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慰霊と追悼研究会(第6回)

  • 開催日:
    平成19(2007)年1月11日 18時00分から21時00分
  • 場所:
    國學院大學大学院0508演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
  • 参加者:
    12名
  • 発表者と発表題目:
    テキスト・村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』
    齊藤智朗(國學院大學日本文化研究所助手)
    「「III 靖国神社と護国神社 1国家神道の確立と靖国神社」を読む」
  • 会の概要:
    (い)発表要旨
     本節のタイトルで「国家神道の確立」とあるのは、村上氏が「国家神道」を「近代天皇制の国家権力の宗教的基礎であり、国家神道の教義は、帝国憲法と教育勅語によって完成した」(『国家神道』)と捉えていたことによるもので、それゆえ本節では明治12年に東京招魂社が別格官幣社靖國神社となってから、明治22・23年の帝国憲法発布・教育勅語渙発頃までの時期が対象となっている。また本節で取り上げられている事柄も、祭神論争や皇室祭祀、軍人勅諭、帝国憲法、教育勅語など多岐にわたり、靖國神社に関しては、祭式や陸・海軍省のみへの管轄化などが挙げられて、他の官国幣社に比して「格別」・「特異」・「異例」であったことが強調されている。ここでは、村上氏のいう「国家神道」が確立した時期における事柄のうち、本節の後半部分となる、明治20年の靖國神社の陸・海軍省管轄化から、22・23年の帝国憲法・教育勅語に関する評価、そして26年の大村益次郎銅像の建立までを順に検証していき、そこからこの時期の靖國神社の性格について考察する。
     まず、明治20年3月17日付閣令第4号で官国幣社の「神官」を廃して「神職」が置かれる際の靖國神社について、村上氏は「この改定で靖国神社は内務省の管轄を離れ、改称列格以前にもどって、陸・海軍省の管轄となった。それまで神官の人事権は内務省にあったから、神官の廃止は、内務省を離れるために必要な措置であった」と説明している。しかし、この神官廃止は同日付で制定された、国家からの経費・営繕費支弁を廃止して、将来は官国幣社の経済的自立を果たそうという所謂「官国幣社保存金制度」の導入と合わせてなされたもので、靖國神社神職の人事権をめぐってのものではないことは明らかであろう。なお、この「官国幣社保存金制度」から靖國神社の性格について若干考察すると、「官国幣社保存金制度」において靖國神社のみがその適用を除外されたが、それは同制度が内務省訓令によるものであったことに加え、靖國神社の社費が東京招魂社時代の明治9年に出された太政官達で寄付米から年7,550円の寄付金となり、かつ明治12年の靖國神社への改称列格の際に経理を陸軍省が管掌することが確認されて以降、社費は内務省を介さず、大蔵省から陸軍省へと回金されることが定められていたこと、すなわち社費に関する管轄が他の官国幣社と異なっていたことによるものであろう(大蔵省から陸軍省への直接の回金は「官国幣社保存金制度」導入に先立つ明治19年の内務大臣・陸軍大臣連名による「靖國神社費ノ件」で、改めて認められている)。このように、「官国幣社保存金制度」で靖國神社が他の官国幣社とは異なった待遇を受けた背景には、もともと招魂社として創建された後の内務省と陸・海軍省という管轄の違いがあったことが窺える。
     次に、村上氏は明治22年に発布された帝国憲法について、その発布の際に明治天皇が宮中三殿で親告した御告文を引用して、「告文は、神霊に告げることを目的とする明白な宗教文書であり、帝国憲法の宗教的性格を端的に示していた」と述べるが、憲法発布という国家の大事において、天皇が宮中三殿で親告することは当然であり、昭和21年11月3日に現行の日本国憲法が発布された際にも、昭和天皇は宮中三殿で親告祭を執行している。それゆえ発布の際の御告文をもって、憲法にも宗教的性格を有するといったことは論理の飛躍に過ぎない。また村上氏は帝国憲法の冒頭に御告文が掲げられたことを指摘しており、確かに御告文・発布勅語・上諭・憲法条文とセットで掲載されることはあったが、一般的にはほとんどなく、例えば『法令全書』でも上諭と憲法条文のみが掲げられているだけである。
     続いて、村上氏は帝国憲法の条文に関して、第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を「記紀神話によって天皇の統治権を根拠づけていた」と評価している。これは恐らく第1条の『憲法義解』で引用されている「天壌無窮の神勅」を指してのことと思われ、そこでは「瑞穂国是吾子孫可王之地也宜爾皇孫就而治焉」とある。これは帝国憲法の中心的起草者であった井上毅による、天皇の公的統治を表す「シラス」論が示されてのものだが、上の引用箇所からわかるように、『義解』では「天壌無窮の神勅」の根本である「宝祚之隆当与天壌無窮者矣」は省略されており、かつ『義解』では「所謂『しらす』とは即ち統治の義に外ならず」とあって、ここでの「天壌無窮の神勅」からの引用は、あくまでも条文の「統治」が「シラス」を意味するとの説明のためのものであることがわかる。また、その後の研究では、井上毅がこの「シラス」論に基づいて近代西洋の皇位継承法を導入したことが指摘されており(島善高「井上毅のシラス論註解―帝国憲法第一条成立の沿革―」、『明治国家形成と井上毅』)、帝国憲法第1条の「シラス」の概念が、村上氏の言う「記紀神話」どころか、逆に皇室法の近代化を導くものとなったことが窺い知れる。
     明治23年に渙発された教育勅語への村上氏の評価もまた、今日までの諸研究の蓄積によってその誤りを種々指摘することができるが、ここでは教育勅語の内容に対する評価に限定して検証する。つまり、村上氏は教育勅語の「之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ」を、「時間を超越し、日本のみなく、全世界に通用する人類の普遍的道徳であると位置づけた」とし、そこから「天皇による全世界の統治という排外侵略思想と、世界を征服する使命をもつ大和(日本)民族という選民思想に聖なる根拠をあたえた」と言うが、前述の帝国憲法と同様、教育勅語の起草に中心的に関わった井上毅が作成した『勅語衍義』(國學院大學図書館所蔵「梧陰文庫」所収)には、教育勅語に示された「忠孝友和朋友相信シ恭倹法ヲ重シ国ヲ愛シ義ニ殉フ」といった道徳は、新旧を問わず不変で、かつ東西・中外の別なく依遵すべきものであって日本に限ったことではないと説明しており、ここからは村上氏の言うような「排外侵略思想」や「選民思想」はまったく見出すことはできない。
     そして、明治26年の靖國神社境内の大村益次郎の銅像建立についてだが、ここでは村上氏が銅像建立の発起人として挙げている山田顕義の、大村との関係を補足するかたちで検証したい。山田は大村と同じ長州出身で、明治初期の兵部省内では大村とともに近代的な軍隊の整備に携わり、明治2年に大村が亡くなると、その遺志を受け継いで、大村の事業を果たそうと尽力した。山田は明治12年の大村の十年祭を機会に設けられた墓前の「神道碑」を撰文して、そこで大村から薫陶を受けたことを自ら記している。また兵部省時代に大村のもとで山田とともに活動した曽我祐準は、後に「山田顕義さんは大村さんを信仰して居る一人でありました」と述べており(『大村益次郎先生事績』)、靖國神社の大村益次郎銅像の下にある碑文も三条実美撰とあるが、文章の内容は山田が作ったとの説もある。このように山田が大村を非常に敬慕していたのであり、それゆえ大村の銅像建立には山田の心情が大きな影響を与えたと見ることができよう。そして、こうした大村銅像をめぐる心情から、村上氏の論を見ると、そこでは基本的に親交や尊敬の念といった人間がもつ心情や気持ちという視点が欠けていることがわかり、それゆえ村上氏が取り上げている一つ一つの歴史的な事柄も、それに関わった人々の心情に着目すれば、また違った側面を見出すことが可能になるだろう。
     以上の検証を通じて、明治12年から20年代中葉までの靖國神社の性格を考えると、靖國神社が他の官国幣社に比べて、特殊な面があったことは明らかであるが、ただその特殊性とはあくまでも、招魂社として創建された特殊な事例に基づいたその後の内務省と陸・海軍省という管轄の違いに求められ、それ以上のイデオロギー的な要素は見出すことができない。特に村上氏は靖國神社を帝国憲法・教育勅語とイデオロギーの上で結びつけて「国家神道」の枠組みの中で捉えたが、帝国憲法・教育勅語の両方を起草した井上毅の旧蔵文書である「梧陰文庫」約6,000点のうち、発表者の知る限り靖國神社に関する史料はたったの1点もない。このことは井上毅の靖國神社への興味の有無といった問題ではなく、管轄が他の官国幣社と異なったために、例えば神社政策構想を立てる際にも靖國神社は対象になり得なかったと見るべきであり、前述の「官国幣社保存金制度」の適用から靖國神社が除外されたことと通じるものと考えられる。また、その「官国幣社保存金制度」の導入に先立ち、官僚の股野琢が呈した意見書の中には、「一般神社官給ヲ廃スルニ当リ、独リ靖國神社ノミ依然七千五百円ヲ給セントスルハ、縦令ヒ新旧ノ別アルモ、斉シク表忠ノ殊典ニ出タル湊川神社等ニ対シ、其権衡ヲ得タルモノト謂フヘカラス」と、靖國神社を湊川神社など「表忠ノ殊典」に基づく神社と同様の一般視する見方も、当時の政府内の一部にはあったことが窺える。このように当時の靖國神社が他の神社に比して有した特殊性とは、そのまま「管轄」の特殊性に集約できる。
     最後に、村上氏をはじめこれまでの靖國神社研究の大半は、これまで靖國神社に関わった人々の心情に焦点を当てたものがほとんどない。しかし、今日までの靖國神社の歴史を考える際には、上記の大村益次郎銅像をめぐる逸話などに表されるような、「人間」の心情の面に着目することが必要であろう。特に靖國神社の歴史に関して、幕末の福羽美静らによる殉難した志士を祀った招魂社がその濫觴であることにも表されるように、そもそも招魂社とは、たとえ面識がなくとも、同じ志をもって亡くなった人々を慰霊するという心情に基づいて形成されたものであった。加えて、今日までの靖國神社の歴史を考える上では、信仰や崇敬といった宗教的な心情のみならず、尊敬・敬愛・敬慕といった宗教心とは一般的に捉えられていない心情にも目を向ける必要があり、例えば池上良正氏は、英霊の遺族の心情に着目して、靖國信仰における「個人性」の要素を明らかにしたが(「靖国信仰の個人性」『駒沢大学 文化』24)、さらに歴史的にもこうした「人間」の心情が基礎にあって靖國神社が今日まで形成されてきているという視点を含めて考えると、一般の多くの人々が参拝している現在の状況もより深く理解できるものと考える。
    齊藤助手

    (ろ)質疑応答
     報告終了後、村上の指摘する「国家神道体制の確立」という認識について、主にその論拠とされた明治憲法、軍人勅諭、教育勅語の問題や、靖国神社を巡る制度史的な側面を巡って質疑応答が行なわれた。
     まず、この節において村上は、この時期を「国家神道体制の確立」と位置づけている。今回の発表は、そうした認識の妥当性をもう一度検証する必要性を感じさせるものであった。特に、発表者が研究対象としている井上毅の遺文書群である國學院大學図書館所蔵の梧陰文庫に収蔵されている約6千点の資料を見る限り、靖國神社関連の資料は見出せないという指摘は非常に重要である。
     また、明治憲法・教育勅語と靖國神社とが必ずしも一つのセットとして構成されたものではないという事実は、この時期について、改めて史料に基づいた実証的な研究を行なった上で、村上論に見られる枠組みの再検討の必要性と、それを通じた新たな知見を積みあげる可能性を感じさせる、等の意見が出された。これに対して発表者からは、この節における村上の議論に対する批判は比較的容易であり、とくに、帝国憲法や教育勅語の法的性格や文言の解釈について、村上の認識は非常に誤りが多いことも指摘し得た。反面、今回の発表においては、明治20年前後だけに議論を限定し過ぎたきらいがある。今後は改めて、より大きな枠組みの中でとらえなおしていくという作業が課題となるというコメントがあった。
     また、靖国神社の特殊性という点についても議論が交わされた。例えば、本節の前半において村上は、靖国神社独自の祭式や遊就館の存在など、一般の神社とは違う「特異性」を挙げていた。こうした一般の神社と靖国神社との相違は、どのように捉えることができるだろうか?という問題が提起された。これに対して、靖国神社が特殊な面を持つことは事実であり、勅使差遣の数も他神社に比べて多く、また、祭式も一般神社と違い、靖国神社の祭式は招魂社の祭式に由来している。こうした特殊性は、やはり靖国神社が他神社とは違ったかたちと管轄のもとで成立し、発展してきたということによるものであり、今後はそうした違いへの目配りの必要性も挙げられた。さらに、靖国神社の他神社に対する特殊性の研究と「管轄」の問題が挙げられた。管轄の違いというものが靖国神社と他の神社に与えた影響について、例えば大蔵省から陸軍省への予算の回し方や、神社保存金制度における靖国神社の扱い、議会の予算委員会での議論などからみていくことで、より靖国神社の実像についての有効な議論を導き出す可能性があるのではないか、等が議論された。但し、その前提として靖国神社の祭祀と管轄などの制度的な変遷をきちんと資料化していく作業が必要であるとの意見がだされた。
     最後に、発表者のいう、制度や政治的なヘゲモニーを追うだけではなく、「人間への注目」という視点は、今後、慰霊と追悼に関する研究を行うにあたって重要なポイントであるとともに、こうした部分において、神道神学のジャンルからのアプローチの有効性も話し合われた。
    会の様子
    (文責:発表要旨 齊藤 智朗、質疑応答 中山 郁)
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