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平成二十二年 | 基盤研究(B) | |
〜二十五年度 | 研究課題:「文化現象としての源平盛衰記」研究 −文芸・絵画・言語・歴史を総合して− |
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研究代表者 | 松尾葦江 | 國學院大学文学部教授 |
連携研究者 | 小林健二 | 国文学研究資料館教授 |
| 石川 透 | 慶應義塾大学文学部教授 |
| 伊海孝充 | 法政大学文学部講師 |
| 小助川元太 | 愛媛大学教育学部准教授 |
| 岩城賢太郎 | 武蔵野大学文学部講師 |
| 坂井孝一 | 創価大学文学部教授 |
| 高橋典幸 | 東京大学史料編纂所助教 |
| 吉田永弘 | 國學院大学文学部准教授 |
研究協力者 | 原田敦史 | 東京大学文学部助教 |
| 辻本恭子 | 兵庫大学非常勤講師 |
| 平藤幸 | 鶴見大学非常勤講師 |
| 伊藤慎吾 | 國學院大學非常勤講師 |
| ワイジャンティー ・セリンジャー | ボウドイン大学准教授 |
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課題番号 | 22320051 | |
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<研究の目的と実施方法> ----------------------------------------------------------
源平盛衰記は、『平家物語』諸本の中でも最も記事の分量が多く、しかも後世に与えた影響の大きい諸本である。源平盛衰記には、中世から近世にかけてのさまざまな文化の生成、変容、継承などの諸問題を解明する手がかりが大量に含まれている。
本研究は、従来の『平家物語』研究が繰り返してきたような諸本の先後関係の決定や、『平家物語』から他の文芸への影響関係を指摘するために源平盛衰記を取り上げるのではない。むしろ、源平盛衰記をひとつの「文化現象」としてとらえ、これを拠点として、室町文芸及び文化の生成と変容を、他のジャンルや時代にも及んで究明しようとするものである。その結果、『平家物語』本文の流動の様相や、その中での源平盛衰記の位置づけも明らかになると考える。
上記の目的を達成するために、以下のグループを設け、連携研究者はそれぞれ2つ以上のグループに所属し、各自の問題意識に従って調査・研究を実施していく。各グループを( )内の研究者がまとめ、年2回程度の全体会議を開き、相互の交流をはかった上で、研究代表者の松尾が総括する。
T 『平家物語』諸本の一つとしての源平盛衰記の研究及び記事年表作成(統括者:松尾葦江)
U 室町文芸と『平家物語』諸本との交流の研究(統括者:小林健二)
V 源平盛衰記や『平家物語』を題材にした奈良絵本や絵巻などの調査研究(統括者:石川透)
W 歴史的な環境と文芸との関係についての研究(統括者:坂井孝一)
X 中世語彙の出典としての源平盛衰記の研究(索引作成の試行。統括者:吉田永弘)
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平成二十三年 四月十七日 | 調査旅行(京都) 松尾葦江 |
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4月16日12:00東京駅発のぞみ227号で出発するはずであったが、直前に地震があり、4分遅れて発車し、しかし定時に京都へ着いた。その後石川透氏と合流、今後の絵画資料部会の活動について打ち合わせを行った。アパホテル京都堀川通に投宿。
翌17日8:00に小林健二氏と合流、今年度の絵画資料部会・室町文芸部会の活動や4月23日に予定している公開講演会について打ち合わせを行なった。京都市内五条の近く、個人の文化財を保有している美術館を予約通り9:00に訪問、あらかじめ許可を頂いていた奈良絵本平家物語24冊を閲覧、書誌調査及び撮影を行った。24冊の奈良絵本平家物語は神奈川歴史博物館にもあるが、同じ物ではない。しかし、神奈川歴史博物館本や30冊の旧島津家本(神戸市立博物館委託)に近く、人物数や建物・背景などがそれらよりもやや簡素であると見受けられる。金の切箔を散らしたすやり霞が大きく、時折独自の図柄も見られた。本文は巻四下の一部を除き一筆である。寛文・延宝頃の大名本であろう。今後の比較対照作業に期待される。小林・石川両名が主として撮影、松尾が書誌調査を行って、16:30に終了、辞去した。その後3名で今後のデータ管理や解析作業について打ち合わせし、松尾は18:02京都発のぞみ250号で帰京した。(松尾葦江)
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四月二十二 〜二十三日 | 記事年表作成部会・打合わせ
公開講演会「源平物浄瑠璃の作劇手法について」
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22日(金)には若木タワー10階打合せ室にて年表作成部会を行い、記事年表の様式決定のための問題点を洗い出し、次回は辻本・原田が様式の見本を作って、発表することになった。出席者は松尾・小助川・辻本・原田・山本、18:00からは伊藤慎吾も参加した。
23日(土)は10:00から若木タワー5階502演習室で、年表作成部会を開き、小助川、山本が試作した巻11,巻42の年表原稿について討議した。参加者は松尾・小助川・辻本・原田・山本・伊藤慎吾・平藤、作業補助者の大谷・伊藤悦子である。13:00からは同所で小林・坂井・伊海・岩城も加わり、今年度の活動計画を討議した。資料として「週刊 絵で見る日本史」の軍記関係の号6冊、神戸市博で撮影した源平合戦屏風の画像データを配付した。また、17日に調査した京都の個人蔵の奈良絵本平家物語の画像の一部を投影し、小林・松尾が解説した。
15:00から1101教室で、伊藤りさ氏を講師とする公開講演会「源平物浄瑠璃の作劇手法」が行われた。講演後、質疑応答も行われ、17:30に解散した。 以上
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源平物浄瑠璃の作劇手法について
国立国会図書館勤務 伊藤りさ
義太夫節人形浄瑠璃には、『源平盛衰記』を含む平家物語に取材した作品群(いわゆる「源平物」が少なからず存在し、その数は現在内容が確認できる浄瑠璃全体の約六分の一にのぼる。平家物語は浄瑠璃の基本的かつ最も重要な取材源であり、「浄瑠璃の黄金時代」と言われる延享・寛延期前後には、現代まで舞台生命を保つ源平物の名作・佳作が多く初演された。その中の一つに、『源平盛衰記』を素材とする『ひらかな盛衰記』(元文四年、大坂竹本座初演、文耕堂ほか作)がある。この作品は、『源平盛衰記』巻第三十四から三十七を中心に、宇治・勢多合戦、木曽義仲の滅亡、一の谷・生田合戦を背景に「逆櫓」説話を絡ませ、梶原景時・景季親子の動静と、木曽義仲の家来の樋口次郎兼光を巡る、平家物語の裏面史を描いた作品である。
『ひらかな盛衰記』が取材した説話について、平家物語での筋と浄瑠璃におけるそれとを比較してみると、一見、説話を平家物語にかなり忠実な形で取り入れているかのようである。しかし、説話の焦点や平家物語の中での位置づけといった部分にまで踏み込んで検討すると、作者は平家物語を構成する個々の説話とそのつながりに着目して、関係する説話を入れ替えたり、説話のポイントとなるべき点を平家物語とは変えたりすることで「歴史の裏面に隠された真実を語り明かす浄瑠璃の本義」にふさわしい新たな展開を構想し、「宇治川合戦」や「逆櫓」という説話の裏面に、竹本座の浄瑠璃にふさわしい「ドラマ」を描き出していることが読み取れる。また、観客に関心のありそうな素材を選んだり、地名など説話の細かい部分を変更して観客の興味を引くよう工夫するといった作劇上の努力もおこなっている。
このように分析すると、『ひらかな盛衰記』は、『源平盛衰記』の説話に精通し、かつ竹本座の浄瑠璃に求められる要素と大坂の観客の興味・嗜好を十分に認識した文耕堂の作劇手法がうまく生かされた作品だと言えよう。
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六月二十四 〜二十五日 | 打ち合わせ・記事年表作成部会 |
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6月24日(金)14:00〜16:30
國學院大學渋谷校舎若木タワー10階打ち合わせ室 平家物語版本4種調査
同1013研究室 参考源平盛衰記写本調査
参加者:松尾葦江・高橋典幸・石川透・岩城賢太郎・小助川元太・辻本恭子・伊藤悦子・山本岳史・大山峻也
16:30より打ち合わせ室にて事務方の紹介・諸手続・今年度の予定説明
17:00 参考源平盛衰記写本所見 高橋典幸
17:30 國學院大學所蔵平家物語関係絵画資料について 松尾葦江
18:00〜18:40 國學院大學図書館資料展示見学
配布物=CD1枚(國學院大學所蔵平家物語版本4種挿絵5場面対照画像)・DVD6枚(國學院大學所蔵延宝8年版源平盛衰記挿絵画像)・資料展示解題(「異類・変化・怪奇との共生」)・説明資料(國學院大學所蔵平家物語関係絵画資料について)・芸大美術館展示リーフレット(ベルン歴博所蔵源平合戦屏風)
6月25日(土)9:00〜12:00 國學院大學渋谷校舎若木タワー502演習室
年表作成部会(参加者:松尾葦江・高橋典幸・小助川元太・辻本恭子・原田敦史・山本岳史・伊藤悦子・大谷貞徳)
発表者=辻本恭子(巻12)・原田敦史(巻9)
今回で年表の様式はほぼ決定。作成マニュアルは辻本・小助川から後日MLで配信される。今年度の年表部会の日程と担当巻をあらまし決定した。
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七月三十日 | 公開研究会・記事年表作成部会
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7月30日(土)10:30〜12:30 於國學院大學渋谷校舎502教室
年表作成部会(参加者:松尾・小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・山本・高橋・伊藤悦子)が行われた。最初に辻本からこれまでのマニュアルのまとめが報告され、一部訂正の上、今後はこれに基づいてエクセル方式(横書)で原稿を作っていくこととなった。司会の松尾から、@出版するとしたら、縦書で年表形式とする A分量を見積もるために、今年度中に一旦一本化した年表(巻20まで)を試作してみてほしい B年次報告書の原稿締め切りを12月としたい との提案があり、了承された。次いで平藤(巻7)・伊藤慎吾(巻15)の原稿を検討し、問題点を討議した。歴史学の立場から高橋が助言を行った。作業従事者の山本・伊藤悦子はエクセル操作上の助言や記録を、大谷・大山は資料のコピー、配布を行った。
後日、辻本がマニュアル修訂版を、小助川がこの日の討議の記録をML配信することになった。
13:10〜13:50 打合せ会 於同室(参加者:松尾・小助川・辻本・平藤・伊藤・小林・高橋・岩城・伊海・吉田)
研究代表者の松尾から、今年度補助金の交付や補助金使用上の注意について説明があった。今年度下半期の計画の説明・確認を行ったのち、事務方が調査旅行のためのチケットの配布や必要書類の回収を行った。この間、作業従事者は509教室の設営を行った。
休憩時に、真田博物館蔵奈良絵本平家物語の写真及び古書店思文閣の目録最新号に掲載されている旧津軽家蔵奈良絵本平家物語の図版が回覧された。
14:00〜17:20 公開研究発表会 於國學院大學渋谷校舎509教室
高木浩明(高宮学園講師) 『源平盛衰記』版本研究の今―古活字版を中心として
司会:吉田永弘
小助川元太(愛媛大学准教授) 源平盛衰記における文覚流罪
司会:松尾葦江
東京近郊のみならず、名古屋や福岡からも版本研究の専門家や若手研究者が参加し、活発な意見交換が行われた。 以上
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『源平盛衰記』版本研究の今−古活字版を中心として
高宮学園講師 高木浩明
『源平盛衰記』の古活字版には、(一)慶長中刊本、(二)元和・寛永中刊本、(三)乱版の三種がある。本発表では現存する伝本の所在を明らかにするとともに、ゥ版の書誌学上の問題点、特に乱版の成り立ちについて考察した。
乱版は、古活字版と整版を取り交ぜて印刷、製本した物で、附訓活字が用いられているのが特徴であり、(二)の元和・寛永中刊本に拠って翻印されたものとされる。しかし、無訓本の元和・寛永中刊本から直ちに附訓本の乱版が作られたりするものだろうか。この間にはもう一段階あったのではないだろうか。それというのも、『源平盛衰記』の乱版と同種活字を襲用しているとされる『平家物語』の附訓片仮名古活字本や『太平記』の乱版が、それぞれ整版本を底本にしているからである。このことを考えると、『源平盛衰記』の乱版もまた整版(無刊記整版本)を基にして作成されたと考えられなくもない。果たして乱版はどのような経緯で生み出されたものであろうか。一般に考えられているのが、漢文体の部分は振仮名・送仮名・返点等の配植が困難なので整版が採用されたというものだが、これは一部の漢文体多出の丁を見ての見解にすぎない。すでに大内田貞郎氏が指摘するように、全丁で見ると、古活字版の丁と整版の丁はほぼ同じ割合であり、整版主体巻に必ずしも漢文体多出の丁が多いわけではない。古活字版の丁と、整版の丁は同じレベルで見るべきものであり、整版主体巻に特別な意味を付与すべきではない。このことは、一部の巻に見られる同一の丁で、古活字版と整版の両方が残存しているケースがあるのを見れば了解されよう。以上のことから、発表者は、元和・寛永中刊本と乱版の間に無刊記整版本を置いて再考することを提案し、乱版はすでに刷り上がった無刊記整版本があったものの、一部の巻や丁に不足が生じ、その分を新たに活字で組み直して摺刷、製本したものではないかとの仮説を提示した。不足を補うだけなら、整版で追刻して後に半端な版木が残ってしまう整版より、活字を用いて必要な数だけ摺刷し、植字版はすぐにばらして処分ができる古活字版の方が合理的であることもその理由である。
源平盛衰記における文覚流罪
愛媛大学准教授 小助川元太
平家物語における文覚は、怪僧、悪僧として描かれる反面、伊豆に流されていた頼朝に、後白河院の院宣を取り付けて蜂起を促した僧として、また、平家滅亡後は、清盛嫡流の生き残りである六代の命を一旦救った僧として、重要な役割を与えられている。また、読み本系のテキストには、有名な発心譚が描かれる。本発表では、文覚が伊豆に流される場面を描く、文覚流罪譚(『源平盛衰記』巻一八「文覚流罪」「同人清水状・天神金」「龍神守三種心」)を取り上げ、盛衰記の文覚流罪譚が、既成の平家物語テキストにおける文覚流罪譚を、どのような形で語り直していったのかという問題について、若干の考察を試みた。
まず、伊豆までの護送ルートであるが、他のテキストでは伊勢から船に乗っているのに対して、盛衰記のみ摂津渡辺での逗留を経て、船で紀伊半島を回るというルートを取っているが、平安末期には、東国配流の罪人は伊勢から船で流刑地に向かうのが通例であったことから、ここは盛衰記作者が独自に作り直した部分である可能性が高い。次に、他のテキストでは、賄賂を要求する放免に対し、清水寺の観音に無心の手紙を書かせて笑いものにするという〈悪戯〉が描かれるが、延慶本と盛衰記は、それに加えて、護送の者に勧進によって集めた金を神社の鳥居の下に埋めたという嘘の情報を流して掘りに行かせるという、もう一つの〈悪戯〉を描く。ただし、延慶本では「放免」たちに左女牛八幡宮の鳥居を掘りに行かせるのに対して、盛衰記では「梶取」たちに五条天神の鳥居を掘りに行かせることになっている。比較と分析の結果、この〈悪戯〉は文覚が都にいる間に行われた延慶本の形が本来であり、盛衰記はそれを一つの構想のもとに巧みに組み立てなおしたものであった可能性が高いことがわかった。護送ルートの変更も、文覚を渡辺に逗留させるという設定が、その組み立て直しの際に必要だったために、便宜的に行われたものであった可能性があろう。
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八月九〜十日 | 調査旅行(松代) |
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8月9日(火)
東京駅7:52発あさま507号で、松尾・石川・岩城・平藤・伊藤悦子が出発、大宮から伊藤慎吾・山本・大谷が合流した。上田から、しなの鉄道に乗り換え、さらに屋代で長野電鉄に乗り換えて松代で下車、真田宝物館へ向かった。火曜日は休館日であるが、あらかじめ調査を申請し許可されていたので、学芸員の山中氏が応対して下さった。西明石から名古屋経由で到着した辻本、今回は別の資金で参加した小林、伊海とも合流し、奈良絵本平家物語30冊の熟覧、書誌調査を開始した。以前にこの資料を閲覧したことのある松尾や石川の予測通り、旧島津家蔵平家物語、神奈川歴博蔵平家物語、白百合女子大蔵平家物語などの奈良絵本と共通性が多いので、今後比較対照が必要になってくると思われたため、写真撮影をお願いして許可された。午後からは作業従事者の伊藤悦子・大谷が撮影に当たり、同じく山本がデータの記録・整理に当たった。その間、他の研究者たちは各自1冊ごとに熟覧し、意見を交換した。各自が採った書誌データは8/20までに山本・松尾あてにメールで送信し、集約した上でML配信することになった。
伊藤慎吾から、昨年調査した旧島津家蔵平家物語及び海の見える杜美術館蔵源平盛衰記奈良絵本の書誌データをまとめた資料が配付された。夕食時にも、本日の調査結果や関連する資料などについてさまざま情報交換が行われた。松代ロイヤルホテルに投宿。校務のため遅れて到着(今回は別資金による)した小助川も合流した。
8月10日(水)
午前9:00の開館と同時に12名で真田宝物館に到着、撮影・熟覧を開始した。13:00頃撮影が完了したので、昼食・休憩をとり、14:00からデータの整理や意見交換を行った。15:30に調査を終了、この奈良絵本を所蔵していた(おそらく特注したと思われる)真田藩の歴史と文化を知るために、真田宝物館の展示資料、真田邸、文武学校を見学した。
その後松尾・石川・岩城・平藤・伊藤悦子・伊藤慎吾・山本・大谷の8名は長野電鉄松代―しなの鉄道屋代を経て上田発18:59あさま546号に乗車、帰途についた。辻本は松代にさらに1泊、当初の計画にはなかったが、現地で新たに絵画資料の所在情報が得られたので、11日に千曲市の長野県立歴史館調査の可否の確認をすることになった。
今回調査した奈良絵本平家物語30冊は見開き絵が多く、画面は手を抜かずに描き込まれており、合戦場面の武者の装束や行列を含む集団の描写などは同種の資料の中でも特に精密といえよう。一部の構図や添景人物は、しばしば旧島津家蔵平家物語、神奈川歴博蔵平家物語、白百合女子大蔵平家物語と一致するが、全体的には特にある一本と近接するとはいえない。また版本の挿絵では、時折明暦2年版に共通する点が見られるが、粉本にしたといえるほど近い関係にある版は見いだされなかった。全体に物語をよく読み込んで場面を選んでおり、すやり霞による画面の構成も適切である。絵の数が多く、本文もきれいに書写されている。本資料は、豪華本というにふさわしい。 以上
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八月二十二日 | 調査旅行(鶴見大学) |
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8月22日(月)
9:30に鶴見大学図書館前に集合、鶴見大学の中川博夫氏を通じてお願いしてあった鶴見大学図書館所蔵長門切11葉の調査を行った(参加者は松尾・岩城・伊海・小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・原田・山本・伊藤悦子・大谷・大山・秋田)。長門切は近世初期から古筆の名品として珍重され、世尊寺行俊筆との極書つきで伝来、現在までに60葉近く紹介されている。その本文は源平盛衰記に最も近く、しかし全く同文ではない。近時、炭素判定により鎌倉末頃の料紙に書写されているとの説が出され、源平盛衰記の成立年代、さらに平家物語の成立・本文流動のイメージを大きく変える可能性のある貴重な資料であるが、これまで古筆の分野と軍記物語の本文研究の分野とが交差することは殆どなく、研究代表者の松尾が資料紹介をしてはきたが、平家物語の成立論からは殆んど黙視されてきたと言ってもよい。
そこで、今回は古筆の専門家である橋本貴朗氏・中村健太郎氏・家入博徳氏にも来て頂き、さらに鶴見大学の久保木秀夫氏をも交えて熟覧、意見交換を行った。互いに新しい知見が得られ、たいへん有意義であった。今後、どのような方法によれば書写の年代判定や切られる前の形態・制作事情などの究明が可能か、そのヒントとなる意見が交換され、例えばこの11葉だけでも筆者は1名ではないらしく、世尊寺行俊筆グループとでもいうべき集団の書写活動が想定されること、料紙も均一ではなく、界の使い方などから見て、異なる料紙を集めて使用したかもしれないこと、極書を書いた古筆家はむしろこれらの切を基準として世尊寺行俊の筆を判定していたであろうこと、模写の制作もあり得ること、炭素判定を上限とし紙背利用の時期を下限として、およそ鎌倉末から南北朝期のものと判定できるのではないかということ等々、今後の研究の指針を得ることができた。古筆の専門家にとっても、単なる資料紹介にとどまらずこの調査研究が軍記物語研究の上でもつ意味について、つまりはこれらの古筆切の資料的価値についての暗示が得られたことと思う。この間、作業従事者の5名は調査の記録に当たった。
12:10〜13:30 休憩・昼食
13:30〜17:00 年表作成部会。鶴見大学の図書館のセミナー室を提供して頂き、年表作成部会を行った。出席者は松尾・小助川・辻本・平藤・伊藤慎吾・原田・山本・伊藤悦子・大谷・大山、それにオブザーバーとして岩城の10名である。巻5(山本)・巻14(辻本)・巻47(原田)の原稿が出され、問題点について意見交換を行った。詳細な報告は後日、小助川がML配信することになった。
松尾から今後の計画について提案と説明があり、9月8日鶴舞図書館の乱版調査について、作業従事者の山本が資料を配付、調査上の問題点の説明を行った。また9月9,10日の蓬左文庫調査に向けての準備についても説明があり、各分担者に松尾から指示が出された。そのほか、年度末の計画の日程を確認した。この間、作業従事者の他の3名は会議の記録作成に当たった。 以上
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八月二十八 〜三十一日 | 調査旅行(フランス) 松尾葦江 |
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8月28日(日)
東京駅からNEXで成田空港へ、JAL405便でフランスのCDG空港に現地時間16:40に到着。元パリ第七大学教授J・Pigeot(ジャックリーヌ・ピジョー)氏が迎えて下さり、オペラ座近くコンフォート・ホテル・オペラ・ドロウに投宿。
8月29日(月)
ピジョー氏と共に国立図書館へ行き、10:00に写本室日本部門司書を紹介して頂いた。連携研究者の石川透氏(今回は別経費)と合流、「源平盛衰記」を熟覧、調査した。源平盛衰記奈良絵本の絵のみを画帖に仕立て直したものと思われる。絵は115図あるが、全部ではないらしく、順不同に貼ってあり、見開き画面が生かされている例もあるが、ばらばらになっている箇所もあるようだ。
17:30に退館、コンフォート・ホテル・オペラ・ドロウに投宿。
8月30日(火)
10:00から国立図書館で同資料を調査。石川氏が持参した、海の見える杜美術館所蔵源平盛衰記奈良絵本や個人蔵源平盛衰記絵巻の画像との比較対照を行った。さらに詳細な研究のため画像データの入手について相談したところ、研究のためなら可能であるとのことで、後日この科研費での購入を交渉することになった。石川氏の所見によれば1700年前後の作であろうとのこと。装幀が傷んでいる割には画面はきれいに保存されている。金粉を密に塗ったすやり霞は豪華な反面、植物などには手抜きも見られ、ややちぐはぐな感がある。海の見える杜美術館所蔵源平盛衰記の絵と一部共通する例もあるが、全く同じではない。題簽に「源平盛衰記」とあるのみならず、明らかに平家物語とは異なる記述に基づく絵があり、確かに源平盛衰記の奈良絵本であると分かる。すると絵はもっと多かったはずだし、必ず絵になるような場面の多くが欠けているので、ばらばらになった絵を近代になって画帖にしたのかもしれない。橋合戦の絵などから見ると寛文12年版本よりも後ではないかと思われる。以仁王の乱や大原御幸に関する場面が比較的多く残っているが、場面を特定する手がかりのない絵も少なくない。今後の研究に期待される。
この日、食事時間などを利用して、ピジョー氏がパリ在住の中堅日本中世文学研究者を紹介して下さり、交流ができて有意義であった。
8月31日(水)
ピジョー氏にパリの歴史を説明して頂いた。今回調査した資料は骨董店ドロウのオークションに出たものらしい。そのような経緯も含め、仏蘭西事情を教えて頂くことができ、有益であった。CDG空港からJAL406便に搭乗、日本時間9月1日13:55に成田空港着、NEXで東京駅に向かい、帰宅した。 (松尾葦江)
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八月二十九 〜三十一日 | 調査旅行(鹿児島) 高橋典幸 |
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8月29日から31日までの日程で鹿児島大学附属図書館にて同館所蔵の『参考源平盛衰記』(玉里文庫のうち。以下「玉里文庫本」とする)の調査を行なった。
玉里文庫本は袋綴装の冊子50冊からなり、第1冊に凡例・引用書目・総目録と剣巻、第2冊に剣巻(第1冊に収められたものとは本文がやや異なる。史籍集覧本とほぼ同文)を収め、第3冊以降の48冊に『源平盛衰記』48巻を収める。冊により書写者が異なるため本文の筆跡は異なるものの、表紙や料紙などの装丁等は共通している。
時間の制約もあり、50冊のすべてについて精査することはできなかったが、今回の調査の結果、本文については墨・朱・青の三種類の書き込みが付されていることが判明した。墨や朱による書き込みは、文字の訂正や削除・塗抹、補入など、本文を訂正する注記である。興味深いことには、これらの指示に従って本文を訂正していくと、史籍集覧本とほぼ一致するテキストが得られるようである。
一方、青字の書き込みは墨や朱のそれとは異なり、書写した元本の用字について疑義を呈した「本ノママ」や、元本の料紙の状態を示した「本書切抜之」などが書き込まれている。さらには元本に貼付されていた貼紙の注記などが写されている。貼紙注記については、史籍集覧本のテキストに反映しているものとそうでないものがある。なお、青字の書き込みについては本書全体で同一筆跡と考えられる。
玉里文庫本については、水戸彰考館における草稿本を書写したものであることが先行研究で指摘されている。とするならば、玉里文庫本に付された上記三種類の書き込みを分析することによって、ある段階における彰考館草稿本の様態に迫ることができるように考えられる。
なお今回の調査をご許可いただき、調査にあたっては種々便宜を図られた鹿児島大学附属図書館の方々に感謝申し上げる次第である。 (高橋典幸)
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九月八〜十日 | 調査旅行(名古屋) |
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9月8日(木)
9:00に東京駅を松尾・岩城・伊藤慎吾・山本・伊藤悦子の5名が出発、新横浜から平藤が合流、名古屋駅に着き、名鉄ニューグランドホテルロビーに集合、辻本と合流した。
名古屋市立鶴舞図書館で、乱版の源平盛衰記と長門本平家物語を閲覧した。乱版についてはあらかじめ作業従事者の山本が作成した資料が配付され、一同予習の上で臨んだが、古活字版・整版が混交しているだけでなく、匡郭や魚尾が丁によって微妙に異なっているなど、新たな知見が得られた。また、朱の書き込みが多いことも注目される。乱版は伝本ごとに個別的な態様を示すものではないかとの疑念を持った。
14:00過ぎに鶴舞を出て市内個人蔵の収集資料を閲覧させて頂いた。主なものは源平合戦屏風、花揃屏風、掛軸「小督」、手鑑2種(一条冬良筆平家切を含む)等である。特に源平合戦屏風は、屋島から一ノ谷へ続く合戦の断簡10葉、一ノ谷の断簡4葉、そして木曾義仲の合戦に関する断簡4葉(詞書はない。3種は明らかに傾向が異なり、別個の絵画資料である)を屏風に貼ったもので、ところどころ人名が書き込まれており、それによって読み本系の本文に基づくものと判定できる。一条冬良筆平家切はこれまで5葉が知られており、いずれも語り本系本文の巻4部分に該当し、享禄本・百二十句本などに近いと判定されている。今回拝見した切は巻4冒頭の「厳島御幸」の部分である。日頃、我々は本のかたちになったものか、その断簡ばかりを見ているが、このように遊び心・数寄に満ちた文物が多く作られた室町・江戸の文化の中で、軍記物語の奈良絵本や絵巻はもっと自由に、洒落気を持って作られたのかもしれない、などと考えながら宿へ帰った。原田が合流、ホテルのロビーで明日の作業の打ち合わせを行った。
9月9日(金)
作業従事者の秋田が合流し、9:30から蓬左文庫の写本源平盛衰記48冊、無刊記整版本源平盛衰記25冊2組、「要門参考」1冊、「源平盛衰記故実抜書」1冊を調査した。あらかじめ分担して影印本により各巻の問題箇所をチェックしてあったので、初日は各自がその部分を点検した。松尾は「要門参考」「源平盛衰記故実抜書」の書誌を、岩城は無刊記整版本源平盛衰記の書誌を採った。その結果、乱版のみならず整版本も匡郭や魚尾が丁によって微妙に異なっていることが判明した。また版面を見ただけでも字体の異なる2〜3種類があるようだ。整版本の制作事情も知っておく必要があると痛感した。平藤は、午前中は同じ敷地内にある徳川美術館で長門切を閲覧、午後からは「源平盛衰記故実抜書」を調査した。17:00に館を出て、今日の結果と明日の作業について打ち合わせを行った。
9月10日(土)
作業従事者の大谷と合流、9:30から蓬左文庫で調査を行った。伊藤慎吾・伊藤悦子・秋田それに大谷は、午前中は写本源平盛衰記を調査、山本は「要門参考」を、岩城・辻本・原田・松尾は無刊記整版本源平盛衰記を、平藤は引き続き「源平盛衰記故実抜書」を調査した。午後からは写本の問題点を全員で確認した。書写については慶長16年、玄庵三級の奥書があり、筆跡は確かに玄庵三級のものらしく、また全冊一筆と見受けられる。しかし、書写の速度はかなり速かったらしく、誤りも少なくなく、書き損じを擦り消しやなぞり書きによって直しており、殊にルビには玄庵三級のような知識人らしからぬ誤りが見られる。これをどう考えるべきか。また48冊の表紙や題簽が豪華な割には見返しが本文共紙であるのも違和感がある。料紙は2種以上あり、朱はない。濁点がある巻とない巻がある。ところどころ異本表記や異文が傍書されており、その典拠が不明な場合もある。単純に奥書を信じていいのかどうか、疑問が残った。今回の調査を通じて、改めて現物を見ることの重要さを認識させられた。16:00に調査を終了、帰宅の途についた。 以上
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十月五〜六日 | 調査旅行(高松) 小林健二 |
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10月5日(水)
羽田9:30発、ANA540便で高松へ向かい、11:00に高松に到着。リムジンバスで高松市内へ移動した後、高松県立ミュージアムの場所や交通手段などを確認して明日の調査に備えた。
10月6日(木)
9:30より香川県立ミュージアムで学芸員にお世話になり調査を開始。
まず、「源平合戦図屏風」二曲一双の右隻から熟覧と撮影を行う。この屏風絵は一の谷合戦を画題としているが、数ある六曲の屏風とは異なっており、二曲という限られた画面に平家公達の最期を中心に描かれていることなどを確認した。また図録の図版ではわからない人物の細部描写から江戸初期のかなり優れた作例であると見受けられた。
13:00から引き続き「源平合戦図屏風」左隻の調査と撮影を行った。この左隻は他の屏風絵に例を見ない藤戸合戦を題材としたもので、しかも、「平家物語」だけではなく能の「藤戸」の内容を描き込んでいる点で、極めて珍しい作例であることが認められた。
また、左隻・右隻ともに佐々木家の家紋である四つ目結紋が点描されており、佐々木家の注文により製作された事情が窺えることについて、学芸員と意見交換をした。
14:30からはもう一点「源平合戦図屏風」六曲一隻を調査した。題材は屋島の合戦であり、類型化したものとは違った構成や図柄であることが認められた。また、製作年代が江戸初期であること、絵師は狩野派の流れをくむ町絵師であろうことなどを、学芸員と意見を交換しながら検討した。
16:30に調査を終了、リムジンバスで高松空港に移動。予定より一便はやい17:45発ANA538便で帰京した。
今回の調査で、能が題材として描き込まれた屏風絵があることが確認でき、屏風絵のスタイルが確立して以降の「源平合戦図屏風」にも種々の変容があることが勉強でき、有意義であった。
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十月二十二日 | 記事年表作成部会・公開講演会 |
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10月22日(土)10:00から、國學院大學渋谷校舎502教室で年表作成部会(参加者=小助川・辻本・伊藤慎吾・原田・平藤・松尾・高橋・山本・伊藤悦子・大谷・大山)が行われ、巻13(小助川)・巻20(平藤)・巻35(伊藤慎吾)の試作をもとに問題点を討議した。記事の年代判定・備考欄に入れる情報・年次コードの付け方などを中心に討議し、大日本史料編集の経験から高橋が意見を述べかつ助言した。これまでの試行によりだいたいの方向性は定まりつつあり、松尾や陪席者の三弥井書店編集部が、年表の使用者の視点から、また編集・印刷上の技術的問題について意見を述べた。
12:30に年表作成部会を終了、昼食時を利用して事務手続きを行った。12:40からは坂井・吉田も参加して、今後の計画及び今年度の年次報告書の内容と制作日程が松尾から提案され、了承された。今夏に調査した資料の画像データがUSB に入れて配布された(各所蔵者の許可済み)。続いて、高橋が調査した鹿児島大学玉里文庫蔵参考源平盛衰記写本について、また松尾が調査したフランス国立図書館蔵源平盛衰記画帖について、報告が行われた。
13:00に公開講演会の講師樋口洲男氏が来校、13:30から一号館1103教室で歴史学部会主催の公開講演会を開催した。内容は以下の通りである。
樋口洲男「『源平盛衰記』の在地主義―歴史資料としての可能性―」
高橋典幸「後白河院と平氏」
(司会:坂井孝一)
坂井孝一「流人時代の源頼朝再考」
(司会:高橋典幸)
各講演の後に20〜30分、フロアとの質疑応答のための時間をとった。この日は東京近郊の研究者・一般参加者のみならず、名古屋・京都・神戸などから専門家の参加があり、活発な質疑応答が行われた。18:00に散会。
なお17日からこの日まで、國學院大學図書館との共催による資料展示「平清盛とその時代―平家物語と方丈記」が学術メディアセンター2階で開催され、吾妻鏡・十訓抄・平治物語絵巻・平家物語明暦2年版・同元禄16年版・方丈記写本・新古今集写本など16点を公開した。その解題作成などは作業従事者伊藤悦子・山本・大谷・大山が当たった。
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発表要旨はこちら
『源平盛衰記』の在地主義―歴史資料としての可能性―
拓殖大学非常勤講師 樋口洲男
(一)『源平盛衰記』の作者は、中世の「在地」――「地域」といった方がより妥当か――、およびそれと深くつながる形で登場人物のルーツ(育ち)に関心を寄せていたのではあるまいか。実に漠然とした言い方ではあるが、このような思いをもつに至った『盛衰記』関係記事を旧稿のなかから取りあげ、あらためて見直すことによって、その思いをより確かなものにしたいというのが、本報告の意図である。
(二)見直しの対象としたのは、(A)大納言藤原成親殺害を伝える備前国有木別所関係記事(巻七)、(B)その出自を祇園社門前の水汲み女とする祇園女御関係記事(巻二六)、(C)幼年期を丹波国保津庄の下司のもとで過ごしたとする文覚の生い立ちに関する記事(巻一六)である。なおそのほか、笠松宏至氏によって提唱された、いわゆる「墓所の法理」関係記事として注目されている、衣笠城での討死に際して三浦義明が遺した言葉(巻二二)、生田森合戦で討死した坂東武士に対する恩賞の記事(巻三七)なども紹介した。
(三)これらの見直しの結果、(A)は別所=墓所としての性格をしっかり踏まえている、(B)は祇園女御=平清盛生母説の成立と密接に関わっている、(C)からは文覚が神護寺領荘園の維持・経営に辣腕をふるった背景が読みとれる、などといった旧稿での指摘については基本的に変更する必要はないとしながらも、以下の点については今後とも継続して考えていかなければならないことを確認した。すなわち、『盛衰記』のなかから立論に際して直接に役立つ個所のみを引くのではなく、『盛衰記』全体、もしくはせめてそれぞれの関係記事中における対象箇所のもつ意味・性格をおさえるということである。これまでも繰り返し説かれてきた自明のことではあるが、ここにおいて初めて、なぜ『盛衰記』作者が当該記事を拾いあげたかについて一歩踏みこめるのであり、また歴史史料としての意義も増してくるであろう。
(四)最後に、著名な藤戸合戦における佐々木盛綱と浦人をめぐる話(巻四一)から、たしかに『盛衰記』は在地に関心を寄せながらも、他の『平家物語』諸本と同様、それは決して民衆=戦争被害者の立場に立つものではなかったとみられ、今後、その具体的なあり方を追求していく必要があることを述べた。
後白河院と平氏
東京大学史料編纂所助教 高橋典幸
後白河院と平氏との関係を一言でまとめるならば、「協調と対立(非協力)」となるが、その実態はより複雑なものである。本報告では、この間の歴史学における研究成果をふまえて、後白河院の側から両者の関係の再検討を試みるものである。
近年の院政研究の成果に学べば、院政とは自らの子孫に皇位を継承させるための政治形態と言えよう。さらに、単に自らの子孫に皇位を継承させるだけではなく、自らの意志で皇位継承者を定めることが重要となってくる。すなわち、白河院は父後三条が定めた実仁ではなく、自らの意志で堀河を立て、また鳥羽院も、祖父白河が擁立した崇徳を排して近衛を立てたように、いずれも前治天の定めた皇位継承者を覆して自らの「皇統」を確立せんとしているのである。
そうした観点から後白河院政を見直すと、応保元年(1161)9月の後白河院政停止は重要な意味を持ってくる。憲仁(のちの高倉)立太子をめぐるこの事件は、後白河と二条との「皇統」をめぐる争いであり、これに敗れたことにより、後白河「皇統」はいったん頓挫したのであった。さらに注目されるのは、この事件には後白河派・二条派それぞれに平氏が当事者と関わっていることである。平氏は後白河「皇統」と深いかかわりを持っていたと考えられる。
その後、二条の早逝により後白河院政が復活するとともに、正式に憲仁が皇太子に定められ、後白河「皇統」が成立する。それはまさに平氏との提携にもとに実現したのであり、「後白河=平氏」皇統とでも称されるものであった。そして、その後の後白河と平氏との関係はこの後白河「皇統」の維持を軸に展開していく。1170年代には両者の間にさまざまな確執が見られることになるが、いずれも後白河「皇統」維持のもと調整が図られている。
治承・寿永内乱はこの「後白河=平氏」皇統に終止符を打つことになり、寿永2年(1183)7月の平氏都落ちがそれを決定的なものとした。近年の研究は、以後の平氏追討戦の主戦派として後白河院を浮かび上がらせているが、それは新たに後鳥羽を擁立し、自らの「皇統」を確立させようとする後白河院の意志によるものとみることができる。
流人時代の源頼朝再考
創価大学文学部教授 坂井孝一
源頼朝の流人時代に関しては歴史学的にみて不明な点が少なくない。それは主たる史料が「平家」諸本と「真名本」の『曽我物語』であり、これまで「頼朝流離説話」として扱われてきたからである。また、「平家」諸本は伊東から北条に移った後の頼朝に多くを費やしているため、先行研究も北条時代の頼朝に対する考察が中心であった。しかし、頼朝は約二十年の流人生活のうち十五年を伊東で過している。この経験は頼朝の人格形成や挙兵時の兵力編成にも影響を与えたと考えられる。そこで本報告は、伊東時代の頼朝を詳しく叙述する「真名本」を主な史料としつつ、頼朝の流人時代に再考を加えた。
「真名本」には平安末期の伊東における伊東祐親と工藤祐経の所領相論が描かれている。しかし、「真名本」にみえる祐経やその父祐継の年齢、安元二年という河津三郎暗殺の年紀、仁安二年に平清盛から伊東荘の領家である重盛へ家督の継承が行われたという事情などから、配流時の伊東氏の当主が頼朝の第一子千鶴を殺害した祐親ではなく祐継であったことを解明した。祐継は武者所伺候の経験があり、頼朝が後年その子祐経を重用した遠因は、都とつながりのある祐継・祐経父子と配流当初より関係を持っていたからと考えた。
また、「真名本」の叙述からは、祐親が相模の三浦氏・土肥氏、伊豆の狩野氏などと婚姻によるネットワークを形成していたことがわかる。しかも、土肥氏・北条氏とは烏帽子親・烏帽子子の関係による連携もあった。祐親は頼朝が伊東を去り、河津三郎が暗殺された後、横山時重の血を引く河津の女房を横山党と地理的に近い曽我祐信に再嫁させたが、これは横山党との連携のためであったと考えた。そして、挙兵時の頼朝勢の中心が北条・狩野・土肥・三浦の諸氏であり、反頼朝勢に横山党が入った背景として、伊東時代に培った頼朝の人脈の影響を想定した。なお、頼朝の北条への脱出は安元元年秋であり、安元二年の奥野の狩りに頼朝が随行したとする「真名本」の叙述は虚構であることも指摘した。
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十一月五日 | 絵巻調査・年表作成部会 |
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11月5日(土)9:00に専修大学生田校舎図書館前に集合、同大学図書館所蔵の「古土佐源平合戦絵巻」3軸を熟覧させて頂いた。参加者は松尾・石川・小林・小助川・伊海・平藤・原田・伊藤慎吾及び作業従事者の山本・伊藤悦子・大谷・大山の計12名である。同絵巻についてはすでに「専修国文」77号(2005/9)に略解題と本文の翻刻が掲載されている。上巻は巻頭の詞章を欠いて絵から始まっており、補修の際に全体の形態をそれに合わせたらしいことは解題のいう通りである。また本文が流布本平家物語でなく、仮名の多い覚一本系統のものであること、土佐派ふうの彩色奈良絵であり、寛永頃の制作であることも当たっていよう。
絵師は少なくとも2,3名いたようで、武具や馬を丹念に描く者と、やや稚拙な集団場面を描く者とがおり、中巻では場面により分担したらしい。建物や海の描き方は多分に様式化している。すやり霞は青と白とを使い、衣装の文様や人物の縁取りには金銀はごくわずかしか用いられていない。内容は平家物語巻11から、義経を中心とする屋島合戦の部分を抽出したもので、絵とした場面の選択には幸若などの影響が見られる。例えば「継信最期」で義経が瀕死の継信を膝に載せている場面は、平家物語ではあまり絵画化されないが、幸若で重視される場面である。「扇の的」では扇を射落とす場面と舞う兵士を射落とす場面との両方があり、「錣引」ではみほのやの十郎が戦う場面と景清が錣を差し上げている場面との両方を描く。これらから推察すると、覚一本平家物語のみならず芸能をも包括した屋島合戦譚がイメージ化されているとみることができ、近世初期の源平物語享受の証例として重要である。
最後に近世奈良絵本の参考として、「絵入り徒然草」を見せて頂いた。絵の数は多くないが精巧な美しいものであった。
11:30に熟覧を終え、スクールバスで向丘遊園駅まで送って頂き、石川・小林・伊海を除く9名は、小田急線・京王線を経由して渋谷の國學院大学へ向かった。
13:00から502教室で年表作成部会(参加者:小助川・平藤・原田・伊藤慎吾・松尾・山本・伊藤悦子・大谷・大山の計9名)。発表は平藤(巻21)、山本(巻43)、原田(巻48)で、年表作成上の問題点とその処理方法を討議した。次いで今年度の年次報告書への掲載内容と作業日程を確認し、松尾から来年度以降の方針が説明され、16:00過ぎに散会した。
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