思索や思い出の余白に

森敦研究会 エッセイ

「鉄門海上人の申し子」という信仰

 『われ逝くもののごとく』を紐解くと、まず迫ってくるのが、太平洋戦争終戦前後の庄内地方のリアルな描写であるが、こうした描写を平成生まれの人たちはどのように感じながら読むのだろうか。
 民俗学という学問は、生活習慣を読み解く学問というように表現することもできるが、ある時に行われているものを、その時のものとして考えるものではない。民俗事象は生活の中で行われた「あること」が、形を変えながらも伝承されていくものとして読むという思考を民俗学ではとる。
 例えば、密造酒のことが話題になり、「海の酒」「山の酒」と言い習わしていること、密造酒「山の酒」を売る闇屋はバスに乗らないとか、背広を着た者を見かけると査察が入ったとして、送電線の保安のためにおかれている電気電話でそのことを伝えて広く備えさせることが記されている。これを時代的な出来事として捉えればそれきりであるが、そうしたシステムがどういう社会的な付き合いの中で生まれたのかということを考えると、決してある時代に限定されるものではないということがわかってくる。そうした思考が言ってみれば、民俗学的な思考ということになる。
 前置きはそれくらいにして、私がまず注目してみたいのは、注連寺の鉄門海上人に対しての信仰である。子が授からない「じさま」が、「神様」から言われて鉄門海上人を信じて真言を称えて、子宝に恵まれ、その子宝である「だだ」が戦死し、どうしたらよいかと「神様」を訪ね、注連寺に行くという最初の4分の1ぐらいに出てくる話は、子授け祈願と供養の民俗信仰のあり方をよく表している。そして、文学が民俗を考えるのに非常に有効なのは、そこにその信仰を伝える人の心情がよく表現されているということなのである。近年の民俗学は、そういう信仰を伝える心に寄り添う研究が少なくなったように思う。
 私はまず、この地域に生きる人々の鉄門海上人についての信仰を考えて見たいと、11月の調査からも強く思った。

民俗学者 大石泰夫

虚と実を踏む

初めて足を踏み入れた庄内で、私は森敦の創りあげた小説の舞台を一文一文追いかけるように実際に歩いた。『月山』に、『われ逝くもののごとく』に描かれた地をただ訪ねたというだけではなく、私はそこでテクストを歩いたのである。「テクストを歩く」という日本語はおかしい気もするが、それでも私は間違いなくテクストを歩いた。実際に『月山』を開きながら「新道」を歩くと、書いてある通りに「銅葺きの屋根」が見えてきて、すごいと思ったし、ぎょっとした。私はテクストを実感と共に歩むという感覚を生まれて初めて味わったのである。
 そして強く印象に残ったのは、注連寺を訪れたときのことである。初めて注連寺を見たとき、「思っていたよりも大きいのだな」と思ったし、友人とも「想像と違ったね」と話した。私たちは実物の注連寺に対して想像とずれていると評価したのである。さらに、注連寺に入ってみるとカメムシがたくさんいて、「小説のまんまだ」と感動した。そうかと思えば、六畳であるはずの部屋は八畳あって、「小説と違う」という発見もした。私は、想像していた景色を実際の景色に置き換えながらも、テクストを基にその景色を見ていたのである。私は、ここで現実の強さを感じた。そして想像やテクストの強さもまた同時に思い知った。
 「実と虚は対ではない。実であり虚。虚であり実」と教わった。私は現地で実と虚に触れ、この言葉を体感したのである。

文学部日本文学科 長谷川 彩

来ばえちゃ!

『われ逝くもののごとく』プロジェクトに加えていただき、初めて山形県庄内地方を訪ねた。
 現地では「来(こ)ばえちゃ」というフレーズをよく目にした。観光物産館やガソリンスタンドなど、観光客がよく利用する施設に目立つように掲げられている。地元方言による「いらっしゃいませ」にあたるウエルカムメッセージは、京都の「おいでやす」、沖縄の「めんそーれー」などをはじめ各地に見られるが、「来(こ)ばえちゃ」はそれらとも少し違っていて、共通語の語感からすると少し不思議な感じがした。「来ばえちゃ」は、共通語に直訳すると「来ればいいよ」である(終助詞の意味は正確には訳しきれないが)。しかし共通語では、客を歓迎して積極的に受け入れようというときには、「来ればいいよ」とは表現しないのではないか。
 方言と共通語は、常に一対一で直訳可能なわけではない。両者を対照すると、それぞれの発想に基づいた表現のずれが垣間見えることがある。書き言葉である文学作品に方言を取り入れるとき、このようなミスマッチの部分がどのように処理されるか。これは一つの注目点であると考えている。
 東京に帰ってからもしばらく考えた。共通語の「来ればいいよ」は、話し手が聞き手に積極的な働きかけはせず、聞き手の意向に任せる、話し手は関与しない、という態度を表している(「来たければ来ればいいよ」とするとよりはっきりする)。しかし「来ばえちゃ」の意図はそうではなく、話し手は聞き手に積極的に働きかけて、ぜひとも来てくれるように強く勧めていると受け取るべきだろう。共通語では「おいでよおいでよ」といったところか。実はこのような「強い勧め」をどういう表現形式で表すかは各地方言で一定せず、各方言で様々な形式が援用されている。

國學院大學教授 三井はるみ

見えてしまった風景

 実風景は、本当にあるのだろうか。テクスト『月山』は平面だった。内部/外部の考え方を知り、地図の言語を知り、よりその印象は増した。「これが月山だよ」「注連寺だよ」そう言って見せていただいた写真もまた平面だった。現地に行くと、この感覚はどうなるのか。期待と恐れを半分ずつ持って、東京を発った。
 十王峠の送電線の鉄柱へ向かう細い山道を登った。滑るので足元が気になるし、草木が生い茂っていて暗く、ずっと下を向いていた。前方で頂上に着いた人たちの笑い声が聞こえた。顔を上げると、急に視界が明るくなった。送電線の柱が見え、紅葉と、眼下に広がる集落が見えた。この十王峠からの風景は、思いがけず、テクスト『月山』を思い起こさせた。『月山』は立体だったのか、と思った。この場所が境界である理由も分かるように感じた。
 しかし、この感動を誰かに伝えたいと思ったとき、どうしても平面になってしまう。写真に撮れば平面、文字に起こしてもまた平面で、立体の『月山』を伝えるのはとても難しかった。それはその土地そのものでも、テクスト『月山』でもなくて、『月山』の言語風景を通して、見えてしまった景色なのだ。
 注連寺の裏山には、卵塔もススキもあった、鷹匠山も見えた。私は興奮した。卵塔もススキも鷹匠山も、ただそこにあるだけなのに興奮されて驚いただろう。現地を訪ねて、テクストを通して現地を踏む、その感覚を得た。実風景はあった。それでも、現地に行った後読み返した『月山』は、思い浮かぶ景色は変わったものの、変わらず平面で、これが平面に記載された地図の言語か、と納得した。

文学部日本文学科 原 美優

森敦文学の力

 森敦の足跡を辿って、庄内、ソウル、尾鷲を訪ねた。どの土地に赴いても驚嘆するのは、物語で描かれていた土地が眼前に存在するという事実である。むろん、虚構である小説や随筆と、現実の土地は違う。時間の経過やそれに伴う変化も埋められない。しかし、そのような様々な懸隔を凌駕する形で、虚構であった筈の土地が、新たな〈現実〉として迫り来るのだ。
 特にその思いを感じたのは、2016年夏、韓国・ソウルを訪問した時だった。そこにあるのは、何度も訪れて知っていた筈のソウルの景色ではなく、在りし日の〈京城〉の姿だった。もちろん、当時の〈京城〉のことは、文献や資料の中でしか知らない。土地はその名を変え、建築物は殆ど取り壊され、そこには新たな建物が建築されている。〈京城〉は実に韓国らしい現代都市へと変貌した。苦々しい過去として〈京城〉の記憶を抹消した筈のその街には、しかしながら、確かにその痕跡が残っていた。現に、私の眼前には、「明洞」ではなく、森敦が幼い時分を過ごした〈黄金町〉の景色が広がっていたのだ。
 現在のソウルの姿から日本統治時代の〈京城〉を読み取ることが赦されるのか、私には容易に判断できない。誰かが負った傷や痛みは消えない。しかし、森敦が描く〈京城〉の姿からは、郷愁の念、温かみ、そしてこの土地やこの土地の人々への愛情が確かに感じられるのだ。森敦文学には、日本と韓国の架け橋となる力がある、と、私は信じている。

國學院大學大学院博士課程後期 齋藤樹里

言葉によって導かれるもの

 私が森敦作品の中で初めて読んだ作品は、「月山」である。庄内地方に赴いたことがなく、地形も知らなかった私が手掛かりにできるものは、テクストそれ自体であった。読んでいて実感したことは、テクストを読んで体験するのはあくまでも言語空間の〈七五三掛〉なのだということである。つまり、語り手の語り方によって全てが決まってしまうということだ。語り手の「語り方」に注目すると、語られた過去の「わたし」だけでなく、語っている現在の「わたし」の存在に気づく。例えば、「月山」では「してみれば」という言葉が出てくる。「してみれば」という言葉からは、過去を語ることで現在時の「わたし」の気持ちに変化が起きていることが分かる。私はそれまで文章とは自分の考えを表すものだと思っていた。しかし、書くことで考えが導かれてしまうことに気がついた。言葉(表現)によって物事を考えているのだ。
 これを森敦の「意味の変容」の内部/外部・境界理論を用いて考えてみると、内部を語られた過去、外部を語り手の「わたし」がいる現在、境界線を「語り」と置くことができる。語り手の「わたし」は語ることで過去を再体験している。では、「月山」で考えるとどうだろうか。内部を「月山」と置くと、外部を推敲過程で「月山」に含まれなかった原稿、境界を森敦の執筆と置くことができるのではないか。「月山」は森敦が書くことで導き出された作品と言えるであろう。

文学部日本文学科 佐藤知見

試験問題

 台所にいる私にも聞こえるような大声を出した。
「驚いたなあ」
 何事かと、小走りに応接間に行った。水仕事をしていたので手は濡れたままだ。ソファーに横になって、印刷物を見ながら大声を出したのだ。その印刷物は、私が郵便受けから持ってきた封書から取り出したものだ。どこからきた封書なのか確かめずに手渡した。手開きで中の印刷物を取り出したようだ。
 私が近づくと、ひとり言のように呟いた。
「ぼくの文章が試験問題になっているのだが、答えられないよ」
 自分で書いた文章が分からないとは? 深入りするとややこしくなるので、台所に戻った。
「不合格だね。自分の文章で不合格とは、あああ!」
と、家じゅうに響くような大声で言った。
 試験問題は小説『月山』の一文を使っているようだ。どのような問題なのか、私も試してみたかった。
「お茶を飲もう」
 お茶とは紅茶のことで、紅茶を飲みながら話し相手になってほしいということでもある。
「ぼくの文章を試験問題に使うとは、驚いたね」
 そう言って、呵々大笑した。

森 富子

近代文学を超える

『われ逝くもののごとく』を読めば、それは死と生にまつわる物語(narrative)の一大構造体である。そこで勝っているのは、いまだ色濃く残っている湯殿山信仰を背景とした超常的な摂理であり、善宝寺の龍神様の祟り、鶴岡の神様(霊媒師)、予知能力や神がかりのやっこら、宗教的・呪術的な挿話が、巧みな叙述(narration)によって構築されていく。それは、単純に事実として断定されるのではなく、太平洋戦争から戦後の混乱、さらに酒田大火までの現実社会の歴史と葛藤を繰り広げながら、それでもなお巧みに現代に蘇る。
 だが、森敦文学を復古的・尚古的な宗教文学や幻想文学としてとらえるのは明らかな間違いである。森敦の中にあるのはそれだけではない。そこには、『意味の変容』で展開された光学や位相幾何学の近傍理論などの現代科学があり、少年時代から耽読した論語に代表される基層哲学があり、さらには『吹雪からのたより』に認められた密蔽と非密蔽に関する小説の構造論がある。森敦が成し遂げようと試みたのは、近代社会と近代文化にがっちりと絡め取られた近代文学の伝統を、その伝統と正面から取り組むとともに、そこで見失われた要素、そこでは傍流とされた発想を再導入することによって超えることではなかっただろうか。
 森敦は昭和初期に『酩酊船』を書いた後、『月山』で再デビューを飾るまで、全国各地を渡り歩いて小説修行を続けた。そのながの年月は、そのような目標を達成するために、どうしても必要な時間だったのだろう。

北海道大学大学院教授 中村三春

森敦と横光利一師

 30年来横光利一について考えてきたが、森敦は常に気になる存在だった。横光の推挙で『東京日日新聞』に「酩酊船」を連載することが決まったときの記者会見の写真。両者とも羽織袴でカメラを見据えている。横光の一重まぶたに鋭い眼光がやどる。他方若き森敦は眼鏡をかけているが、大きな眼は茫洋としてどこを見つめるともつかない。後年還暦の芥川賞作家として衆目を集める白髪の、ギロリとした目玉はすでにそこに在る。
 横光晩年の作品に登場する若き数学者の像、例えば『旅愁』の千鶴子の弟である槙三、『微笑』の栖方。いずれも「零」の位置や「排中律」について語る。戦争とともに混迷を深めた横光の作品世界では、西洋的合理精神の権化たる数学の世界が日本古来の神道に通じ、相対性原理を批判するとともに、戦況を覆す秘密兵器の製造に結ばれる。西洋的なものへの懐疑と憧憬とが、矛盾したままそこに在った。
 森敦の内/外の理論は、数学の集合論から端を発し曼陀羅の世界観にまで展開する。その志向性は師横光利一の衒学的な数学観に影響されたものだとも感じられる。ただし、森敦自身は、師との回想の中で、横光に集合論を教えたのは自分だとしている(『文壇意外史』)。
 事の真偽はともかく、二人の精神には、そのまなざしに宿る科学的な厳密さへの憧憬と、その科学性とは相反するような文学的創造への信仰とが、分ちがたく絡まり合い、存在しているのである。

大阪樟蔭女子大学教授 黒田大河

おらほの庄内

 高いビルひとつなく、空が広い。見渡す限りに広がる田園風景と連なる山々。人が群がる観光地もない。私が育った山形県庄内地方は、穏やかな空気が流れる自然豊かな土地でした。
 大学進学のため上京した私は、ふとした縁で森敦研究会と出会うことになりました。きっかけをくれたのは父でした。「月山」を読み始めたとき、私は地元のことを何も知らなかったのだと気づかされたのです。地元について学び直すきっかけが生まれ、その地で生まれ育ったことを少し誇れるようになったとき、なぜ森敦が庄内地方を物語の舞台に選んだのか、少し腑に落ちたような気がしました。
 研究会での一番の思い出は自筆原稿に触れたこと。森敦が試行錯誤した軌跡を実際に体感できる感動、そしてそこからまた新たな発見が生まれるあの瞬間は、もう一度体験したいと思うくらい忘れられない記憶として、今なお私の胸に刻まれています。
 パソコンに向かい、文章をつづる今、当時の森敦研究会を非常に懐かしく思います。森敦文学に一生懸命向き合って、考えても辿りつけないという感覚に陥ることはもうないかもしれないことに寂しさも感じます。改めて貴重な経験をさせてただいたことに感謝しています。井上先生、山本美紀さん、渡辺八千代さんには特に感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。

森敦研究会2016年卒 荒浪彩

物語というフィルター

 在学中に一度だけ庄内を訪れたことがある。2017年3月のことだった。森敦研究会の活動の一環だったため、「われ逝くもののごとく」に限らず森敦文学に登場する土地や建物を見て回ることができた。春先の注連寺は「月山」で語られるほど雪に埋もれてはおらず、加茂坂トンネルは封鎖されていて「われ逝くもののごとく」で語られる「縹渺たる別世界」へと抜けることはできない。それでも残雪から頭だけを出した石碑を見て冬の積雪を思ったり、封鎖用のフェンス越しにトンネルの向こう側へ目を凝らすことはできる。これらの行動は目の前の風景を物語の〈風景〉として捉えているからこそ発生する行動であり、もしも「月山」や「われ逝くもののごとく」を読まずに同じ場所へ訪れたとしたら起こりえなかった行動だろう。
 一度物語を読んでしまえばもう「物語を読んだことがない」状態へは戻れない。私はどうあっても現実の加茂坂トンネルを通して「われ逝くもののごとく」の〈加茂坂トンネル〉を見ようとしてしまうし、それはほかの地に対しても同様だ。なんの意味付けもなされていない庄内を見つめることはひどく難しいように感じる。この「物語」という一種のフィルターはこれからも外れることはない。学部を卒業して一年が経とうとしている今も私の中で庄内の土地は森敦文学と結びついている。いつかまた庄内へ行くことがあったら、私はもう一度あの〈トンネル〉の向こう側を覗こうとするのだろう。

森敦研究会2017年卒 和田みのり

地図空間と物語空間

 地理に疎い私は、昨年まで庄内という地域さえ知らず、そこに聳える山や通る電車などは尚更だった。私はいまだ、庄内を訪れたことがない。今夏にようやく行くことが出来るため、非常に楽しみにしている。それは置いておくとして、つまり、私は実在する庄内という空間に対してほとんど無知だったのである。
 その私が、今回地図を作製した。この地図は「われ逝くもののごとく」に描かれる場所をまとめたもので、実際にある地域や山川の位置関係を平面状に描き表している。しかし、描き表してしまえばそこはもう実在する庄内ではない。もっとたくさんあるはずの地域や山川を取捨選択して作り上げた、虚構の庄内だ。そしてその虚構の庄内を辿りながら、今度は「われ逝くもののごとく」で描かれる、語られた庄内を辿るのである。逆もまた然り、語られた庄内を辿りながらこの地図は生まれた。
 不思議な感覚だ。見知らぬ土地であるはずなのに、私は庄内について知っているような気がしている。私の中にあるのは、実在の庄内を抜きにした、いわば純粋な虚構である。物語で虚構の庄内を読み、地図上の庄内で物語の庄内を強化する。これは、言語が言語空間を強化していると言い換えられるのではないだろうか。地図は、読み手が共通した情報を受け取ることのできる言語である。
 自分の中に生まれた虚構の庄内は、実際の地を訪れたときにどう変わっていくのだろうか。虚構だけで生まれた場所に実際が介入する瞬間を、私はとても楽しみにしている。

文学部日本文学科 栁谷智佳

名前の機能

「われ逝くもののごとく」には多くの人物が登場する。その人物たちの描かれ方として特徴的なのは名前である。たとえば、だだの出征の際に、「上海」と呼ばれる男がサキ一家の名前を呼ぶ場面がある。語り手は「上海」を真似て「じさま」を姓名で呼んでやらねばならないと語る。しかし、「それでは加茂ではかえって通用しない」のである。「加茂ではかえって通用しない」とはどういうことであろうか。
 実際にはじさまと呼ばれる人物は加茂にも多くいたであろう。しかし、物語を読んでいると、この物語で加茂のじさまといえば、サキの「じさま」のことであることがわかる。物語空間でたった一人の「じさま」が構築されているために、名前で呼ぶと「加茂ではかえって通用しない」のである。
 たしかに、このことは初出と単行本を比較しても明らかになる。初出ではむしろ語り手は「じさま」を「じんぜん」と呼ぶことがある。「じんぜん」という個人として確立していることがわかるであろう。対して、単行本ではじさまというサキ一家での役割として確立しているといえよう。変遷からは「じんぜん」という具体的な表現から「じさま」という抽象的な表現に変化したことがわかる。それは語りながら物語空間での名前の機能を確立していったともいえるであろう。抽象的な呼び名にすることで、物語全体の一部の役割として名前の機能がされているのである。

國學院大學大学院博士課程前期 前田夏菜子

森敦文学との縁

 縁とは不思議なものである。藤原定家の研究をしていた私が森敦文学に出会ったのは、國學院大學の井上明芳先生から横光利一の「夜の靴」に引かれている歌に註釈を付ける仕事をいただいたことがきっかけだった。その仕事だけのつもりが「もう来なくて良いです」と言われないのをいいことに今日までずっと井上研究室にお邪魔した。
 その間に、たくさんの貴重な経験をさせていただいた。膨大な数の自筆原稿の調査、描かれる地への実地踏査、方言のインタビュー、文学表現の可能性を探る試み。森敦の言葉を実感したくてインドネシアのボロブドゥール遺跡まで行ったこともあった。これらの全てを森敦文学は許容してくれ、いつでも次の可能性を開いてくれた。森敦文学はいつでも挑戦させてくれる。そして、森敦もそれを面白がっていうように感じる。
 森敦の文学をひと言で表すと「真」だと思う。自筆原稿の1文字1文字からは森敦の真摯な姿勢が見えてきた。1文字たりとも手を抜かず力強く記していく。それは真に小説なるものを書こうとした結果ではなかっただろうか。そして、それは実はどれだけ努力しても辿り着くこのできない真実であることを知っていたのではないだろうか。
 森敦文学に出会えたことは私の人生における宝のひとつである。「何のために学ぶのか」森敦はいつもそれを私に問いかけてくれる。きっとこの答えに辿り着くことはできないだろう。いつまでも問い続けていくことが文学を研究する私の使命なのではないかと思う。

創価大学非常勤講師 山本美紀

「あの日の加茂」を歩く

 森敦作品の多くは、森敦の実体験をもとに書かれているとされる。そのため、そこで描かれた地の多くは、実際に訪れることができる。例えば、「われ逝くもののごとく」でサキのだだが出征する際に歩く旧加茂坂トンネルまでの道は、その一つだ。道を歩けばあねま屋の跡があり、赤い鳥居があり、旧加茂坂トンネルがある。物語で語られている通りだった。
 けれども、あねま屋を実際に見ることはできず、トンネルも今は通れない。赤い鳥居の前には語られていない鉄門海上人の石碑があった。さらにそこから振り返っても、物語にあるように海は見えなかった。物語の風景は、見たままの風景ではなかった。実際の風景との細かな相違が、その虚構性を明らかにする。ただ、虚構はそれだけでは虚構とはいえず、事実を要する。これは、現地調査を行ったゆえの発見だった。
 こうした発見は「われ逝くもののごとく」に限ったことではなく、「月山」にも見られた。では、森敦作品の風景すべてが完全な虚構かといえば、そうではない。現地を訪れてその場所を訪れれば、「ここがそうなのだ」と頷かずにはいられない。実際の風景が、言語風景へと変わる。加茂を、七五三掛を写した写真には、「あの日の加茂」が「あの日の七五三掛」が写り込んでいる。その場所は直接踏みしめることはできないが、物語の中に確かに存在している。

大学院聴講生 新木悠吾

無時間な原稿

 森敦の自筆原稿の調査は、一つの常識を覆すことになった。作家が書く原稿は、一般的に一行目から徐々に文字で埋められていくであろう。むろんその後加筆訂正が入るにせよ、1枚目が一番古く、最後の原稿が最も新しいことに変わりはない。だから作家の企図や意識などに最接近できると思われていた。ところが、森敦の原稿はそうではないのである。
 森富子氏は、森敦は糊とハサミで書いたとおっしゃった。確かに原稿が切り貼りされ、制作されている。しかも複写までとられ、それにまた加筆訂正が施されている場合もある。ノンブルが付されているため、順に整えることに問題はないし、読み取りに支障があるわけでもない。当たり前だが、一つの作品として仕上がっている。
 この仕上がり方は、一枚目から書き始められるという常識を覆す。切り貼りの方法は、最初に書かれたはずの文章を上書きし、切り離して別の文章に置き換える。抹消痕が残る加筆や削除とは明らかに違う。痕跡は存在せず、森敦の企図も意識も捉えることができない。ここに、一枚目から書き始められる方法に備わるリニアな時間が消し去られていることを見てもよいであろう。いわば、森敦の原稿は原則的に無時間なのである。
 この原稿がさらに書き換えられ、同じく無時間の原稿や校正紙となり、在るだけのヴァリエーションが生まれる。無時間が連続し、森敦の企図も意識も見出しがたく断片化している。森敦の作品の生成過程は、この無時間の連続と言え、それはただ原稿の署名者が森敦であるということだけを伝えている。

研究代表者 國學院大學教授 井上明芳

to be continued ......

Study on MORI Atsushi web site



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