土佐藩士坂本龍馬は、歴史を動かした人物として幕末期における活躍が有名であるが、日本語の歴史の上にも貴重な足跡を残したといえる。すなわち、龍馬の残した消息のうち、姉の坂本乙女やおやべなどの女性親族宛の数通はことに、候文体のなかに口語、しかも土佐方言を少なからず交えて綴っており、朋友の武市半平太(瑞山)の夫人宛の消息とともに土佐の幕末期の方言を解明する上で有益である。
ところで、文久三年(1863)六月二十九日と推定される消息に、
この文は極大事の事斗(ばかり)にてけしてべちやべちや(原文踊り字)シヤヘクリには
ホゝヲホゝヲいややのけして見せられる(「る」は原文のまま)ぞへ
の一節があり、傍線部の「や」は、現代の近畿地方を中心とする西日本の方言で使用されている断定の「や」に連なる用例であるといえる。ところが、実は、この断定の「や」は上方語においてもそれほど古い言葉ではないようである。前田勇編『近世上方語辞典』には、元治前後の成立の『穴さがし心の内そと』の、
それを又づらしてやつたら、えらう怒り升やらうナ(弟子→女髪結)
の例を掲げて、「弘化頃から現われる。ただし未然形『やろ』が多く、終止形『や』はまれである。」という。そして、近世の上方語において断定の助動詞としては中世以来の「ぢゃ(じゃ)」が専ら行われていたのが幕末期に至って「や」が現れ、「ぢゃ」を外側に押しやる形で上方を中心に「や」の勢力が拡大して現代に及んでいると考えられる。これは方言周圏論(注、
本学で国語学概論などの時間に学ぶ学説)にあてはめて解釈できる事例の一つであろう。
しかし、龍馬が「や」を用いたのは現存する消息のなかではこの1例のみであり、同じく土佐藩士で口語的な表現が多く見られる武市半平太の夫人宛消息でも断定には「ぢや」のみを用いており、現代の高知方言で用いられる「や」は見られないところから、幕末期の土佐においては上方で現れたばかりの「や」はまだ波及していなかったのではないかと推測される。それではなぜ龍馬は1例のみではあるが「や」を用いたのであろうか。龍馬は京都で活躍することが多かったために京都で使われ始めたばかりの「や」に接する機会があったのであろうか。あるいはすでに土佐方言にも「や」が用いられるようになっていたことを示す事例としてとらえることができるのだろうか。この謎の解明のためには、さらに用例を探し出して検討することが必要となる。 |