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慰霊と追悼研究会(第9回)

  • 開催日:
    平成19(2007)年5月9日 18時00分から20時30分
  • 場所:
    國學院大學大学院0502演習室(渋谷キャンパス若木タワー)
  • 参加者:
    11名
  • 発表者と発表題目:
    テキスト・村上重良『慰霊と招魂-靖国の思想-』
    宮本誉士(研究開発推進センターポスドク研究員)
    「III 靖国神社と護国神社 3 第一次世界大戦前後」
    中山郁(研究開発推進センター講師)
    「III 靖国神社と護国神社 4 十五年戦争と護国神社の成立」
  • 会の概要:

    (い)宮本発表要旨

    ○村上重良氏の「国家神道」国教論
     村上氏は、「国家神道は、天皇制ファシズムの国教」(166頁)であるとし、靖国神社を「国家神道を支える巨大な支柱」であるとする。しかし、「国教」と断言する村上氏の「宗教」概念自体については、「教育勅語」を「国家神道の経典」とするなど、その概念自体が飛躍している。そして、村上氏をはじめとしたいわゆる広義の「国家神道」論者が、神道のみならず政治・宗教・教育までをも「国家神道」に包含せしめている事実は、そのフレームを文字通り追認している論者が存在することを意味する。村上氏が「国教」という表現を使用したことはいかなる目的と資料的裏付けによるのだろうか。
    ○村上重良氏の「国家神道」国教論の背景
     既に、本研究会で何度も指摘されてきたこととして、村上氏が「国家神道は、天皇制ファシズムの国教」であった…と公的に主張する背景に、昭和40年代の「靖国神社法案」国会提出における「非宗教性」(214~220頁・中略)の規定に反対せんがために、近代神社行政における歴史的事実としての「神社非宗教論」を否定し、近代の「国家神道」が「国教」であったという自らの論理を打ち出すという意思があった。そのことで、戦後における「国家神道復活の動き」という自らの論理を正当化したい意図があった村上氏の歴史観の前提は、近代において「国家神道」が「国教」であったと断じることであった。この論理を強弁するために、靖国神社が「国家神道をささえる巨大な支柱」であったとし、「靖国神社法案」を斥ける目的が完遂されるよう本書を叙述した村上氏は、本発表の担当箇所「III 靖国神社と護国神社 3 第一次世界大戦前後」においても、下記のようにその論理を執拗に繰り返す。
    • 靖国神社の存在が、新しく生まれた民衆的な神社として、国民のあいだに定着していったという事実は、国家神道のこの巨大な支柱が、たんに戦没者の慰霊と顕彰の宗教施設であるだけでなく、天皇への滅私奉公の忠誠を教えこむきわめて効果的な教育施設となったことを意味していた。(154~155頁)
    • 神社制度調査会は、神社は宗教ではないことをあらためて確認したが、両調査会の論議は、非宗教のたてまえでつくられた国家神道が内包する矛盾を露呈する結果となり、神社参拝の強制をめぐって、神社対宗教の関係は、にわかに緊張の度を加えた。(166頁)
    • 国家神道の本質を衝いた神社対宗教の論議は、ファシズムの台頭と、大陸侵略の拡大によって展開を阻まれ、国家神道は、天皇制ファシズムの国教として、最後の絶頂期を迎えることになった。(166頁)
     如上の恣意的論理展開の意図をふまえ、改めて村上氏が「国家神道」を政治・教育・宗教を含めたイデオロギー体制とすることが歴史的に妥当なのかどうか、靖国神社が「国家神道を支える巨大な支柱」であったのかどうかを検証する必要がある。
    ○靖国神社と関東大震災
     たとえば、『慰霊と招魂-靖国の思想-』には触れられていないが、村上氏の言において宗教施設でありつつ教育施設でもあった靖国神社は、大正12年9月1日の関東大震災が勃発してすぐに、境内・外苑・牛ヶ淵附属地を開放して、羅災者の収容に努めた。この羅災者収容の事実からは、靖国神社について、村上氏が説いた「戦没者の慰霊と顕彰の宗教施設であるだけでなく、天皇への滅私奉公の忠誠を教えこむきわめて効果的な教育施設」という見方には収斂されない、公共的側面・神恩感謝の対象としての側面、神職が戦没者以外の自然災害犠牲者への慰霊も行った側面を知ることができる(『靖国神社百年史』参照)。また、一年後の大正13年9月1日には、神社周辺の富士見町・三番町・上六番町・一番町・四番町の町民が神社に参集し、宮司・禰宜・主典奉仕の下に神恩奉謝祭が執行され、つづいて富士見町三業組合員・飯田町青年団員が神社に集まり報謝祭が行われ、以後恒例となった(恒例特殊祭関東大震災神恩奉謝祭の始まり)。
     このような側面からは、イデオロギーというフィルターを通した歴史観とは明らかに異なった神社の性格を見出すことができよう。昭和48年7月には靖国神社社務所から『靖国神社略年表』が発行されており、既に大震災の羅災者収容については記されていた。羅災者収容については、『靖国神社百年史』作成過程で編まれた『靖国神社略年表』が初出のようである。(『慰霊と招魂-靖国の思想-』は昭和49年発行)
    ○靖国神社と管轄
     また、近代の靖国神社の「宗教性」を考える場合、その成立過程に遡り、東京招魂社が明治12年別格官幣社靖国神社に改称列格されるまで、神官が未設置のままであったことにも着目すべきであろう。嘉永六年のペリー来航以来、天下にさきがけて国事に奔走した維新成立前の殉難者霊魂を慰めた幕末における霊明社の私祭招魂祭から始まる国事殉難者・戦没者慰霊は、維新後の明治政府による東京招魂社において、軍務官、兵部省、陸軍省・海軍省と一貫して軍の管轄であったし、改称列格後も軍の管轄であった。これらの事実を冷静に判断すれば、靖国神社が「国家神道を支える巨大な支柱」であったとする村上氏の表現は、その成立時の状況を踏まえない言説であり、それが妥当ではないことが再確認される。(第7回研究会発表、藤田大誠「国家神道と靖國神社に関する一考察」)
     あわせて、以下の文章を鑑みれば、神社行政の範疇でもあり、軍管轄の慰霊施設でもある、その位置づけが鑑みられ、靖国神社が村上氏の言う「滅私奉公の忠誠を教えこむ効果的な教育的施設」であったのかどうかが再検討されねばならないことが窺える。
    • 「初め神職の教導職を兼務せし當時は、社殿にて説教会を開きて人心を教化し、葬儀に預りて士卒の終禮を修めたりしが、十五年一月教導職兼補を廃せられて其事止み、遺族と神社との間自ら隔離するに至れるが如し。」(『靖国神社誌』、明治44年)
    ○神社参拝拒否と国教論
     また、昭和7年9月の上智大学学生による神社参拝拒否事件は、靖国神社参拝における拒否であったが、人心教化ができない神社に参拝することを、国教と結びつける意図はいかなるものか。村上氏は、「日本基督教連盟は「神社問題に関する進言」を発表し、神社が宗教でないならば、宗教活動をやめて、神社参拝を強制しないようにと要望した」(166頁)が、「ファシズムの台頭と、大陸侵略の拡大によって展開を阻まれ」たとする。しかし、神社参拝を「宗教活動」とするならば問題は別のところにある。同年9月22日付で鳩山文部大臣宛にカトリックのシャンボン東京大司教が送った書簡内容は、神社への敬礼は愛国心と忠誠を現すものか否かについて、正式回答を請うものであった。この大司教の書簡に対して同月三十日の文部次官による回答は「学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ教育上ノ理由ニ基ツクモノニシテ此ノ場合ニ学生生徒児童ノ団体ガ要求セラルル敬礼ハ愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」との内容であり、神社参拝は教育上のものとされている(『明治以降宗教制度百年史』、昭和58年)。
     この参拝拒否について、松原英一は、「恐らく世の多くの人々は敬礼と礼拝とを間違つて居る」のではないかと疑問を呈し、礼拝と敬礼(敬意を表す)とは全然別に考えて然るべきであるとし、「国家に功労ありし歴史上の人物に対し心からなる敬意を表す事に就いては別に反対な理由はない筈で、祖先偉人を敬慕するは人間自然の発露であり、それを形に表現する事は決して悪しからず、当然のことであります。またそれを以て児童の精神教育の一資料にする事も好い事であります。」(原英一著『我国に於ける基督教に対する誤解』、昭和8年)とする。これは一つの例だが、このような言説を引用せず展開する村上氏の論は一面的であると思われる。ここからも、制度的問題と併せて、神社参拝肯定論のみならず、否定論をも含めて、基督者のみならず、著作・新聞・雑誌等の論調を見直した公正な考察が必要であると思われる。
    ○まとめ
     以上不十分ながらも、「国家神道」を「国教」と断定する村上氏の論の再検討が必要であることを改めて確認した。しかし、基督者等に代表される宗教的プロテストと対峙した国家権力とは、神道ではなく、治安維持法や教育に属するものであったことをふまえれば、この問題は、より大きな視点で政治・教育・宗教の問題を再考しなければ実情を把握しきれない。もちろん、その時代背景と同時に、公教育における配属将校・教員等の実態をもふまえて、何が人々を動かしたのかを判断する必要があろう…。だからこそ、如上の問題点において、多くの資料を片寄ることなく精査し、国家政策とその受容者である国民の双方の観点からの考察を期したい。

    (ろ)宮本発表に関する質疑応答の内容

     まず宮本氏の報告後、今回の発表の中で取り上げられた「神恩感謝祭」について、周辺町内と靖国神社との具体的な関りとして現在でも継続されているのか、といった靖国神社の祭事を中心とした地域との現状関係について確認がなされた。また発表内容全体に亘って、特に報告者が力点をおいた「神社対宗教」問題よりも、むしろ村上氏が強調する「神社参拝への強制」に関しての個別的具体的事例を検証することが不可欠な課題であるとの指摘があった。報告者からは、神社参拝に対する拒否行為には当事者の年代や個人の宗教観でも多様なものがあり、以後も個別事例を引きつつ緻密な検証を行う必要がある、との回答がなされた。
     また、神社を「教育施設」と捉える村上論は、昨今の島薗進氏などに代表される「広義の国家神道論」研究の嚆矢でもあり、より詳細に当該時期における神社、あるいは学校教育の実態について検討する作業が必要になろうとの意見があった。これらの全体的な指摘を踏まえて、例えば当時の大正デモクラシーの気運の高まりの中での神社の存在が如何に捉えられていたのか、といった観点から、村上氏も引用する吉野作造の発言の吟味、さらに幅広い知識と活動を行った靖国神社宮司・賀茂百樹への着目など、「人物」の行動や大正期の「思潮」に注視してみることで、当時の多様な政治・宗教状況を窺うことが可能になるのではないか、との指摘がなされた。
     また多角的な観点といった面では、第一次世界大戦後の世界情勢にも注目する事で、各国における慰霊行為の変化の中での靖国神社の位置づけを浮き彫りにする必要もあろう、との発言もあった。そのほか、小学生などの神社参拝については、各県の招魂社(後の護国神社)などで奏上された祝詞の文面に綴られる文辞に注目してみることで、具体的な国民教育の実態を浮き彫りに出来るのではないか、とも指摘があり、抑圧的教育や神社強制参拝といった一括り的な視点ではなく、様々な受け手の存在にも目を向ける必要があろう、との個別の観点からの意見が呈された。

    (は)中山発表要旨

      本報告では、先ず「III 十五年戦争と護国神社の成立」における村上氏の議論全体の問題点について述べ、次に氏の指摘する靖国神社祭神の「没個性」という神格について、果たしてそれが妥当であるかどうかについて考えたうえで、当時の将兵たちにとって靖国神社の存在がどのように感じられていたのかについて、主に従軍経験者が記した「戦記」や「兵隊小説」をもとに若干の考察を行った。
     先ず、本節で論じられる時代は、靖国神社を、近代天皇制国家の支配原理を体現し国家神道をささえる巨大な支柱としてとらえ、日本人のヒューマニズムを破壊し、その人間性を歪める役割を果たした、とする村上氏の議論が、如実に具現化された時期にあたる筈である。そして、各項では、日本が進んだ戦争への道程をなぞりつつ、神社参拝の強制・慰霊使・従軍神職・賀茂百樹宮司の更迭・護国神社の成立・忠霊塔建設運動・神祇院の設置・満州における建国神廟と建国忠霊廟の成立・戦陣訓の示達・臨時大祭と合祀・朝鮮人、台湾人の合祀など、重要な事件・事項についてひととおり言及されている。しかし、「国家神道をささえる巨大な支柱」である靖国神社が、「十五年戦争」下で果たした役割については、極言するならば、ひたすら戦没者の合祀に励んでいたという以外にはみえてこない。これは、本節における議論が慰霊や靖国神社・護国神社の問題のみならず、基本的に「国家神道」の問題に分散してしまっていることによると考えられる。しかし、それを踏まえても、村上氏のいう「国家神道」や、「国家神道を支える巨大な支柱」は、主体的に、どのような機能を果たしたのか、そもそもそうした機能をどの程度持ち得たのか?「巨大な支柱」という言葉にあまり巨大さを感じることが出来ないのは、こうした議論展開の中途半端さと実証的な検討の不足に因るのではないだろうか。
     次に、村上氏が「没個性的な祭神集団」「均質で無機質の祭神集団」と捉える靖国神社の祭神像についてであるが、例えば祭祀の根幹となる祭神名簿の存在をはじめ、各祭神の氏名と戦没日、戦没の状況をできるだけ記録しようとした『靖国神社忠魂史』の刊行や、臨時合祀祭の際に刊行された、各祭神の名前と写真を付けた写真帳の存在などに見られるように、むしろ祭神一柱毎の個別性こそが祭祀と、それによる慰霊・顕彰の大前提となっていたことは明らかである。これについては村落レベルや「家」における祭祀についても同様であり、各町村における英霊祭祀においては田中丸勝彦氏が報告するように、英霊が全て優れた人であったされるような画一化が図られる一方、氏の指摘する「国殤」の墓の個別性と、弔い上げ以降の祭祀の継続などの事例も、村落共同体や家における英霊祭祀が、英霊各自の個別性に基づくものであることを示している。むしろ、靖国神社祭神の性格も含めて、戦没者とその魂に対する祭祀は、村上氏の論とは反対に、基本的に個人性・個別性に依拠したものであったということができよう。因みに村上氏も193頁において、戦時下における合祀が各祭神の調査に時間がかかることから、年間約三万名が靖国神社の能力の限界であったことについて触れている。この指摘は英霊の没個性・無個性を主張する氏自身の祭神論と矛盾するものであろう。また、「どれほど多数の祭神があらたに加わっても、神社そのものの性格にはいささかも変化がないという、神社としてはほかに類例のない特異性をそなえる」(111頁)とあるが、これは、先の大戦における大量死と、大量の遺族発生による戦後の祭祀の変化についての検討を踏まえたうえで言われたものではない。以上のことから、村上氏の議論は、個別的な事例検討の積み重ねの上になされたものではなく、むしろ平板かつ古典的な近代、および近代軍に対するイメージに基づいてなされたものであるようにも感じられるのである。
     また、本節の時代背景となる戦争に関する記述にも問題が見られる。例えば「ファシズム枢軸国と民主主義連合国の全世界的対決」や、1939年のドイツ軍、ソ連軍によるポーランド占領に関する「侵攻」「進駐」という語句の使い分けなど、執筆当時のイデオロギーが反映されたものはもとより、事件の背景に触れずに事例だけを挙げる(北・南部仏印進駐、関特演)、戦史を無視した恣意的な記述(シンガポール攻略、ドゥリットル空襲とミッドウェー海戦等)、戦史についての基本的な間違い(ニューギニア戦等)がかなり見られる。
     次に、村上氏は国民を忠死に駆り立てる存在として靖国神社があったとされている。それでは、実際に戦場に立った将兵たちの戦意と靖国神社はどのように関わっていたのであろうか。これについて「戦記」「兵隊小説」から靖国神社に関するイメージについて考察した。戦後、多数刊行され続けた戦記、回顧録、戦友会誌および「兵隊小説」等を読む限り、将兵、とくに下士官・兵の戦意が、直接「天皇制イデオロギー」や靖国神社への祭祀に基づくものであったとは、一概に言えないことがわかるであろう。兵隊の戦争体験は入営年次、所属部隊、軍歴、隊内での立場、戦地の状況等によって大きく左右されることから一概には捉えられないものの、国民としての義務感や植民地解放の使命感のほか、軍隊への強い嫌悪感を示しながら、兵としての意地と誇りのために戦おうとする者など、将兵の戦いへの動機付けは多様であるといえる。例えば北、中支で計7年間兵隊として過ごした作家、歌人の伊藤桂一氏は、戦う理由を「おくにのため」としたうえで、「私は七年にわたる戦場生活の全期を通じて、ひとつだけ考えつづけたことがあった。それは「事ごとに天皇のためといわず、なぜ、国家や民族のために戦おうといってくれないのか」という軍隊への不満であった。兵隊の素朴な質疑であったかもしれないが、現在においてもこの言葉はそのままに私の胸にある。敗兵が故山にいたりついたとき、人々から異端視されねばならなかった遠因もそこにあるだろう。」(『戦旅断想 草の海』光人社、昭和61年)という語りからは、天皇への忠死という公的なイデオロギーとは別の部分に士気の根源を求める兵隊の姿を窺うことができよう。兵隊は、機械的、没個性的に「忠死」する存在ではなかったのである。
     また、これらの記録においては、しばしば靖国神社への祭祀の問題よりも、現地での戦死者の処置とその慰霊のほうが、さしせまった問題としてしばしば取り上げられている。例えば中国戦線における各作戦のピリオドとしての各部隊慰霊祭の存在や、同じ内地への出張でも、初年兵受領が歓迎されるのに対して次の作戦で戦死するというジンクスから嫌われていた遺骨宰領の問題、さらには戦没者の遺骨への強烈な執着(遺体の回収、腕・手・小指の切断による遺骨作り、潜水艦での遺骨還送、部隊玉砕決定時の遺骨の処置)や、戦中戦後における戦没者名簿の整理への熱意などである。ここからは、むしろ、共同体としての部隊(とくに中隊)の絆に基づく戦友個々に対する祭祀、慰霊への関心とその重要性とが浮かび上がってくる。
     それでは、靖国神社の存在は、将兵達にとって何であったのであろうか。例えば「兵隊小説」の第一人者のひとりであった棟田博(日華事変初期に分隊長として出征)の『サイパンから来た列車』を読むと、サイパンで玉砕した将校の霊が日本に一時帰国した際に、靖国神社に入っている陸士の同期生を訪問する場面がある。そこでは靖国神社の境内には将兵の魂があふれ、思い思いに生前の姿ですごしているが、戦地から帰った英霊の魂は生々しさを身にまとい、祭神になってしばらく立った英霊は生々しさが薄らいでいるというように表現されている。そのうえで、靖国神社は、外地で戦死した将兵の帰ってくる場所として幻想的に描写されているのである。これは、戦友の霊の集まる場所としての、元兵隊がもつイメージのひとつの表現であるといえよう。こうした靖国神社観が戦後における元軍人による崇敬や、戦友会による奉賛活動の基底をなしていたのではないだろうか。ゆえに、軍という組織、さらには部隊(戦友会)という共同体、兵隊という個人にとって、戦没者と靖国神社とは何であったのか、という問いかけも、今後研究を御行うための切り口のひとつとして必要になってくるのではないだろうか。

    (に)中山発表に関する質疑応答の内容
     つづいて、「没個性的な祭神集団」「戦史上の誤認」「村上氏の論法」の三点に焦点を絞った中山氏の発表に対して質疑応答が行われた。まず、村上氏の「没個性的な祭神集団」との指摘については、確かに戦没者の増加に伴って、臨時合祀祭の際に刊行された写真帳の戦没者での遺影は形を小さくしつつ、戦時下での物理的な限界は課せられたものの、遺族の熱意によって戦没者の写真帳は軍部当局によって出版そのものが止められるまでには至らなかった。このように、写真帳の刊行といった具象化された個別の祭神(戦没者)が公にされていく背景を踏まえると、単に村上氏が指摘するような没個性的で観念的・抽象的な存在としての祭神、と認識されていたわけではなかったことを示す明白な事例である、との意見も呈示された。また、靖国神社と将兵との関係を論証するに際して、今回報告者が取り上げた「戦記」については、戦後に刊行された従軍経験者による戦記のみでなく、より実情感を伴う戦中に刊行された戦記にも注目する必要があるであろう、との指摘がなされた。今後は、戦時下での政府刊行物や、関連人物の記録、靖国神社の遊就館に所蔵展示される従軍者の遺言状、また各県護国神社に所蔵される当時の史料といった準公的な資料群や「もの」の集積作業を見据えることで、明確には資料を示していない村上氏の論法に、一石を投じる事が可能になるのではないかとも意見が出された。そして、これら希少な資料を明示することによって戦中期の「リアリティ」を浮き彫りに出来るとともに、当時の社会的背景や戦没者の位置づけについても明らかにすることが可能となり、以後も、より実態的な側面での学術的追求の必要性があることの指摘がなされた。
    (文責:中山 郁)
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