板の設置、会場設営、記録などを行った。12:30から13:30まで、上記のメンバーに吉田、石川、伊海が加わり、今後の研究計画や日程を話し合った。絵画資料の調査では根津美術館、林原美術館、静嘉堂文庫、斎宮歴史博物館などが残っているので、来年度にかけて熟覧・調査を申請する。長門切については寄り合い書の可能性がつよいことから引き続き調査・検討が必要である。来年度は最終年度であるので、研究成果の発表、討議、論文公刊等を念頭に、各自準備することとなった。
休憩を挟んで14:00から1203教室で公開研究発表会を行った。まず本年5月に調査した、熊本大学図書館委託永青文庫蔵奈良絵本平家物語について、山本岳史がパワーポイントと紙資料とを使って報告した。続いて昨年度松尾が調査してきたフランス国立図書館蔵の源平盛衰記画帖について、伊藤悦子・大谷貞コがパワーポイントと紙資料とを使って発表した。版本の挿絵を参照することによってほぼすべての現存場面を同定することができ、おそらく、元来はこのほかに冒頭十数巻と義仲関係記事を含む十数巻分の絵があったものと推定された。さらに海の見える杜美術館蔵奈良絵本源平盛衰記50冊と、親子関係ではないが近しい関係にあることから、三者の関係について、いくつかの興味深い指摘がなされた。10分足らずの休憩の後、伊海孝充氏により、読み本系平家物語や曽我物語の酒宴場面について、芸能の身体性を視野におきながら考察を加えていく研究発表が行われた(それぞれの発表内容は別項参照)。17:30まで質疑応答が行われ、能狂言の岩崎雅彦氏、絵画資料の出口久徳氏を初めメンバー以外の研究者からも有益な提言があった。
この間、作業従事者の大山は受付、会場設営と撤収などを行い、伊藤悦子、大谷は記録や機器の管理を行った。17:40に終了、解散した。
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永青文庫蔵奈良絵本平家物語調査報告
國學院大學研究開発推進機構PD研究員 山本岳史
永青文庫蔵(熊本大学寄託)奈良絵本『平家物語』(以下、永青本と略称)は、十二巻三十六冊(一巻を三冊に分割)で、縦二九・五糎×横二一・〇糎の大ぶりな袋綴装の豪華本(紺地金泥文様の表紙。斐紙に金泥で草花の下絵を描く。見返しは金地。)である。永青本は他の奈良絵本『平家物語』と比べて縦が約五糎大きい。また、袋綴装の奈良絵本『平家物語』は今のところ他に類例がない。
本文は、以下の四点を根拠として、語り本系諸本の一つである、葉子十行本を典拠としていると判断した。
@章段の立て方、章段の表記の仕方が一致する(例:巻三「法皇流付江大夫判官遠成自害行隆卿補本位事」など)。
A巻五「月見」、巻六「小督」を上下に分ける。
B巻六「廻文」に「まわしぶみ」とルビを付す。
C巻十「宗論」の本文を「高野巻」の後ではなく、当該冊の末尾に置く(葉子十行本三種のうち、米沢図書館本を除き、京都府立総合資料館本、駒澤大学図書館蔵沼澤文庫本と一致する)。
挿絵の特徴として、以下の三点を指摘した。
@他の奈良絵本や絵入り版本が場面の中心をクローズアップして描くのに対して、永青本は俯瞰的な構図が多く、一つの場面にたくさんの人物を描く傾向が見られる。
A血や切り首など、残虐な場面を描くことを厭わない。
B巻三「有王」や巻十一「嗣信最後」など、物語の展開を順を追って細かく絵画化する例が見られる。
従来、奈良絵本『平家物語』の挿絵は、最初に刊行された絵入り版本である明暦二年版の挿絵の影響を受けていると指摘されている。しかし、永青本の挿絵の@は、他の奈良絵本とは著しく趣を異にしており、構図や視点だけ見れば、奈良絵本よりも林原美術館蔵『平家物語絵巻』に近い。
会場からは、巻十一「壇ノ浦合戦」の挿絵は全体を俯瞰的に描く屏風絵に近い可能性があること、永青本の挿絵は場面によって画風が異なっていることから、複数の絵師によって制作された可能性があることなどのご指摘があった。
フランス国立図書館蔵源平盛衰記画帖
國學院大學大学院後期課程 伊藤悦子
本発表は、フランス国立図書館所蔵『源平盛衰記画帖』について、一一五図の絵を手がかりに、場面同定および、フランス画帖の本来あった姿がいかなるものかを推定したものである。
一一五枚の絵は、寛文五年・延宝八年版の縦型絵入版本『源平盛衰記』の挿絵の構図とほぼ一致しており、そのほとんどが『源平盛衰記』の巻一二〜二四、巻三七〜四八にあたることが分かった。また、巻三四に該当する絵が混入していることから、他の巻の絵も存在していたと考えられる。画帖に貼られた絵の順序も、概ね内容順に正しく配置されている。巻毎の絵の数は3〜6枚であり、版本の挿絵の増減に比例しているようである(同じく版本と絵の構図に一致が見られる海の見える杜美術館蔵『奈良絵本源平盛衰記』は9枚が目安となっている)。このことから、各巻の絵の数は、始めからこの程度であった可能性が高い。
現存する巻一二〜二四の絵の数と巻三七〜四八の絵の数はほぼ同数であり、それぞれ表面、裏面に貼られた折り本仕立てだったと考えられる。おそらく巻一〜一一と巻二五〜三六が表・裏になっている折り本がもう一帖あり、上下のセットだったのだろう。
構図は概ね版本と一致するものの、細かい点ではフランス画帖特有の個性が見出せる。彩色は海の見える杜本とはかなり異なるため、直接の依拠関係ではなく、版本のようなモノクロの絵が介入していることが想像される。
フランス国立図書館蔵源平盛衰記画帖
國學院大學大学院後期課程 大谷貞コ
本報告では、フランス国立図書館蔵源平盛衰記画帖(以下フランス画帖)の場面特定をし、海の見える杜美術館蔵『源平盛衰記』(以下海の見える杜本)・寛文五年版・延宝八年版の縦型絵入り版本『源平盛衰記』(以下絵入り版本)との関係性を指摘した。
三本がともに有する場面の絵を比較すると、海の見える杜本と絵入り版本とが近似する例、フランス画帖と絵入り版本が近似する例が指摘できたが、海の見える杜本とフランス画帖とのみが近似する例はないことがわかった。
海の見える杜本と絵入り版本とが近似する例として、『源平盛衰記』(以下盛衰記)巻第二十一に相当する伏木の場面を取り上げた。海の見える杜本と絵入り版本では、景時が弓を持っている姿で描かれているが、フランス画帖では弓は描かれていない。フランス画帖の景時の絵は、本来弓を手に持っていたことが想像される。
フランス画帖と絵入り版本とが近似している例として、盛衰記巻第四十三に相当する海豚占いの場面を取り上げた。フランス画帖と絵入り版本では、安倍晴延が占文を開いて占いをしている姿が描かれていたが、海の見える杜本では占文が描かれていない。
また、海の見える杜本とフランス画帖を比較し、一方が有さない絵を絵入り版本では有していることもわかった。例として、頼朝のもとに初めて義経が駆けつけてきた場面を取り上げた。フランス画帖では、頼朝と義経が対面している場面の絵を、海の見える杜本では頼朝と義経が対面をし頼朝が涙を流す場面の絵をそれぞれ有している。この両場面の絵を絵入り版本は有しているのである。これらのことから、絵入り版本を元に海の見える杜本・フランス画帖がそれぞれ制作されたのであろうと指摘した。
フランス画帖の出現により、三本がどのような場面を選択したか、同じ場面を取り上げながらもどのように描いているかなど各本の特徴が浮かび上がってくるようになった。
酒宴を描く−軍記物語の饗宴と芸能の相関性−
法政大学講師 伊海孝充
本発表は、室町時代の文芸に描かれる酒宴を考える前提として、盛衰記が酒宴を《秀句》と《物まね》が現れる芸能の場として描こうとする趣向があったことを、「鳴るは滝の水」の謡・鹿谷酒宴・金仙寺観音講の三点から考察した。
「鳴るは滝の水」の謡は、盛衰記の中には三箇書に見える。巻第二「額打論」、巻二六「御所侍酒盛」は諸本で使われているが、巻第二二「土肥焼亡舞」では盛衰記のみ土肥實平が舞いながらこの謡を謡うことになっている。これらを見渡すと、『平家物語』諸本はこの謡を怪しい事件の予兆のような場面で用いているが、盛衰記のみ室町文芸と同じく予祝の場面で用いていることに注意される。また、いずれの場面も「火」に関係のある場面で、この謡が謡われていることも、今後検討してみる必要がある。
鹿谷酒宴については、盛衰記における酒宴での康頼の芸と、その芸と鬼界島の康頼像との相関性について考察した。康頼の芸について、先行研究では何人によって秀句が発せられるかに注目し、その前後関係を考察したものが多かったが、盛衰記のみが一人で秀句を発したあと首をかける体を演じる物まねが丁寧に描写されている点も見逃せない。諸本と比べると、同じ猿楽芸であるが、描いた芸の質は盛衰記のみ大きく異なるのである。また、盛衰記の酒宴では、物まねの前に「舞」を舞うことになっているが、その姿は鬼界島で熊野詣の物まねという壮大な猿楽を演じ、その中で法楽の代替として「舞」を舞う康頼像と親近性があると想定してみた。
金仙寺観音講は、延慶本・長門本・盛衰記にある場面である。先行研究では義経自身を中心にこの物語と屋島周辺の土地との関係が論じられているが、この場面の中心は明らかに弁慶である。この弁慶像が『平家物語』ではなく、『義経記』・「弁慶物語」、そして能〈安宅〉に描かれている「声技の弁慶」の系譜に通ずることを明らかにし、この酒宴が芸能の場になっていたことを考察した。
いずれも問題点の指摘にとどまった感があるので、個々の場面の再論を試みたい。
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十一月十七日 | 第20回記事年表作成部会・第6回打合せ会・公開講演会
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11月17日(土) 503教室
10:00〜12:30 年表作成部会(出席者:小助川・辻本・原田・平藤・山本・伊藤悦子・大谷・松尾)
発表者は原田・平藤・小助川の3名で、各巻の年表作成に当たっての問題点を議論し、解決方法を決定した。この日の発表を以て源平盛衰記の巻1〜48全巻の年表試作が完了した。松尾からH25年度に三弥井書店から『源平盛衰記年表』を刊行すること、内容は年次別に1本化したものと、各巻記事年表を併載する事が提案された。詳細は松尾が三弥井書店との間で詰めて後日提案するが、各巻記事年表はやや詳しく、年表制作者の名前入りとするので、多少の不統一は構わないこととする。今年度の報告書には、昨年に続き巻21〜48までを年次別に1本化して掲載する。そのためのデータ原稿を12/2までに小助川に送付、12/23の年表部会で問題点を討議した上で1/7に入稿。
12:30〜13:20 打ち合わせ会(石川・吉田・岩城・高橋・坂井が加わる)
松尾から、T今年度の予定 U年次報告書3号について V来年度の予定 W終了論集の企画 の4件が提案され、大略は承認された。休憩時間を利用して、2月に調査予定の扇面絵平家物語の参考資料や、関西の美術館情報が回覧された。
この間、作業従事者の伊藤悦子と大谷は会場設営・記録・資料配付などを行った。
13:30〜18:00 2202教室 公開講演会
川合康大阪大学大学院教授・高橋典幸東京大学大学院准教授・坂井孝一創価大学教授による公開講演会が行われた。詳細はそれぞれ講演要旨を参照。早川厚一名古屋学院大学教授を始め本学史学科の大学院生など多数の参加があり、活発に質疑応答を行った。この間作業従事者の伊藤・大谷は会場設営・撤収・受付・記録などを行った。
解散後も坂井講演の中で問題になった、同時代の説話集と軍記物語の領域の相違など意見を交換しながら帰途についた。
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「源平」の京武者と治承・寿永の内乱
大阪大学大学院教授 川合康
治承・寿永内乱期の戦争には、「源平」武士団に限定されない多様な地方武士や「堪器量輩」が参加したが、近年、そのような事実に反して、同時代の人々がこの戦争を「源平合戦」と認識していたことが注目されている。本報告は、この「源平合戦」観を、院政期の都の武士社会の特質から理解し、内乱の展開について再考しようとするものである。
十一世紀後半以降、南都北嶺による強訴などに際して、院や朝廷は、検非違使とともに、「武士」「源氏平氏」「京武者」などと呼ばれる五位クラスの軍事貴族を動員し、防衛にあたらせた。彼ら京武者は、「源氏平氏」の氏族集団に属することによって、官職とは無関係に軍事活動に従事する国制上の地位を有しており、鳥羽院政期においては、正済流・維盛流・貞季流・正衡流などの伊勢平氏諸流や繁貞流越後平氏、また河内坂戸源氏・摂津多田源氏・仲政流摂津源氏・国房流美濃源氏・重宗流美濃源氏・頼治流大和源氏・義家流河内源氏など、特定の「源氏平氏」に属する軍事貴族たちが京武者として活動した。
そうしたなか、正四位上、刑部卿にまで昇進した正衡流伊勢平氏の平忠盛は、京武者として最有力の地位を築き、その地位は順調に清盛に継承された。これに対し、義家流河内源氏の源為義は従五位下、左衛門尉・検非違使にとどまり、諸国受領を歴任した重宗流美濃源氏の源重時や河内坂戸源氏の源季範、正四位下、出雲守に昇進した国房流美濃源氏の源光保などと比べて地位は低く、五十年近くにわたって政治的に低迷した。京武者による「源平合戦」であった保元の乱において、為義から廃嫡されていた義朝が飛躍的に地位を上昇させるものの、三年後の平治の乱で滅亡し、二十年後の治承・寿永の内乱に参加した武士のなかには、長年にわたる為義の存在形態や、為義と義朝の関係を記憶している者も多かったはずであり、頼朝が権力を確立させるうえで大きな障壁になったものと思われる。
平治の乱後、清盛に対抗しうる京武者は存在しなくなったが、清盛は京武者が並存する伝統的な軍事貴族の在り方を否定しようとはせず、その後も京武者として源頼政や多田行綱、平信兼などが自立的に活動し、平氏権力は彼らとの協調関係によって成り立っていた。治承・寿永内乱期には、これらの「源氏平氏」の京武者が独自の動向を示し、鎌倉軍も平信兼や多田行綱と同盟して京に進攻し、平氏一門との和平も模索したが、生田の森・一の谷合戦後の元暦元年(一一八四)になると、頼朝は京武者をも御家人として一元的に編成する政策を進め、最終的に、京武者の社会は承久の乱において解体されたことを論じた。
鎌倉幕府と朝廷 ―鎌倉幕府の構造
東京大学大学院准教授 高橋典幸
鎌倉幕府の構造を考える場合、アプローチの仕方はいくつかあるだろう。まず考慮すべきは鎌倉幕府の成立過程であろう。近年の鎌倉幕府研究は、鎌倉幕府が治承・寿永内乱という固有の状況の下で成立したことを明らかにしており、成立期の問題が何らかの形で、その後の幕府の構造を特徴づけたことが予想される。もう一つ留意すべきは、朝廷との関係である。もちろん鎌倉幕府の成立や存立を朝廷との関係で理解する考え方は牧健二以来、鎌倉幕府研究の主流であり、むしろ近年は「公権授受論」として批判されることも多い。ただ「公権授受論」の立場を離れるにしても、幕府とともに朝廷が存立していたことは事実であり、そのことが幕府の構造や仕組みに何らかの影響を与えた可能性は高い。
そもそも鎌倉幕府は治承・寿永内乱における反乱軍として成立・成長していった組織体であるが、内乱は必ずしも朝廷対鎌倉幕府という対立構図で戦われたものではなかった。そのため、内乱終結後の幕府や源頼朝にとっては、内乱の中で成長してきた組織体を朝廷との関係でどのように位置づけるか、ということが大きな課題として残ったと考えられる。けっきょく鎌倉幕府は、朝廷ないし朝家を守護する存在としてみずからを位置づけるしかなく、その意味では従来の武家と変わるものではなかったが、新たに御家人という組織を国制上に明確な位置づけを与えた点が注目される。御家人制は内乱の中で組織されていった鎌倉殿の主従組織であり、従来の様々な主従関係の規模をはるかに上回る空前の組織であったが、鎌倉幕府は御家人制を手段として国家的な軍務にあたるとしたのである。そのため、御家人たちが負担する御家人役においては内裏を守護する(その意味で国家的軍務・朝家守護を象徴する)京都大番役がとくに重要な役とされることになった。
また朝廷と幕府との関係を考えるにあたっては、両者をそれぞれ自立した組織として並列的にとらえる見方を相対化する必要も感じられ、その点についての見通しを提示した。
中世文化における軍記物語
創価大学文学部教授 坂井孝一
四つの代表的な軍記物語『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』は、院政期から鎌倉前半期にかけて起こった戦乱を描いた文学作品である。本報告では、軍記物語を中世文化全体の中に位置づける前提として、院政期・鎌倉期における文化、すなわち文学・美術・芸能の特徴を総体的に把握しようと試みた。
そもそも文化は時代の影響を受け、また文化の特徴はその時代を映し出す。院政期という時代の特徴は、王権による過剰なまでの知・財の集中・集積とその消費・濫費であったといえる。それは政治・文化空間としての白河殿・鳥羽殿・法住寺殿の創出、法勝寺をはじめとした六勝寺などのモニュメントの造営に端的に表れている。また、こうした壮大なモニュメントを作り出すような熱狂的なエネルギーは、王朝美の洗練を志向する華麗・繊細な作品だけでなく、武士や庶民へのまなざしを感じさせる素朴な作品まで生み出し、価値の多様化・多極化を進行させた。ただ、贅を尽した文化諸作品を収蔵する勝光明院・蓮華王院のような宝蔵が営まれ、王権による時代の知・財の独占・秘匿という一面もみられた。
一方、鎌倉期という時代の特徴は、いうまでもなく東国に都の朝廷とは別の政治・文化の「核」鎌倉幕府が成立・発展した点である。それは文化の面では、院政期の王権によって集積された知・財の地方への分散・下降と表現できるであろう。中でも重要な画期となったのが承久の乱である。後鳥羽院によるエネルギッシュな政治的・文化的統合から、王権の挫折を経て、王権に対する批判・反省へという転換が認められる。そして、鎌倉期の文化は、乱後の朝廷における後嵯峨院政、幕府における執権政治といった安定の中で独自の成長を遂げたといえる。乱後に原形が成立した軍記物語諸作品も、こうした歴史の流れの中に位置づけられる。また最後に、軍記物語と武士・合戦を主題とした説話との関係という問題についても言及した。
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十二月二十三日 | 第21回記事年表作成部会・第7回打合せ会・公開研究発表会
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12月23日(日)
10:30より國學院大学渋谷校舎AMC棟5階06会議室にて年表部会が開催された。
出席者は小助川・辻本・伊藤慎吾・原田・山本・松尾のほか、作業従事者の伊藤悦子・大谷、及び陪席として年表を刊行する版元となる予定の三弥井書店編集者、計9名である。平藤はこ当日朝高熱を発し欠席した。この日までに小助川の許に送られた巻21〜48までの年表原稿を、小助川がとりあえず年次コード順に配列して一本化し、その際に問題となった点について、一つずつ検討していった。12:30まで討議を重ね、1/7までに今年度の年次報告書用に原稿を作成すること、H25年度末までに三弥井書店から単行本として刊行することを決定した。また後者については総合年表のみにするか各巻年表も付すか、縦組か横組か、作業の分担とおよその日程などを話し合い、4/28午前の年表部会で具体的に決めることになった。この間、作業従事者は案内板の設置、会場設営、記録などを行った。
12:30からは全体の打ち合わせ会として、小林・坂井・高橋・岩城・伊海・石川が参加して、@今年度の年次報告書作成について AH26年度末刊行予定の論集について B来年度事業計画などを審議し、C年表作成状況 D索引用本文の確保などについて報告が行われた。@の原稿締切は1/7であること、Aでは笠間書院との出版条件、B来年度の支給予定額は¥190万であること、各部会の主催する公開講演会などの企画が検討された。この間、作業従事者は記録や会場の案内などを行った。
14:00から同所で公開研究発表会が開催された。伊藤慎吾氏「『源平軍物語』の基礎的考察」、小秋元段氏「読み本系『平家物語』と『太平記』―説話引用のあり方を中心に―」の2本が休憩をはさんで発表され、17:20まで質疑応答が行われた。会場には北海道や大阪、名古屋からも参加者があり、熱い議論が展開された。作業従事者は記録、受付、マイクの管理、会場の撤収などを行い、17:40に解散した。
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『源平軍物語』の基礎的考察
國學院大學非常勤講師 伊藤慎吾
『源平軍物語』は近世前期に刊行された源平合戦の物語である。大正三年(一九一四)に国史叢書に収録されたものの、さしたる評価も得られぬまま、現在に至っている。本発表では、本作の書誌・本文、さらに文学史的意義に関する基礎的な考察を試みたものである。
『源平軍物語』は明暦二年(一六五六)に刊行されたが、書肆は不詳である。元禄九年の『書籍目録大全』に「風月」と見えるから、後に風月庄左衛門が求板したことが分かるが、ただし風月版の存否は確認できていない。構成は全一五巻で、平清盛の栄華から平宗盛父子の関東下向、そして北条時政・土肥実平の上洛に至るまでが通時的に叙述されている。序文に「平家物語にもれたるをひろひ。あるひはのするといへどもくわしからざるはふたゝびしるす」と見えるが、本文は『平家物語』ではなく、『源平盛衰記』に拠っているものと考えられる。『源平盛衰記』諸本のうちでは整版本に拠ったようである。
近世初期には『信長公記』『信長記』『太閤記』『甲陽軍鑑』といった著名な大作が出たが、その一方で群小の軍記作品も数多く成立した。そうした膨大な作品群の中で『源平軍物語』がどのように位置付けられるのかは個々の作品論が不十分な現状では容易ではない。しかしその中で「軍物語」「軍記」と題する作品群(『古老軍物語』『嶋原軍物語』『結城軍物語』『義貞軍記』『太閤軍記』など)が出ている点は注目してよいだろう。それらとの出版事情を含めた関連性を解明していく必要がある。また、当該期の物語草子創作に『源平盛衰記』が好んで用いられたことは拙著『室町戦国期の文芸とその展開』で示した通りである。本作も引き写し、要約を主とするが、その点、『木曾物語絵巻』や『将門純友東西軍記』に通じる受容の在り方を示している。既成の軍記を改編し、「軍物語」と銘打ち、通俗的な仮名書きの軍記や仮名草子作品と同形式の出版物として成立した本作品について、今後は特に中世軍記、新作軍記の版本の中で、書誌的に類似性をもつ文献を見出していく必要があるだろう。
「読み本系『平家物語』と『太平記』―説話引用のあり方を中心に―」
法政大学文学部教授 小秋元段
『太平記』は『平家物語』より多大な影響を受けて成立したが、実際、『太平記』の作者がどのような『平家物語』を座右にしていたのかはわかっていない。近年、北村昌幸氏は『太平記世界の形象』(塙書房、2010年)において、『太平記』のなかの『平家物語』関連記事を点検し、『太平記』に影響を与えた『平家物語』は、現存本にみる一系統には集約しきれないと指摘しているが、妥当な見解と思われる。
『太平記』と『平家物語』を見わたすと、しばしば説話を引用して主筋の記事でとりあげた事象の先例をあげたり、由来を説明したりすることが共通する特徴として指摘できる。しかし、『平家物語』における説話引用のあり方は読み本系、語り本系で大きく異なっている。特に読み本系では、説話の引用が頻繁かつ自在であること、主筋に対する注釈的な説話が多く、注釈することがきわめて重要視されていること、主筋の事象に対して複数の説話を並列し、主筋の展開を遮断することをいとわないこと、などの特徴があげられる。
こうした読み本系の特徴と比べたとき、『太平記』では説話引用の頻度は読み本系に遠く及ばず、『太平記』における説話引用のあり方は語り本系に類するものと見なすべきである。また、『太平記』の前半では二話以上の説話を連続させる例があまり見られず、主筋に対して複数の説話を並列するという引用のあり方は、当初の『太平記』ではめざされていなかったものと考えられる。そして、『太平記』における説話には、結果として主筋とうまくかみあっていない事例が多いものの、説話の導入や引用後の解釈を読めば、作者は作者なりに、主筋の理解に貢献させる意識を強くもって説話を引用していることが窺える。
これらの点から判断すれば、『太平記』の作者の座右にあり、作者が『平家物語』として第一に意識したのは語り本系のごときものであったと考えられる。そして、読み本系については、全巻座右にあって、作者にことのほか強い影響を与えたのかは疑わしいのではないか。
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二月二十八日 | 文献調査(根津美術館)
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2月28日(木) 扇面絵平家物語調査熟覧 参加者:松尾・小林・小助川・岩城・辻本・伊藤慎吾・山本岳史・石川・伊藤悦子・大谷・大山
9:50に根津美術館前に集合、松原学芸部長のご案内で扇面絵『平家物語画帖』を熟覧させて頂いた。
調査した資料は3帖120図、料紙にも精密な金泥の下絵があり、絵は驚くほど細密でふんだんに金を使っている。詞書は、題簽に「平家物語抜書」とあるとおり、章段名の代わりに短い見出しをつけて、平家物語本文から要約抜粋して作成されている。絵の内容からみると語り本系平家物語、源平盛衰記、その他芸能などの要素が入り交じっており、平家物語の挿絵を絵画化しただけではないらしい。石川透氏の判定によれば詞書の書体は朝倉重賢のものに間違いなく、年代は17世紀後半の制作であろうという。錯簡が何カ所かあり、120図の中には必ずしも本文に相応しないものもいくつかあって、今後解明が必要である。小さな扇面形の中に一場面、時には複合した場面の構図を配するため、空間処理が大胆に行われており、物語の絵画化に際して画工の創意がどのように反映されたかという問題を提起している。徳川美術館など他館に所蔵されている扇面絵平家物語との比較対照もすでに一部行われているが、屏風絵など表現媒体の相違や共通性について、今後の考察に期待される。
選ばれた場面全体を通じて、合戦場面は多いが「斬られ」や天災の絵がない。切り首はあるが血は描かれない。なぜか仏御前推参や入道死去・法性寺合戦・女院往生などの有名な場面がない。花木・草花は描かれていない。黒い顔の弁慶や箙に梅を挿した梶原など、特定の人物が定型的に描かれた例がある。
15:30頃から別室で意見交換を行い、松原学芸部長からいろいろ貴重なご教示を頂いた。また来年度4月開催予定の絵画資料シンポジウムの打ち合わせも行った。この間、作業従事者の伊藤悦子・大谷・大山の3名は記録作業を行った。16:30頃、調査と打ち合わせを終えて解散した。
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三月十九〜二十日 | 調査旅行(今治市河野美術館)小助川・辻本・山本・松尾・石川・伊藤悦子
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3月19日(火)
山本・伊藤悦子は東京駅発14:50のぞみ115号で出発、品川駅から松尾も合流した(松尾は大学の個人研究費によって参加、校務のため品川からの乗車となった)。岡山で在来線特急しおかぜ23号に乗り継ぎ、20:52今治駅に到着、今治国際ホテルに投宿した。
3月20日(水)
9:00に河野美術館前で小助川(今回は別の科研費による参加)と合流、河野美術館学芸員羽藤氏・藤本氏のご案内で、かねて申請してあった平家物語写本3点・源平盛衰記版本2点・平家物語下絵2軸及び源平合戦図屏風1組を拝見した。9:30に辻本が、13:00に石川(今回は別の科研費による参加)が合流した。
写本平家物語の中2点(002−317,002−318)各12帖はいわゆる葉子10行本で、列帖装、近世初期写と思われる。両者は、1面の行数の一致のみならずほぼ同一箇所を1面に収めて写そうとしており、極めて関係の近い本文をもつ。但し317本の方は改装したらしく、しかも題簽は一旦他の書名や朱書を記した金地題簽を胡粉で塗りつぶしてその上に書名を書いている。こういう本作りはどういう事情によるのか、興味あるところである。袋綴13冊の写本(255−319)は総目録を有し、千明守氏により「葉子・下村本近似本文」とされているものである。一方系語り本平家物語の形成過程が微に入り細に穿って論じられるようになった今日では、これらの初期一方系本文の研究方法が再検討され、確定的な結果を出すためのツールも必要になってこよう。そういう時期にこれらの写本を実見できたことはタイムリーであった。
源平盛衰記は2点ともいわゆる無刊記整版本で、24冊本(271−346)の方は刷りもよい。源平盛衰記が近世に広く享受されていたことが改めて確認される。
平家物語下絵(文化8年1811、竹沢養渓画・松平定信書き入れ)はすでに紹介されているものであるが、胡粉による訂正や細字による画工への指定は現物を見て初めて納得できた。完成品の絵巻は今どこにあるのか、再発見されればその意義は大きい。
源平合戦図屏風2隻は一ノ谷・屋島の合戦を描く。人物や武具甲冑は精細に描きこまれているが、惜しむらくは背景や海面に蒔かれた金粉や、すやり霞の塗り直しに違和感があり、後補の可能性がつよい。有名な挿話が残さず取り上げられていることはこの種の屏風に共通する特徴だが、配置や絵の大きさなどにそれぞれの作品の工夫があり、それらを比較対照していくと、屏風絵という媒体による軍記物語享受の一面が明らかになるのではないかと思われる。
16:30に館を辞し、辻本・山本・伊藤悦子・松尾は今治17:04発しおかぜ26号に乗車、岡山で乗り換えて、辻本は西明石へ、他の3名はのぞみ58号で帰京した。
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