東部ニューギニア(パプアニューギニア)慰霊碑データベース
日本から南におよそ5000キロ離れたニューギニア島では、大東亜戦争中、日本軍と連合軍の激しい戦いが繰り広げられました。ことに、現在のパプアニューギニア独立国(PNG)の北岸一帯、すなわち日本軍が「東部ニューギニア」と呼んだ地域は、フィリピン進攻を目指す連合軍と、それを阻止しようとする日本軍の決戦場とされ、昭和17年から20年8月に至るまで、3年の長きにわたり凄惨な戦いが続きました。東部ニューギニア戦線に動員された日本軍(第18軍、第4航空軍、海軍部隊)はおよそ15万名、うち、約12万8千名が戦没したとされていますが、その多くは飢餓やマラリアなどの病、さらに長距離にわたる敗走のさなかに密林や山岳地帯において斃れたとされています。兵隊達に「ジャワは極楽ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われたニューギニアの戦いは、大東亜戦争で日本軍将兵達がなめたありとあらゆる惨苦が全て凝縮している戦場といえましょう。PNG地域における日本人戦没者のための慰霊碑建立のはじまりは、昭和30年に日本政府が実施した遺骨収集に求められます。このとき、18軍最後の拠点であったウエワクやアイタぺなどの収骨地に、日本政府が作った「戦没日本人之碑」が建立されました。さらに昭和40年代以降、戦友会や遺族たちによる遺骨収集や慰霊巡拝が活性化するとともに、かっての激戦地や日本軍拠点跡に次々と慰霊碑が建立され、同56年には東セピック州の州都、ウエワクに、日本政府によって「ニューギニア戦没者の碑」が建立されています。
広大な東部ニューギニア各地に展開する慰霊碑全てを調査することは非常な困難が伴います。そこで、ここでは暫定的に東・西セピック州、マダン州等に現存する慰霊碑のうち、比較的アクセスしやすい場所にあるものについての調査データを公開したい。
東部ニューギニア慰霊碑等一覧
整理 番号 | 名称 | 建立場所 | 建立年月日 |
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1 | 平和公園政府慰霊碑 | 東セピック州ウエワク | 昭和56年9月16日 |
2 | 平和公園戦没日本人之碑 | 東セピック州ウエワク | 昭和30年 |
3 | 洋展台英霊碑 | 東セピック州ウエワク | 1969年1月吉日 |
4 | コイキン観音 | 東セピック州ウエワク | 1980年8月23日 |
5 | 地蔵菩薩像 | 東セピック州ウエワク | ----- |
6 | 観世音菩薩像 | 東セピック州ウエワク | 昭和61年7月 |
7 | 陸軍伍長打越操慰霊碑 | 東セピック州ウエワク | 平成4年9月 |
8 | ウォム岬オーストラリア戦勝記念碑 | 東セピック州ウエワク | |
9 | 洋展台オーストラリア記念碑 | 東セピック州ウエワク | |
10 | 日本軍将兵慰霊之塔 | 東セピック州ボイキン | 昭和62年 |
11 | 独立工兵37聯隊戦没者慰霊之碑 | 東セピック州ボイキン | 1996年8月 |
12 | 韓国人受難戦没追慕碑 | 東セピック州ボイキン | 2002年5月.11日 |
13 | 収骨地 | 東セピック州バロン | ----- |
14 | 大和合同英霊碑 | 東セピック州ブーツ | 1971年1月 |
15 | 田口武義慰霊塔 | 東セピック州ソナム | 1999年 |
16 | 観世音菩薩像(飛行第六十三戦隊慰霊碑) | 東セピック州ソナム | 昭和61年9月 |
17 | ソナム・アイタペ地区戦没者供養塔 | 東セピック州ソナム | 1997年9月8日 |
18 | 卒塔婆 | 東セピック州ソナム | 平成18年9月 |
19 | 鎮魂碑 | 西セピック州マルジップ | 平成19年3月 |
20 | 陶製地蔵菩薩像 | 西セピック州マルジップ | ----- |
21 | 忠魂碑 | マダン州マダン | ----- |
22 | 忠霊塔 | オロ州カギ村 | ----- |