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慰霊と追悼研究会(第15回)

  • 開催日:
平成20(2008)年4月18日 18時00分から20時00分
  • 場所:
國學院大學会議室06(渋谷キャンパス学術メディアセンター棟)
  • 参加者:
14名
  • 発表者と発表題目:
藤本頼生氏(神社本庁教学研究所録事)
「公の救済を考える-社会事業史からみた慰霊と追悼-」
  • 会の概要:
 慰霊と追悼を考える場合には、現代社会では必ず言われることに遺族への慰謝(慰藉)という側面があり、これに関連して公の慰霊、追悼を望むとの遺族、戦友の声から、天皇陛下の靖國神社への参拝、首相の参拝を求めるといったことが論議になることがある。
 この点については、実際、現在も毎年夏の全国戦没者追悼式に参加の全国の戦没者遺族、戦争体験者、戦友らが靖國神社への参拝を行っている場合が多いが、そうした参拝団の多くが遺族への慰藉という観点から、個々の地方公共団体(各自治体)の社会福祉協議会や遺族会などが直接、間接的に関与していることが多く、大阪市では平成15(2003)年2月に市の監査にて、政教分離の観点から旅費の支出が問題視された事例がある。また各地の護国神社についても社会福祉協議会や遺族会との関わりは密接である。
 戦没者、およびその遺族の処遇をどうするかという問題については、特に近代の日清戦争以降の対外諸国との戦争によって、我が国では、働き盛りの若者や父親、配偶者を戦没者として多数失った。その戦没者遺族にとっては、個々の実生活に経済面を含め、大きなダメージを受けていた訳であり、その中で「救貧」、「防貧」といった社会救済のための施策が講じられることになった。
 そこで本発表では、「救貧」、「防貧」とよばれる論理がいったいどのようなものであり、またその精神面でのよりどころはどのように考えられていたのか、それを公的、公としての国、中央政府はいかに考えてきたのかということについて、特に近代の慰霊と追悼に関する周縁部を埋める意味で、近代における「公の救済」つまり、国家による救済政策、その中で靖國神社、神社との関わりというものを富江直子や池本美和子、池田敬正や小田部雄次らの先学の研究をもとに、社会事業史的な側面から考えることにある。
 公の救済というものを考える場合においては、いわゆる近代天皇制の形成過程と密接に関わっており、社会福祉史、社会福祉理論史の中では、池田敬正、池本美和子などの論に代表されるように天皇の慈恵、救済というものと結びつけて「公の救済」を論じている場合が多い。さらには近年、華族制度や近代皇室関係の論文、著書のある小田部雄次氏のように『明治天皇紀』の記述をもとにして、天皇の救済事業と軍事援護との関係について論じた論文もある。こうした中で皇室の社会事業や公的な救済制度の中での軍事救護がどのように考えられていたのかというものを近代の歴史のなかで一つずつあとづけながら、公の救済と慰霊、靖國神社、護国神社、皇室と社会事業との関わりを考えてみることで、慰霊と追悼の議論に新たな肉付けを行うことにある。ここで問題となるのは、そもそも「公」とは何かという問題。「公」をどう考えるか、どう考えてきたのかという問題である。
 一般に「おおやけ」・「公」および「わたくし」・「私」については、前者が「国家や天皇もしくはその代表者、代理人、担当者としての官僚を意味し(同一視し)、『わたくし』やその漢字表現としての『私』はもっぱら官僚や官職についていない人間一般をあらわす」といわれる。そのような日本型の「公私」観念の原型は8世紀中葉に成立したといわれている(池本美和子「おおやけ(公)の救済と公的扶助-現代社会への構造変化と国家の役割をめぐる論議-」『社会事業史研究』第30号、2002)。
 公(おおやけ)の救済は、日露戦争後の社会変化により救済行政そのものが感化救済事業、地方改良事業により現代的な転換をするとする(池本)。
 恤救規則(明治7(1874)年12月8日太政官達第162号)はわずか5条ではあるが、官の給与として施行される天皇の恩賜、慈恵により、地域共同体の相互扶助より漏れる者を対象として救済するものであり、この規則の特徴としては、慈恵主義でありながら制限的救助主義であったということである。
 当時、救済施策として著名であったイギリスの救貧法とは大きく違い(公的保護率が2割も日本の方が低率)、恤救規則はその後、昭和4(1929)年まで存続するが、実際、その後進む近代化・資本主義社会の進展、日清、日露戦争により、天皇の慈恵救済という理念のもとにある恤救規則をもとにした救済制度体制自体に動揺が起る。
 
救貧から防貧へ-内務官僚の救済理論-
 後藤新平らは明治維新以降、初めての対外的戦争であった日清戦争の勝利により、その賠償金を皇室に入れ、明治恤救基金(皇室の救済基金)を設立することを提案。これにより国家的な救済制度の拡充を求めることとなる。後藤は「維新以後諸般ノ制度大ニ拡張ヲ見ルト雖、国民ノ多数ヲ占ムル貧民ノ恤救制度ニ於テハ、全ク備ハラザルモノノ如ク、現ニ四千万口ノ邦国ニシテ此五箇年平均ノ国費救済、僅二十一万円ニ上ラザルナリ。国家ノ徳義ニ於テ欠ク所アラザルカ」(明治28(1895)年12月7日・後藤新平衛生局長国会提出の建議書)とのべ、明治44(1911)年に明治天皇の下賜金150万円をもとにして恩賜財団済生会が発足する。
 当時内務省神社局長であり、水野錬太郎らとともに感化救済事業、地方改良運動の生みの親ともいうべき井上友一は「近くは紀元節の佳辰に際しまして、聖上陛下には、優渥なる勅語を賜ひ、特に施薬救療の資として、内帑金百五十萬圓を下賜せられたる事は、誰が感泣しないものがありませうか。臣民たるものは、此大御心を体して奮励努力する所がなくてはならぬと信ずる」(「皇室と救済事業」『慈善』第2編4号、1911)と述べている。
 感化救済事業は行政側の発想による政策的なもので、国家を有機体として捉え、共同体としての国家観と天皇を中心とした家族主義国家観によるものである。井上は救貧より防貧、防貧から教化を重んじ、隣保相扶を強調していた。井上の代表的な書である『救済制度要義』(1909)には、
夫れ救貧は末にして防貧は本なり。防貧は委にし效さゞるべからず。風化は源なり。詳言せば救貧なり防貧なり苟しくも其の本旨を達せんと欲せば必らずや先づ其力を社会的風氣の善導に
として、道徳主義的救済論を説き、二宮尊徳の報徳思想、スタインと楽翁(松平定信)という井上が尊敬する人物、特に松平定信に傾倒していた中にあって、地方改良事業当時の村落祭祀を地方自治に結びつけ、国民生活の中心とする管理体制をつくりあげようとする。さらには報徳主義を用い、その関連において感化救済事業も展開してゆく。そのような経緯の中で井上は社会政策として地方改良運動を積極的に推進、報徳思想による地方国民の道徳的教化を図り、家族主義による国家体制を整え、当時流入しつつあった社会主義思想を明確に意識してその防波堤として慈善事業を活用したものであった。
 さらに井上は救済事業の中心として皇室をおき、その尊厳と仁慈に頼ろうとした。これに関しての井上の言及としては、感化救済事業、地方改良事業の中でも井上は神社に関わる例を挙げてこれを関連づけようとした例が前掲の「神社中心の説」(『全国神職会会報』第122号、1908)である。ゆえに国への至誠を育てるために必要な公共心と共同心を育てる中核の存在として神社を想定していたのではないかと考える。
 また井上は実際に道徳主義に基づき、「隣保相扶」による施策を行おうとしたが、それは国費の支出ではなく地方に処置させようとした。「政府が直接にやりますよりも、地方団体に委せて、それを督励した方が行き届く」(明治45(1912)年3月15日、井上の帝國議会での答弁)
 では、こうした経緯のなかで軍事救護の面に関してはどうであったのかという点について以下若干述べておきたい。
 
軍事援護制度の変遷からみる公の救済
 軍務に服して傷病を負い、あるいは死亡した場合については、国家の義務として、本人や遺族に対して、一般の窮民に対するよりは丁重に処遇すべきという、一般国民の支持を受けやすい観念により、さらにより重要な動機としては、軍人の士気高揚もしくは士気低下防止のために、どこの国でも特別の援護体系を整備する(百瀬孝『日本福祉制度史』ミネルヴァ書房、1997)。
 社会事業史研究の中では、軍事救護法は日本社会事業の草創の出発点に位置づけられており、当時の日本では一般の救貧制度として認められていなかった公的扶助義務を傷病兵と軍人遺家族の特例として明確化される。
 大東亜戦争(太平洋戦争)前後の軍事援護事業としては、昭和12(1937)年に内務省社会局に臨時軍事援護部の設置、軍事扶助法(大正6(1917)年)軍事救護法の改正(昭和12(1937)年3月31日法律第20号)等、新たな対策が開始される。(昭和13(1918)年「軍人援護に関する勅語」)明治4(1871)年には「陸軍士官兵卒給俸諸定則」において、公務傷病に関する規定を含めていたが、明治8(1875)年には「陸軍武官傷痍扶助及ヒ死亡ノ者祭粢二其家族扶助概則」(祭粢は祭祀)と「海軍退隠令」が定められ・傷痍軍人とその家族に対する扶助制度が創設された。しかし、これらは恩給制度で、一般兵卒に対する生活援護はなかった。
 第一次世界大戦に参戦した日本は、傷病兵自身や戦死者の遺族、下士官兵の応召により家族が生活困窮におちいる者が増加したため、大正6(1917)年軍事救護法を制定した。下士兵卒家族救助令よりも救護の範囲を拡大し、生業扶助、医療、現品給与および現金給与(大正2(1913)年改正で、生活扶助、医療、助産および生業扶助と埋葬費支給)を行なうこととした。扶助に要する経費は全額国庫負担であり、貧困のためにする公費の救助ではないとみなした。日清日露戦争の犠牲者の生活困窮と、現に徴集されている兵卒の家族の窮乏が問題になったため、民間の運動や議員の働きかけを受けて、内務省で立案したものである。生活扶助額は1人1日15銭以内とした。昭和10(1935)年には扶助額も35銭以内となった。
 軍事救護をめぐっては2つの国家論ともいうべき論があり、板垣退助のように軍事救護拡充論の立場から「我れ一兵卒となりて国に尽さんのみ」というものもあり、(板垣退助「徴兵の精神」1913。板垣守正編『板垣退助全集』1931、711~720頁所収)板垣は「国民」の義務としての兵役および軍事救護を論じるにあたって、「国家」の雇人にである将校と、自己の義務として兵役に就く兵士との区別を強調している。板垣は、将校は「国家」の雇人であるから「国家」が救護すべきであり、他方兵士は血税として自発的に「国家」に尽くす者であるから「国民」が救護すべきであると述べている。
 もう一方で、個人と国家を別個のものとして考える軍事救護論があり、内務省社会局の山崎巌による救護制度の解説書には、軍事救護法の立法趣旨が説明されている(冨江直子『救貧の日本近代』ミネルヴァ書房、2007)。
(日露戦争前後に軍事救護制度を要求する世論が起こった理由は)国家の為、尽瘁し自ら進んで犠牲となれる忠誠の国民に対して、国家が之を救護することは当然の義務であり軈ては又後世子孫をして国家に忠誠ならしむる所以であるとする点にあった(山崎『救貧法制要義』1931、193-313頁)。
本制度は単に一般貧困救護と其の対象を異にするのみならず趣旨に於ても国家の為、忠誠を尽したる軍人遺家族の生活を保障し、以て其の名誉を保持せんとする特殊の意義を有するのである。従って他の一般救護制度の如く救護に伴ふ不利なる条件(選挙権の喪失等)を附せらるることなく且被救護者に救護を受くる権利こそ明には認めないが之等の者に対する国家の救助義務は亦極めて強い程度のものと解すべきである(同316頁)。
 『内務省史』にも、「兵役に服したことが原因となって本人または遺家族が困窮におちいる場合の救護の問題が、内務省が設置されていた全期間を通じて、一般の窮民救助とは異なった考え方と処遇をうけたのは当然であるといって差し支えない」(大霞会内務省史編集委員会『内務省史』原書房、1971、367頁)と記されている。
 これらの文章に明示されているように、軍事救護法における被救助者は「国家」のための軍務の犠牲者であるため、その因窮に対する「国家」の補償責任は論理的に明快である。さらに、軍務の犠牲者を優遇することには、兵役義務の崇高性を強めるという意味があるし、軍人遺家族の生活を保障することには、兵士の後顧の憂えを断って士気を高めるという意味がある。したがって、軍事救護法は、この時期の日本で救貧制度の確立を妨げていた「富国強兵」や「公益主義」(第3章第2節参照)の文脈においても、十分に正当性をもつはずの制度であり、当然必要なものとして実現されても不思議はないだろう。
 しかし実際には、“国家の軍務のための犠牲者に対する国家補償”というアイデアは、一見明快でありながらそれほど単純ではなく、必ずしも自明のものとはされなかった。結論から言えば、軍事救護法の制定過程において、このアイデアを論争的なものにしたのは、国家論であった。“国家の軍務の犠牲者に対する国家補償”というアイデアは、個人と「国家」の関係をめぐる解釈の戦場となったのであった(冨江、34-36頁)。
 
概念図
 
 昭和12(1937)年には軍事扶助法と改称し、対象を戦場での傷病に限らず、在営中の結核や胸膜炎等の内部疾患にも拡大し、扶助の条件を、「生活することができない者」から「生活することの困難な者」に緩和したので、救貧的性格が若干薄まった。後述の救護法による対象者が年間20万人程度であるのに対し、軍事扶助法による対象者数は200万人と、10倍にのぼった。また所管する職制として、内務省社会局に臨時軍事援護部を新設した。
 
神社との関連の中で
 近代国家成立にともなう軍事化と帝国主義戦争の拡大は軍事犠牲者の増大をもたらした。明治国家は元帥である天皇の権威を保持するためにも、天皇皇后の軍事的援護を必要とした。この天皇の軍事援護は古代以来の貧民救済事業とは異なる新しい救護事業であった。天皇制国家の軍事援護事業が本格化するのは1930年代以後の日中戦争と太平洋戦争の時期であったが、明治期の軍事援護事業はその前史としての意味を担う。さらに靖国問題に象徴されるように、戦後の英霊崇拝、軍人恩給問題とも関連するものがある。さらには、日本国籍の民間人やアジア諸国民への戦後補償解決の遅れの問題とも関連する今日的意味を含んでいる。旧軍関係者への厚遇に対して一般の被害者への補償が十分になされることがないという現状は、明治期の軍事援護の政治的意図と思想的限界が関わっているといえなくもない。近代の天皇崇拝や軍事思想がどのように一般国民に浸透していったのか、明治天皇の救済事業と軍事援護のあり方から考察してみたい。(小田部雄次「明治天皇の救済事業と軍事援護-『明治天皇紀』を中心に-」『静岡精華短期大学紀要』9、2001、39~40頁)
 小田部は、慈恵的救済とは別に天皇の慈愛として、その権威の正当性を裏付けるために「伝統」の発掘につとめ、その一つとして、神社や旧跡名所の再建、美術品の調査、巡幸による山陵への奉幣、各官国幣社等神社への幣帛供進があるとする。その中で、戊辰、西南、日清日露戦争などでの戦死者、殉国者に対する戦時厚生福祉的要素として、非業の死を遂げたものに対する救恤があったとする。それが殉難者の合祀(霊山護国、招魂社等)そこに祭粢料の下賜があったと小田部は説いている(維新殉難者の弔慰、祭粢料の下賜、戦死者遺族への扶助料支給など)。しかし、この中に靖國神社の招魂祭への遺族招待や宮司らとの写真撮影などということも含まれていくのだろうか。皇室と社会事業、神社との関わりということで考えると大正、昭和御大典後の恩賜金を中心とした各社境内等整備事業や前述の養老碑建立などはあるが(「御大典記念 事業報告」『東京府神職會公報』第103号、1917)、実際に軍事援護などと関わる事業は見られない。天皇の慈恵救済の再編というものは、感化救済事業の時代が契機であり、(救貧から防貧へ)その後の社会事業にも影響を及ぼしたが、軍事援護事業とは別個であるといえる。ただし「公」というものと国民との関係では関連がないわけではないが、公の救済と神社との関わりというものを慰霊・追悼ということとの関係でいえば、直接的な関連性は現在のところ、不明であるといえよう。靖國神社が精神的な拠り所として、「九段の母」の唄にみられるような母親や、遺家族、子どもの心情というものは、単なる軍事援護事業との関わりだけではみいだせないものがあるといえるのではないか。なお、戦時下の仏教の社会事業との比較については今後の課題である。
(要旨の文責:藤本頼生)
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