おはらいの文化史 中世—中臣祓の実践と注釈


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 現代においては、はらえを行うのは神職であると考えるのが一般的であるが、中世には僧侶・陰陽師おんみょうじなども祓を行っていた。その際に多く用いられたのが、大祓詞おおはらえのことばと密接に関連する「中臣祓(中臣祭文)」なかとみのはらえ(なかとみのさいもん)である。彼らは中臣祓を自分たちの儀礼に取り込み、その行い方を定めてゆく過程で、本文に若干の変更を加えた。また、中世に成立する様々な神道思想と関連して、それぞれの立場から中臣祓の註釈を作り出してゆく。このような儀礼や註釈は、古代の末期から見られるが、中世になって多様化するようになる。

A 仏教と中臣祓

 中臣祓は、『延喜式』えんぎしき巻八「六月晦大祓」みなつきのつごもりのおおはらえ(大祓詞)をもとにして作られたものと考えられており、12世紀初頭に成立した『朝野群載』ちょうやぐんさい巻六に「中臣祭文」として収録されたものが、現存最古の本文である。
 陰陽師たちは、平安時代の中期以降には「中臣祓」を用いて、病気平癒や安産祈願といった個人的な願いにこたえていた。
 僧侶は、この陰陽師たちの儀礼を取り入れて、「六字河臨法」ろくじかりんほうなどの新たな修法しゅほうを作り出した。この過程で、中臣祓は、仏教の儀礼の中に取り込まれていった。
 陰陽道や仏教儀礼のなかで中臣祓が行われるようになると、「中臣祓」の本文の「祓給」とある部分を「祓申」と改め、さらに語句を仏教や陰陽道の概念・語彙と結び合わせて説明するようになる。この中臣祓の註釈では、神宮文庫所蔵『中臣祓注抄』なかとみのはらえちゅうしょうが知られている。
 鎌倉時代中期になると、伊勢神宮について密教と関わらせながら説明する両部神道りょうぶしんとうと中臣祓註釈を結び付けた『中臣祓訓解』なかとみのはらえくんげ(異本として『中臣祓記解』なかとみのはらえきげ)の現存本が成立する。この両部神道は、平安時代末期から形成され始めており、『中臣祓訓解』の原型は、この頃に成立したとも考えられている。
 僧侶が受け入れた中臣祓の本文は、『中臣祓深秘』なかとみのはらえじんぴにそれをみることができ、現在でも僧侶が中臣祓を行っている事例として、東大寺修二会しゅにえ「大中臣祓」「中臣祓」がある。

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B 伊勢神職と中臣祓

 僧侶や陰陽師の行った祓の影響を受けて12世紀にはいると、伊勢神宮の神職を中心に個人的な祈願に応じた祈禱きとうを行うようになる。この活動の中で、彼らは中臣祓にいくつかの改変を加えた本文、両部神道書や仏典の一部を用いた祓詞はらえことばをつくりだし、祓の行い方(次第)を定めていった。鎌倉時代の末期には八足案はっそくあんを用いて祓を行っていたことが確認される。
 これらの伊勢神宮周辺を中心に作り出された次第や祓詞などを総称して〈伊勢流祓〉と呼ぶ。ただし、中世においてそのような流派が存在したわけではない。
 この伊勢流の祓が形成されてゆく時代は、伊勢神道の形成期でもある。伊勢神道は、両部神道書の影響をうけながら、神職たちが自らの立場から伊勢神宮について説明をしたものである。この伊勢神道や伊勢流祓の形成には、伊勢神宮外宮げくうの神職であった度会行忠わたらいゆきただ(嘉禎2~嘉元3(1236~1305)年)や度会常昌わたらいつねよし(弘長3~延元4(1263~1339)年)が関わっていた。彼らは、両部神道の立場から中臣祓を説明した『中臣祓訓解』『中臣祓記解』を所持し、祓の研究を行っていたことがわかっている。
 このような伊勢流の祓を生み出した研究は、伊勢の神職たちが、神道や伊勢神宮について、考え、説明してゆく中の一部であった。すなわち、伊勢流祓と伊勢神道は、儀礼と教説として表裏一体の関係にあった。
 なお、この伊勢流祓は、近世にも行われた。

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C 吉田神道と中臣祓

 吉田神道(卜部うらべ神道とも)は、吉田兼俱よしだかねとも(永享7~永正8(1435~1511)年)によって、中世後期に作り出された新たな神道である。吉田家は神祇祭祀や『日本書紀』に精通した家系として有名であり、兼倶は応仁の乱以後、家に伝わった学問を下敷きにして、新たな神道を作り出したのである。
 吉田神道においても、中臣祓は儀礼・教説両面で重視され、様々な儀礼の中で用いられるとともに、「中臣祓」の意味を解説する講釈が行われた。吉田家において、兼倶以前は中臣祓を用いた儀礼は行っていたが、独自の説は提示していなかったようである。しかし、兼倶は吉田神道を形成する過程において、公家・僧侶・武士に対して中臣祓の講釈を行い、自説を確立させ、それを広めていった。その註釈は、清原宣賢きよはらののぶかた(文明7~天文19(1475~1550)年)などにひきつがれてゆく。
 吉田兼倶は、陰陽師・僧侶・伊勢流の祓では、「祓申」とある中臣祓本文を用いていたのを、「大祓詞」と同様に「祓たまひ(給、賜)」と改め、中臣祓の全文を13段(序文+12段)に分け、「祓」に「秡」の字を用いることに特別の意味を持たせるなどした。これを吉田流祓と呼ぶ。この改変には、自流の「中臣祓」を、他の系統と明確に区別する意図がみてとれる。この儀礼や註釈は、近世に多く流布した。
 その資料は、戦前まで吉田家や、その家老をつとめた鈴鹿家が所蔵しており、宮地直一みやじなおかず(明治19~昭和24(1886~1949)年)は、これらの文庫調査を行って、研究を進めた。

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