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慰霊と追悼研究会(第7回)シンポジウム「慰霊と追悼の間」

シンポジウム
「慰霊と追悼の間-近現代日本の戦死者観をめぐって-」

研究開発推進センターシンポジウムポスター
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  • 開催日:
    平成19(2007)年2月10日 13時00分から17時45分
  • 場所:
    國學院大學渋谷キャンパス120周年記念1号館1303教室
  • 参加者:
    62名
  • 報告者:
    藤田大誠
     (本学21世紀研究教育計画ポスドク研究員、
     日本文化研究所兼任講師)
    粟津賢太氏
     (創価大学非常勤講師、国立歴史民俗博物館共同研究員)
    西村明氏
     (鹿児島大学助教授)
  • コメンテーター:
    大谷栄一氏
     (南山宗教研究所研究員)
  • 司会:
    中山郁
     (本センター講師)
  • 開催趣旨:
     「生者」の戦争における「死者」に対する眼差しやその記憶から導き出されるものに他ならない、戦死者に対する国家的・公的な「慰霊」と「顕彰」を伴う行為についての研究は、近年多様なアプローチから盛んに試みられている。
     従来「慰霊」と「顕彰」は、ある意味では截然と区別された上で対立概念的に理解されてきた傾向にあったともいえるが、果して具体的な歴史的事象から見て、そのように割り切って考えられるものなのか。さらにはその行為が社会的にどのような機能を持ち、どのような影響をもたらしてきたのか。
     本シンポジウムでは、靖國神社を中心とする近現代日本の国家的(公的)な「慰霊」と「顕彰」をめぐる諸制度や言説の歴史的変遷を踏まえつつ、広く様々な慰霊形態や事象にも目を配り、「慰霊」と「顕彰」に関する理論的枠組みをも意識しながら議論を行なう場とすることを目的とした。
    会場の様子1

    阪本教授
    センター長挨拶
  • 会の概要:
    報告(1)
    藤田大誠「国家神道と靖國神社に関する一考察-近代神道における慰霊・顕彰の意味-」
     藤田はまず、近年の諸研究による「慰霊」「追悼」「顕彰」をめぐる概念規定を紹介した上で、招魂祭や靖國神社における「慰霊」「追悼」「顕彰」の諸概念について、布告や祭文、祝詞の各文言にそれらの要素が盛り込まれていることを確認し、これらの概念が截然と区別されるのではなく、当初から「並存」していたことを指摘した。
     また、靖國神社は内務省管轄の一般神社とは異なり、近代を通して主に陸海軍省の管轄するところだったことや、靖國神社費も初めから陸海軍省からの経費だったのではなく、「官幣社費」を起点とする支出で、内務省においては管理せず大蔵省より陸軍省へ回金という道筋を辿る陸海軍省へ渡し切りの「寄附金」という形をとっていたため、靖國神社は内務省管轄の一般官国幣社とは明確に異なる一方、厳密には制度的に軍と「直結」した「一機関」ともいい難いとして、一般に靖國神社は「国家神道の重要な一支柱」或いは「軍と直結」と評価されていることに疑問を呈した。
     さらに、明治末期以降の「神社行政統一」という「国家神道」(明治33年設置の内務省神社局が一般の神社を所管することで成立)の拡大志向にも拘らず、陸海軍省はあくまで靖國神社の管理を手離すことはなく、「単なる軍人のための神社化(機関化)」さえ懸念されたが、30年の長きに亙り靖國神社宮司を務めた賀茂百樹は、その「軍機関化」の流れに抗し、彼の尽力もあって「一般国民のため の神社」の性格は失われなかったと述べた。そして、賀茂宮司時代の昭和初年に刊行された『靖國神社祭神祭日暦略』や『靖國神社忠魂史』などの取り組みからは、「個別具体的でありながらも、普遍的な「国民」的総合性への志向を持つ「英霊」観の発露が見られる」と述べた。
     また、師団や地域など各レベルでの招魂祭、公葬は、必ずしも神式ではなく仏式或いは神仏合同で行われることが多く、各組織や地域の中で完結する構造を持った祭典として執行され靖國神社を頂点とする国家による統一的な慰霊形態ではなかったが、日露戦争以降、神道人などから徐々に仏式に対する反発が見られるようになり、また、祭典形式の不統一に対する疑問も呈され、その延長線上に靖國神社における祭祀形式を根拠とする「国式国礼」=「神式」による公葬の要求である「英霊公葬運動」も位置付けられるとした。
     さらに、同運動は、強大な対外的脅威に対抗するための「思想的総力戦」の相貌を帯び、国家の統一的な「国式国礼」による戦歿者慰霊・顕彰体制構築への志向性を有するもので、「国家神道体制」に対して内外から根本的批判も投げかけられたが、その担い手たる政府自体は、統一的な戦歿者慰霊・顕彰制度構築への情熱もなく、明治中期の産物である一編の「神職葬儀不関与」達でさえも捨て去ることはなかったことを明らかにした。
    藤田研究員

    報告(2)
    粟津賢太氏「戦地巡礼と記憶の再構築:都市に組み込まれた死者の記憶-大連、奉天-」
     粟津氏は、宗教社会学及び歴史人類学的立場から、ナショナリズムの文化的側面の一つである「死を正当化する観念を再生産する社会的装置」やそれに関わる言説の問題について、主に忠霊塔を題材として、その「語りと用法を問う」というアプローチを採りつつ、随時写真、絵葉書なども紹介しながら考察した。
     氏は、内部中央に納骨室を持つ忠霊塔の源流として、(1)仏教的な納骨堂や戦死者の供養塔を建立し慰霊する伝統(日清戦争戦死者の遺骨を安置した護国寺の多宝塔や忠霊堂など)と(2)対外戦争によって死亡した兵士の遺骨を安置する目的で外地に建設されたもの(日露戦争後に建設された旅順白玉山表忠塔や大連忠霊塔など)を挙げた。
     また、国内外における忠霊塔建設に大きな役割を果たした昭和14年設立の財団法人大日本忠霊顕彰会の活動に触れるとともに、その中心的担い手の矢野音三郎や櫻井徳太郎の言説を取り上げ、満洲国建国が「十万の勇士の血」で購はれたことを記憶するため、国民個々と戦場を霊的に繋ぐものとして忠霊塔が位置付けられていることを指摘した。そして、このような「忠霊塔の論理」による「死者の記憶」は、大連や旅順、奉天、新京、哈爾浜などの「満鉄付属地」という「半植民地」における都市計画上のシンボルの一つとして忠霊塔が建てられたことにより都市に組み込まれ、また、観光や修学旅行などにおける忠霊塔巡礼は「教育の機会」、「社会的相互作用の場」として位置付けられていたと述べた。
     さらに、そのような場で行われている「死者の主題化の位相」として、西村明氏の指摘する一人称の死、二人称の死、三人称の死に対応させつつ、ウォーナー(Warner,W.Llord)の古典的業績を援用して、1「個人的直接的な死」(戦友、部下、上官の死、近親者、家族の死)、2「共同体の死」(村、町の成員の死)、3「歴史化された死」(民族、国家の礎としての死)の3段階のフェーズ(phase…局面)を設定し、それぞれ、1は体験的、個人的、実存的で記名性、2は集合的、社会的、3では集合的であるとともに匿名性を有し「国家的神話」化されると整理した。そして、「慰霊と顕彰のベクトル」をグラデーション的に図示化し、フェーズ1から3へ向かうほどに「慰霊」から「顕彰」の意味合いが濃くなるが、実際のアクターである遺族においては「並存・共存」しているというのが実態であろうと分析した。
     さらに粟津氏は、取り毀されたはずの奉天忠霊塔が現在の日本に存在しているとして、静岡県熱海市網代の「ムクデン満鉄ホテル」正面に建てられた「奉天忠霊塔」(平成6年建設)を「存在しない(失われた)場所の記憶」として紹介。その上で、「植民地時代の理想は単に残っているのではなく、常に新しく生み出され続けている」として、これについて、オーリック(Jeffrey K.Olik)の用語に倣って、現代社会に対する応答行為である「記憶実践(Mnemonic practice)」の一つの形と捉え、これが単なるノスタルジアに終わるのか、新たなナショナリズムを再構成する源流となっていくのかは、今後の我々の「未来像」の提示如何にかかっていると結論付けた。
    粟津氏

    報告(3)
    西村明氏「慰霊再考-「シズメ」と「フルイ」の視点から-」
     昨年末に『戦後日本と戦争死者慰霊』(有志社)を出版した西村氏は、まず、日清戦争後の明治30年前後に「慰霊」概念が誕生し、それ以前は「霊魂を慰める」等の動詞的表現だったとし、また、「追悼」が「完全に過去の存在となった死者に対して生者の側から『悼む』行為」であるのに対し、「慰霊」は「死者の霊を想定し、生者とコミュニケーションが可能と見做している行為」とそのニュアンスの違いがあるものの実際のところはさほどその違いが意識されない形で用いられていると述べた。
     さらに、「慰霊」には「なだめる・しずめる」といった穏やかな側面とともに、生者の側に社会的・政治的実践を求める側面があって、死者の生き方・死に方を称える「顕彰」とも連続性が見られるとして、「慰霊」のメカニズムを総体的に理解するために「シズメ」と「フルイ」の2つの概念を設定し、大村英昭氏の「煽る文化」と「鎮める文化」や見田宗介氏の〈Ohne uns!(ぼくらはごめんだ!)〉型の文化と「きけわだつみのこえ」型の文化などの議論にも触れつつ、「シズメ」を「死者を生者の世界から(上手に)切り離すための『切断』の方法」、「フルイ」を「死者が未解決のまま残した課題を生者が引き受けようとする『接続』の方法」として意味付けた。
     そして、靖國神社や忠魂碑での儀礼的行為など、戦死者と関はる事象が社会問題化された時、訴訟の原告側によって、戦死者に対する英霊「顕彰」的側面と「哀悼」的側面を対極的に捉えた上で前者が有した戦意高揚の「軍国主義的性格」を批判するという論法がなされてきたことに言及した。この批判者たちが、戦争遂行の只中の戦死者儀礼が帯びていた「ファナティックな性格」を要因として訴訟へと突き動かされたことは良くわかるが、この「顕彰」と「哀悼」の両側面はそのようにはっきりと割り切れるものではなく、慰霊の場に関はる立場の相違によって「顕彰」ともなれば「哀悼」ともなるような慰霊の多義性を考慮に入れねばならないと述べた。
     特に、被爆した長崎医科大学生の遺族が、学生らの死が「国家のための死」であったことを国に承認させようとする中で靖國神社への合祀を求めた運動(昭和42年に合祀決定)において、「顕彰」と「慰霊」、「哀悼」が複雑、密接に絡み合っていたことや、長崎忠魂碑訴訟の原告で牧師の岡正治が、「顕彰」と結び付く「慰霊」を「神道的行為」と見做して批判し「追悼」と厳密に区別する一方、朝鮮人被爆死者に対する眼差しの中では「哀悼」にとどまらない死者との関係性の構築を目指していることなどに触れ、政治的レベルで「顕彰」か「追悼(哀悼)」かを争点とするのではなく、戦争死者(戦死者+戦災死者)の慰霊が有する「フルイ」と「シズメ」の両面性の分析を着眼点にすることにより、慰霊のメカニズムを浮き彫りにしていくべきだと主張した。
    西村氏

    討議
     コメンテーターの大谷氏は、映像資料を用いて丁寧かつ詳細にコメントした。
     まず、3人の報告内容から導き出される共通の論点として、(1)「慰霊」「顕彰」「追悼」という概念、言説の問題、(2)「慰霊」「顕彰」の対象、戦死者観の問題、(3)「慰霊」「顕彰」の装置、メディア、場の問題、(4)「慰霊」「顕彰」の行為、儀礼、実践の問題、(5)「慰霊」「顕彰」をめぐる公共性と宗教性の問題の5点を提示した。その上で、各報告に対して論旨のポイントの整理と質問を詳細におこない、報告者はそれぞれに応答した。
    大谷氏
     靖國神社の「公的」(official)及び「公共的」(public)な性格について問われた藤田は、いかなるレベルや仏式の招魂祭であっても、その儀式における言説の中で、天皇との関係が最も密接な靖國神社の「英霊」について触れざるを得なかったことなどを示し、近代以来、靖國神社が「公的」であることは勿論、広く「公共性」を有した存在であると答えた。
     また、粟津氏は、フェーズ2(共同体の死)とフェーズ3(歴史化された死)には大きな断層があるのではないか、との問いに対し、「確かに、両者は排他的では無いものの、靖國神社に対する訴訟があるように対立し得る概念、状況であるともいえるが、フェーズ2から3に行くほどより広い社会的な相互作用を行なえるものに変わっているであり、その連続性よりもむしろそのようなさまざまな局面があることを強調したい。」と答えた。
     西村氏に対しては、「哀悼」と「追悼」の関係について質問がなされ、「追悼」というのは「哀悼する行為」、「哀悼」とは「感傷、悼むこと」という意味で用いていると答え、さらに、近代的な「慰霊」「顕彰」概念とその前近代との連続性/断絶性をどのように理解するのかという問いに対しては、これまでの研究の多くは、幕末以来の招魂儀礼や近代の靖國神社の成立過程を語るところから開始されてきたが、前近代における戦争死者、特に「無縁霊」に対する供養や祭祀の問題も含めたその連続性や非連続性について、戦争死者儀礼の「系譜的理解」が必要であることを強調した。
     各報告者の応答を踏まえ、大谷氏は、再度問題点を整理し、(1)「慰霊」と「顕彰」の関係をどう考えるのか、3人の報告では立場やコンテクストによって多義性を持つことが指摘されたが、もう少し抽象化した「記述概念」として「慰霊」と「顕彰」を使うことができるのかどうか、(2)「記憶」の社会的な機能は何か、オーリックを引いた粟津氏の指摘にあったように、記憶が形式を獲得する、形式が記憶を創るという側面をどう考えるのか、(3)「慰霊」「顕彰」の「現代性」の問題、特に高度経済成長期以降の状況についてどう考えるのか、という3点を挙げた。
    報告者・コメンテーター・司会
     続いて司会の求めにより、(2)の「記憶の機能」を中心について3者がリプライを行った。中でも粟津氏は「記憶の機能」について、一つは「生者の死者をめぐっての様々な行為で、あくまでも生者側の相互作用を媒介する、起動させるもの」として、もう一つは、ウォーナーなどのいう「時間や空間を部分的に共有するもの、そして個々別々のものが最終的には一ヵ所に統合される場」としての2つの意味があることを説明した。
     この後、司会がフロアに討議を開くと、参加者から活発に質問がなされた。
     藤本頼生氏(神社本庁教学研究所録事)からは、御霊信仰や義人を祀る信仰など前近代における状況や、「記憶」の問題に繋がる問題で今回まだ触れられていない招魂社の整備展開過程に関する質問があった。これに対して藤田は、招魂社の廃藩置県後の衰頽に対応した民間からの働きかけが護国神社制度の整備へと繋がる過程を略述し、また、すでに江戸時代初頭には、徳川将軍家が豊国社を弾圧したように御霊信仰的側面は見られなくなるが、明治初年においては例外的に護良親王を祀る鎌倉宮で「荒魂を慰める」旨の文言が見られるなど、一概に前近代における御霊信仰的側面の流れは皆無とはいえないものの、招魂社から靖國神社に繋がる流れなどその他大部分の人霊を祀る神社にはその側面は無いことを述べた。
     また、田中悟氏(神戸大学大学院国際協力研究科博士課程後期)は、藤田に対し近代の神道における慰霊の意味を問い、西村氏と粟津氏には「死の人称性」と「政治」についての理解の確認などを求めた。藤田は、神社が「人の霊を祀る」という流れと近代日本の国民国家形成及び戦争という社会的背景との関わりの中にその意味を見出している旨を述べ、また、粟津氏は「二人称の死であっても政治性を帯びる。共同体レベルの中での死は非常にポリティカルなもの。」と答え、西村氏は「二人称の死は非常に親しい者の死」で「三人称の死は非常に客観的なもの」として捉えられるとし、「二人称と三人称との間のせめぎあいが問題で、慰霊の場では、日常生活の延長では感情を起こさないはずの三人称の死が問題となってくる。」などと応答した。
    質疑応答の様子
     また、土居浩氏(ものつくり大学講師)の発言から、西村氏の「シズメとフルイ」概念や粟津氏の用いる「記憶」概念に対して「慰霊」概念がどのように関連付けられるのかなど、改めて「慰霊」概念の有効性についてが問われることとなり、それをあくまで「記述(分析)概念」として用いるべきかどうかが争点となった。粟津氏は、どうしても死者に対する態度には「宗教的なもの」が入ってくることを念頭に置き、「「慰霊」概念は記述概念として使うべき、分析概念としては「記憶」を用いる」と述べ、西村氏も「慰霊という概念をかなり広く採っている。慰霊というのは便利な言葉で「追悼」では代えられない含みがあり、記述概念としてはまだまだ有効性がある」とした上で、「シズメ」と「フルイ」は「あくまでも「慰霊」「追悼」「顕彰」をメタレベルで斬るとどういうことができるのかという一つの方法」であると述べた。また、藤田も、最後の質問者である高森明勅氏(日本文化総合研究所代表、本学兼任講師)から、靖國神社の祭神の性格を考えるに際し、果して「慰霊」という範疇で括れるものなのかという質問がなされた際、「確かに、神道史から見れば「人の霊を神として祀る」歴史の文脈として捉えられるが、各宗教に戦死者に対する態度・姿勢がそれぞれの形で存する以上、「慰霊」概念をあえてかなり広くとって、その中で様々な立場の論者と議論していく場を求めていくことが必要なのではないか」との旨の考えを示し、これにより、概ね三者とも、学術的にはまず「記述概念」として広く「慰霊」概念を捉えた上で、様々な事象やメカニズム、枠組みについて議論していくべきという共通認識がある程度得られたところで、シンポジウムは終了となった。
    会場の様子2
    (文責:藤田 大誠)
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