慰霊と追悼研究会(第13回)
平成20(2008)年3月14日 18時00分から20時00分
國學院大學大学院0507演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
13名
黒田俊雄『鎮魂の系譜-国家と宗教をめぐる点描-』を読む
戸浪裕之(研究開発推進センター研究補助員)【第1節担当】
大東敬明(研究開発推進センター研究補助員)【第2節担当】
(い)戸浪発表要旨
黒田俊雄氏は日本中世史の研究者、特に宗教史の分野に(海外でも評価される)大きな業績をあげ、「顕密体制」論という歴史理論の提唱者として知られる。中世期の神道を「顕密体制」論の枠内で理解した。黒田氏の論文「鎮魂の系譜―国家と宗教をめぐる点描―」(『黒田俊雄著作集』第3巻所収)を検討し、その問題点を探っていく。この論文は、もともと『歴史学研究』500(昭和57年)に発表されたもので、この問題をめぐる先行研究として、それなりに評価を得ているもののようである。私は「はじめに」「一 霊魂を祀る風習」の部分について、その論点の整理を中心に行なったが、ここでは次のような問題点があることを指摘した。
まず黒田氏は、靖國神社の祭祀が「御霊信仰」の系譜に位置づけられるということを前提にして論を進め、「御霊信仰」(神泉苑の御霊会と祇園御霊会など)の歴史を論じている。果たして靖國神社の祭祀は、「御霊信仰」の系譜に位置づけられるのか否か、それを検証することが必要であろう。
次に黒田氏は当該論文のなかで「靖国の祭祀は、今日「神道」と総称される信仰ないし宗教のうち、御霊信仰系に属するものとされている。(中略)とくに御霊信仰系とみなされるのは、神道のうちでも天皇の祭祀や神社神道などの「神」と異なり、「ひとの霊魂」を祀る点で共通しているからであろう」(133頁)というように、靖國神社の祭祀は、「御霊信仰」系に属すると述べている。その根拠の一つに、村上重良氏の『国家神道』(岩波書店、昭和45年)が挙げられているが、これは同書の次の箇所を指しているものと思われる。
「靖国神社は、戦没者を護国の英霊として祀り、天皇の参拝という「殊遇」をあたえることによって、戦争のたびに、国民の間に天皇崇拝と軍国主義を普及させるうえで、絶大な役割を果した。靖国神社の祭祀は、非業の死をとげた者の霊を神として祀り、その霊威を鎮めるという、ながい伝統をもつ御霊信仰をうけついでおり、さらにこれと天皇崇拝を直結する構造をもっていた」(『国家神道』186頁)
この文章だけを見れば、確かに村上重良氏は、靖國神社の祭祀を「御霊信仰」系と見なしている。しかし村上氏が、続けて次のように述べていることに注目しなければならないと思う。
「しかし、靖国神社においては、国民の宗教意識に定着してきた慰霊の伝統に、本質的な改変が加えられていた。封建社会以前の日本では、戦乱にたおれた者は、敵味方の区別なく供養し、その霊を慰め鎮めるという伝統があった。しかし靖国神社の原理は、(中略)幕府軍側の戦没者や外国の兵士等、天皇の「敵」の死には一顧をもあたえないというインヒューマンな発想に立っていた。靖国の「国」は、どこまでも、大日本帝国のことであり、天皇への忠誠のみが、いっさいの価値の基準であった。戦没者は、天皇のために死ぬことによって、生前の所行の是非善悪とは完全に無関係に、神として祀られ、国家は国民にたいして、この神々を礼拝することを強制した」(同上、186-187頁)
私の理解によれば、村上氏の重点はここに置かれており、「御霊信仰」系とは異なる別の側面も指摘している点に注目しなければならない。つまり、靖國神社は「御霊信仰」系や「怨親平等」の伝統を受け継ぎつつも、その原理は全く異なった「幕府軍側の戦没者や外国の兵士等、天皇の「敵」の死には一顧をもあたえないというインヒューマンな発想」であったということが、村上氏の強調したかったことではないのかというのが、私の理解なのである。
(要旨の文責:戸浪 裕之)
(い)大東発表要旨
はじめに
本章で述べられた鎮魂の儀礼の対象は「御霊」と表記されているが、その対象は大きく二つに分類される。一つは「人の霊」(菅原道真・貞観八年御霊会で祀られる御霊・八所御霊)であり、一つは牛頭天王などの本来「神」であった神格である。両者はともに「疫神」としての性格を有し、御霊会の祭祀対象となった。本章の2・4・5節において多く述べられた祇園御霊会は後者に属し、「人の霊」に対する祭祀とは性格を異にするものである。
黒田氏は本論を「靖国の祭祀」が「御霊信仰に属する」(132頁)との前提に立って論をはじめている。しかし、御霊信仰の定義について村山修一氏は「御霊信仰とは」(『国文学 解釈と鑑賞』63巻3号 至文堂 1998)において、御霊信仰とは、人の霊と天変地異等の自然現象との間に因果関係を見出し、天変地異を防ぐ為に祭礼・呪法等が行なわれること、(下線報告者)と捉えている。この定義を踏まえたうえで、もう一度、黒田氏が「靖国の祭祀についても言及があって、神道と総称される宗教のうちでは御霊信仰の系列に属するものと指摘されていた。」(132頁)と、先行研究を踏まえつつ述べた部分考えると、靖国神社と祟りが結び付けられる思想があったのか、との疑問が生じる。「靖国の祭祀」が御霊信仰に属するものか、否かはまず「御霊信仰」の定義を行った上で、判断されるべきであろう。
祇園社の祭神の問題
祇園社(現・八坂神社、明治初年以前は祇園感神院とも称した。)の祭神は「牛頭天王」である。よって、祇園社に対する信仰、いわゆる祇園信仰「ひとの霊を祀る鎮魂の風習」(157頁)の歴史の中に位置付けられるものではない。祇園社の創建年代には諸説あって一定しないが、一般に鎌倉末期に成立した『社家条々記録』に基づいて、貞観18年(876)に南都の円如が堂宇を建立したことに始まり、藤原基経が元慶年中に精舎を建立して観慶寺感神院と号したとされる。この後、延喜20年(920)には藤原忠平が「咳病」を除去する為に「幣帛走馬」を奉り(『貞信公記』)、延長4年(926)には「修行僧」が建立した「祇園天神堂」の供養がなされている。『二十二社註式』に引く承平5年(935)6月に観慶寺が定額寺となった時の太政官符には、仏堂と拝殿、神殿と拝殿より構成され、仏堂に薬師如来・観世音菩薩などが安置され、神殿に天神(天王)・婆利女・八王子が祭られていたことが記されている。ここから、祇園社にまつられる天王(牛頭天王)は、薬師如来を本地とし、病に関わりの深い神と捉えられていたこといえる。一方で、牛頭天王は、疫病を流行らせる、という一面をもち、丁重にまつらなければ、疫病を流行させる神である。この神を祭る祇園御霊会は、「疫病神の神魂を慰撫して、疫病の蔓延を防ぐ祭礼である」(『物語 京都の歴史』脇田晴子・執筆部分 中央公論新社 2008 99頁)。黒田氏が「靖国神社の起点が亡魂を鎮める招魂社であったように」「靖国に神格化されている徳=機能は、いわば祇園社方であり、」(156頁)とする根拠は、このような点にあろう。
御霊会と祇園御霊会
周知のように御霊会の初見は『三代実録』貞観5年(863)5月20日条である。ここでは、疫病が流行したのを御霊の祟りであるとして、畿内やその他の国々で御霊会が修せられた。朝廷もこの影響をうけて、藤原基経らを勅使として、神泉苑を祭場として御霊会が修した。この御霊会では、慧達を講師として金光明経や般若心経が講ぜられ、歌舞が催された。ここでいう「御霊」とは、「崇道天皇。伊予親王。藤原夫人。及観察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。」であるとして、疫病の流行を止める手段として人の霊がまつられている。
次に『日本紀略』正暦5年(994)6月27日条には船岡山で御霊会が行なわれた記事があり「為二疫神一修二御霊会一」とあって、御霊は「疫神」とのみ解釈され、人の霊とは結びついていない。よって、御霊会であっても一概に人の霊との関わりが示されているのではなく、人の霊と関わらない御霊会の方が一般的であったとも思われる。つまり、御霊会のすべてが「ひとの霊を祀る鎮魂の風習」(157頁)の中に位置付けられるものではない。御霊会それぞれの行われた状況から、個別に判断されるべきであろう。
祇園御霊会の創始年代は明らかではないが、10世紀後半には行われていたと考えられている(脇田晴子『中世京都と祇園祭』<中公新書>中央公論新社 1999 17頁等)。その目的は、先述の通り、疫病をもたらす神を慰撫して、疫病の蔓延を防ぐことにある。繰り広げられる芸能は、神への慰撫の手段であり、貞観5年の御霊会から変らずにみえる形態である。本章の冒頭で黒田氏は、御霊信仰は民間的・民衆的であったと述べる。たしかに『年中行事絵巻』をみると、祇園御霊会を描いた中に多くの民衆の姿をみることができ、民衆の祭りとしての性格を否定することは出来ない。しかし、繰り返し述べるように祇園御霊会は、人の霊をまつる風習に位置づけられるものではなく、これをもって本論文で考察対象とする人の霊への祭祀が民衆のものであったとはいえまい。
まとめ
本章で、黒田氏が多く述べた祇園御霊会は、神を祭るものであって、疫病の流行を未然に防ぐという目的をもっていた。御霊会にしても、すべてが人の霊に対して行われたものではなく、「疫神」に対してのものが多かったと思われる。人の霊をまつる風習・信仰の歴史的展開を説明する上で、しばしば御霊信仰・御霊会の例が用いられる。慰霊や追悼の歴史的展開やその概念が注目を集めている今日、もう一度、御霊信仰・御霊会の定義をし直すことは無益ではないと思われる。
※「鎮魂の系譜-国家と宗教をめぐる点描-」については『黒田俊雄著作集』第3巻(法藏館 1995)を用いた。
(要旨の文責:大東 敬明)
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