慰霊と追悼研究会(第4回)
- 日時:
平成18(2006)年11月17日 18時30分から21時00分
- 場所:
國學院大學大学院0504演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
- 参加者:
9名
- 発表者と発表題目:
藤田大誠(21世紀研究教育計画ポスドク研究員・日本文化研究所兼任講師)
「村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』「I 幕末維新の招魂祭」を読む」
- 会の概要:
(い)発表要旨
村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』(岩波新書、昭和49(1974)年)の成立は、昭和40年代の「靖国神社法案」をめぐる攻防の時期という政治的背景が濃厚に関わっており、それに対する「反ヤスクニ」という運動論的立場が起点とはなってはいるが、現実の靖國神社の理論的批判のみならず、その思想の本質と役割について、歴史的・総合的に究明しようとする研究姿勢は、その思想的立場の如何を問わず全く首肯できるものであり、また、本書での村上による当時の研究状況に対する認識や、ここで提示された様々な論点は、非常にコンパクトな形で整理されており、現在的な地平から見ても色褪せてはおらず、昨今の靖國神社論の殆どは本書の「焼き直し」の域を出ていないように思われる(近年の例として奈倉哲三「招魂-戊辰戦争から靖国を考える」『現代思想』33-9、平成17(2005)年など)。
但し、その叙述スタイルは、当時の先行研究を丹念に見てはいるものの、自ら原資料(史料)に当たり、また、渉猟・博捜してその史料分析をもとに新しい史実を見出して論を組み立てていくものではなく、予め本書を貫く一定の不動の構図を設定しつつ、それに見合うような形で先行業績が紹介する史料を部分的に取り上げている嫌いがある。従ってかなり論理の飛躍がある事は否めない。
近代以前の慰霊観、霊魂観についての研究蓄積は、昭和40年代から現在に至るまで甚だ薄いままであり、「怨親平等」的な事例を数例挙げられたところで、これと異なる事例との比較検討が十分になされなければ、維新期以降の「靖国の思想」の前提となる一般状況として捉えられるものではない。また、村上は「招魂の思想」が、御霊信仰的な民衆的基盤を背景とすることは認めているが、こと「近世」における展開については全く捨象されているといわざるを得ず、さらに、これが「神道の伝統」と異なる観念へと展開するのは、「神道国教化の過程で固定化」、即ち近代日本の国家神道が大きな要因とされているにも拘らず、その関係については甚だ抽象的にしか語られていない。
例えば、靖國神社の管轄の変遷(『靖國神社百年史』資料篇下、靖國神社、昭和59(1984)年)第15「靖國神社の維持管理」を参照)を振り返って考えてみたい。慶応4(1868)年7月10日・11日の京都・河東操練場で鳥羽・伏見の戦以来の官軍戦歿者を祀った際は神祇官の奉仕で行なわれたものの、明治2(1869)年6月29日に東京招魂社として創立されて以来、軍務官-兵部省(2年7月8日)-陸軍省・海軍省(5(1872)年4月28日)という一貫して軍関係官省の管轄下(常務は陸軍省が処理)にあった。さらに、12(1879)年6月4日に東京招魂社が別格官幣社靖國神社と改称・列格された当初は、内務・陸軍・海軍の三省の管理(祭典・施設は陸海軍省、経理は陸軍省、「神官」の進退黜陟は内務省が担当)とされていたが(概ね陸軍省の管理する所であった)、20(1887)年3月17日には「神職」の補任も陸海軍省によるものと改められていたのである(3月18日の閣令第4号を以て、「神官」は、伊勢の神宮の大宮司・少宮司・禰宜・権禰宜・宮掌のみとされた)。つまり、主に陸海軍省管轄のもとに歴史を刻んで来た、神社としては全く特異な経緯を有する靖國神社は、明治初年以来の「祭政一致」を具現するものとしての「神祇特別官衙」構想の流れとは非常に希薄な関係のまま推移してきたのである。神道人・議会人らにとっての、「政府」(或は神祇特別官衙)を介して天皇に繋がる「祭政一致」観と、陸海軍省独自の回路で天皇と繋がる「祭政一致」観(「祭軍一致」観)の相違が少なからずあるといわざるを得ない。即ち到底「一枚岩」の構造では無かった。
村上は、『国家神道』(岩波新書、昭和45(1970)年)においても、「靖国神社は国家神道の一支柱」とするが、その根拠は「別格官幣社」列格の一点で国家神道との関わりを語るのみである。この点については、東京招魂社の別格官幣社靖國神社への改称が、そのような大げさな目論みのためではなく、阪本是丸『国家神道形成過程の研究』(岩波書店、平成6(1994)年)「補論2 靖國神社の創建と招魂社の整備」においても、「神社にあらざる東京招魂社」が正式の「神官」を設置するためには、社格が与えられなければならなかった事が最大の要因であった事が解明されている。
以上の事から、なぜ近代日本の中心的戦歿者慰霊の形式が「神道式」となったのか、という理由が未だに解明されているとは言い難い。
村上は「敵」「味方」の峻別ばかり問題にするが、靖國神社祭祀の原点たる「江戸城西丸大広間における祭典の際の祭文」(慶応4年6月2日)で、東征大総督・有栖川宮熾仁親王の令旨を以て「今将士等の命過ぎぬる事を思ほし食せば、古へ楠の安曾が国の為に仕へ奉りし労にも並びぬべく思ほしめしつゝ歎き賜ひ、悲しみ賜ひ、御音哭かし賜はくと宣る。」との表現があり、「東京招魂社創建の際の祝詞」(明治2年6月29日)でも「速やかに賊等を服へ果て、世も平らけく治まりぬれ、専ら其れが功ぞと哀しみ偲び」との文言があったことなどからも、二者択一的ではない「慰霊」と「顕彰」の並存が「靖國神社の本質」であり(『靖國神社百年史』資料編上、参照)、そして、当時の国事殉難者、戦歿者は、生ける者にとって「共に戦った」、それぞれにとって極めて個別的な霊魂であって、それらの霊魂を丁重に合わせ祀りたいという意識がまず第一に強くあったという事が窺えるのであり、なによりも当時の「霊魂観」の解明こそがまず以てなされるべきではないだろうか。
(ろ)質疑応答の概要
質疑応答では今回発表者が読み込んだ章だけではなく、次章や全体に関わる問題、今後の研究方向をにらんだ議論が交わされた。
- 先ず、村上のこの著作では、「靖国の思想」「招魂の思想」「国家神道の一支柱」などの重要なキーワードがさらりと流され、簡単に片付けてしまっている傾向が強い。例えば「国家神道の一支柱」とされているが、では「国家神道」とどのように関係性を持っているのか、その具体像が存外見えてこないという難がある。こうしたキーワード一つ一つが何を指し、どうした史料の積み上げに基づいてなされているのかについて丹念に検討した上で改めて議論する必要があるということが挙げられた。さらにこうしたキーワードのもとで靖國神社の機構や国との関わりなども、ややもすれば静態的に扱われているが、各時期における行政機構や軍との関係、社格など神社としての位置付けを丹念に押さえていくことが、これから重要になってくるのではないか?という指摘もなされた。
- また、祭儀や祝詞など儀礼の面からのアプローチの必要性も提起された。例えば村上は招魂祭の祝詞をいくつか引用し、東京招魂社の鎮祭式や靖國神社への改称列格の祭文で旧幕軍・同盟軍など内戦における敵を「賊」「内外の国の荒振寇等」として表現していることを招魂社の性格を現すとしているが、これらの祭文は慶応4年から明治の内戦の中でなされたという祈願状況を無視することが出来ないし、明治5、6年以降はそうした祝詞表現は見当たらなくなる。その祭祀の行なわれた状況や文脈を無視して「招魂祭の本質」とするのは無理があるのではないか。また、明治初年頃の招魂祭は慶応以前に行なっていた人々が担っていることから、その延長上で考察する必要があるし、維新後の国内安定を目指す為政者側の意識も加味して考える必要もある。
- そうした創祀や祭祀が行なわれた当時の文脈を丹念に検討しないで、これまでの議論のように「敵/味方」「官/賊」「祀られた者/祀られなかった者」という二項対立だけで見るだけでは招魂祭や靖國神社の性格を明らかにすることはできないし、議論として生産性がないのではないか。村上の著作は既に古典的な地位を得ているが、現在の研究状況の中で、しばしば村上の成果を引用して同じ結論を再生産する議論が多い。同じ資料を用いて論旨も同じという研究が再生産され続けるということは、刊行されて30年余、村上の議論を越える研究がなされていないともいえる。こうした学的状況を破り、新たな研究の枠組みを示す努力が求められているのではないか?
- そうした枠組みを作るという問題において重要なことは、先ず歴史の全体的な流れを押さえた上で、それとの対比の上で村上史観をみていくという作業が必要になってくるのではないか。確かに村上の『慰霊と招魂』には細かい間違いが多数見られるが、そうしたものはさておき、そうした村上が取り上げた事例についても、村上がどこまで踏まえた上で書いていたのかを検討する必要がある。例えば「招魂」という言葉にしても、村上は陰陽道に由来するとしているが、招魂場のありかたからすれば埋墓・詣り墓といった民俗からもアプローチすることができるし検討しなければならない。怨親平等の概念にしても村上が事例で挙げた足利氏による供養が行なわれた時代と、幕末当時では果たして同様な概念として継続していたのか、歴史的に丹念な検証が必要になるのではないか。
- そのうえで、「左」とか「右」といった学問的に不毛な立場に拘るのではなく、村上が提示した枠組に対して、あらためて「慰霊と招魂」の時代的な変遷や歴史性を踏まえた実証的な研究を行なうことによってそれを検証してみる必要があるのではないか。
以上の旨の論議が行われた。
(文責:中山 郁)
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