慰霊と追悼研究会(第11回)
平成19(2007)年11月21日 18時00分から21時00分
國學院大學大学院0502演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
13名
藤田大誠(校史・学術資産研究センター助教)
「近代日本の戦歿者慰霊における敵と味方-「英霊」観と「怨親平等」観をめぐつて-」
(い)藤田発表要旨
一 はじめに
近年、「人の霊を神として祀る」系譜の延長線上に位置付けられる近代以降の招魂社・靖國神社といふ神道的かつ国家的・公共的な慰霊・追悼・顕彰に対して、仏教的な思想に根を持つ「怨親平等」観による敵味方供養を対置し「対抗軸」とすることによつて、いはばもう一つの「日本的慰霊伝統」と看做して「敵を祀らない」靖國神社やその「英霊」観を批判するといふ言説が有力に存在してゐる。だが、肝心の「怨親平等」観そのものについては、実は近代以降の研究史でさへまともに押さへられてゐない。そこで本稿では、近代日本における「怨親平等」観の系譜について、その背景も含めて概観してみたい。
二 現代における「怨親平等」言説とその問題点
誤解を恐れずに言へば、「日本的伝統」としての「怨親平等」を主張する観点から靖國神社を批判する言説の殆どは、その事例の引用も含め、ほぼ村上重良『慰霊と招魂―靖国の思想―』(岩波新書、昭和49年)の焼き直しに過ぎない。村上は、どの本を参照してこの部分を書いたのかを明らかにはしてゐないが、昭和38年刊行の圭室諦成『葬式仏教』(大法輪閣、昭和38年)の「敵味方供養碑」に依拠してゐることは疑ひない所であらう。ここで注目すべきは、敵味方供養の諸事例に対して、圭室は「怨親平等の精神が絶無とはいわぬ、ただいささか過大に評価されていないかと、いぶかる」と述べ、それは「残忍性をもつ武将たち」の所業だからであり、「一般的には、敵の死霊のたたりを怖れた」ものと評価してゐるのにも拘らず、後年の引用者は皆、あへてこの点を捨象し、この文脈の意図を汲み取つてゐないことである。つまり、圭室が「怨霊」と「怨親平等」観の相違について慎重に検討しようとしてゐる点について、一切考慮されてゐないのである。
三 辻善之助『日本人の博愛』とその先行業績
現代の「怨親平等」言説においては、圭室諦成『葬式仏教』以外、殆ど「怨親平等」を示す事例に関してその典拠の明示がされてゐない。しかし実は、圭室諦成が巻末の参考文献で掲げてゐる辻善之助の諸業績が前提に無ければ、この点についてのまともな議論は不可能な筈である。特に、辻が東京帝国大学教授兼史料編纂官時代の昭和7年刊行『日本人の博愛』(金港堂書籍、昭和7年)は、逸することは出来ない。『日本人の博愛』は、昭和9年には同じく辻の著作である「日本皇室の社会事業」とともに合本で出版されてゐる(発行は金港堂書籍株式会社)が、その表紙には赤十字社章が施されてゐる。即ち、その序に「博愛の精神が我国固有の皇道の精神であり、且つ其の精神の発露による各種の社会事業が皇室に淵源し、其の発達が一に皇室の厚き保護奨励の賜であることを明にせんと欲し、之を文献に徴して印刷に付し、洽く内外江湖に頒たんことを企図した。」とあるやうに、「草創期から皇室と関係があり、その援助を受けて来た」日本赤十字社における事業の一環だつた。
また、本書の「緒言」では、先行業績についても触れられてゐるが、その早い時期のものである「明治三十五年十月二十二日大阪朝日新聞論文」の西村天囚「赤十字と武士道」がある。また、明治43年に刊行された日本赤十字社京都支部編輯・発行の『忠愛』は、『日本人の博愛』では採られてゐない救恤や俘囚に関係する詔勅など上代の事例を数多く取り上げ、「怨親平等」とは関連付けられてゐない。注目すべきは、編集代表の湯本文彦は、同じく赤十字に対する先駆性を主張してゐた西村天囚以来の儒仏二教の混合物たる「武士道」を重視するのでは無く、儒仏渡来以前の事例を挙げることで、我が国では、西洋の如く宗教から来てゐるものといふよりも、建国の初めから「吾国民の忠愛慈仁は天性の秉彜倫理の正道より来れる」ことを強調してゐることである。
日本近代において、国史上の敵味方供養を含む「博愛・慈善事業」の事例は、「世界(列強)標準」である赤十字事業との対応、もしくはその先駆的なものとして語られて来たことが明らかである。その言及が活発となつた時期は、日露戦争前後の明治30年代後半から大正期にかけてであり、辻の『日本人の博愛』は、これらの先行業績を汲んだ集大成的な書物であるといへよう。但し、辻はその原動力的思想としては、湯本文彦流の「建国以来国民の天性の倫理」に強調点を置くのでは無く、西村天囚流の仏教、儒教、武士道の影響を挙げつつ、特にこれまで登場して来なかつた仏教的思想の「怨親平等」を中核に位置付けた。そのため、同書の事例は、『忠愛』とは異なつて奈良時代以前のものは無く、平安時代に朱雀上皇が官軍賊軍戦亡者の冥福を祈り給うた大供養における願文の「怨親平等」思想を最初の事例として掲載してゐる。その意味で、現在にまで至る敵味方供養に関する「怨親平等」言説の元祖は、辻善之助であると言つても過言ではないだらう。
四 近代における「怨親平等」思潮の形成
ある意味近代以降の「怨親平等」観の源流とも目され、明治期に「怨親平等」と敵味方供養を関連付けた記録として目立つのは、高野山のものである。明治27年11月12日には、真言宗長老大僧正・高志大了名で「捕虜撫恤ニ付御認可願」を陸軍大臣・西郷従道に願ひ出てゐる(防衛省防衛研究所所蔵『陸軍大日記類』日清戦役・明治27年11月「二十七八戦役日記」所収「高志大了より捕虜撫恤に付御認可願の件」)。ここでは、「捕虜撫恤」に関してではあるが、明確にジュネーヴ条約(赤十字条約)と対応させる意図を以て「怨親平等」観が位置付けられてゐる。
また、明治41年12月11日、高野山常喜院住職・大乗大円は、日露戦争における戦死病歿者を敵味方ともに祀る塔を建立するので「三十七八年戦役ニ於ケル 一我カ陸軍軍人戦死及病歿者ノ数」を指示してほしいと陸軍大臣・寺内正毅に「御伺書」を提出し、24日に「約九一二〇〇人」との回答を得てゐる(防衛省防衛研究所所蔵『陸軍大日記類』壱大日記・明治41年12月「壱大日記」所収「戦役死没者人員の件」)。「御伺書」の文中、「怨親平等仏果ヲ得ンカ為メ」に自国の「英魂」と露国の「戦死病歿者ノ霊」を「合祀」するとはいへ、その建設目的としては「一ハ以テ国威ヲ不朽ニ紀シ一ハ以テ国民ノ士気ヲ鼓舞スル資ニ供シ度」という国威宣揚的、即ち「顕彰」的性格が強いことは注目される。なほ、別紙の如意宝珠塔図面には、塔中央部に「忠魂」と明記されてゐた。
但し、実際の高野山における慰霊実態は「怨親平等」一色とまではいへない。現在、奥の院には、「空挺落下傘部隊将兵の墓」「昭和殉難者法務死追悼碑」など、自国の戦歿者のみを対象とする慰霊施設が多数存在する。また、奥の院の英霊殿や毎年5月の「英霊追悼法会」は、元来、自国の戦歿者を対象とする「英霊供養」の面がより色濃いものだつた筈であるが、徐々に、自国(地域)の戦歿者を中心に全ての犠牲者を供養する方向にシフトしてゐる模様である。
さて、近代における敵味方供養に関する大きな出来事と思はれるのは、日露戦争後の明治40年10月に建立された「旅順陣歿者露軍将卒之碑」である。この「旅順陣歿者露軍将卒之碑」に対する諸書の評価は、博愛精神や武士道に基づく中世以来の我が国の敵味方供養の歴史の延長戦上に位置付けてゐるが、その実際の建設主旨や碑文にはそのやうに饒舌な記述は無く、「仁愛」の語はあるものの、要は、戦時中は「仇敵」であつたが戦後は「友邦者」となつたのであり、自国に忠義を尽くし戦歿した「英霊」が存するのであるから勿論敵国にも戦歿した「英霊」がゐるだらう、その遺屍が「無頼土民の徒」に冒瀆されないやうに改葬して弔ひ、その義烈を千載に伝へようといふもので、「怨親平等」のやうな仏教的説明は無い。あくまで露国における「英霊」に対する弔ひであつたといへるのである。
五 江戸期以降における「怨親平等」観の払拭とその残滓
『日本人の博愛』の40件の事例はほぼ時系列に並べられてゐるが、その最後は「島原陣歿耶蘇教徒首塚の碑」で、天草代官・鈴木重成が慶安元年までに建てたものである。ここで、同書の「怨親平等」的事例が江戸初期の時点で終はつてをり、以後、近代までの200年以上もの間、江戸中後期の事例が取り上げられてゐないことに改めて気付かせられる。この時期にはすでに、中世的な「怨親平等」観が近世、とりわけ江戸時代には次第に変容し始めてゐたのではないかと推測され得るのである。
実際、江戸時代初期の徳川家康の豊国社に対する仕打ちは、「怨親平等」もしくは「武士道」に基づく「博愛精神」の欠片も無いものであつた。『豊国神社誌』(青山重鑒、大正14年)に拠れば、「(引用者注・元和5年)九月十八日梵舜、取毀を神璽に告げ、終に神社を妙法院に引き渡す。爾来荒廃して叢となる。」といふ徹底的な迫害を行なつてゐる。
即ち、この時点の武士の最高権力者には「怨親平等」的観念は無かつたといへる。また、近世には、人を神として祀る伝統も「中世の御霊神的性格の脱却」が行なはれ、「現世で功績を遂げた栄達者・政治権力者を、現世の守護神として、神社の祭神として祀る、という信仰」へと移行するが、その最初の事例が豊臣秀吉を祀る豊国社であり、徳川家康を祀る東照宮へと受け継がれ、全国の大名家の藩祖も祖神として祀られていくことになる。これに対応する形で、近世の地域社会においても、土地の開拓、水利事業、年貢減免闘争(百姓一揆)など、郷土に功績があり土地の人々から敬慕されてきた義人(老中、家老、代官、武士、商人、町人、百姓等)を祀る神社も数多く登場して来るのである。この延長線上に、明治期以降国家に対する功労者を祀るの別格官幣社の数々、即ち楠木正成を祀る湊川神社をはじめ、「英霊」を祀る靖國神社や招魂社・護国神社の創建へと繋がつて行くのである。
但し、未だ維新前後には、「怨霊」「御霊信仰」的残滓が見られる場合もあつたことも確かである。特に維新期の皇霊奉遷に際して見られ、例へば、慶応4年8月28日の「崇徳天皇京都ニ御還遷奉告宣命」では、「右の宣命に顕はれたる所にては崇徳帝の御積憤を和らげ奉らんために神霊を都に還遷し 皇宮に近き所に新宮を設けて鎮め奉り奥羽の鎮定天下の安穏を祈り奉られたるものなり。」(関目琴季『官幣中社白峰宮史料』官幣中社白峰宮社務所、昭和6年)。とあつて崇徳天皇の「御積憤を和らげ奉らんために」神霊を奉遷することを目的とし、明治2年7月21日の「鎌倉宮御鎮座宣命」には、護良親王の「荒魂」を鎮めることが明記されてゐる(国立公文書館所蔵『明治二己年四月ヨリ 護良親王新造御宮一会 神祇官』)。
だが、同じく皇霊還遷の場合でも、明治6年12月の後鳥羽天皇神霊遷座の際には、祝詞・祭文にこのやうな文言は見られなくなる(佐野和史「水無瀬神宮三帝神霊還遷の経緯」『神道宗教』100、昭和55年)。
また、幕末期において、未だ仏教的な「怨親平等」観の発露の事例があつたことも事実である。『孝明天皇紀』には、元治元年10月2日に、「勅して仏事を知恩院に修し彼我戦死者の冥福を薦す」とあり、徳重浅吉『孝明天皇御事績紀』(東光社、昭和11年)には「人心平穏に帰した十月には、知恩院に命じ、官賊両軍の戦歿諸霊に抜苦與楽のために、施餓鬼大会を営ませられました。乃ち僧衆五百十口が、阿弥陀経一千巻、別時念仏の法要を勤修したのであります。まことに万民皆赤子、一視同仁の御広慈と仰ぎ奉るべきではありませんか。此の大御心故に、我国は内乱に陥ることなく、佐幕、討幕共に尊王に一体となつて、外国の辱めを受けず、全体として一統、護国の正道を進むことが出来たのであります。」とある。ここでは、ある意味、「官軍」(佐幕)/「賊軍」(討幕)を超越する立場であつた孝明天皇が知恩院に命じてゐる。確認して置きたいのは、この施餓鬼供養は、あくまで官賊戦歿者の「慰霊」に主眼があり、戦死者の遺志の継承や加護を願ふ側面はほぼ無いことである。
しかし、明治元年10月25日から27日にかけて、「知恩院学天は、殉難忠士の追福法要を修」した(大橋俊雄『浄土宗近代百年史年表』東洋文化出版、昭和62年)。これは、『知恩院史』(知恩院、昭和12年)に拠れば、鳥羽伏見の戦における朝廷方の「殉難忠士」の追福法要を知恩院大殿で行なつたもので、大鐘の東北隅に「殉難忠士之墓」の碑を建てた。碑の裏面にある撰文は、明確に朝廷側の「忠魂」墓碑の建設を意味してゐる。この時点においては、官賊を超越する天皇による勅命では無いこともあるが、4年前の「怨親平等」観が払拭されてゐる。
なほ、詳説はしないが、靖國神社祭祀における「慰霊」+αについて言及して置きたい。文久2年12月24日、津和野藩士の福羽美静・大谷秀実、萩藩士の世良利貞、近江藩士の西川吉輔、京都の長尾郁三郎らが中心の66名が執行した京都霊山・霊明舎での霊祭は、招魂社の源流を成すものであるが、ここで祭主を務めた神祇伯白川家関東執役・古川躬行の祝詞には、顕彰並びに哀悼的文言の後、「和魂 朝廷乎守幸閉氐諸司百官忠誠爾国郡領主等邪穢心不令在 荒魂 蟹行横浜在留夷賊波更也若軍艦乃寄来牟波 討罰米千里乃波濤爾逐沈米而」(加藤隆久「招魂社の源流」『神道史研究』15-5・6、昭和42年)とあり、「慰霊」とともに「祭神の意志の継承、加護の祈り」が含まれる。これは、以後の「江戸城西丸大広間における祭典の際の祭文」(慶応4年6月2日)にも受け継がれていく重要な点であらう。
六 むすび
敵味方供養は、列強からの視線を意識した近代日本における博愛慈善事業の勃興とともに「再発見」され、さらに西南戦争、日清戦争、日露戦争等の展開とそれに伴ふ博愛社-日本赤十字社の発展と並行して、我が国における博愛主義の事例の掘り起こし作業とその成果の対外的情報発信が進められたことにより、徐々に「武士道」や仏教的な「怨親平等」の装飾による言及がなされるやうにもなつた。
日本における敵味方供養の各事例は、辻善之助がいふやうに、果たして仏教的な「怨親平等」観によるものなのか、或いは圭室諦成のいふやうに「怨霊」の「祟り」を怖れたからなのか、または桜井徳太郎『霊魂観の系譜』(講談社学術文庫、平成元年)のいふやうに中世における敵味方供養は「御霊信仰的発想」の一つと看做すべきなのかについての精緻な考察が必要となるであらう。今後は、これまで殆ど言及されてこなかつた「怨親平等」観の近世以降の展開と「怨霊」「御霊」から脱した「(顕彰すべき)人の霊を神として祀る」系譜についての検討が不可欠であらう。
「怨親平等」観による敵味方供養と招魂社・靖國神社祭祀で最も異なる点は、前者が「慰霊」「追悼」「鎮魂」にほぼ終始するのに対して、後者には、これらに加へて「顕彰」とそこから導き出される「国民による祭神の遺志の継承、「安国」の加護の祈願」が並存してゐることである。即ち、戦歿者の霊を「慰霊」するだけではなく、「国家・国民の守護神」として祀るのであり、祀る側と祀られる側との関係は明確に双方向的なものである。但し、先述した明治41年の高野山の事例では「怨親平等」観と「顕彰」が両立してをり、招魂社系統の「忠魂」(英霊)観の影響も如実に見られるやうに、近代日本における戦死者の各種「慰霊」においては、靖國神社、招魂社の「公共性」の影響を受けた部分が多分にあつた。そのことは、同じく日露戦争後に造営され、元々日露戦争の戦歿者を対象としてゐたものから、明治42年に戊辰の役以来の「忠死者の英霊」をも供養するやうになつた「仏式による忠霊奉祀の霊廟」である長野・善光寺忠霊殿の在り方からも窺へるであらう。
我々は、近代において、現代以降に問題とされて来た「英霊」観と「怨親平等」観の相克が見られなかつたことに改めて思ひを巡らせるべきであらう。「怨親平等」そのものは、近代日本においては、欧米列強の文明規範である「赤十字精神」を自家薬籠中のものとするための概念として機能して来たが、その赤十字事業自体は、まさに天皇、皇室の社会事業として推進されてきたものである。勿論、それは一方で例大祭・臨時祭に天皇の勅使を迎へる靖國神社とも齟齬を来たすことが無く、靖國神社は、ある意味別次元で捉へられる「共存」可能な性格のものと理解されてゐたため、現在の如く「怨親平等」観と相対化する見方も無かつたのである。近代日本においては、別段「怨親平等」的敵味方供養を排斥してゐなかつたのにも拘らず、実際には、戦場での慰霊は兎も角として、軍や町村など、様々なレベルでの仏式招魂祭、公葬も、各地域や組織の中で完結する構造を持つた祭典として執行され、基本的に敵味方供養では無かつた。つまり、近代には「怨親平等」観は主流には成り得なかつたのである。
また、公共的影響力はあつたとはいへ、靖國神社を頂点とする「慰霊」の体系的なヒエラルキーの中に各種慰霊行為が位置付けられてゐたのでは無い。近代以降現在に至るまで、靖國神社祭祀のみで戦歿者慰霊の全てを包含して来たのでは無く、その祭祀はあくまで「中核部分」なのであつて、同時に、靖國神社祭神では無い者を祀る神社や慰霊祭、「怨親平等」的なものも含めた仏教的慰霊など、性質の異なる各種各レベルの慰霊・追悼・顕彰が「共存」してゐたのは当然のことであらう。「慰霊」に関はる神仏対立が深刻となるのは、昭和10年代以降の「英霊公葬問題」や「忠霊塔問題」においてであるが、ここでも、問題とされたのは「怨親平等」観では無く、施設構造や祭祀形式、そして宗教/非宗教が争点だつたのである。
(要旨の文責:藤田 大誠)
(ろ)藤田発表に関する質疑応答の内容
質疑応答では、藤田発表に対して、次のように、さまざまな意見が出された。まず、「怨親平等」は江戸初期に断絶していると考えていると思うが、「人身祭祀」と「怨親平等」はパラレルに存在していたのではないか、また、幕末に至って「怨親平等」は「復興」したのかという旨の質問が出された。これに対して、そのためには、江戸時代の霊魂観をきちんと考察すべきであり、一種「復興」という側面はあるが、「怨親平等」という言葉は、辻善之助・高野山の事例に見られるのみとの応答があった。
発表者が「怨親平等」論の系譜をたどるなかで言及した、辻善之助の研究をはじめとする日本赤十字社については、社会事業史の観点から次のような意見が出された。すなわち、「博愛慈善事業」というのは、「慈善救済事業」と言い換えたほうがよい等の言葉の定義・使用法の問題について意見が出され、また、当時の社会事業の観念として、「公の救済」「天皇の下における救済」があり、その裏返しとして、慰霊と追悼の問題がある(遺族の恩給等)こと、社会事業史のなかで皇室の問題は避けて通れないことを考える必要があるとの意見が出された。
また発表者が報告した高野山奥の院にある「五族之墓」に関連して、高野山には織田信長の墓などが建てられているので、それと「怨親平等」とどのように結びつくのか、その点も含めて考えてみる必要があるとの意見が出された。
さらに、楠公崇拝に見られるような、意思の継承としての祭式の展開、またそのなかでのネットワークとしての霊明社の存在、そのなかでの祭祀のあり方も含めて考えるべきとの意見や、靖國神社の「英霊」祭祀と仏教の慰霊の問題は、別の問題として考えてみるべきではないか、供養をどのように捉えるか、いろいろな宗教者のレベルと供養してほしいと願うレベルとの乖離。これらをどのレベルで議路していくべきかが、大きな問題になるとの意見も出された。
最後に、仏教側の「怨親平等」に関連して、明治期から大正期に活躍した真宗増・赤松連城の事例が出された。事例として、赤松の日露戦争時の法話が取り上げられたが、彼は「怨親平等」めいた内容の法話はしているものの、「怨親平等」という言葉を一切使っていないことが挙げられた。このときは、一法話のみであったため、赤松の他の法話を含めての検討が必要との意見も出された。
(質疑応答の文責:中山 郁)
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