ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> a. 調査 >> グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」 富山県(旧越中国)調査および第6回「古代・中世の神道・神社」研究会 | |||
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1 調査目的 平成14年度より推進している神社と神道に関する基礎データの収集とその分析をさらに推進させるため、今回は富山県、特に西部(旧射水郡)を主たる対象に設定した。 この地域は周知の通り、東大寺の古代荘園が設置されており、それを示した奈良時代の荘園絵図(開田図)が複数現存している。この中には「社」と記されている箇所があり、古代神社の周辺環境を把握するためには格好の史料といえる。 そればかりではなく、この開田図を史料として用いるに当たっては、金田章裕氏などによって、歴史地理学的な側面から精密な研究がなされており、それに基づいた実地検証が可能である。 今回の調査目的は、こうした性格を持つ開田図の実地調査を行い、そこから神社の周辺環境に関するデータを得ると同時に、第6回「古代・中世の神道・神社」研究会を開催し、他地域や文献史学からの古代神社に関する研究現状の把握を行い、富山県域の状況との比較や、これまでの神社に関する研究の妥当性を検討することにある。 参考 ・愛媛県東予・中予地域(旧伊予国)調査報告 ・長野県北信地域(旧信濃国)調査報告 ・東海・近畿地方神社調査報告 ・研究会「愛媛県東予・中予地域(旧伊予国)における神社の文献史料と現状」報告 ・第3回「古代・中世の神道・神社」研究会報告 ・第4回「古代・中世の神道・神社」研究会報告 ・第5回「古代・中世の神道・神社」研究会報告 2 調査日(開催日) 平成16年8月31日〜9月2日 (第6回「古代・中世の神道・神社」研究会は、8月31日の20時30分〜23時00分・9月2日の8時30分〜10時00分に実施) 3 調査地(開催地) 富山県公文書館(富山県富山市茶屋町) 鹿田村開田図比定地(富山県射水郡大門町布目沢)【下図のい】 櫛田神社(富山県射水郡大門町串田)【B】 田野地開田図比定地(富山県高岡市西藤平蔵)【ろ】 須加野地開田図比定地(富山県高岡市須田)【は】 二上射水神社(富山県高岡市二上)【A】 高瀬神社(富山県東砺波郡井波町高瀬)【C】 井波歴史民俗資料館(富山県東砺波郡井波町高瀬) 雄神神社(富山県東砺波郡庄川町庄)【D】 (第6回「古代・中世の神道・神社研究会」は、庄川荘(富山県東砺波郡庄川町庄)で開催) ※ 凡例 黄緑=三角州性低地 黄色=扇状地性低地 橙=洪積台地 桃=山地 青=海 右(東)の太線は庄川 左(西)の太線は小矢部川 4 調査実施者(研究会参加者・敬称略) 岡田莊司(事業推進担当者) 牟禮仁(皇學館大学神道研究所教授) 藤森馨(国士舘大学文学部助教授) 笹生衛(千葉県立安房博物館上席研究員) 錦田剛志(島根県立博物館主任研究員) 宍戸忠男(國學院大學兼任講師) 加瀬直弥(21世紀研究教育計画嘱託研究員) 永田忠靖(COE奨励研究員) 鈴木聡子(大学院文学研究科博士課程前期) 精園佳子(大学院文学研究科博士課程前期) 横山直正(大学院文学研究科博士課程前期) なお、小林宣彦(COE奨励研究員)も本調査に同行し、第6回「古代・中世の神道・神社」研究会で発表した。 5 調査の詳細 5-1 東大寺開田図の「社」に関する調査 いわゆる東大寺開田図は現在17幅が確認されており、そのうち「社」ないしそれに相当する記述がある箇所は、5箇所(射水郡3箇所・新川郡2箇所)ある。今回は、射水郡の3箇所について、その比定地の状況を以下の通り確認した。 なお、調査に先立ち、富山県公文書館において、古代越中国や東大寺領と開田図作成の由来、さらには今回対象外とした砺波郡の開田図の状況について、同館資料課主任の早水康雄氏より70分に渡って詳細な説明を受け、検討に当たって必要となる基礎的な知識を確認することができた。なお、同館では職員より施設や文書管理方法などの説明も受けた。 (い)鹿田 神護景雲元年(767)11月16日射水郡鹿田村東大寺墾田地図(正倉院所蔵。以下「(い)図」とする)の小田下里4行2に「榛林并神社」という記述がある。この地域に関しては、金田章裕氏の「空間占拠と開拓−越中国射水郡東大寺開田地図−」(佐々木高明編『農耕の技術と文化』集英社・平成5年・1993)による先行研究があり、これに基づくと、射水郡大門町布目沢周辺に比定される。 本調査では(い)図に示された神社東側の「三宅所」の記述や北東の「在家」、さらに南東の水路に留意し、神社比定地の可能性が高い布目沢の交差点及び工業団地周辺を調査した。その結果、神社が3社鎮座しており、現在に通ずる信仰上の共通点が存在する可能性は見いだせたが、『日本古代荘園図』(東京大学出版会・平成8年・1996)の当該地域の説明(吉川敏子氏執筆・6B「越中国射水郡東大寺領荘園図」)によって指摘されている開田図に示された神社と湧水地との関係など、生活と信仰とを関連づける明確な徴候は確認できなかった。 (ろ)田 天平宝字3年(767)11月14日射水郡田野地開田地図(正倉院所蔵。以下「(ろ)図」とする)の田里3行1に「社并神田」という記述がある。金田氏前掲「空間占拠と開拓−越中国射水郡東大寺開田地図−」によれば、高岡市西藤平蔵(柳島)に比定される。この地域については、地形的な特徴等から、「社」に関係する要素を導き出すことはできなかった。 ただし、(ろ)図の社周辺には、「葦原田」や「野」が圧倒的に多い。この地が低湿な地域と見られる旨の指摘は既になされているが(吉川氏前掲「越中国射水郡東大寺領荘園図」)、そうした環境の中に神社が立地していた可能性を確認することはできた。 (は)須加 (ろ)図と同日付の射水郡須加野地開田地図(正倉院所蔵。以下「(は)図」とする)の世岐里2行3に、須加山麓から南下する水路際に「社」という表記がある。また、(い)と同じ日付の須加村墾田地図にも神の居所を示すものと推測される記述がある。この地の比定に関しては金田氏前掲論文が詳細を究めており、社についても、高岡市須田の百橋バス停周辺の地であると理解できる。この百橋のように、「百」を「ど」と読む場合、水が勢いよく流れる様を示すことがあり、こうした点からも水に関連する場所であることが示唆され、神社との関係が推測される。 これらの箇所に加えて、9世紀後半期の越中国内における神階最高位社である高瀬神社(富山県東砺波郡井波町高瀬)を訪れ、そこで井波歴史民俗資料館学芸員の山森伸正氏より、神社付近の概況や、神社の南300メートルに位置する高瀬遺跡の説明を受けた。 荘所跡と見られる高瀬遺跡の出土品からは、仏教との関連が推測される遺物や、『越中国官倉納穀交替帳』(石山寺所蔵・『平安遺文』204)に見られる「家成」と同じ文字が書かれた墨書土器が発見されており、山森氏からはこれらの状況と、出土した遺構に関する説明がなされた。 その他の調査地では、越中国の古代の神祇信仰に関係する資料等を閲覧・収集した。 5-2 第6回「古代・中世の神道・神社」研究会 笹生衛氏「式内社・安房坐神社と安房郡内の古代祭祀遺跡」 笹生氏は、安房国安房郡内(千葉県)における祭祀遺跡を、遺物の年代から3期(I期:4世紀中葉〜5世紀中葉・II期:5世紀中葉〜6世紀中葉・III期:6世紀中葉〜7・8世紀)に分類した。その上で各期について、以下のような特徴を挙げた。 I期 大和王権との関連性が推測される他地域の遺跡と、祭祀の開始時期や石製模造品・鉄器のあり方が類似する大規模な遺跡が1箇所(千葉県安房郡白浜町塩浦・小滝涼源寺遺跡)存在する。 II期 I期に見られた大規模な祭祀の場が消滅する一方で、この時期は当該地域の広い範囲で祭祀の場であったと見られる遺跡が多数存在する。またそれらの遺跡で少量の石製模造品が出土する状況は、それを使用した祭祀が全国的に普及する時期と軌を一にする。 III期 多数展開した祭祀の場が特定の遺跡に集約される傾向にある。その1つ白浜町名倉・沢辺遺跡では、卜骨(方形鑚を刻む第V形式)が発見される一方、擬餌針や多量のカツオの骨などが出土し、カツオの擬餌針漁と関連する祭祀の存在が推測でき、『本朝月令』所載『高橋氏文』に見られる磐鹿六狩命のカツオ擬餌針漁との関連性が窺える。 また館山平野部の遺跡では、祭祀の場が平野部の用水路や沼地から谷部、丘陵部へと展開され、その1つ(千葉県館山市上真倉・東田遺跡)では、大型のV字溝の中に鈴鏡の土製品が含まれている。これは武蔵国とのつながりを窺わせる。なお、前掲『高橋氏文』にも、天皇への料理の献上に武蔵・秩父国造の祖が安房まで赴いている状況が記されている。 その上で笹生氏は、II期とIII期との間に祭祀の場と形態に変化が見られ、カツオ擬餌針漁などの『高橋氏文』との整合性を強調し、神郡安房郡内とその中核である安房坐神社の形成過程を明らかにする鍵となる点を指摘した。 なおこの研究会では、官社制に関する研究動向について、加瀬が説明をした。また、調査参加を行ったCOE奨励研究員および大学院生が、下に示したとおり、神祇関係の史料集成を公開するためのデータとその基礎的な分析結果を発表した。 神社・神社経済 小林 神職 永田 奉斎集団 鈴木 祟り 横山 祭祀 加瀬 神仏関係 精園 5-3 調査・研究会で得られた成果と分析上の課題 これまでの古代神社の周辺環境に関するデータ収集によって、鎮座地と自然条件、特に水との関係が把握され、地域における朝廷の施策の影響関係の解明に迫ることができた。今回の調査は、前者の成果に結びつくデータが蓄積されたばかりでなく、後者の解明に向けて、より具体的なデータが収集された。そしてその核は、朝廷による維持体制が整備されている東大寺が、領内の神社を国郡司との連携の元、これを維持していたという点になろう。 では、これをいかに発展させるべきか、3つ例を挙げて、成果と課題を示したい。 (い)開田図の神社と神田から見られる関係 調査で取り上げた開田図の神社は、いずれも名称が記されておらず、詳細に社会的な位置付けなどを知ることは難しい。いずれも式内社として比定されてもいない点なども、問題の1つとして挙げられよう。 ただ、そうした神社であっても式内社と同様に神田が附属されている。また、今回の主たる対象ではないが、砺波郡の東大寺墾田である石粟村域内においては、「土神(天平宝字3年11月14日施入田地図・三浦梧楼氏旧蔵)」「所神分(年次未詳官施入地図・天理図書館所蔵)」という、おそらくは開墾地の神の分を指すと見られる田地が存在している点である。こうした田地が許容されていること自体、地域の人々の神祇に対する信仰は密接なものであり、朝廷の制度の中でも、一定の範囲でそれが保証されていたことがわかる。 第6回「古代・中世の神道・神社」研究会における笹生衛氏の発表は、そうした点を考える上でも重要な視座をもたらした。笹生氏の発表によって、全国的な祭祀形態が展開された5〜6世紀の状況が、その後に変化し、その過程の中で神祇信仰が、朝廷祭祀制度上重要な位置付けにある神社に発展していくのではないかという推測ができるからである。その変化の決め手がどこにあるのかは、古代神社を考える上においての大きな問題といえるが、この点をより詳細に詰めることができれば、朝廷祭祀が、地域社会にどのような形で受容されたのか(あるいは排斥されたのか)判断することが可能となろう。 (ろ)寺領における神社との関係 荘園に関する信仰のモデルは、既に宇野隆夫氏の『荘園の考古学』(青木書店・平成13年・2001)によって複数示されている。神祇祭祀の問題については、東大寺領越前国横江荘跡(石川県松任市横江町)等の出土遺物から、荘所中枢部においては仏教儀式、周辺部においては神祇・道教的な祭祀を行っていたとしている。 一方、今回の調査結果では、特に須加において水と密接に関わる状況が理解できた。水田開発において神社が関わっている重要性を鑑みると、宇野氏の指摘とは別のモデルも成り立つ余地があろう。そもそも、開田図の中には「三宅所」がありながら寺が確認されなかったり((い)図)、「庄所」とされる場所に隣接しているのは「味当社」であったりする例もあり(天平宝字3年11月14日丈部野地東大寺開田地図)、開田図の中でも検討材料は多く存在する。 (は)開田図以外の地域における信仰との関連 墾田地では、水害に悩まされ、思うように開墾が進まないなどという問題が出来し、生活に不安定な状況に置かれる可能性が高いことは容易に理解できよう。人々が元々根拠にしていた場所は、より安定した場所とみられ、当然信仰の拠点もそうした場所に置かれていたと見られる。 (い)で式内社の神田に触れたが、式内社自体がいかなる場所に比定されているかというと、当該地域に関しては、低位の河岸段丘上であったり(櫛田神社)、洪積台地と沖積平野の境界に位置していたり(高瀬神社)、谷間に鎮座していたり(二上射水神社)するなど、比較的安定した立地にある。 こうした立地は、笹生氏が安房郡内祭祀遺跡のIII期の特徴として掲げた祭祀の場の傾向と類似する。こう考えると、開田図に示された神社とどう違うのか、あるいは短期間で放棄された島根県青木遺跡の神社と推測される遺構との共通性など、全国規模での神社の環境を比較する、興味深い視座が導き出されよう。 それ以外にも様々な検討課題が想定されるが、ひとまず、データの整理がなされた時点でそれを公開することで、神社研究者にその課題に対する意識とその解決への糸口を示していきたい。これは、これまでの神社史料に加え、基礎分析も加えた神祇史料のデータ集成を作成することで示す予定となっている。今回の研究会でCOE奨励研究員および大学院生等が分担して報告した、神祇関係のデータやそれに基づいた分析の発表は、その作業進捗を確認するためのものである。 文責 加瀬 直弥(21世紀研究教育計画嘱託研究員) なお、5-2については、笹生衛氏ご自身に推敲して頂いた。 |
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