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慰霊と追悼研究会(第3回)
公開シンポジウム「日本人の霊魂観と慰霊」
(
明治聖徳記念学会
との共催)
日時:
平成18(2006)年10月28日 14時00分から17時00分
場所:
明治神宮参集殿(東京都渋谷区代々木神園町1-1)
参加者:
180名
講師と講演題目:
新田均(皇學館大学教授)
「戦歿者の慰霊と公共性」
武田秀章(本学教授)
「神道の歴史と靖國神社」
コメンテーター:
中山郁(本センター講師)
司会:
阪本是丸(本学教授・本センター長)
会の概要:
冒頭、明治聖徳記念学会理事長の安蘇谷正彦本学学長が主催者を代表して挨拶。続いて、司会を務める阪本是丸教授がシンポジウムの趣旨を説明し、本年度よりセンターで進められている「慰霊と追悼研究会」において、近年社会的に問題となっている靖國神社についてだけではなく、その議論の前提となる具体的な歴史的展開や、我が国が古来より有してきた霊魂観なども含め、さまざまな分野からあくまでも学問的に研究していることに触れ、本シンポもその一環として企画されたことを述べた。
シンポでは、新田均教授と武田秀章教授がそれぞれ講演した後、コメンテーターの中山郁講師と司会の阪本教授が加わって討論が行なわれた。
新田教授は、まず、公的な戦歿者慰霊に否定的な人々に「欠けている」のは、日本人の霊魂観の歴史についての認識不足というよりも「道理としての公共性の欠落」があるためだと述べ、彼等が公的慰霊の意味を「理解出来ない」理由として、個人を越えた「空間的な公共性」(国-地域-家族)と「時間的な公共性」(先祖-私-子孫)を否定する教育がその根底にあると指摘した。
さらに、大東亜戦争についても解放か侵略かの二者択一で論ずるのではなく、まず自国が植民地化された場合の悲惨な状況を想起した上で、その想像力を持って当時の状況を理解し、「自国の維持、自存自衛だった」という「戦いの意義」を確認すべきだと主張した。
その上で、最近、岡崎久彦氏が発言した「靖國をかばう」というような表現を取り上げつつ、これと同様な戦歿者を「祀ってあげる」「慰めてあげる」という「驕った感覚」ではなく、「守ってもらう、生かされている」というへりくだった感覚、感謝の思いが必要だとして、国家、地域、家族などのあらゆるレベルにおいて「一人一人が戦闘者」となって具体的に困難に直面し、何がしかの犠牲を冒して戦うという個人的な体験を経ることによって、「英霊を守る」という意識や「自ずと頭が下がる文化」が作られていくと述べた。
武田教授は、現在の靖國神社問題の錯綜を極めた議論の影で、ともすれば閑却されがちな靖國神社本来の性格、日本の宗教風土から培はれてきたその信仰の底流と歴史的展開について、具体的な史料をもとに講演を行なった。
まず、靖國神社の底流に流れる、日本人が培ってきた祖霊観について、「お盆」や「お正月」が祖霊を迎えたり饗応したりする行事として特別な意義を有していることを紹介し、柳田國男『先祖の話』がいうように、死後一定期間を経て、祖霊に昇華した先祖の霊がこの世のどこかに留まり、子孫たちを見守っていくものと信じる独特の祖霊観があるとした。
その上で、本居宣長の神の定義からいっても、「山川草木の神々と相並んで、尋常ならずすぐれた徳(働き)を示す人間そのものの中に神性を見出してきたのは、極めて自然なこと」として、『古事記』『日本書紀』には皇室の始祖の神々の人間的行動を伴った国づくりの物語が生き生きと語られていることを指摘し、記紀の神々や歴代天皇を祀る神社を「人を神として祀る習俗」の前提として捉え、さらにその近代以前の具体的事例を時系列的に紹介した。特に平安期以降、北野天神などを産み出した御霊信仰の中から展開した御霊神社が、当時、一般でいわれる「祟り神」としてよりも、五穀豊穣の恵みを齎す神と見做されていたことを指摘し、また、近世には、中世の御霊神的性格を脱却し、現世で功績を挙げた栄達者・政治権力者を現世の守護神として祀るという信仰が生じて、豊臣秀吉を祀る豊国社や徳川家康を祀る東照宮、さらには全国の大名家においても藩祖を家の祖神として祀ることが行なわれた一方、地域社会においても、地域公共のために身命を捧げた人々を神社の祭神として祀る風習が民間から自発的に生じ、盛んになっていったと述べた。そして、『郷土を救った人々-義人を祀る神社-』(神社新報社)に事例が掲載されているように、百姓一揆の指導者、善政を敷いた代官、治水灌漑事業の貢献者、地域開発に携わった者等々であり、その多くは民間から自発的に生じてきた信仰であったと指摘した。
このように、近世には公のために傑出した功績を挙げたり地域公共のために身命を捧げた人々を畏き「カミ」として祀る風習が普及し、この信仰を根幹として、幕末の国家存亡の危機に、国家公共のために尊い命を捧げた人々の御霊を併せ祀ったのが全国各地の招魂社で、その中から、維新後の国づくりの出発において主に戊辰の内戦で斃れた人々を祀った東京招魂社が創建され、明治12(1879)年に別格官幣社靖國神社となっていったと説明した。
討論は、フロアから寄せられた質問用紙の内容を踏まえて活発に行なわれた。まず中山講師がコメントし、先の新田教授の指摘を受け、現在の人々の中には生者が死者を単に慰めているという一方的な慰霊感覚も見られるが、現在においても南洋における慰霊巡拝の現場では、生者と死者がお互いに作用し合う「共苦共感」的な光景が現実に多く見られることを、自身が実際に現地の慰霊祭に奉仕した経験に触れつつ紹介した。
次いで、中山講師やフロアからの質問によって提議された、近代の主要な国家的(公的)戦歿者慰霊が、近世的霊魂観の主流だった仏教の形式ではなく、なぜ招魂社や靖國神社等の神道形式であったのかという点についてが主に議論となった。
武田教授は、「人神祭祀の伝統」の歴史的連続性について言及し、近世においても、吉田神道が神葬祭普及や豊国社、東照宮の創建過程に関わったことがあり、特に豊国社創祀に際しては、北野天満宮の事例を手本としていたことを指摘した。
また、阪本教授は、日本人の霊魂観には多様な形態があるとして、近現代においても、震災犠牲者の霊を祀る東京都慰霊堂や、高野山での「英霊供養」の事例があるなど、仏教的な形式が全く無視されているのではないと述べた。さらに、招魂社やその前提となる楠公祭も、神式というよりは教義的な仏教でないという意味の「非仏教式」であり、神道・仏教の形式の使い分けや区別はあるものの、共にその根っこにある霊魂観は、柳田国男のいう如く「この世からさほど遠くない所で見守って下さるという観念」であると指摘し、そして、今後の慰霊研究における重要課題としては、多様な慰霊形態の中で、靖國神社をどのように位置付けることができるのか、また、国学者の霊魂観やその果した役割をいかに考えるべきなのかなどを挙げた。
(文責:21世紀研究教育計画ポスドク研究員 藤田 大誠)
シンポジウムの概要につきましては、『明治聖徳記念学会紀要』復刊44号をご覧下さい。
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