國學院大學國學院大學研究開発推進機構 研究開発推進センター

ホーム > 研究 > 研究活動 > 慰霊と追悼研究会 > 慰霊と追悼研究会(第10回)

慰霊と追悼研究会(第10回)

  • 開催日:
平成19(2007)年7月31日 14時00分から17時00分
  • 場所:
國學院大學大学院0502演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
  • 参加者:
13名
  • 発表者と発表題目:
テキスト・村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』
藤田大誠(校史・学術資産研究センター助教)
「IV 現代の靖国問題」
  • 会の概要:
(い)藤田発表要旨
 村上重良氏は、「靖国神社では、陸・海軍省がちかく廃止される情勢となったことから、靖国神社じたいの存続も不安定であり、従来の形式による新祭神の合祀は不可能と判断し、急遽、臨時大招魂祭を執行して、大半が未合祀の太平洋戦争戦没者を一括して合祀することになった。同年一一月一九日夜、靖国神社では招魂祭が行なわれ、異例ではあったが、未合祀全戦没者を招魂して合祀した。」と記し、「招魂」と「合祀」の区別をせず、混同して用いている。
 しかし、そもそも「靖國神社祭式」(大正3年4月1日陸軍省令第2号)では明確に「招魂式→合祀祭」というプロセスが明記されている。また、村上氏も多く依拠している『靖國神社誌』(靖國神社、明治44年)にも、「合祀祭の前一日清祓式あり。其夜招魂式あり。後一日直会式あり。招魂式とは、先づ招魂場に祭壇を設け、左右に幄舎を構へ、正面に鳥居を建て、其両側に、五色絹を附せる眞榊を樹ゑ、庭燎を焼き、陸海軍将校及各省総代軍隊警固の裡に宮司、禰宜以下を率ゐて神霊を招祭し、幣帛及神饌を供し。○多くは午後十一時、又は午前一時を以て行ひたりしが、近年は午後八時之を行ふ、招魂場の項参照。訖りて行伍を作り。其の招祭せる神霊を、本殿に遷し、鎮祭するを云ふ。而して其翌日臨時の祭典を行ふ。これを合祀祭と称す。此の合祀祭執行の日には、必ず勅使参向ありて祭文を告せらる。」とある。
 但し、昭和20年11月の臨時大招魂祭は確かに異例の措置であったことは疑いない。そこで、この経緯を概観しておきたい。
 まず、終戦時の陸軍省高級副官・美山要蔵の日記(美山要蔵著・甲斐克彦編『廃墟の昭和から-帝国陸軍葬送の記-』光人社、平成元年)には、8月23日条に「(前略)同日、部局長会報あり。(中略)四 靖国神社の秋期大祭は実施する(後略)」とあり、また、8月27日条に「(前略)正午、上司に無断にて用賀に東條大将を訪う。(中略)御話をうかがった。(中略)ついで靖国神社の処置であるが、これは永久に存続する。御神(ママ)拝も当然にあることと思う。未合祀の戦死、戦災者、戦争終結時の自決者も合祀すべきである。これを犬死としてはならぬ。人心安定、人心一如の上からも必要である。(後略)」と記されていることにより、当時の陸軍上層部は、当然の如く靖國神社秋季大祭の実施を考えていたことがわかる。ただ、ここで注意すべきは、東条英機が構想していた合祀者範囲だろう。
 次に、重要な史料である『靖國神社百年史』資料篇上(靖國神社、昭和58年)「靖國神社に関する復員史編纂資料」の冒頭を引き、続いて陸軍省の見解に対する海軍省、靖國神社、神祇院、宮内省の意見を紹介する。
 
靖國神社合祀等ニ関スル件
昭和二〇・九・二一
陸軍省
判決
一般戦災者モ含ム大合同慰霊祭ヲ靖國神社以外ノ地ニ於テ実施スルコトヽシ、内閣ニ於テ主催スルモノトス。
理由
1一般戦災者モ含ム合同慰霊祭ナルヲ以テ、政府トシテ実施セラルルヲ適当トス。
2場所ハ靖國神社臨時大祭ト誤解ヲ生スル虞アルヲ以テ、靖國神社以外ノ地ヲ選定スルヲ適当トス。
 
靖國神社ノ合祀等ニ関スル意見
陸軍省
一 本秋大合祀祭ヲ実施セラレ度。
理由
 陸海軍ノ解散モ遠カラサルモノト考ヘラルルニ付、今直チニ英霊ノ柱数・氏名ヲ調査スルハ不可能ナルモ、事務的処理ハ今后努力スルコトヽシ、軍ノ解散前ニ支那事変・大東亜戦争等ノ為ニ死歿シタル英霊ニ対シ、軍トシテ最后ノ奉仕ヲ致シ度熱望シアリ。
二 合祀者ノ範囲ヲ左記ノ通ト致シ度。
左記
(一)大東亜戦争終結迄ニ戦死・戦傷死・戦病死セルモノ、鉄道・船舶・義勇戦斗隊員トシテ勤務中死歿セルモノ。
(二)軍需工場等ニ於テ勤務中死歿セルモノ。
(三)大東亜戦争終結前后ニ於テ憂国ノ為自決或ハ死亡セルモノ。
(四)敵ノ戦斗行動ニ因リ死歿セル常人(戦災者、鉄道・船舶等ニ乗船中遭難セルモノ)。
理由 国家ノ総力ヲ挙ケ、且本土モ戦場トナリタル今次戦争ノ特性ニ鑑ミ、敵ノ戦斗行為ニ因リ死歿シタル者ハ軍人・軍属ニ限定スルコトナク、全般的ニ合祀セラルヽヲ適当ト認ム。
 
 陸軍省は8月30日にはすでにこの合祀者範囲の意見を作成していた(「別紙第一 議会資料 靖國神社ノ合祀ニ関スル件」『靖國神社合祀者資格審査方針綴』巻三、国立国会図書館調査及び立法調査局『新編 靖国神社問題資料集』平成19年、所収)。海軍省は一については陸軍に同意、二は(一)(二)陸軍に同意、(三)(四)は将来特別に個々に詮議スルコトとして今回は合祀せざることにしたいとした。靖國神社は、一について「日本ノ神社ノ本質、靖國神社ノ性格ニ鑑ミ、柱数・氏名不明ナル英霊ノ合祀ハ適当ナラザルモノト認ム。」、二については、「此ノ件ニ関シテハ神社ノ触ルル所ニアラズ。」との意見だった。
 また、神祇院は当初、「別ニ意思表示ナシ。」という様子で、戦前、神祇院が靖國神社には手を触れず、疎遠な関係だったことを裏付けるような無気力さを示しているかに見えるが(内政史研究資料第八〇集『飯沼一省氏談話第二回速記録』内政史研究会、昭和44年3月22日)、同日には神祇院総務課長名で回答し、「一 祭神ノ氏名明ラカナラサルモノヲ帝国ノ神祇トシテ、神社ニ奉斎スルコトハ神社祭祀ノ本質上、全ク不可能ノコトト思料ス。」、「二 歿后未タ一ヶ年ヲモ経過セサルモノヲ神社ノ祭神ニ加フルコトヲ忌ミ憚ル慣例ハ、純乎タル神格ヲ仰キ愈々神社ノ神聖ヲ保持セントスル国民ノ伝統的信仰ニ基クモノニシテ、畏クモ之ヲ宮中皇霊殿ノ御列ニ拝シ、又一般国民ノ祖霊祭ニ於ケル習俗ニ徴スルモ明ナリ。然ルニ今回終戦ニ至マテノ戦歿者等ヲ悉ク合祀セントスルニ於テハ、死后幾許モ経サルモノヲ祭神ト仰クニ至ヘシ穏当ト認メ難シ。」との意見を述べている。
 宮内省は、一に関して、「柱数・氏名ノ不明ナル英霊ヲ合祀スル件ハ同意シ難シ。但シ合同慰霊祭ヲ実施シ、祭神判明次第逐次合祀祭ヲ実施セラルルヲ適当ト認ム。/将来合祀スル場合ノ範囲ハ、靖國神社ノ本質上、一般戦災者ヲ含マサルヲ適当ト思惟ス。」とし、二は「靖國神社招魂斎庭ヲ利用シテ慰霊祭ヲ実施スル場合ハ、戦歿者ノミニ留ムルヲ適当トス。/一般戦災者モ同時ニ慰霊祭ヲ実施セラルル場合ハ、靖國神社ノ境内ヲ利用スルコトナク、他ノ適当ノ位置ヲ選定セラレ度。」との意見で、また、特に「三 行幸ヲ仰ク件」の項目を設け、「第二項ノ場合、行幸ヲ御願ヒスルハ可ナリト思惟ス。」とした。
 このように、陸軍省以外の各機関は従来の合祀範囲の伝統から逸脱することには慎重であったことがわかる。その結果、次に挙げる『靖國神社百年史』資料篇上「昭和二十年十一月 靖國神社臨時大招魂祭関係綴」中の史料においては、「大合祀祭」ではなく、「臨時大招魂祭」の挙行に落ち着いたのである。
 
靖國神社臨時大招魂祭挙行ノ件照会
昭和二十年十月二十九日                           海軍大臣
陸軍大臣
 
宮内大臣殿
大東亜戦争並ニ支那・満洲事変ニ関シ、戦死戦傷死シ又ハ戦地事変地等ニ於ケル傷痍疾病等ニ起因シ、昭和二十年九月二日迄ニ死歿セル軍人軍属等ニシテ、靖國神社ニ未合祀ノ者ヲ、同神社招魂殿ニ招魂祭祀ノ為、来ル十一月十九日招魂式執行、二十日・二十一日臨時大招魂祭挙行ノ儀、勅許被候様、執奏相成度候也。
追テ、右祭祀者ノ個々ノ祭神名ハ、今後慎重調査ノ上、例大祭ニ際シ逐次本殿ニ合祀可致、尚、招魂祭執行ニ関シ連合国側トハ為諒解済ニ付、申添候。
 
 11月12日に勅許を得、17日に昭和天皇の靖國神社招魂殿行幸が決定。11月19・20・21日に臨時大招魂祭を斎行。『社務日記』11月19日には「午後六時招魂式執行。無午後七時終了。宮司以下全員及宮内省楽師四名・禁衛府軍楽隊奏楽奉仕。梅津委員長・掛官陸軍美山大佐・海軍今村大佐・随員荒木海軍属・平陸軍属及参列各官七十名・遺族四十一名参列ス。」、20日には「聯合軍指令部民間情報教育部長ダイク准将外弐名祭典ニ参列ス。宮地帝大教授・岸本仝助教授通訳並ニ斡旋ニ当ラル。斎庭ヨリ退下後記念殿ニ於テ中食ヲ供ス。」とある。岸本英夫は、「式場を見渡すと、前夜の打合せ通りに、すっかり様子が変っている。昨夜の軍服金モールの将校たちが、着慣れない背広を着用している。正直なところ、私は、昨夜の激論は忘れて、その将校たちが気の毒だったと思った。しかし、その場の雰囲気は、いたってなごやかなのでひとまず安心した次第であった。(中略)こうして、ダイク代将の靖国神社に対する認識は、というより、神社神道に対する認識は、この大祭の見学によって大きく変化した。」(「嵐の中の神社神道」新宗連調査室編『戦後宗教回想録』昭和38年)と記している。
 昭和21年4月29日、遷霊の儀を執行し、30日に春季例祭並合祀祭(第67回合祀)を斎行(異例の行幸、勅使参向無し)する。しかし、10月10日に予定されていた「合祀祭ハマ指令部の不許可」となったため、また、新祭神には「死歿年月日、祭神名未ダ決定シアラザルモノ」もあり、結局「別座」を設けて内陣に奉斎(招魂殿奉斎の霊璽を本殿左側相殿に奉遷)するという、「その性質上アクマデ神社限リノモノ」である招魂殿遷座祭を斎行した。即ちこれは「合祀」ではない。ただ、22年4月21日には、これも神社限りではあるが、合祀祭の名称を差し控える形で、霊璽を本殿正床に奉斎する霊璽奉安祭(第68回合祀)が斎行された。
(要旨の文責:藤田 大誠)
 
(ろ)藤田発表に関する質疑応答の内容
 まず藤田氏の発表の全体的な論点として、村上氏が論じるように、靖國神社の性格としては単なる軍の機関としてではなく、多様な性格を包含していた事、ならびに祭神の神格の個別性が重視されていた事実を事例を挙げつつ厳密な資料分析を駆使しての発表であった事が指摘された。
 また本研究会の主題でもある「招魂」に関して、靖國神社の「招魂から合祀」に至る経緯には、単なる通俗的な神社の祭儀儀礼としては理解できないものがあり、そこに神学的な見地からより深遠な分析と研究が必要となるのではないか、また大正3年の靖国神社での招魂式において、御歯車で本殿まで移される御霊が、そこで「鎮祭」されるといった流れの中で、「鎮祭」から「合祀」といった場合の「合祀」が果たして何を意味し、東京招魂社時代での約四百柱の御霊に合祀される意義には何があるのかといった問題性が指摘された。また、果たして藤田氏の発表で指摘されるように、翌日の合祀祭ではじめて「祭神」となるのか、それとも「鎮祭」の時点で祭神と認識されるのか、一貫して「神」となる意識を持つか持たないかといった研究は今後不可欠となるであろうと意見が呈され、特に戦後の臨時大招魂祭では、莫大な数の戦死者の御霊を合祀するという異例の状況でもあり、それ迄の戦死者数の推移区分とともに「招魂」「鎮祭」「合祀」といった研究を、祭式や祝詞などをもとにながら詳細な研究が必要になると指摘がなされた。また靖國神社の神座に関して、住吉神社の例や明治神祇官における「八神・天神地祇・皇霊」の神座配置例などの歴史的事実を考慮しつつ、神観念の推移と変遷を追うことも必要となろうと指摘がなされた。
 最後に、これまでの本研究会での個別発表を含めた上での総括がなされ、各発表分担者や参加者から個々の課題と展望が開陳された。特に「招魂」に包含される意味や、招魂儀礼が歴史的に見ていつごろから始まり、その思考が芽生えたのか、今後も総合的な観点から靖國神社の研究課題が山積されていることが確認されるとともに、歴史的にも長期的な観点から日本人の霊魂館を検証することの必要性が再確認された。
(質疑応答の文責:中村 聡)
國學院大學研究開発推進機構 研究開発推進センター
〒150-8440 東京都渋谷区東四丁目10番28号
電話 03-5466-0104(研究開発推進機構事務課)
Copyright (C) 2006- Kokugakuin University Centre for Promotion of Excellence in Research and Education.