おはらいの文化史 近世における祓の展開


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目次

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A. 吉田神道と吉川神道

A.1. 近世の吉田神道と中臣祓

 吉田神道は、中世までに一定の教学と儀礼の体系を整えていたが、近世に入ると制度・教説の両面において新しい展開を見せた。制度的には、中世以来、吉田家が各地の神職・神社に対して許状を発行していたのを基礎として、江戸幕府が寛文5(1665)年に『諸社神主禰宜法度(『神社条目』)』を発布し、吉田家を神職の身分的支配の根幹に位置づけたことに大きな原因があった。
 『中臣祓』は、近世の比較的初期の刊行開始と推測されるが、卜部兼直や兼倶による『神道大意』や卜部家の系譜とともに中臣祓と六根清浄太祓を合冊して1冊の版本にまとめたものである。この版元は、吉田神道と関係の深い日蓮宗関係の出版を手がけている書肆であった。
 教学面では、近世初頭に吉田神道の道統継承に新たな展開が見られた。神祇管領吉田兼治の長男であった萩原兼従(天正18~万治3(1590~1660)年)は吉田家の勢力拡大の意図のもと家督を継がずに豊国社の社務職につくが、豊臣氏の滅亡によって失職したのちは吉田家後見人として同家の学問を支えた。彼は門人のなかでも吉川惟足に信頼を寄せ、吉田家のみで血脈相承してきた同家の神道の道統を伝授した。当時の吉田家当主が幼少であったため、道統の断絶を恐れた措置であったが、のちに惟足から吉田家へ伝授し返そうとしたときには、これを完全には行うことができなかった。

A.2. 吉川神道と中臣祓の講説

 江戸日本橋の商家の養子だった吉川惟足(元和2~元禄7(1616~94)年)は、36歳のときに鎌倉に隠居し、38歳で萩原兼従に入門、前述のように兼従の信頼を得て吉田神道の道統の伝授を受けた。吉田家への返伝授は全うされなかったが、吉田家の教説・秘伝が同家の外へと開かれたという点では、惟足は重要な転換点となった。惟足の神道説は、吉田神道を継承しつつ、他方で朱子学を受け入れ、山崎闇斎や会津藩主保科正之と学問的交流を結ぶなかで、吉田の教説の脱仏教化を図るものであったが、典拠としては『日本書紀』神代巻とならんで『中臣祓』が多く用いられた。惟足は、祓には、心の清らかさに関わる内清浄と身体の清めである外清浄の2つがあり、両方を行なう必要があると考える。『中臣祓講談』は寛文9(1669)年8月に行われた鎌倉山内の吉川邸での講談を伊藤兼為が筆記し、これを享保16(1731)年8月に伊藤茂兵衛牧通が写したものである。

A.3. 近世の伊勢神道説と中臣祓

 中世には伊勢神道説や伊勢流祓を形成した伊勢の地であるが、近世に出口延佳(元和元~元禄3(1615~90)年)が登場すると中臣祓註釈も新しい展開を迎えた。出口延佳は、豊受大神宮(伊勢外宮)の権禰宜で、本姓は度会神主である。豊宮崎文庫を創設するなど学問の興隆に尽力した。中臣祓に関する延佳の著書『中臣祓瑞穂抄』は、万治2(1659)年の講説にもとづき、寛文6(1666)年秋に出版された。『中臣祓訓解』、忌部正通『日本紀神代巻口訣』、一条兼良『日本紀纂疏』など先行の註釈をふまえつつ、神道と儒教とりわけ易との合一を認める立場から古典を読解して独自の註釈を示している。文献の比較考証にもとづく中臣祓註釈として早い時期に属している。

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B. 垂加神道と国学の祓研究

B.1. 垂加神道における中臣祓と伝授

 吉川惟足と同時代に生きた山崎闇斎(元和4~天和2(1618~82)年)は、朱子学を学んだのち、保科正之を通じて吉川惟足と知り合い、その神道説を学んだ。闇斎は、神道と朱子学をそれぞれ学ぶ重要性を主張したが、その神道説である垂加神道では、その形成の重要な契機が伊勢外宮の出口延佳の弟子河辺精長(慶長6~元禄元(1601~88)年)からの中臣祓の伝授だったことからも明らかなように、中臣祓を重視していた。闇斎は祓によって心身を清浄にし、ひたすらに神を祈って心神を受けることができるとしており、祓を「天人唯一」を実現するための儀礼的な実践ととらえていた点に特徴がある。中臣祓をめぐる闇斎の考えは、晩年の著述である主著『中臣祓風水草』に結実した。
 闇斎の門人たちのうち、正親町公通(承応2~享保18(1653~1733)年)はその神道の道統を継承した。公通は、延宝8(1680)年に山崎闇斎に入門して垂加神道を学び、やがて高弟となった。闇斎の病状が悪化して垂加神道の道統継承の権限ととも公通に託されたのが、ほかならぬ『中臣祓風水草』の自筆草稿であった。
 闇斎は自らの教説を秘伝としていたが、門人たちが多く存在したこと、また一部の門人たちが闇斎からの伝授を公開したことなどもあって、その中臣祓解釈は社会にある程度の広がりをみせた。玉木正英(寛文10~元文元(1670~1736)年)は京都梅宮大社の神職で、出雲路信直から垂加神道の伝授を受けたのち、正徳3(1713)年に正親町公通に入門した。『中臣祓風水草管窺』は、正英が山崎闇斎『中臣祓風水草』の要点を述べた上で自説を述べたもので、原著は享保5(1720)年5月に成立した。本書は山崎闇斎門下の浅見絅斎あさみけいさい(承応元~正徳元(1652~1711)年)の高弟若林強斎(進居ゆきやす)(延宝7~享保17(1679~1732)年)の弟子である西依成斎(正固)(元禄15~寛政9(1702~97)年)が書写したものである。本書には、國學院大學図書館蔵本をはじめ、類書がいくつか存在している。写本という形態が、秘伝を秘する方向で作用するのではなく、流布させる働きをもっていた点に注意が必要である。

B.2. 国学者の大祓詞研究

 古典研究と古道の学びが結びつく国学にあって、祓詞についての研究は、早くは例えば荷田春満(寛文9~元文元(1669~1736)年)に関わる『大祓和解』(写本、県居文庫蔵)などがあげられるが、本格的な文献考証は、賀茂真淵(元禄10~明和6(1697~1769)年)に始まる。それは祝詞研究についての晩年の成果『祝詞考』の一部をなしている。ただし、ここでは中臣祓ではなく大祓が対象とされた。すなわち大祓詞こそが祓の本来あった姿と考えられたのである。この基本姿勢は、その後に続く国学者たちによって継承され、文献の比較考証にもとづいて大祓詞の本文の校訂と註釈が進められた。本居宣長(享保15~享和元(1730~1801)年)『大祓詞後釈』はその代表例で、真淵の説に対して逐条的に修正・批判を加えたものである。他方、平田篤胤(安永5~天保14(1776~1843)年)が『霊能真柱』でケガレと祓を含む神道的コスモロジーを描出すると、祓を宇宙像のなかで考察するという思考のあり方も広がりをみせる。すなわち、宣長が黄泉国とケガレの関係を述べたのを受けて、服部中庸なかつねが『三大考』で天・地・泉の形状と生成過程を論じて黄泉国を位置づけた。篤胤は『霊能真柱』でこれを批判しつつ、ケガレと祓の性格について天体や国土の成立と結びつけた論じた。ケガレは空間的にどこからどこへ去来するのかというこの問題意識は一部の国学者に引き継がれた。岡熊臣(天明3~嘉永4(1783~1851)年)の著作『大祓詞塩之八百会』はそうした成果のひとつとして理解できる。

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C. 祓の実践―羽田野神主家文書より

C.1. 羽田野神主家と羽田野敬雄

 羽田野神主家は、三河国渥美郡(現・豊橋市)の羽田八幡宮(羽田村)・神明宮(田町)両社の神主を務めた家である。第5代の重樹ののちいったん中絶するが、吉田方村の神職の子に生まれた敬道(宝暦4年~天保9(1754~1838)年)が文化年間(1804~17)に第6代を継承して中興した。文政元(1818)年に敬道の養子となり同家を継いだ羽田野敬雄(寛政10~明治15(1798~1882)年)は平田国学の学塾である気吹舎の有力者としても広く知られる。敬雄は文政8(1815)年に本居大平に入門したのち、同10(1817)年に気吹舎に入門する。その後、草鹿砥宣隆(文政元~明治2(1818~69)年)ら地域の有力神職と学問をはじめさまざまな交流をしながら、神職に直接関わる運動だけでなく、学芸方面でも活発に活動し、三河および周辺地域の気吹舎門人の中心人物となる。神祇に関わる研究としては、『延喜式』の版本などにもとづいて式内社の調査・同定を行い、三河国の式内社についてはそこに至る道標の建設を進めるなどした。草鹿砥らとは書物の貸し借りや書簡による意見交換をさかんに行い、明治初年には神道の葬祭については草鹿砥宣隆著『葬祭記略/同批評/祠堂祭儀 同批評』(合本)に結実した。羽田八幡宮文庫を拠点とした文庫の建設と書籍の収集にも尽力した。同文庫の書物は敬雄の死後にいったん散逸の危機を迎えるが、市などによる再収集の努力によって、現在は大部分が豊橋市立中央図書館に収蔵されている。敬雄は維新後は皇学所御用掛、三河県修道館教授、豊橋藩皇学教授、権少教正などを歴任した。

C.2. 羽田野神主家文書における神道裁許状と中臣祓

 國學院大學所蔵の宮地直一旧蔵資料には、羽田野神主家に所蔵されていた資料群が含まれている。縦長の木箱2箱に収められたもので、神道裁許状をはじめとして吉田家から授与を受けた文書が大半を占めている。箱に宮地が記した裏書によれば、おそらく古書店に出ていたものを宮地が購入した記憶があるという。この文書類については、宮地直一の亡くなった9年後である昭和33(1958)年に子の宮地治邦が論文「吉田神道裁許状の授受について」(『神道学』19)でその概略を報告している。ここでは吉田家側の記録である「諸国礼物之定」や羽田野敬雄による記録『萬歳書留控』の記事と照合しながら裁許状の礼金などを明らかにしている。
 中臣祓に視点を定めてこの資料群を見直すならば、これとは違った側面が現れる。神道裁許状の授与とともに、中臣祓が要所要所に顔を出すのである。羽田野敬道は、羽田八幡宮・神明宮両社の神主を継承する以前に吉田家から中臣祓六根清浄大祓および諸儀礼13か条の授与を受け、神主継承の際にも継目許状とあわせて両祓と諸儀礼19か条の授与を受けている。この諸儀礼については、敬雄が授与を受けたものとして病者加持や先祖祭の次第などが残されている。これらをみると儀礼の進行の要所において中臣祓の全文あるいは部分の文章を用いるべきことが指示されている。ここでは、吉田家配下の神職にとって中臣祓がもっていた意味が具体的に浮かび上がってくる。

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