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慰霊と追悼研究会(第8回)

  • 開催日:
    平成19(2007)年2月22日 18時00分から21時00分
  • 場所:
    國學院大學大学院0508演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
  • 参加者:
    13名
  • 発表者と発表題目:
    テキスト・村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』
    戸浪裕之(國學院大學大学院神道学専攻博士課程後期)
    「II 招魂社から靖国神社へ 3 靖国神社の成立」
    藤本頼生(神社本庁教学研究所録事・日本文化研究所共同研究員)
    「III 靖国神社と護国神社 2 日清・日露戦争による靖国神社の発展」
  • 会の概要:

    (い)戸浪発表要旨

     『慰霊と招魂-靖国の思想-』「II 招魂社から靖国神社へ 3 靖国神社の成立」は、東京招魂社が「靖國神社」となるまでの歴史的な過程を叙述した節であり、時期的には明治4年から12年に至る長い期間を扱っている。したがって、単なる歴史的過程を叙述しただけとも言えるが、もちろん、実際はそれだけに止まらない。神社にあらざる東京招魂社に神社としての性格が次々と付与され、のちの(一般にマイナスのイメージで捉えられる)「靖國神社」に見られる特異な性格の原型が形成されていく過程を叙述し、「天皇と神社と軍を結びつけた特異な宗教施設」(114頁)としての「靖國神社」が成立したとするものである。本節の最も大きな論点の一つは、この点にあるだろう。本発表では、本節の論点整理を中心に行なった。
     では、「神社にあらざる東京招魂社に神社としての性格が次々と付与され、のちの「靖國神社」に見られる特異な性格の原型が形成されていく過程」とは、どのような過程であるか。これらはいくつかの段階に分かれ、かつ複雑に絡み合っているが、おおよそ次のように整理することができよう。

    (1)陸海軍省の共同所管となった招魂社(軍隊と神社)
    (2)社殿の造営・完成、祭事と機構の整備
    (3)地方招魂社の掌握(のちの靖國神社と護国神社との関係が成立)
    (4)戦没者が出るたびに無限に主祭神を加えていくという独特の構造の成立
    (5)別格官幣社に列格、「靖國神社」と改称

     以上のうち、(1)と(3)は「のちの「靖國神社」に見られる特異な性格の原型が形成されていく過程」を示すものである。村上氏は、以上の歴史的過程を『靖國神社誌』に基づいて叙述していると思われるが、すでに指摘されているように、事実誤認もまま見受けられる。例えば、明治9年、太政官が東京招魂社の寄附金を年額7,550円に定めたことをもって、「東京招魂社の経費は、この種の国費支出としては群を抜いた巨額であり、政府が招魂社の役割に、いかに大きな期待を寄せていたかを物語っている」(100頁)としているが、実際は「巨額とされる東京招魂社の経費は、政府が招魂社に「大きな期待を寄せていた」からこそ支出されたわけではない」(阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店、平成8年、392頁)こと、また東京招魂社が「別格官幣社靖國神社」となる最大の要因は、「「神官」設置の一件であった。…当初、陸軍省には社格など念頭になかった。ただ神官を置いて神社らしくしたいと願っただけである」(阪本是丸『国家神道形成過程の研究』414頁)ということが指摘されている。こうした靖國神社の制度的側面に関する研究には、不充分なところが多く、今後の研究課題となるだろう。
     また本節では、見逃すことのできないもう一つの大きな論点がある。それは、「靖国神社の主役は国に」に見られる「個性的な「忠魂」から没個性的な祭神へ」の過程が、靖國神社成立時から見られるということである。村上氏は、「完全に神社化することで、靖国神社の主役は、忠死者の霊魂から、「国」すなわち近代天皇制国家に移行したのである。この変化は、個性をつよくとどめていた「忠魂」が、しだいに個性を失って抽象化された靖国の神への昇華していく道をひらいた」(111頁)と述べており、このような言説は「招魂社から靖国神社へのみは、戦没者個々の招魂が、「英霊」とよばれる没個性的な祭神集団にたいする、国の手による慰霊顕彰へと変質していく過程にほかならなかった」(「まえがき」i~ii頁)という言説や、第III章に見られる「戦没者の霊は、これまで忠魂、忠霊とよばれてきたが、日露戦争を境に、より個性のうすい抽象的な英霊というよびかたが一般化するようになった」(152頁)という言説と合わせて考えなければならないであろう。
     村上氏は用意周到にも、本節の段階では「英霊」という用語を用いていないが、氏のいう「個性を失って抽象化された靖国の神」が、直接的には「英霊」を指していることは言うまでもない。個性的な「忠魂」から没個性的な「英霊」へと変化するという図式は、本書を貫くライト・モチーフの一つとなっているといってよく、前述したように、本書の至るところで展開されている。
     そこで、「英霊」という用語の事例であるが、まずは村上氏も挙げている藤田東湖の「和文天祥正気歌」がある(152頁)が、そこには「承平二百歳。斯気常獲伸。然当其鬱屈。生四十七人。乃知人雖亡。英霊未嘗泯。長在天地間。凛然叙彜倫」(『東湖遺稿』巻5所収。菊池謙二郎編『新定東湖全集』国書刊行会、平成10年復刻に拠る)とある。村上氏は「より個性のうすい抽象的な英霊というよびかた」というが、前の文脈から分かるように、東湖のいう「英霊」とは、「四十七人」(赤穂義士)を指しており、決して抽象的な意味で使用しているのではない。
     また日清戦争時に、秋田県で行なわれた臨時招魂祭における曹洞宗大本山総持寺貫主・畔上楳仙の祭文には、「戦死病歿諸霊」という言い方の他に、「厚ク戦死没諸士ノ忠魂英霊ヲ吊祭シ」という語があり、また、この招魂祭に参加した人びと(多くは僧侶)の祭文にも、「諸士ノ忠魂」(多義義観・東北仏教会土崎幹部)・「戦死病歿者ノ霊魂」(鈴木台厳・浄土宗誓願寺住職)・「戦死病歿セル忠魂義魄」(日野公海・真宗西勝寺住職)・「軍人諸士ノ忠魂」「英霊」(佐藤珍随・浄土宗仰信寺住職)など、さまざまなヴァリエーションがあり(以上の祭文の用例は、藤林正縁編『生芻一束』藤林正縁、明治29年に拠る)、それぞれの用例が、村上氏のいうような「没個性的」「抽象的」な意味合いで使用されているのかについて、なお多角的な検証が必要であろう。

    (ろ)戸浪発表に関する質疑応答の内容

     続く質疑応答では、まず「英霊」という語がもつ意味と、村上氏の主張する戦没者個々の「忠霊」「忠魂」の招魂から、国家による没個性的な「英霊」という祭神集団への祭祀の変化という図式が果たして妥当であるかについて議論がなされた。とくに幕末維新期の国事殉難者の祭祀について、その合祀に時間的差が見られ、かなり著名な志士でもかなり後になって祭神に加えられている例がある。こうした合祀にあたって、合祀対象者の祭神としての性格が慎重に吟味されたという事実を踏まえるならば、没個性ではなく、祭神一柱毎の個性を踏まえた合祀のあり方が見えてくるのではないかとの意見が出された。勿論靖国神社の祭神については、当初から敵と味方の峻別もなされてはいるものの、村上氏が「英霊」という語に帯びさせようとした属性が、果たして妥当であったかについては大いに再考の余地がある。
     また、別格官幣社としての靖国神社の登場に関連して、官祭・私祭などの招魂社制度の整備についても意見が交わされた。この制度整備の背景には藩設の招魂社が明治以降、衰退していったことが背景にあると考えられるが、こうした各招魂社や護国神社の推移を追ったうえでの研究の必要性が挙げられた。
     さらに、報告者が事例として報告した秋田県で行なわれた日清戦争戦没者に対する臨時招魂祭の事例を踏まえて、仏教式招魂祭が、どのような形態と論理で営まれていたのか、そうした仏教的な慰霊祭や神仏合同の招魂祭がどの点で靖国神社とつながりを持つのか、ということが今後の研究課題のひとつとして確認された。また、こうした仏教的な慰霊・招魂祭の実態確認は、大東亜戦争時の英霊公葬運動の位置付けの前提にも必要となろう。

    (は)藤本発表要旨

     本発表では、日清・日露戦争の時期は靖國神社にとっても拝殿や招魂斎庭の完成をはじめとして、官国幣社職制の公布、各地の招魂社にあっては招魂墳墓を含めてに官祭(官修)・私祭(私修)の別が定められるなど、非常に変化の多い時期でもあり、かつ靖國神社に関する問題については特に様々な現代につながる課題を内在している時代であることから、まずはそれらの施策が実施された背景となる当時の社会状況を明らかにした上で、村上氏が「日清両軍の死闘がくりかえされた日清戦争によって、日本軍は多数の将兵を失ったが、戦没者の続出は、靖国神社にとって一大発展期の到来を意味した」と論じたような一大転機が靖國神社において、日清・日露戦争の時期にあたるのかどうかを明確化することにある。さらにはこの時期に使用され始めたとする「英霊」の語の問題や、海外の事例との比較についても述べることとする。
     日清・日露戦争については軍事史の分野では数え切れないほどに多くの研究がある中で、近年では近年の研究史の一例ではあるが、長山靖生『日露戦争 もう一つの「物語」』(新潮新書、平成16(2004)年)において、ジャーナリストや新聞、雑誌社などが開戦をあおり、主戦論を展開し戦争を推進する報道をしたという社会的な背景についても論じられているような書もあり、また最近のものとしては原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書、平成19(2007)年)、横手慎二『日露戦争史』(中公新書、平成15(2005)年)などの書が次々と出版されている。これらの書からも初の対外戦争であった日清戦争、多額の戦費を使い、靖國神社に祀られただけでも約8万8千柱にものぼる多くの戦没者を出すなど、国力の疲弊を招いたのが日露戦争であったということが理解できよう。
     さらにこの時期には台湾の役の際に北白川宮能久親王が戦病死したことから、皇族を靖國神社に祀るということが海外神社(台湾神社のち神宮)の創建との関わりにも繋がっていったということもあり、そこで別格官幣社の性格の問題がクローズアップされることとなることを指摘、これを村上氏が述べたような観点だけで論じ、括れるのかどうかを指摘した。
     また発表では、明治30年前後の拝殿が出来る以前、以後での靖國神社の社頭の様子や、当時の招魂斎庭の様子、また実際の明治37・8年戦役の陸軍第4師団(大阪)招魂祭の様子を『第四師団招魂祭紀念帖』などの記録写真をスライドにて示しながら、説明を行なった。また官祭、私祭の招魂社と墳墓について、内務省は、明治40(1907)年2月23日、秘甲第一六号神社局長内牒「招魂社創建に関する件」などの通牒をもう一度確認し、改めて法制度の整備とその背景にある近代における神社制度の整備について説明を行なった。また日露戦争中の靖國神社の賽銭収入の推移のグラフなども用いながら、村上氏が述べるように戦没者の増加が即ち靖國神社の興隆に繋がるような簡単な論理で窺い知れるものであったのかどうかという点についても確認をおこなった。
     日清戦争は国内においては、西南戦争や戊辰戦争などこれまでの戦没者とほぼ同一の戦没者を出し、さらには日露戦争ではその10倍近い戦没者を出すこととなった。その意味では日露戦争は大東亜戦争に至る前の我が国の軍事史上の一大転機ということになるのであるが、この時期の神社、神職の動きは実際どうだったのかということにも着目しなければならない。特に靖國神社以外の神社、神職は何をしていたのか。そこでどんな問題があったのかという点についても述べることとし、例として、全國神職会会報に示された大原重朝伯爵の提言(明治37年3月)を掲げ、(1)軍人、軍隊への慰問(神符・神饌の授与)、(2)軍資金の献納、(3)戦捷祈願・軍人健康祈祷祭、安全祈願祭、(4)戦死者葬儀への参列 村葬、町葬、(仏葬が主であったため、神職は参列すらできなかった場合があり、神職の嘆きが『会報』などに掲載されている)、(5)戦死軍人の葬儀問題、(6)紀念品の奉納、奉納場所の問題(戦利品ほか)、(7)平和克復奉告祭、凱旋祭、戦歿病死者の追吊祭、(8)殉難軍人招魂社の建設、各地での招魂祭の実施、(9)陸軍凱旋観兵式への参列、(10)靖國神社遥拝所の建設、遥拝式の斎行、(11)記念碑の建設、(12)外国軍人の合祀の問題という12点について説明した。日露戦後の明治40年あたりは近代国家体制と神社制度が整備されてゆく過程でもあり、山縣閥系内務官僚による神社行政と地方自治、感化救済行政の掌握は天皇の慈恵と救済(公の救済)に繋がるとされるものであった。つまり、いわゆる靖國神社にとって転機の時期であるが、横手慎二(『日露戦争史』中公新書、194~197頁)によれば、戦死者数、国内外への影響という点では、日清戦争ではなく、日露戦争が転機ということになろう。(宮司も交代するのも日露戦後)
     横手によれば「特に日露戦争はその規模においても、また用兵のレベルでも、利用された兵器のレベルからしても、さらには長期戦を支える前線と銃後の密接な関係からしても、この時期に頻繁に起った植民地戦争とはまったく異なるものであった。ひとことでいえば、戦争は普仏戦争以来三〇年以上も存在しなかった大国と大国の戦争であったのである。」という記述に象徴されるように日清戦争の時期にその後の靖國神社、招魂社の整備に関わる萌芽があり、それが当時では未曾有の被害を及ぼした日露戦争後の靖國神社、招魂社制度の整備に繋がってゆくこととなったといえよう。
     またこの時期には、「日露戦後には、戦没者の霊を英霊と称するようになったことが知られる。英霊は、もともと霊魂の美称であるが、幕末に、水戸藩の藤田東湖が、「文天祥の正気の歌に和す」と題する漢詩で、「英霊いまだかつて泯びず、とこしえに天地の間にあり」とうたい、この漢詩が志士のあいだで愛唱されて以来、広く普及したことばであった。戦没者の霊は、これまで忠魂、忠霊とよばれてきたが、日露戦争を境に、より個性のうすい抽象的な英霊というよびかたが一般化するようになった」という村上氏の記述について、平成18年12月の「政教関係を正す会」において阪本是丸國學院大學教授の発表を参考にしながら説明を行なった。
     さらには、オーストラリアのキャンベラにある国立戦没者慰霊施設、ニュージーランドのオークランドにて毎年4月25日に執り行われている第一次世界大戦(アンザックデー)の戦没者慰霊祭の実地調査でのスライドを見せながら、海外の事例との比較といった観点も織り交ぜながら、戦没者の慰霊と追悼について考察を深めてゆく必要性を指摘した。本発表ではこれまで歴史史料の分析が主であったため、記録写真などの映像史料も用いることにより視覚的な観点からも論じてゆく必要性と文字だけでは理解できない慰霊・追悼の根底部分についてもなるべく理解を深めるたいとの観点からあえて映像資料を多用したことをお断りしておく。

    (に)藤本発表に関する質疑応答の内容
     藤本氏の報告終了後は、とくに日露戦争が戦没者観や靖国神社の祭祀や与えた影響について意見が取り交わされた。まず、中京大学の檜山幸夫氏など、初めての対外戦争として日清戦争のインパクトを主張する論を踏まえても、近代史、社会史的にはむしろ日清戦争期に見られた萌芽が日露戦争で具体化していったという推移が考えられるのではないか。そうしたなかで「英霊」ということばが浮かび上がってくるとするならば、先ずは日清、日露戦争とその戦間期の動向をしっかり把握してゆく必要性があるのではないか。それとともに、日清戦争後に「忠魂」という語句が登場し、日露戦争で「英霊」の語が出現してくる。ならば、対外戦争が「霊魂」を慰めるという行為に対して与えた影響をしっかり見極めていくことが必要であろう。
     また、日清戦争後に建立された護国寺の忠霊堂や日露戦争後に建立された旅順などの忠霊塔など、忠霊塔や遺骨祭祀施設の登場についても目配りが必要である。日露戦争に関しては、東郷大将や乃木将軍のように敵味方をともに祀るという事例も見られるが、こうした敵味方を超えた現象は、ヒューマニティーや赤十字精神、国際条約遵守という問題を背景にしながらも、ある意味で怨親平等的な観念の発露でもあった可能性があろう。一方で戦後に展開した忠霊塔には敵を祀るという発想は見られない。こうした推移をどのように捉えてゆくか、という問題意識が提示された。また、神社界においても戦時中、日本に協力した外国人戦没者を祭祀の対象にするかについての議論や、神社例祭日と慰霊のバッティングの問題など、日露戦争を契機として新たに登場してきた問題がある。これらは当時は実現しなかったにしろ、後々にまで引継がれていった課題でもある。なお、報告者によるアンザック・デイのスライド報告に関しては、花輪や黙祷といった日本で発生した儀礼が外国に与えた影響について話し合われた。日本の慰霊行事・施設に対する外国の慰霊観の影響をも踏まえて、両者の関係性への目配りの必要性が挙げられた。
     以上、今回の研究会においては、とくに「英霊」観念の問題および仏教、または神仏合同慰霊などに見られる仏教的な儀礼研究の必要性を共有することが出来た。こうした慎重な吟味にもとづく「英霊」の靖国神社に対する合祀や、地域共同体、部隊における公的な招魂祭は個々の遺族に対するケアの意味合いも存在した。慰めの機会や施設としての招魂祭や靖国神社の側面も検討課題として浮かびあがってこよう。これらの事例研究を積み上げていくことによって、例えば川村邦光氏などが論じる、単に軍と密着した寂しい神社であったというイメージが果たして妥当性を持つのかを含めて、当時の国民からの目線で戦没者慰霊と靖国神社を検討することが可能となろう。その場合、西村明氏の研究に見られるように、「無縁霊」というラインからの照射も必要であるが、日本文化上の問題として考察するのならば、人神祭祀という視座からの検討がより有効であろう。
    (文責:中山 郁)
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