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慰霊と追悼研究会(第5回)

  • 開催日:
    平成18(2006)年12月7日 18時00分から20時30分
  • 場所:
    國學院大學大学院0601演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
  • 参加者:
    13名
  • 発表者と発表題目:
    テキスト・村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』
    松本丘(神社本庁教学研究所)
    「「II 招魂社から靖国神社へ 1東京九段の招魂社」を読む」
    中村聡(大学院文学研究科神道学専攻博士課程後期)
    「「II 招魂社から靖国神社 2別格官幣社の出現」を読む」
  • 会の概要:
    (い)松本発表要旨
     村上氏は、本節の「東京招魂社の設立」の項にて、「奠都を機に、政府部内で、東京に招魂社を創建することが提議された。内戦継続中の緊張した雰囲気のなかで、戦没者の招魂は、戦意高揚のためにも、ゆるがせにできない重要事であったから、新政の本拠が東京に移るとともに、新首都に中央の招魂社の設立がもとめられたのも、当然の成り行きであった。」(P46)と述べており、また「内戦の天皇軍戦没者の招魂は、もっぱら東征軍による江戸城内の招魂祭の系統によって受けつがれることになった」(P36)との記述もあって、氏も東京招魂社の起源を大総督府の招魂祭に求める『靖国神社誌』以来の認識に立っているものと思われる。しかし、何故同社が創建されたのかについては「戦意高揚のため」とあるのみで、その経緯の説明は不十分である。
     この問題について、鳥巣通明氏は、「河東練兵場の場合には、其所で慰霊祭典が執行されたのみで、招魂社建立のことはなかった。この布告(元年11月)に於いても社宇については何も触れてゐない。しかし、かさねて鳥羽伏見以来の戦死者名簿の整備が発令される以上、関係者の間で、第二布告(元年5月)に予告した祠宇建設のことが、早晩念頭に浮んでくるのは自然であらう。」(「靖国神社の創建と志士の合祀」『出雲神道の研究』昭和43年所収)とし、その「もつともはやい時期に属する」史料として、『木戸孝允日記』明治2年正月15日条に見える「上野招魂社」構想の記事を挙げている。これを木戸の「発想」としてよいかを含め、さらに大村益次郎と報国・赤心両隊との関係を見つつ検討してみよう。
     駿遠の神職によって結成された報国・赤心の両隊は、東征軍に従軍を許され、江戸に至り警衛の任に当った。この間、報国隊の大久保初太郎(のち春野)を始めとする幹部は、長州の大村益次郎の知遇を得、元年6月の江戸城招魂祭に際しては、大久保が祭文を起草し、また祭主として奉仕するなど、神職隊としての特色を発揮してゐる。
     そして、東北平定後の明治元年冬、帰国を命ぜられた両隊士は、徳川宗家の領地となっていた郷土で、隊士数名が殺傷されるなどの迫害を受け、東京に残っていた大久保等に善処を訴え、大久保はこれを大村益次郎に諮った。大村は「よし、上野東照宮領一万石は没収すべければ之を招魂社領となすべし、招魂社も今はかく微々たる社なれども国家の為に犠牲となりし英魂を祀るには極めて盛大にせざるべからず、故し一万石の社領を附し報国赤心両隊の士を悉く社司となし、東京に引上げしむることにせば可なるべしと、独断にて之を決し」たという(「大久保春野大将談話」『明治維新静岡県勤皇義団事歴』)。右の面談は大正2年のものであり、内容に正確を欠く部分もあるが、大村は明治2年正月10日に、「上野山内へ昨年来戦死の霊祠相設、右神職共移住せしめ春秋の祭典を掌らせ候はば、両全の策にも可相成かと奉存候」との建議を提出しており、遅くとも大村は、元年末頃までに招魂社創建の構想を抱いていたことが知られ、この構想は木戸の発意ではなかったこととなる。
     この間の事情については、「このように時を移さず具体案の提出された裏には、大久保が軍務官に残るのは起りうる事態に備えるためだと称しているように、大村益次郎・香川敬三と大久保との間に隊員の帰国前より密議が交わされていたのではないかとみられる」(明治元年10月30日付大久保初太郎書翰)。」(『磐田市史』通史編下巻 近現代、平成6年)との見方もあり、村上氏も「当時、兵部大輔であった大村益次郎は、社地の決定、仮殿の造営、要員の採用と、草創期の招魂社に深く関与し、招魂社創建の主役をつとめた。…招魂祭が営まれ、はやくから招魂場が設けられていた長州藩の出身である大村は、戦没者のためのこの種の宗教施設の必要性と役割を知悉しており、内戦中も、大総督府の手で招魂祭を挙行し、将兵の戦意高揚と精神教育に役立てた。」(P58)としているが、東京招魂社という構想には、報国・赤心両隊と大村との関係がかなりの比重を占め、隊士の救済という面もあったこと、さらには広大な寛永寺伽藍の焼失(上野戦争の指揮は大村が執り、報国隊の一部も参加)ということもその構想を刺戟していたであろうことを指摘しておきたい。
     その後、報国・赤心両隊士は、東京招魂社創建の祭事にも従い、当初「招魂社御番人」として祭祀を掌ったのは、杉浦大学以下三名の報国隊士であった。その後、大村の遭難(9月、11月歿)もあってか、彼の建議の通り、両隊士のうち62名が上京して招魂社社司に任命されるのは11月のこととなる。
     これについて村上氏は「両隊員は大村に苦境を訴え、大村は、両隊員を東京へ移住させて招魂社の祭典を掌らせるという、政府にも静岡藩にも都合のよい案を考えだして、両隊員の安全と救済をはかった。」(P57)と簡単に片付けているが、累代奉仕の神社を捨てて上京することをめぐって、隊内部に深刻なる葛藤が生じ、それぞれ非常の苦悩を以て移住・不移住を決していたことにも意を向けるべきであろう。

    (ろ)松本発表に関する質疑応答の内容
     松本氏による報告の後に行なわれた質疑応答では、招魂社と大村益次郎との関係から議論がはじめられた。
    •  まず、明治初年に報国隊員など遠州、駿河の神職が集団で東京招魂社の社司となり、そのあと多くが解雇されているが、こうした急な任命と解雇ということ自体が、成立当初の招魂社の応急性のあらわれと考えられるのではないか。また、村上氏は東京における招魂祭や東京招魂社創建に大村益次郎が果たした役割を重視し、その目的を「戦意高揚」「精神教育」に置いたものであるとしている。恐らく村上氏は内戦中に招魂を行なうことが戦意高揚・顕彰になると考えたのであろうが、こうした「戦意高揚」「精神教育」という、まさに旧軍のタームを用いた語り口自体が、明治維新期の研究対象を戦後の目線でみているといえるのではないだろうか。もしそう云うのなら、具体的な事例を出すべきであるが、この点が未整理であるし、むしろ史料をみてゆくなら招魂社の段階では「戦意高揚」や「精神教育」というよりも、「慰霊」と「顕彰」が眼目であり、それもどちらか一方に偏ったものではなく、むしろ並存していたと考えるほうが自然なのではないだろうか。今回松本氏が行なったように、まずは史料に基づいて招魂社創建と展開の道筋を丹念に整理していく必要があるのではないか。
    •  また、霊魂観の点についても質疑がなされた。まず、第一に招魂社に祀られなかった「敵」について「死後も未来永劫に賊であり」という記述は、何を根拠に、どのような事例に基づいてなされたのか、さらりと流されているために根拠が明らかではないという点が挙げられた。この村上氏の意見は以後の靖国神社に関する議論に大きな影響を与えたものであるものの、果たして学術的な実証過程を経たうえでの議論なのかという点について疑義が出されたわけである。
    •  さらに、「招魂」観念が、近代以後に新たに作りあげられたものであるとする点については、確かにもともと「招魂」の語の意味するところが陰陽道の祭儀であり、近世の神道各流派には存在しなかったとも言えるが、一方で、近世の神道において陰陽道との明確な区分が果たしてどのようにあり得たのかという疑問が挙げられた。そのうえで近世に活発に行われた人神祭祀や、神葬祭の担い手としての吉田神道や垂加神道、橘家神道などが、人の魂をどう祀ったかについて思想や儀礼面から明らかにしたうえで、上記の概念について再度検討する必要性が挙げられた。
       また、招魂社の立地や施設について、例えば桜山のように墓も伴う招魂場(詣り墓的)がある一方、東京招魂社のように墓がない場合もあるが、こうした招魂場や招魂社のありかたについて、村上氏のこの著作はヒントを与えているものの、明確な説明はしていない。これから研究を進めなければならない分野であることが確認された。
    •  最後に、村上氏の研究の枠組みについても議論がなされ、例えば上記のように招魂という概念は元来陰陽道のものであり、もともとの神道にはなかったとする一方で、近代神道と近世神道との断絶を指摘し、多様な伝統を包含していた神道を破壊したのが「国家神道」であるとするなど、議論自体がフレームワークの操作の連続ですまされている点がかなり見受けられるし、こうした操作性はその後の研究者達にも引き継がれている。こうしたいわば、事実よりも、事実を組み替え修飾語でたたんでしまうという理論操作によるものを、実証的研究によって一度突き崩していくことが、今後の慰霊追悼や靖国神社に関する冷静かつ実証的な研究の前進のために必要であろうとの見解が出された。

    (は)中村発表要旨
     村上重良氏は、『慰霊と招魂』「II招魂社から靖国神社 2別格官幣社の出現」の中で、「別格官幣社は、「臣下」である特定の個人を祀る異例の官社であるのみでなく、招魂の思想の背景をなす、特定の人間のつよい霊を鎮め祀る御霊信仰の伝統を受けつぐ特異な性格の神社だった。藤原鎌足、和気清麻呂、菊池武時、楠木正成、名和長年、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という祭神たちの顔ぶれは、天皇制的国民教化のねらいを雄弁に物語っていた。」(P82頁)と述べ、また「神の裔たる現人神の天皇が連綿たる万世一系の皇統を受けついで日本を統治するという天皇中心史観は、もとより歴史上の事実とかけはなれた虚構にすぎないが、天皇の古代的宗教的権威を基盤に成立した新政府は、国民のあらゆる行動の究極的価値基準を天皇への忠誠におく国民教化を強引に推進した。」(同頁)と指摘した。
     本発表では、明治5年の楠木正成を祀る湊川神社創建からはじまる別格官幣社の位相に注目し、まず天皇制国家確立を目的として、教化・教育の手段として別格官幣社が創建された、との論旨が妥当なものなのか、各神社創建の事情に注目したい。さらに、明治初年の神祇行政に関った国学者の霊魂観にも光をあて、村上氏の言説を再検討する。
     別格官幣社が、明治初年の段階で如何なる性格付けのもと創建の運びとなったのか。神祇行政の担い手の一人でもあった津和野派の国学者福羽美静は、後年「明治政府は、神祇を重んずるといふことを知らしめ、以て人心を収むる為に神社の改正を急ぎ、官幣国幣の区別を取調ぶる暇もなく、兎に角何れも幣帛を政府より奉る事となせるなり。」と述懐し、「此の内の別格官幣社といふものに就きては、年来世人の疑惑もあらんと信ずるなり。此等の神社は神社改正の際、取調中にて、官幣国幣も何れとも決定のつかざる内、只楠公を官幣社に祭らば大に忠君の念を奨励する事になるべしといふ議より、急ぎて、仮に別格の名を冠らしめたるなり。後には皆官幣社とせん考なりし」と、国内外の問題が山積される過渡期にあって別格官幣社の位置づけが模索されたことを回顧している。しかし「然るに取調は其所に及ばずして、余は退く事となり、後は局外に立ちしが故に思ひし事も行ふ能はず。其の後、今日までの有様を観るに、今尚官幣国社別格の名称を存せり。之に依て見れば、其の後いまだ取調の出来ざる事と思へり。一寸考ふれば、明治の初より神社制度は如此を以て永世の制度となせしが如く見ゆれども、決して然らず。当時は今日の如く別格社といふものを一の社格となさん考にてはあらざりし也。」と結んでいるように、当初の意図がいまだ完結されないままであることをも窺わせている。(「福羽子爵談話要旨」神社社格の事、加藤隆久『神道津和野教学の研究』291-292頁参照)
     このような中央における神祇行政者の思惑とは別に、各別格官幣社の創建までに至る事情がどのようなものであったのか。建勲神社・藤島神社・菊池神社・名和神社を事例として以下に取り上げてみる。
    (1)明治8年4月、別格官幣社に列格された建勲神社は、祭神に贈太政大臣贈正一位織田信長公、その配祀として従三位左近衛権中将織田信忠卿を祀る。明治2年11月の「神祇官宣下」により「健織田社」とされることが宣下された。明治3年1月に東京の織田子爵邸、並びに羽前国天童舞鶴山に神社が創建され、同年10月18日には神号を「自今健勲社」と改称の儀となり、翌19日に織田子爵邸内の健織田社へ勅使が差遣され奉告の儀がなされた。明治7年5月7日に、東京府貫属華族織田信敏・同府貫属士族津田長将は、連名で左院に対し、「今也秀吉ヲ以テ官幣ニ宣下セラルヽニ於テハ信長モ亦之レニ準セラルヽト雖モ可ナランカ若シ官幣ニ準セラルヽト雖モ可ナランカ若シ官幣ニ準セラルヽヲ得ハ祭式奠具ノ如キハ同族帑ヲ傾ケ旧故力ヲ合セ一宇ヲ造営シ後裔ニ貽遺セント欲ス」と建言した。左院は「従五位織田信敏外一人建白建勲社ヲ官幣ニ被列度之旨審案候処已ニ湊川豊国東照之三社モ別格官幣社ニ被列之例ニ比較候ヘハ織田氏之功勲宜ク右ニ准シ別格官幣社ニ被列当然之義ト存候」と回答し、別格官幣社に列されることが決定された。時代は下るが、祭神(信長)歿後300年を記念として明治13年より始められた船岡祭での祭文において、祭神である信長の果たした武勲を讃える文言が並んでおり、これらの点から建勲神社創建の由緒、そして織田信長を祀った経緯には、(あ)子孫の祖先への追孝といった側面、(い)天皇までも窮した乱世を平定した「大功蹟」(勲)を永く讃える、といった面が窺われよう。これは『別格官幣社 健勳神社由緒記』において、「偉大なる經世家」としての信長を捉え「識見の高邁用意の周到驚くに堪へたり、之れを踏襲したる豐臣氏の名を爲せしもの故なきにあらず、德川三百年の治と雖公の基礎的畫策無かりしならむには其成果未だ計り知るべからざりしならむ。」と端的に記されることにも通じる。
    (2)明治9年11月に別格官幣社に列された藤島神社は、祭神に贈正一位新田義貞公、配祀として脇屋義助以下挙族忠士を祀る。明治7年4月、能登国気多神社宮司兼権大講義であった荒地春樹は、「新田左中将義貞卿ハ天下擾々ノ際ニ当リ主トシテ節義ヲ露シ忠奮百戦終ニ越前国吉田郡黒丸ニ於テ戦死ヲ遂ラレシハ臣子ノ亀鑑」と位置づけ、「第一ニ御追賞可被為在ノ処独其挙ニ洩レ今ニ何ノ御沙汰モ無之候ハ実ニ遺憾ニ奉存候伏希ハ黒丸戦死ノ跡ニ一社ヲ被営楠社同様神社列被仰出在天ノ霊魂ヲ吊セラレ後世ノ臣民ヲシテ洽ク節義忠奮ノ心ヲ振起仕候様」と、新田義貞を祀る社が創建されていないことを「遺憾」として左院にその創建を建言した。対して左院は、「其論切実其言采納スヘシ今ニシテ贈位ノ典ヲ挙行セザルハ典型上或ハ一ノ闕失ナラン乎故ニ速ニ御挙行有之度」とした。義貞を祀る社創建の建言は、荒池の他にも越前国坂井郡長崎村称念寺住職である島津義禎等からも「明治癸酉四月十五日之ヲ教部省ニ建言シ前徳川将軍吉宗公ヨリ右義貞朝臣ノ墓松ノ前ニ五輪塔ヲ創立シ五十年毎ニ天下ノ大法会ヲ営ミ給フコト国人皆ナ之ヲ知ル今ヤ六百年ニ垂ントシテ香火ノ絶ンコトヲ憂テ湊川神社ニ照準シ新田神社ノ号ヲ賜リ春秋ノ大祭有リ度旨ヲ上申ストイヘトモ今ニ其命ヲ得ス臣カ不学菲才文筆ノ拙カ故ニ素意ノ貫徹セサルナラン是以テ歎息シ鬱然トシテ輦下彷徨ス」と述べるなど、再三建言が行われていたことが理解される。そもそも義貞を祀る営みは、明暦年間に福井県吉田郡西藤島村燈明寺近辺で義貞の兜が発掘され、「新田義貞戦死此所」の指定と石碑が建てられ、明治3年には福井藩主松平茂昭の手で一祠が建てられるなど、朝野に亘っての長い歴史が胚胎していたことが理解される。
    (3)明治11年1月、別格官幣社に列格された菊池神社は、祭神に菊池武時・武重・武光の3柱、一族26柱を配祀とする。明治元年7月18日、熊本藩主細川韶邦に対して太政官から、「菊池氏ノ儀ハ曩祖武時以来累代王室ニ勤労シ其誠忠臣分ノ模範ニ相成候段兼々御嘉尚被為在、且又加藤清正儀偉業卓絶士民ノ仰慕スル所、朝廷ニ於テハ固ヨリ御旌表被為在度候処、今般長岡左京亮ヨリ建言ノ儀御採用ニ相成候、付テハ右二氏ノ祭祀其藩ニ於テ執行可致旨被仰出候事」との達しがなされた。菊池氏・加藤清正は「偉業卓絶士民ノ仰慕スル所」ともあるように、在地熊本の士民から深い敬慕を集めていた。特に「菊池遺民」としての遺徳思慕の情は根強い歴史を物語るものであろう。
    (4)明治11年に別格官幣社へ列格された名和神社は、祭神に名和伯耆守源朝臣長年、及び一族以下戦没の将兵42柱を祀る。名和顕義『別格官幣社名和神社畧縁起』(名和神社社務所、1900)には、名和長年の遺蹟敬慕の歴史が詳述されており、「承應明暦ノ頃當郡名和村(中古坪田村ト云フ)地内名和氏ノ邸趾ト稱スル處ニ地方ノ信徒初メテ一小祠ヲ建テ鎭祭セシヲ延寶五年十月因幡伯耆ノ領主池田光仲此地ヲ距ル凡ソ三町東日吉阪ト稱スル丘陵ニ秋桝幸三郎(名和村平民)ノ遠祖某私祭ノ山王権現ノ社地アリシニ此地ヲ卜シテ新ニ社殿ヲ建築シ遷シ祭リ來リシ」と、名和長年の遺蹟に対して、早くから在地の住民などから追慕がなされてきていることが窺われる。その後も根強い崇敬心を基盤として、さらに史料による名和氏の名跡に関する考証(門脇重綾『名和氏紀事』など)、また足立正聲の藩主への建言といった国学者などによる学問的・政治的な営みも注目されよう。
     これら各別格官幣社の創建事情は個々において異なるものの、多くが祭神に縁をもつ在 地民衆や、祭神の子孫からの連鎖的な政府への建白が指摘でき、そこには永い崇敬の歴史があったことが理解できる。さらに、祭神の性格としては、天皇への忠誠・忠勤とともに、乱世を平定した経世的な祭神の側面、郷土への貢献等に対する追慕といった多様な側面が見出されると思われる。
      次に、明治初年における国学者の霊魂観の一斑を見てみたい。福羽美静の先の述懐は、官幣・国幣・別格といった社格制度がいまだに当初の意向に沿ったものとして完結に至っていない事を物語るものである。また神祇行政からの自身の退官後においては進捗していない、との言辞には、明治の神祇行政が福羽を中心とする人々を中心として進められていた実状を窺わせるものでもあろう。「只楠公を官幣社に祭らば大に忠君の念を奨励する事になるべしといふ議より、急ぎて、仮に別格の名を冠らしめたるなり。」との文脈は、村上氏の「国民のあらゆる行動の究極的価値基準を天皇への忠誠におく国民教化を強引に推進した。」といった、国家の手による国民教化政策の思惑と類似した帰結を匂わせるが、福羽の想定する「忠」とは「忠孝は日本にもあり、世界にもありて、大なるものなり。」であり、「又忠といふも決して日本の古への小さき事のみが忠にはあらず。国家に尽し外国に対して大功を挙ぐる事即、忠なり。」でもあった。即ち、「大国隆正の神学に連なる福羽美静一派の天照大神と天皇を中心とする、強烈な現実主義的・進化論的神学」(阪本是丸「日本型政教関係の形成過程」『日本型政教関係の誕生』所収。第一書房、1987)との指摘にもあるように、時代の気運を重視しつつ顕世(現世)や人間に力点を置く独特の思想であったことは留意する必要があると思われる。
     この福羽等、津和野派国学者とは異なった考えを有した平田派に位置づけられる矢野玄道は、その献策書『献芹詹語』の中で、「南朝ノ諸名公ノ如キ、尚怨恨ヲ幽界ニ結バレ候モ多ルベク、サテハ時トシテ、世ノ為、災害ヲ生サレ候ハムモ難レ料候エバ、右等ハ史臣ニ被レ命候テ、其隠没セル鴻功偉績ヲ討論シ、盛徳ヲ旌表シ、或ハ官位ヲモ贈賜ヒテ、右宮中ニ一殿トシテ御奉祀被レ遊度事ニ候。」(矢野玄道『献芹詹語』、日本思想大系『国学運動の思想』岩波書店・1971)と述べ、また『八十能隈手』(一之巻)においても「神霊」の働きを「歡喜」「瞋怒」といった人間と同様の感情を有し、顕界に影響を齎す存在であることを治世の側面から指摘している。矢野は、津和野派とは異なる平田派の思想を継承した国学思想の立場にある人物でもあり、当該箇所は阪本是丸氏が「平田派神学に特徴的に見られる」(『明治維新と国学者』大明堂、1993。56頁)ものと指摘するように、当時の平田派国学者が有した霊魂観を代表する事例でもある。大国学派に位置づけられる山口鋭之助が、かつて「神祇道と信教の自由」(『神社問題論叢』第二輯)の中で「神祇局は正成に神号御追諡を仰ぎ湊川の正成の墓に社殿を造営して官社とすることに因って陵墓を神社式に奉斎せんとする神祇局の政策に反抗する陵墓厭忌派の連中を圧倒し去らんと試みた。然るに四月二十一日正成に神号御追諡の仰出されがあるや否や、神祇局反抗党派の連中には速くも湊川の正成の墓を他所に移して神祇局の鼻を明かさんとするものがあった。」と指摘したように、神祇局の主流を占めた津和野派と平田派との国学思想では、霊魂に関する問題の他に、墓所における「穢れ」の問題でも認識の差異を生んでおり、別格官幣社の先蹤ともいうべき湊川神社創建に関してもまた、同様に問題を孕んでいたことは考慮する必要があろう。
     このように、明治5年に楠木正成を祀る湊川神社が創建され、別格官幣社に列格されたことに準じて、史上の偉人達を祀る神社が次々と創建される事となった。本発表で事例として取り上げた神社はごく一部であり、その詳細な創建までの経緯についても考察が至っていない。しかし各神社創建の背景には、偉人(祭神)に縁を有する土地において、民衆からの崇敬心が深く根付いている事を窺うことができ、単に明治政府による「神道国教化政策」の都合によって神社創建がなされたものとは言えなのではあるまいか。また、霊魂そのものへの思想的な差異に関しても、明治初年の段階で国学者の中でも複雑で多様な見解が呈せられているのであり、今後もこれらは常に留意していかねばならないだろう、と思慮する。

    (に)中村発表に関する質疑応答の概要
     以上の中村氏の発表に対して、フロアーからは、主に別格官幣社の問題をどのように考えてゆくことが出来るか、を中心に質疑がなされた。
    •  まず、中村氏は別格官幣社の創建について、新田、湊川など幾つかの神社の事例をもとに、民衆の崇敬を基盤に神社が創建され別格官幣社化するというモデルを描いているが、一方で東照宮など、そうではない神社も存在することから、氏の議論だけだと捉えきれない部分が出てくるのではないかという指摘がなされた。また、怨霊的に解する矢野玄道などの平田派の神観念の影響を受けた別格官幣社の存否について質問があった。これに対して中村氏は、事例についてはまだ詳細は不明であるものの、むしろ福羽的なラインで創建されていったと考えているとした。他に、「民衆」というタームでくくられる人々の多様性への丹念な目配りの必要性が挙げられた。
    •  また、このチャプターや、さらには村上氏による国家神道論をひとことで示しているともいえる「国民のあらゆる行動の究極的価値基準を天皇への忠誠におく国民教化を強引に推進した」(P82)という部分については、逆に、天皇に価値を置かない朝廷祭祀というものが、果たしてありえるのであろうかという反問がなされるとともに、直接的に天皇というものに収斂されるのではなく、同時に「近代国家」や「国民」などに価値基準を持っている祭祀の在りかたもあり得るのではないかという意見が出された。
    •  そのうえで、別格官幣社による人神祭祀が神道国教化政策に基づく、新しく作られた神道と捉えられているが、歴史的に視れば豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、とくに近世期には多くの事例がみられるとともに、それが継続、複雑化してゆく過程の中で明治の神祇政策の中で浮上していく、と捉えるとするならば、なにも伝統が無い中で創出したということは出来ないのではないか。つまり、新しい神道という概念の再検討が必要になるのである。
    •  別格官幣社については、現在も各神社によっては崇敬や基盤財政の違いが大きく見られるように、一括して扱うことは出来ない。それぞれの創建の事情の整理と、「民衆」というタームでくくられる人々の多様性への丹念な目配りを通じて、別格官幣社の地方での基盤について見ることが、近代神道を再検討する上でのステップの一つになるのでは?
    などの意見が出された。
    (文責:中山 郁 ただし、発表の要旨は各発表者による)
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