碑文 | ◆石碑1(向かって右端):正面 サイパン戦の死者に捧ぐ 1996年12月 1944年におけるサイパン島の攻防戦にあたり小城靖夫中尉を長とする今は亡き日本<改行>帝国陸軍の独立山砲兵第三聯隊第三中隊の将兵百六名はアスリート飛行場の東方にあった<改行>その陣地において来寇した米軍を迎え撃ちその火砲の全てが敵火によって破壊されるまで勇戦<改行>奮闘した.しかもその後この先頭の最後の段階にあたり、小城中尉以下同隊の残存の將兵は砲<改行>兵部隊として任務を終えた後同年6月26日の夜、アスリート飛行場にあった米軍陣地に突<改行>入し全員が敵火に倒れた. これらの將兵並びに米軍および日本軍の戦死者、殉難した現地の人々および日本の民間人<改行>等すべての人々の冥福を祈ると共にサイパン島その他太平洋の全地域における平和を願って<改行>ここにこの碑を建設する. この碑が北マリアナ連邦および日本の友好のシンボルとなるよう心から祈念する. 久留米独立山砲兵第三聯隊第三中隊戦友会・同部隊将兵遺族 <英文略> ◆石碑2(向かって右から二番目):正面 <縦書き> 久留米独立山砲兵 慰霊之碑 第三聯隊第三中隊 小城中隊長以下百六柱 ◆石碑2(向かって右から二番目):裏面 <縦書き> 独立山砲兵第三聯隊第三中隊は昭和十九年三月歩兵第八十九聯隊第<改行>三大隊(佐々木大隊)に配属となり、ナフタン、オピアム岬方面に布陣して<改行>ゐた処六月十五日アメリカ軍の上陸を迎へ激戦十余日遂に火砲悉く<改行>破壊された為残存将兵は小城中隊長を先頭 第二迎撃隊となり廿六<改行>七日に「七生報国」の相言葉のもとアスリート飛行場の敵陣に突入し国<改行>に殉じて全員戦死を遂げた。平成五年三月当地にて五十年祭を執行し ◆石碑2(向かって右から二番目):向かって右側面 <縦書き> た後建碑の議起り茲に御遺族及び有縁の戦友等相諮り此処久留米独<改行>立山砲兵第三聯隊第三中隊玉砕の地に慰霊の碑を建てるものである 平成八年六月 ◆石碑3(中央):正面 <縦書き> 戦没將兵之銘碑 独立山砲兵第三聯隊第三中隊 小城中隊長以下百六柱 <人名省略> ◆石碑4(向かって左から二番目):正面 <縦書き> <人名省略> ◆石碑5(向かって左端):正面 <縦書き> <人名省略> 遺家族一同 戦友会一同
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